プロローグ:月明かりの回廊
気高く、誰にも穢すことのできない──モントルシー公爵家の至宝。
社交界は彼女をそう称え、男たちはこぞってその微笑みを求めた。
しかし、当のヴィクトワール・ド・モントルシーにとって、贅を尽くした王宮の舞踏会は、退屈という名の牢獄に過ぎなかった。
きらびやかな音楽と、耳障りな貴族たちの歓談を背に、彼女は一人、夜風が吹き抜ける静かな回廊へと身を寄せていた。
月明かりは床の白大理石を青白く照らし、彼女の纏う極上のシルクドレスを妖しく輝かせていた。
小さく息をつき、扇子で顔を仰いだその時だった。
「これはこれは、モントルシー公爵令嬢。このような人気のない回廊にお一人とは。」
影の中から音もなく姿を現した男がいた。
纏っているのは、フランス衛兵隊の深い藍色の軍服。
仕立てこそ上等ではないが、その引き締まった長身によく映えている。
帽子から覗く一対 の瞳が、月光を受けて不敵に細められた。
ルブラン子爵アルベール。
没落した名門の当主でありながら、その実力だけで王宮衛兵隊の地位を勝ち取った男だった。
「衛兵隊の一員として、美しい令嬢の安全を放っておくわけにはいきませんね。── 一体、どなたをお待ちで?」
恭しく一礼してみせるものの、その声にはいささかの怯えもなかった。
むしろ、目の前の美しい獲物を値踏みするような、ずる賢い「狐」の光が宿っている。
ヴィクトワールは小さく鼻で笑い、扇子で口元を隠した。
公爵令嬢としての圧倒的な気品をまとい、冷徹な視線を彼に返す。
「あら、ルブラン子爵。衛兵隊の手が足りているなら、あちらの騒がしいおじ様たちの警護でもして差し上げたら? 狐が紛れ込むにはこの回廊は少し月が明るすぎるわ」
「手厳しい」
「あらぬ邪推で公爵家の人間を脅迫しようなんて、身の程をわきまえなさい。私が一言『不快だ』と告げれば、あなたのその薄汚れた軍服ごと、明日の朝にはエルネ川に浮くことになるわよ?」
冷たく言い放ち、ヴィクトワールは完璧な足取りで彼の横を通り過ぎようとした。
落ちぶれた貴族の衛兵など一瞥 をくれる価値もない──そのはずだった。
すれ違いざま、アルベールが彼女の耳元に、夜の闇に溶けるような低い声を落とすまでは。
「──ええ、公爵令嬢を疑う者などこの国にはおりません。……あちらの間で優雅にステップを踏まれている、陛下以外にはね」
ヴィクトワールの背中に、冷たい戦慄が走る。
「そのドレスの胸元に忍ばせた密書を渡すはずだった『お相手の伯爵』なら、今ごろ裏庭で我が衛兵隊の仲間たちに国家反逆の現行犯で囲まれている頃ですが……それでもそのままお帰りになりますか?」
ぴたり、とヴィクトワールの足が止まった。
完璧に保たれていたその美貌が、一瞬だけ揺らいだ。
反乱派へ渡す密書の存在は――誰にも知られていないはずだった。
ましてや、取引相手がすでに押さえられているなど。
(ここで私が捕まれば……モントルシー公爵家は一晩で破滅する……!)
動揺を悟られぬよう、彼女はゆっくりと振り返った。
そこには、すべてを計算通りに運んだ男の、残酷なほど美しい微笑みがあった。
「……あなた、本当にずるい狐ね」
「お褒めに預かり光栄です、お嬢様。……さあ、どうされます? このしがない衛兵の案内で、誰にも見つからない『安全な裏口』を通られますか?」
ヴィクトワールは、密書を持っているとは一言も認めなかった。
ただ、一筋縄ではいかないこの狐の「裏の取引」に乗るしか、この極限の窮地を脱する術はない。
「いいわ。案内なさい、ルブラン子爵」
社交界は彼女をそう称え、男たちはこぞってその微笑みを求めた。
しかし、当のヴィクトワール・ド・モントルシーにとって、贅を尽くした王宮の舞踏会は、退屈という名の牢獄に過ぎなかった。
きらびやかな音楽と、耳障りな貴族たちの歓談を背に、彼女は一人、夜風が吹き抜ける静かな回廊へと身を寄せていた。
月明かりは床の白大理石を青白く照らし、彼女の纏う極上のシルクドレスを妖しく輝かせていた。
小さく息をつき、扇子で顔を仰いだその時だった。
「これはこれは、モントルシー公爵令嬢。このような人気のない回廊にお一人とは。」
影の中から音もなく姿を現した男がいた。
纏っているのは、フランス衛兵隊の深い藍色の軍服。
仕立てこそ上等ではないが、その引き締まった長身によく映えている。
帽子から覗く
ルブラン子爵アルベール。
没落した名門の当主でありながら、その実力だけで王宮衛兵隊の地位を勝ち取った男だった。
「衛兵隊の一員として、美しい令嬢の安全を放っておくわけにはいきませんね。── 一体、どなたをお待ちで?」
恭しく一礼してみせるものの、その声にはいささかの怯えもなかった。
むしろ、目の前の美しい獲物を値踏みするような、ずる賢い「狐」の光が宿っている。
ヴィクトワールは小さく鼻で笑い、扇子で口元を隠した。
公爵令嬢としての圧倒的な気品をまとい、冷徹な視線を彼に返す。
「あら、ルブラン子爵。衛兵隊の手が足りているなら、あちらの騒がしいおじ様たちの警護でもして差し上げたら? 狐が紛れ込むにはこの回廊は少し月が明るすぎるわ」
「手厳しい」
「あらぬ邪推で公爵家の人間を脅迫しようなんて、身の程をわきまえなさい。私が一言『不快だ』と告げれば、あなたのその薄汚れた軍服ごと、明日の朝にはエルネ川に浮くことになるわよ?」
冷たく言い放ち、ヴィクトワールは完璧な足取りで彼の横を通り過ぎようとした。
落ちぶれた貴族の衛兵など
すれ違いざま、アルベールが彼女の耳元に、夜の闇に溶けるような低い声を落とすまでは。
「──ええ、公爵令嬢を疑う者などこの国にはおりません。……あちらの間で優雅にステップを踏まれている、陛下以外にはね」
ヴィクトワールの背中に、冷たい戦慄が走る。
「そのドレスの胸元に忍ばせた密書を渡すはずだった『お相手の伯爵』なら、今ごろ裏庭で我が衛兵隊の仲間たちに国家反逆の現行犯で囲まれている頃ですが……それでもそのままお帰りになりますか?」
ぴたり、とヴィクトワールの足が止まった。
完璧に保たれていたその美貌が、一瞬だけ揺らいだ。
反乱派へ渡す密書の存在は――誰にも知られていないはずだった。
ましてや、取引相手がすでに押さえられているなど。
(ここで私が捕まれば……モントルシー公爵家は一晩で破滅する……!)
動揺を悟られぬよう、彼女はゆっくりと振り返った。
そこには、すべてを計算通りに運んだ男の、残酷なほど美しい微笑みがあった。
「……あなた、本当にずるい狐ね」
「お褒めに預かり光栄です、お嬢様。……さあ、どうされます? このしがない衛兵の案内で、誰にも見つからない『安全な裏口』を通られますか?」
ヴィクトワールは、密書を持っているとは一言も認めなかった。
ただ、一筋縄ではいかないこの狐の「裏の取引」に乗るしか、この極限の窮地を脱する術はない。
「いいわ。案内なさい、ルブラン子爵」
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