【第1章】喋らない者とその者ども

 ライデは少し声をひそめて話しだした。

 イヅは本来なら下賤な身分の庶民として生きていたいが、この世で最も嫌うたった一人の人間のために、世間を欺く仮の姿が目の前の美丈夫には通用していないのを悟っていた。

 子爵という爵位持ちの中でも下級ランクに位置し、一人で市中を歩く小金持ちにさえ『自分がどのような出自になってしまった人間』であるかお見通しなのだ。

 子爵はイヅの過去を知っていると、イヅ自身は固く信じている。

 それはそれで努力が実らなかったと歯がゆくもなる。

 だが、美貌の子爵はイヅの経歴をおくびにも出さず、夜警団の報告書専門の事務員として扱ってくれている。

 その『優しさ』だけは感謝だ。

「火事の現場…乾物倉庫でドル氏の切断された右膝下が見つかった。所轄の治安府の警吏は靴と残ったズボンの布と柄からドル氏はここで『拷問にあい、殺害された』と『殺害現場を偽装したに違いない』という方向で捜査が進んでいる」
「つまり、『ルーフン公爵のドル氏は商売敵に寝返ったかもしれないという推測』を元に捜査が進んでいると」

 イヅはしれっと商売敵という言葉を使った。

 イヅは無知蒙昧な庶民なのだ。ルーフン公爵が『何処の誰で何処の機関に所属する人間』であるかなどと詮索するつもりはない。しかし、必要な情報はほしい。

「お上の機嫌を伺うために、治安維持を生業にする警務機関が明後日の方向しか見ていないのだよ」

 身分の高い人間のお考えは時としてこのような弊害を誘発してしまう。

 文字による情報の伝達は無味無臭で無機質な文章でなければ、自分以外の人間が何処でどのように受け取って、挙げ句どのような行動に出るかわからない。

 100人の人間がいても、100人とも間違えた一方向を見ているとその方向が正しいものだと誰も疑わなくなる。

 ましてや自分たちの功名心や保身に直結するとなると目も当てられない。

 この広大な首都の主だった区画の治安府にも同じ文面の下達書が書写されて水面下で出回っていると思ったほうがいい。

「消防団に発見されたは膝下の件は不逞の輩が拷問をしたあとの『残り物』だと説明しておいた」

 イヅはぬるくなった白湯をぐいと飲んで。目を伏せる。

「ライデ様」
「ん? なんだ?」

 イヅ、じっと夜警団のスポンサーでもある子爵の顔を沈んだ眼差しで見据えてしばし、沈黙。

 沈黙の後に、こう言った。

「色々と申し上げにくいのですが、数刻ほど眠らせてください。……今の僕ではあなた様の期待の10分の1も役に立てません」

 ややポカンとしていた子爵は「ああ」と納得の感嘆を挙げるといつもの微笑気味な表情に戻り、イヅに早い帰宅を促す。

「引き止めて悪かった。夕入刻頃(午後6時)にそちらに向かう」

 彼は昨夜は不寝番で夜警として報告書を書いていたのだ、そのまま帰宅しても一睡もせずに残していた本業に取り掛かっていたのだ。
 昼食で腹を満たしたら眠るつもりのところへ自分が現れて『いつもの調子』で面倒なの案件を話しだしたものだから席を立つわけにはいかなかったらしい。

 ライデ・ジーロ子爵はフラフラとした足取りで帰路に就く小さな背中を見ながら、自分は与えられた駒を使うのはなんとも思わないが、自分で育てたいと思った駒は自分が思っているほど簡単に扱えないと臍を噛んだ。

 自分が嫌いな貴族の生き方に自分がどっぷりと浸かっている姿に辟易した。

 そして、自身の人心掌握術の不足にも。

  ※ ※ ※

 自宅(馬小屋を改装した2階建ての長屋)の表で、腰巻きの布と同じ生成りの布を用いて塩をなすりつけるだけの歯磨きを終えたイヅはうがいで口中をゆすいでいた。
 夕入刻(午後6時)の鐘が鳴ってから大して時間は経過していない。

 夕食も今し方食べた。
 美顔の子爵様が来る時間に合わせて、昼食後に帰宅するなり消毒用においていた引用可能な酒精の高い酒を呷って無理やり寝た。

 気絶するように眠れたのか、夢は覚えていないし、体はだるい。寝酒をすると必ず軽い倦怠感に悩まされる体質だ。
 その割には、頭ははっきりしていた。

 暮れつつある太陽を見ながらライデに聞いた昼間の内容を反芻する。
 
 そうしているうちに雑多な長屋街のすぐ表に乗合馬車が到着し、ライデ・ジーロ子爵様が到着あそばされる。

 彼はやあ、と右手を上げながら薄暮の道を歩いてくる。
 お抱えの馬車や御者すら賄えない子爵様は中流階層以上の庶民が愛用する乗合馬車で見参だ。

 あの妙に金に物を言わせない姿が領民(与えられた区画に住む庶民)に必要以上の偏見や反感を持たれない処世術なのだなと、いつも思う。

 イヅは子爵に挨拶もそこそこに先ずは、と述べた。

「見るのか? 火事の現場を…消防団が火を消したから何かを探すのに人足が必要になると思うが……」

 現場の西の外れの乾物倉庫……水場が遠い場所では、延焼や類焼を防ぐために基本的に破壊防火を第一選択とする消防団が『火を消した』となると徹底的な家屋の破壊が主となる。

 少し面倒だなとは思いつつも、破壊の規模も焼けた範囲も見ていないのでなんとも言えない。
 つまり、直接見て日を改めることも視野にいれる。

 イヅとしては……実に打算的な目論見で彼の調査依頼を引き受けている面があるので、早く彼の問題を解決したいのだ。

 子爵の持ち込む問題を解決する速さが早いほど気前のいい報酬が出る。

 過去最速で解決した折など、欲しい本が与えられたのだ。
 それも、図書館に納品する前の本が報酬として与えられた。

 その前例を味わっているだけにイヅは彼をどうしても無碍に出来ない。

 知的探求心というよりも知識欲を満たしたいだけの情動的な自分が抑えられないのが自分の弱点の一つなのだと認識している。

 認識しているからとそれを改めてしまうと、今度は自分が自分でなくなる気がするので今は欲望の犬に成り下がる事を甘んじている。

「そうですね。夕陽も沈み始めました。瓦礫しか無いような場所で漁っても何も見つけられない可能性が高いですね。他に手がかりが拾えそうな場所や人物に心当たりは? それに…僕はその被害者の顔や姿を知りません。まあ、暗く狭いところですがどうぞ」
「すまないね」

 長屋の中に二人は入ると、イヅは彼に簡素な椅子を勧めた。自分は乾燥した雑草で水増ししたハーブティの用意をする。

「交易商サルバル・ドル。40歳前後。主に異邦で活躍する著述家の翻訳した本や書類を輸入、行商し、南方の大陸の北側で販路を巡っている人物で、2、3年おきに帰朝して珍しい本や翻訳書を商工組合を通して納品。ルーフン公爵の御用達だが、今度の件からどうやらこの人物は」
「熊ヒゲ。僕より頭一つくらい高い。日焼けが印象的な豪放磊落っぽい印象。丁稚は従えず、独りで行商するタイプ。特徴的な翻訳書を仕入れるので一人親方の店主としては割と儲かっている方……なのではないですか?」

 ライデは自分の言葉を遮ってドル氏の人相を滔々と語るイヅを見てしばし、目を開く。

「どうしてそれを?」
「その『どうして』にはどう答えれば?」
「サルバル・ドルの風体だよ」
「その人物と2日前のバザーで出会っているからです。……なるほど。あんな珍しそうな本ばかり有るからとメモに残しておいて正解でした」

 サルバル・ドルが字を識る子供だから何処かの書生だと勘違いしてイヅを追い払ったわけではない。

 接触してくる手はずのルーフン公爵の配下を待っていたのだ。
 結果的に手渡した本…【南方動物稀譚】は偽物だと判明して裏切りの嫌疑をかけられて目下、逃走中。強盗か犯罪に巻き込まれた状況を作り出し、自身の死亡を印象つけるために右膝下を火災現場に残した。

 そんなところだろう。

 国外で姿を消さずにわざわざ帰国して事件を見せつけたのだから、ルーフン公爵の望みの品は手に入れたというアピール。
 まだまだ国内で通用する商人で居たかった。

 イヅは安い茶を淹れながら突然頭をブンブンと左右に振る。

(いかんいかん! 推測は想像を呼んでしまう! もっと証拠を固めないと!)
(もっと証拠を固めてそこそこ見事にライデ様を喜ばせないと良いお駄賃がいただけない!)

 そして…この件は少しばかり危険な匂いが漂っている。
 イヅは部分的に敬愛する子爵がドル氏に関して『帰国』ではなく『帰朝』という言葉を使っていたことに引っかかった。
 爵位を持っている人間の間ではドル氏は重要な情報源だったのだろう。どの程度、重要な情報なのかは知らないほうがいいと思い、先程はライデの言葉を遮ってドル氏の人相を語ることで会話の主題を有耶無耶にさせた。

 公爵クラスが子飼いにする本の交易商ともなれば、イヅが想像する知識欲を満たす本よりも、知らなければそれで平穏に暮らせるような内容が書かれた本の可能性が高い。
 
「手がかり…そうだな。ドルが借りていた宿が有るのだが、また面倒なことでね」

 子爵は美しい顔をやや渋めに歪める。今しがた出した茶が想像以上に不味かったのか?

 彼は少し顎先を撫でながらうつむき加減になると何か考え始めた。

 そして顔を上げるなり神妙そうにこう言った。

「そこは密室だよ」
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