第六章:崩れる水面《前編》

宰相が布告した「王都防衛令」は、街から光を奪った。
夜になっても王都の通りには灯りが乏しく、食料を求めてあてもなく彷徨う人々の影が、建物の壁に長く伸びている。
サロンの窓から見えるその景色は、かつての華やかな光景からは程遠い。

​「宰相は、盤面の駒を一つずつ強引に動かし始めたわ」

​ヴィクトワールはグラスを揺らし、白ワインに瞳を映す。
彼女の纏うドレスは宝石を散りばめたように輝いている。
けれど、その瞳が映しているのは、サロンの光ではなく、暗闇に沈む王都の姿だった。

​「門は閉ざされ、食料は徴発されている。彼は『秩序』を守っているつもりだろうが……実際には、火に油を注いでいるに過ぎない」

​背後に立ったアルベールが、応じる。
周囲の貴族たちは、今の危機的状況などどこ吹く風とばかりに音楽に酔いしれているが、二人の間の空間だけは、まるで真空に包まれたように静かだった。

​「民の怒りは飢えから来るものよ。それを力で押さえつければ、どうなるか。宰相はチェスのルールしか頭にないのかしら。これは盤上の勝負ではなく、水面下で進む腐敗なのに」

​ヴィクトワールが毒を吐くように呟くと、アルベールはふっと唇の端を歪めた。
その笑顔には、サロンの柔和な仮面の下にある、冷徹な予見が宿っている。

​「今夜、王都の重要地点に近衛の部隊が配置されることになり、僕もそこに駆り出されることになった。兵たちも、自分が何を護衛しているのか理解していない。……ただ、誰もが『何かが起きる』ことを予感している」

​アルベールの言葉を受け、ヴィクトワールは扇子で口元を隠し、彼の方を振り返った。
扇子の隙間から覗く彼女の瞳には、言葉にできない哀しみが揺れている。

​「護衛されるのが『国王』なのか、『崩れゆく特権階級』なのか……」

​彼女が吐き出したその毒は、この仮面を被った社交界で、互いに『敵』を演じながら、こうして本音を語り合えるのは、もうこれが最後かもしれないという予感に満ちていた。
​アルベールは彼女の視線を真っ直ぐに受け止め、社交辞令のように微笑んだ。
──けれど、その声は、震えるほど低く、確かな熱を持っていた。

「……どんな結末が待っていようと、お嬢様だけは盤上から退場させない。それが、僕のルブラン子爵としての矜持というものでしょう」

​「……馬鹿な狐ね」

​ヴィクトワールは冷たく言い放ち、扇子を握りしめる。
彼女が完璧な淑女の仮面の下で見せた一瞬の指先の震えを、アルベールの鋭い瞳は見逃さなかった。
​周囲で奏でられる管弦楽の調べが、不穏なほどの高揚感をもって二人を包み込んでいく。
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