【第1章】喋らない者とその者ども
「密室……ですか」
彼の顔につられてイヅも思わず神妙になる。
イヅとライデ・ジーロ子爵が乗合馬車を継いでやってきた場所は宵前刻(午後8時)頃の宿場町だった。20軒ほどの宿屋がひしめく。
往来は暗い時間ではあるが、客引きのための灯りが煌々と焚かれており、子爵が用意していた安っぽいランタンがやや邪魔だった。
その宿場町の一角にドル氏が宿泊していた犀の角館なる名前の宿があった。
子爵が爵位持ちらしい威厳を絞り出して胸を張り、宿の表から入る。従者の身分を借りてイヅも3歩後ろからついてくる。
「ドルなる商人の泊まっていた部屋をもう一度見せてほしい。現場には勿論誰も入れていないだろうね?」
「それはもう子爵様のご命令を第一に!」
誠実そうで権力に弱そうな何処にでもいる全うな商売人の顔をした50絡みの主人がもみ手をして子爵を迎えた。
詮議前の見聞で何度か訪れると子爵が伝えていたのか、相好を崩さずに主人はドル氏の宿泊していた部屋へと案内した。手には鍵の束を持っている。
(主人を入れて……3人)
(まあ、この宿ならその数で十分かな)
イヅは先をゆく子爵の背中に付き従うふりをしながら、宿の入口にあるカウンターに見えた人影を数える。その奥の木のドアが見える範囲で2枚ある事も確認する。
3階建ての宿屋の2階部分。その一番手前の、すぐに階下に降りられる部屋へ到着。
簡素な鍵。鍵穴もごく普通の拵え。目を凝らさなくともすぐに分かるほど使い古された鍵と鍵穴と木製のドアノブ。
(へぇ…これは思ったより……)
名のある宿屋でもないのに防犯対策は一応の気を使っているのが解る。
先に部屋に入り、店主は灯りを灯す。店主が恭しく粗朶を差し出し、ライデがかざしたランタンに火を移し、熾す。
「ここらへんの宿屋でも部屋に鍵を設えていることで少しでも安全を守りたいお客様に提供しております」
「それは結構。その不逞者に対する意識がもっと広まる前に『我々』が安穏な世間を広めねばならないのに…苦労をかける」
店主は鍵を用いた安全性を宣伝したかったのに、子爵は更に俯瞰した、思いやった気持ちを表明してしまったので店主は恐縮して一回り小さくなったような気がした。
「後で声を掛ける。済まないが、その鍵の束を置いていってくれないか?」
「ごゆっくりどうぞ」
店主はこうべを垂れて退室する。
「本当に『密室ですらない』可能性のほうが高いですね」
イヅはため息を吐いて独り言のように漏らす。
「その根拠は?」
そうですね、と息を吐くようにイヅは辺りを見回す。
ライデの右手が左右にゆっくり振られる。
部屋の広さは平均的なベッド6枚分。蔀窓が1箇所。壁付近に合計3本の燭台。クローゼットや便壺、ハンガーフックは無し。年季の入った椅子とテーブル。これは拵えが別々なので不用品を集めたものを流用しているのだろう。
ドル氏が借りていたこの部屋で手の平ほどの大きさの血痕が床一面に落ちていて、荷物も血飛沫で汚れていたそうだ。
この部屋に持ち込まれたドル氏の荷物は旅行用の鞄だけで、商品は露店とともにバザーに置き、金で雇った警備員に守らせていた。この部屋に持ち込まれた荷物は開封されていた……と、子爵が説明してくれる。
更に、ドル氏に関連する荷物や商品はすべてルーフン公爵の配下が回収したので彼に関する所持品はすぐには見ることが出来ないと付け加えられた。
「……そうですか」
2人の視線は床をどす黒く汚す血痕を向いていてた。
イヅは蔀窓へ寄り、窓縁を凝視してから折り畳みナイフで刃を突き立てる。
「おい! 何をしているんだ、私がいても後で店主が怒るぞ」
「ドル氏が『裏切ったとされる根拠』です。それに疑問があります」
「?」
ライデが怪訝な顔をしてランタンをかざして蔀窓の縁を見る。
「最初にこの部屋を調べた人は、こことここ、この2箇所のフックか何かの爪痕が気になったのでしょう」
イヅが窓辺にしっかりと残る新しい瑕を引き抜いたナイフの先端で指す。
「ああ、そうだ。ここから縄梯子で降りて鈎爪を外した。そして縄を結わえていたであろう鈎爪を外した」
「それでも、それでは室内にもう一人いた事になります。ドル氏がこの窓から降りたとなると……ですよ」
「事件があったとされる日に…ドル氏の部屋に踏み込んだ際にはこの部屋には鍵がかかっていた。血痕があったことから両者かいずれかが負傷していたが……」
ライデ・ジーロは眉をひそめたり顎をかいたりと悩む。
捜査を命令されたルーフン公爵の配下はその辺りでドル氏に起きた不可解な行動、或いは不明瞭な思考のせいで難航しているらしいのがその顔から伺える。
彼の顔につられてイヅも思わず神妙になる。
イヅとライデ・ジーロ子爵が乗合馬車を継いでやってきた場所は宵前刻(午後8時)頃の宿場町だった。20軒ほどの宿屋がひしめく。
往来は暗い時間ではあるが、客引きのための灯りが煌々と焚かれており、子爵が用意していた安っぽいランタンがやや邪魔だった。
その宿場町の一角にドル氏が宿泊していた犀の角館なる名前の宿があった。
子爵が爵位持ちらしい威厳を絞り出して胸を張り、宿の表から入る。従者の身分を借りてイヅも3歩後ろからついてくる。
「ドルなる商人の泊まっていた部屋をもう一度見せてほしい。現場には勿論誰も入れていないだろうね?」
「それはもう子爵様のご命令を第一に!」
誠実そうで権力に弱そうな何処にでもいる全うな商売人の顔をした50絡みの主人がもみ手をして子爵を迎えた。
詮議前の見聞で何度か訪れると子爵が伝えていたのか、相好を崩さずに主人はドル氏の宿泊していた部屋へと案内した。手には鍵の束を持っている。
(主人を入れて……3人)
(まあ、この宿ならその数で十分かな)
イヅは先をゆく子爵の背中に付き従うふりをしながら、宿の入口にあるカウンターに見えた人影を数える。その奥の木のドアが見える範囲で2枚ある事も確認する。
3階建ての宿屋の2階部分。その一番手前の、すぐに階下に降りられる部屋へ到着。
簡素な鍵。鍵穴もごく普通の拵え。目を凝らさなくともすぐに分かるほど使い古された鍵と鍵穴と木製のドアノブ。
(へぇ…これは思ったより……)
名のある宿屋でもないのに防犯対策は一応の気を使っているのが解る。
先に部屋に入り、店主は灯りを灯す。店主が恭しく粗朶を差し出し、ライデがかざしたランタンに火を移し、熾す。
「ここらへんの宿屋でも部屋に鍵を設えていることで少しでも安全を守りたいお客様に提供しております」
「それは結構。その不逞者に対する意識がもっと広まる前に『我々』が安穏な世間を広めねばならないのに…苦労をかける」
店主は鍵を用いた安全性を宣伝したかったのに、子爵は更に俯瞰した、思いやった気持ちを表明してしまったので店主は恐縮して一回り小さくなったような気がした。
「後で声を掛ける。済まないが、その鍵の束を置いていってくれないか?」
「ごゆっくりどうぞ」
店主はこうべを垂れて退室する。
「本当に『密室ですらない』可能性のほうが高いですね」
イヅはため息を吐いて独り言のように漏らす。
「その根拠は?」
そうですね、と息を吐くようにイヅは辺りを見回す。
ライデの右手が左右にゆっくり振られる。
部屋の広さは平均的なベッド6枚分。蔀窓が1箇所。壁付近に合計3本の燭台。クローゼットや便壺、ハンガーフックは無し。年季の入った椅子とテーブル。これは拵えが別々なので不用品を集めたものを流用しているのだろう。
ドル氏が借りていたこの部屋で手の平ほどの大きさの血痕が床一面に落ちていて、荷物も血飛沫で汚れていたそうだ。
この部屋に持ち込まれたドル氏の荷物は旅行用の鞄だけで、商品は露店とともにバザーに置き、金で雇った警備員に守らせていた。この部屋に持ち込まれた荷物は開封されていた……と、子爵が説明してくれる。
更に、ドル氏に関連する荷物や商品はすべてルーフン公爵の配下が回収したので彼に関する所持品はすぐには見ることが出来ないと付け加えられた。
「……そうですか」
2人の視線は床をどす黒く汚す血痕を向いていてた。
イヅは蔀窓へ寄り、窓縁を凝視してから折り畳みナイフで刃を突き立てる。
「おい! 何をしているんだ、私がいても後で店主が怒るぞ」
「ドル氏が『裏切ったとされる根拠』です。それに疑問があります」
「?」
ライデが怪訝な顔をしてランタンをかざして蔀窓の縁を見る。
「最初にこの部屋を調べた人は、こことここ、この2箇所のフックか何かの爪痕が気になったのでしょう」
イヅが窓辺にしっかりと残る新しい瑕を引き抜いたナイフの先端で指す。
「ああ、そうだ。ここから縄梯子で降りて鈎爪を外した。そして縄を結わえていたであろう鈎爪を外した」
「それでも、それでは室内にもう一人いた事になります。ドル氏がこの窓から降りたとなると……ですよ」
「事件があったとされる日に…ドル氏の部屋に踏み込んだ際にはこの部屋には鍵がかかっていた。血痕があったことから両者かいずれかが負傷していたが……」
ライデ・ジーロは眉をひそめたり顎をかいたりと悩む。
捜査を命令されたルーフン公爵の配下はその辺りでドル氏に起きた不可解な行動、或いは不明瞭な思考のせいで難航しているらしいのがその顔から伺える。