【第1章】喋らない者とその者ども

 イヅとしては『この場所まで』でなんとしても異邦人の男から逃げたかった。

 異邦人の男が彼に対して敵対的とあるのなら。

 緊張の面持ちであらためて異邦人の大男の顔を観察するとあらゆる敵意や否定的な緊張が見られなかった。

 男の右手の指先がだらりと下がったままで、その上腕部の筋肉も緊張していない。左腰に佩いた小剣を抜く素振りが見えなかった。
 
 安堵のために腰が抜けそうになるイヅのおおよそ男らしからぬ腰抜け加減な緊張の解き具合を見ても顔色を変えずに、その異邦人はかたことの帝国語でこう続けた。

「ナンポウドウブツキタン、みたか。本屋で、あの」

(ナンポウドウブツキタン……ああ、アレか)

 緊張と恐怖から回復しつつある少年は両膝に両手をついて体を折る体勢で、なんとか顔をもたげて大男の言葉を聞いて理解した。

(【南方動物稀険譚】…さっきの怪しい本屋に並べてあったあの本のことか)

 イヅは先程の露店の本屋で気になった本の表題を懐紙に次々と書いた。その中に確かに【南方動物稀譚】という名前の本が有った。
 珍しい動植物の知識が収集できると思い、食指が動いた本だ。

 本屋自体が怪しいので、てっきり偽物しか扱っていないと思っていたが、眼の前の大男の真剣な顔を見るからには全てが偽物と断じるのは早かったようだ。

「ああ、有りましたよ。本物か偽物かは分かりませんよ」

 走りすぎて乾く喉から声を絞り出す。
 聞き返されるのも億劫なので、少し頑張って、ゆっくりはっきりと発音した。
 喉がカラカラで、今すぐにでも井戸でよく冷やした瓜に齧りつきたい。

「礼を尽くす、言う」

 異邦人の男はかたことで言い捨てると踵を返して今来た道を歩いていく。

 しばし、息を整えていたイヅも、自分が今、どれだけ危険な場所にいるのかを思い出すと、すぐに彼の後を追うように小走りに向かう。

 途中で彼を追い越したが、彼は特に視界の端にもイヅを捉えていない顔で歩いていた。

 あの場所…イヅが急ブレーキを踏んで異邦人と対峙しようと『構え』だけを見せた場所。
 あの場所より先はたとえ副業の仲間と組んでいても、日中でも、鎧を着ていても、絶対に進みたくない場所だった。

 その道の先は二股に分かれており、どちらへ向かっても犯罪組織の巣窟に繋がっている。

 本業だけでは生活できないからと、軽い気持ちで初めた割と高給な副業。今から考えると副業が邪魔で歩けなくなった場所や時間帯が彼の生活に存在していた。

 異邦人の男が偽物を買おうとどうしようと自分には関係ないと言い聞かせてイヅは表通りに出る。
 折角外国から来てくれたのだから帝国のいい思い出だけを持って帰ってほしいところだが、この国の治安や意地の悪い商魂を事細かに言うのも問題だ。
 そんな事をしたら警吏がすっ飛んできて反社会思想か反体制思想か信用毀損のかどでしょっぴかれてしまう。

(なるほど)

 表通りに出て雑踏に戻ると、ふと気が付いた。

 あの異邦人は本屋の客全てに声をかけていたわけではない。

 字が読める子供に声をかけたがっていたのだ。

 人間は心理的に自分より体躯が小さなヒトを『扱いやすい存在』だと勝手に認識する。
 字が読める大人だと自然と体つきも立派なので道端での初対面で交渉に持って行きにくいと脳内で勝手に判断したのだ。

 その理由を、雑踏を見て理解した。

 あらゆる肌の色、あらゆる髪の色、あらゆる国の服、文法は正しくともイントネーションが一致した人間が少ない帝国の首都の一角。
 自分も外国人なら識字がある大人にたどたどしく話しかけるよりも、意思の疎通が簡単そうに見える子供を選んで接触を試みるに違いない。

 帝国。

 我が栄光のズァルト帝国は自国民以外を排斥するには手遅れなほどに異民族が往来する巨大な国となっていた。

 元は質が高いと言えない布と紙だけの国が、近隣諸国に対して貿易とその交易路として国土を税収で以て開放した結果、わずか300年で嘗て無いほどに繁栄の極みを見せていた。
 
 定期的に町の広場や集会所にやってきて帝国の威光を喧伝してから下達する公示人の発表を信じるのなら、首都の住民だけで100万人を越える人間がひしめいている。

 果たして、その中で王侯貴族以外に純血のズァルト人は何割りいるのか?
 国籍や人種による純血思想は一部の過激思想家以外にはどうでもいい概念となっている。皇族でさえも血脈主義は捨てて生命力の強い『人間』を選ぶようになった。

 人々は今日の営みを続けるだけで精一杯なのだ。

 何百年も昔の戦乱の時代に生まれていればこう生きた、このようにして成功したと考えるのは、その時代の歴史を知り、知識を蓄えた人間だけが夢想できる戯言だ。
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