【第1章】喋らない者とその者ども

「僕としてはドル氏のあの立派な体躯では鈎爪を結わえた梯子や縄でこの窓から降下するのは無理だと思います」
「それは何故かな? 勿論、宿屋の店主や従業員にも聞き込みをしたが、誰も何も見ていないと証言している。各部屋に鍵までつけて安全を売り物にしたいこの宿の印象が悪くなるから黙っているとか?」

 イヅは子爵に向き直ると、2つ疑問がありますと前置きして、蔀窓の下辺に突き立てた自分のナイフの跡を見せた。

「1つ目の疑問です」
「? これがどうした? 鈎爪の痕が残るのだからナイフでも瑕は残るだろう」
「はい。そうです。残り過ぎるんです」

 そこまで言うとランタンに影が揺れる子爵の顔にあっと驚いた色が浮いた。

「大したことのない僕の力でも深くナイフを突き立てることができるほど、この窓枠は脆いのです。雨風や気温湿度に晒され続ければどんな木造でもこうなります。ナイフを突き立てて抉ればそこから割れそうですよ」

 ライデ・ジーロ子爵は思わず舌打ちした。恐らく彼の手元には精緻に欠けた連絡書と報告書だけが集まり、現場の質感が無視されていたのだろう。

 伝達のための書類は無味無臭で無機質であっても、事細かに記していなければ、その書類を受け取った上層は判断する方向を間違えてしまう。

 ライデ・ジーロなる人物は決して馬鹿ではない。
 適切で相応しい資料が有ればそこから現場を読み取る能力がある。
 
 だからこそ治安府より夜警団のスポンサーとして居座りながらも、自らの権限が及ぶ範囲で捜査に協力してくれる。
 
 彼も爵位持ちだ。
 それに、様々な理由が混在しているだろうが、領民に好かれるためには何でもするし、何でもしたがるタイプの馬鹿正直な人間だ。

 その彼は判断を誤る伝達を何よりも嫌っている。

 ゆえに、針小棒大に膨らませて記さない書類を常に提出する夜警団の副業事務員であるイヅをいつも頭の隅に置いているのだ。

 懐刀としての少年が2つ目の疑問ですが、と続けて喋る。

「もう、お察しの通り、僕よりも頭一つ高い男が何かしらの方法で窓から降りたとしても、鈎爪に全体重がかかれば、窓枠はもろくも崩れ去って、地面に落下でしょう。2階の高さなので大した怪我はしないでしょうが、それにしてもこの部屋に2人居たのを否定する根拠にはなりません」
「兎に角2人いた……。ドルとの関連は不明だが2人いないと成立しないのだな……」
「或いはそれ以上の人数です」

 少し考えて黙る子爵。
 その間にイヅはこの宿屋のあらゆる部屋の鍵が束ねられた鍵束を手に取り、鍵穴にこの部屋の鍵を差したり捻ったりしている。

(これは随分と簡単な鍵だな)
(鍵でなくとも2、3本の針金が有れば解錠できる)

 鍵穴を除く。貫通型の鍵穴。
 ドアノブとは連動していない。
 ただ、鍵が付加価値として取り付けられただけの簡単なドア。
 他の宿屋との差別化を図りたくて兎に角、取り付けたのだろう。
 夜警団が見回る街なのだから、防犯対策の導入は大きな宣伝効果になる。

(まあ、残念ながら……子爵様の想像するような密室ではないのは確かだな)

 イヅは胸のポケットから葦ペンを取り出して懐から懐紙と小さなインク瓶を取り出し、この部屋のテーブルで何事か筆記し始める。

「それは?」

 背後から覗き込むジーロ子爵。彼の衣服からは煙草の匂いがした。締め切った執務室やサロンで染み付いた匂いなのだろう。
 これが子爵の匂いなのだと錯覚しているので嫌悪感はない。
 そもそも普通は爵位のある人間が庶民に対して顔同士が触れそうな距離まで接してくれるはずがないのだ。

「ライデ様。お手数ですが、ここに記した内容を覚えてください」
「?」

 彼は馬鹿ではない。馬鹿ではないが、馬鹿なのだ。
 与えられたことならば完遂せねば気が落ち着かない性分で、だからといって大局を見誤る人間ではない。

 切れは鈍いが物覚えのいい、良くも悪くも貴族のエリートだと言えた。ゆえに馬鹿正直に皆の期待に応えたがる。

 基本はできるが応用と利用と展開と変化に昇華させる能力が今一つ低いだけの、心の良い貴族だ。

 貴族階級は新しい学問を教育される機会に恵まれるが、新しい学術や理論を考え出す人材が少ない。裕福であれば高い給金を出して名のある学者を家庭教師として雇う貴族階級は多い。
 研究資金が欲しくて金で爵位を買って平民から貴族になる学者もいるくらいだ。

(……いかん! あいつの顔が浮かぶ)

 ふと嫌な記憶が湧き上がってきたのでイヅは雑念を振りほどくように目の前の子爵に説明を続ける。

「この宿屋ではもう集められる情報はありません。床の血痕にしても『誰の血なのか、どうしてそこに有るのか』が不明…というよりも、不自然です」

 葦ペンを腰布で拭いて胸ポケットの差しながら話す。

「鈍器や刃物などの凶器で危害を加えていたとしても、『床に真っ直ぐに熟した果実が落ちたような血痕を作る』のは無理ですし、部屋の5分の1近い面積に転々と広がっているのも不思議です」

 インク瓶のコルクをしっかり填めながら感情を意図的に抑えながら話し続ける。

「人間の失血量なら致命的な量です。ドル氏が被害者だとして、死体に近い人間を移動させる意図も分かりません。死体だとすればそれの隠蔽の意味も分かりません…『部屋に忍び込んで』まで犯す危険ではないからです」

 ジーロ子爵はイヅに手渡された紙を黙読してやがて顔を上げる。
 視線を窓へ移し、再び少年に向く。

「つまり、ドルは…」

 頼もしい夜警団の副業事務員は子爵の台詞を継ぐようにこう言った。

「『鍵がかかったこの部屋から消えた時間』に『生きていて、『その後も生きていた』のなら、窓辺の鈎爪は捜査撹乱のための目眩ましだと言えます」

 イヅの顔は表情が消えている。目に精細がない。
 子爵は彼のその顔が嫌いだ。
 彼がその顔をする時は決まって、悲惨な何かを掴みそうだからだ。

 子爵は少年が脳内で浮かんだ嫌な結末を否定したいために声や表情に抑揚がなくなるのだと察している。

 少年は以前、子爵に「どこの国のどんな民族でも、表情と仕草は繋がっていて、それは人類共通らしいですよ」と雑談交じりに話したのを覚えていた。
 
 そしてそれは忘れられない。
 それこそが少年の最も……。

「さあ、ライデ様。行きましょう! 僕は捜査権を持っていないのであなたが頼りなんですよ!」

 反転させたように明るい少年の声がライデ・ジーロの耳に届く。

「あ、ああ。行こう。この紙の、これは覚えた」

ライデは懐紙をひらひらさせながらイヅに返す。

「さすがライデ様です。どうして治安府の警吏長官の試験に毎回落ちるのか不思議です」
「試験官に見つめられると妙な気分になるからさ」

 子爵とその従者という胸の張り方で軽口を叩きながら部屋を出た。

 階下に降りると、ライデ・ジーロは胸を勇ましく張ってやや顎を突き出し気味にする。
 その目は猛禽類の目を埋め込んだかのように獰猛で鋭くなっていた。

 背筋を伸ばし、左手を左腰に佩いた細身の剣の柄にもたれさせる。

「店主。鍵を返す前に聞きたいのだが」
「へえへえへえ! なんでしょう?」

 カウンターの奥から中年店主と下男か丁稚かわからないが従業員と思われる青年が出てきた。さらに遅れて女の従業員も出てくる。

 イヅがドルの部屋へと行く前に確認した顔と同じ顔ぶれだ。

「事件の日、本当に、知らぬ間にドルは居なかったのだな? ドアをノックしても返事がなかったのでドアノブをひねっても鍵はかかっていたと?」

 子爵と店主のやり取りを耳に叩き込む。

 ドル氏が不明になったのに気が付いたのは店主。

 要約するとこうだ。 
 日払いの宿代をもらいに行ったら鍵がかかっていたのでドル氏の外出を従業員に尋ねるも2人とも知らぬ存ぜぬ。
 窓から逃げて宿賃を踏み倒す気かと思った店主は何度もドアを叩いたが反応がなかったので鍵を開けた。
 そして血痕だらけの床を見て仰天した。

 これが子爵が受けていた報告の内容と一致し、何度もカマをかけて子爵が店主に対して凄みの利いた警吏の声色で尋ねるが、威圧されすぎて段々と店主のこうべが下がってくる。

「まあ、知らぬのなら仕方がない」

 突然、恫喝が交じる尋問じみた聞き込みは終了した。
 肩を落として安堵する店主。

「たまには違う酒も美味かったろう。久しぶりに高い街娼を買って気分がいいのも分かるが、今後のために多少は蓄えにしておくべきだ。税金で取られるからと、宵越しの金を恥じることもあるまい。それとも腕をさすりながら挑んだ闘鶏でスられたか?」
 
 唐突に目の前の美貌の子爵が聞き込みとは全く脈絡のない言葉を宙に放つように平静な声のトーンで話し出す。

 何がなんやらと聞き返そうにもそのタイミングが掴めないでいる店主は戸惑いの色を隠せず、逆に呆けたように口を開けて「あの」「その」と繰り返すのみだ。

「あー、いやいや。これは今思い出した話でな。ここにいる従者の少年が最近、良い稼ぎをしたのでその稼ぎをどうしたのか聞いてみただけだ」
「これは手厳しい。ライデ様には何も隠せません」

 イヅは従者らしくやや媚びへつらった声でへへへと笑う。

「邪魔したな。また現場を検分しにくる。日が昇ったら絵師を寄越すので現場の絵を描かせてやってくれ。その絵師の邪魔をするなよ? 絵師が残す絵は重要な資料として保存されるからな」
「し、承知しました!」

 店主はそれ以外何も言えないと表情に出して頭を深く下げた。
 先に繰り出した子爵の尋問が恐ろしく、その後の脈絡のない従者への大きな声の諌めごとの落差に思考が追いついていけないようだ。
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