第六章:静かなる別離の準備《後編》
サロンの喧騒を離れ、ヴィクトワールは自室の冷たい空気に包まれた。
先ほどまで纏っていた「公爵令嬢」の仮面が、脱ぎ捨てたドレスと共に床に崩れ落ちる。
「お嬢様」
影から現れた執事のネストルが、無言で温かいハーブティーを差し出した。
彼の手際は、いつものように完璧で、狂いがない。
「……準備は?」
「ええ、屋敷の奥に隠していた宝石と、国外へ渡るための渡航書類はすべて揃えております。……モントルシー公爵家としての最後のお荷物、ですね」
ヴィクトワールは震える指先でカップを握りしめる。
「ねぇ……遠い国へ共に行けるなんて、最初から許されないことだったのね」
ネストルは何も答えない。
ただ、彼女の背後に立ち、優しくその細い肩を包むようにシルクのガウンを掛けた。
その動作は、彼女の傷ついた心ごと守ろうとする、静かな祈りのようだった。
「ううん…今は聞かないで…ただ、仮面をつけ直す時間が必要だっただけ」
ヴィクトワールは鏡に向き直り、自らの頬を両手で叩いた。
再び、冷徹な公爵令嬢の表情が完成する。
「誰よりも着飾り、互いの腹の探りあいの社交界──そのすべてが、ただの虚飾。……ねぇ、ネストル。私たちに残された時間は、もう本当に少ないのね」
鏡の中に映る自分の瞳を見つめながら、彼女は小さく息を吐き出す。
贅を尽くした日々の終わりよりも、その仮面をつけ直した先に待つ、アルベールとの永遠の別れの足音が、何よりも冷たく彼女の胸を締め付けていた。
──その頃、王都の闇に溶け込む衛兵隊の指揮所では、アルベールが冷徹な決断を下していた。
広げられた地図の上の重要拠点を、彼は指先で無造作に塗り潰していく。
「ここも、あちらも……すべて放棄しろ。守るべきは王宮の外壁ではない。民の怒りが溢れ出した時、その矛先をどこへ流すかだ」
部下たちが困惑した表情で顔を見合わせる。
アルベールは彼らを見ようともせず、ただ窓の外、遠く離れたヴィクトワールの館がある方向をじっと見つめていた。
「僕がこの街に留まる理由は、もう決まっている」
彼は窓の外の漆黒の闇を見つめ、静かに呟く。
その脳裏には、先ほどサロンで別れた彼女の、あの隠しきれなかった微かな指先の震えが今も冷然と刻まれていた。
「……お嬢様、僕は一緒には行けない。──だが、君だけでも、この崩れゆく王都から脱出させてみせる。それが、僕の最後の……」
──最後の一言は、夜風にかき消されて誰の耳にも届かない。
反乱の足音が、いよいよ耳に届くほどの重低音となって王都に響き渡る。
二人は互いの姿を見ることなく、ただ同じ「破滅の夜」の到来を待ちわびていた。
先ほどまで纏っていた「公爵令嬢」の仮面が、脱ぎ捨てたドレスと共に床に崩れ落ちる。
「お嬢様」
影から現れた執事のネストルが、無言で温かいハーブティーを差し出した。
彼の手際は、いつものように完璧で、狂いがない。
「……準備は?」
「ええ、屋敷の奥に隠していた宝石と、国外へ渡るための渡航書類はすべて揃えております。……モントルシー公爵家としての最後のお荷物、ですね」
ヴィクトワールは震える指先でカップを握りしめる。
「ねぇ……遠い国へ共に行けるなんて、最初から許されないことだったのね」
ネストルは何も答えない。
ただ、彼女の背後に立ち、優しくその細い肩を包むようにシルクのガウンを掛けた。
その動作は、彼女の傷ついた心ごと守ろうとする、静かな祈りのようだった。
「ううん…今は聞かないで…ただ、仮面をつけ直す時間が必要だっただけ」
ヴィクトワールは鏡に向き直り、自らの頬を両手で叩いた。
再び、冷徹な公爵令嬢の表情が完成する。
「誰よりも着飾り、互いの腹の探りあいの社交界──そのすべてが、ただの虚飾。……ねぇ、ネストル。私たちに残された時間は、もう本当に少ないのね」
鏡の中に映る自分の瞳を見つめながら、彼女は小さく息を吐き出す。
贅を尽くした日々の終わりよりも、その仮面をつけ直した先に待つ、アルベールとの永遠の別れの足音が、何よりも冷たく彼女の胸を締め付けていた。
──その頃、王都の闇に溶け込む衛兵隊の指揮所では、アルベールが冷徹な決断を下していた。
広げられた地図の上の重要拠点を、彼は指先で無造作に塗り潰していく。
「ここも、あちらも……すべて放棄しろ。守るべきは王宮の外壁ではない。民の怒りが溢れ出した時、その矛先をどこへ流すかだ」
部下たちが困惑した表情で顔を見合わせる。
アルベールは彼らを見ようともせず、ただ窓の外、遠く離れたヴィクトワールの館がある方向をじっと見つめていた。
「僕がこの街に留まる理由は、もう決まっている」
彼は窓の外の漆黒の闇を見つめ、静かに呟く。
その脳裏には、先ほどサロンで別れた彼女の、あの隠しきれなかった微かな指先の震えが今も冷然と刻まれていた。
「……お嬢様、僕は一緒には行けない。──だが、君だけでも、この崩れゆく王都から脱出させてみせる。それが、僕の最後の……」
──最後の一言は、夜風にかき消されて誰の耳にも届かない。
反乱の足音が、いよいよ耳に届くほどの重低音となって王都に響き渡る。
二人は互いの姿を見ることなく、ただ同じ「破滅の夜」の到来を待ちわびていた。
