【第1章】喋らない者とその者ども

 目立たない影、小さく走る。

 雑多な人混みの中を文字通りに多種多様な人種で塗り尽くされた表通りを走る。

 往来の人々と度々ぶつかるが小さな影も相手も特に気にしない。
 小さな影の主の残像であるかのように腰に巻いた布切れがはためく。

 昼を少し過ぎたバザー。
 国の内外の隊商が商工ギルドで販売権を買ってまで店を出しているのだ。ゆえに人混み。
 人いきれの密度だけで酔いそうだ。

 小さな影の主は、やがて目的の露店に来た。
 靴底に急ブレーキをかけて、商品の山につんのめってしまいそうになる体勢を堪えて正す。

 本の山。

 小さな影の主……一般的成人男性よりも頭一半ほど背が低い少年は、山のように積まれた商品に対して最大の敬意を払うように垂れ下がる腰布で手を拭いて、並べられた『本』を手に取る。

 この露天で売られているのは本。
 それも『自分が住む国の言語で翻訳された』写本。

 貿易で栄えるこの国の沿岸部には海外航路向けの港がある。
 それゆえ珍しい物品が大量に輸入されてくる。寧ろ何が平凡なのかわからない。

 勿論、輸入販売だけでなく、陸揚げされた商品を馬車に積んで近隣の国外へ輸送輸出することで大きな税収としている。

 識字と四則演算を覚えた少年の生きがいは知識の収集だ。
 あらゆる物を失くしても知識だけは失くならない。……ひいては奪われない。
 幼少の頃より大切な物を簒奪されてきた少年は自分独りでも生きていくのに困らない財産と技能はなにか? と幼い思考を巡らせた結果、知識の収集を最適解だと判断した。

 それは、あくまで、知識を集めるという事の発端だ。
 今では、新しい知識に触れることを至上の歓びとしている。

 知識に触れる機会である識字と四則演算を叩き込んでくれた『あの人』には忌々しいが感謝している。

 菓子を前にした子どものように目を輝かせて、本の表紙や巻物に巻かれたそれの名前を見て垂涎の顔を隠そうともしない。

(うわー……どれもこれも高いなぁ)

 興味や知的好奇心が擽られる題名ほど、値段は高い。

 少年は『新しくなった出自』の特権を振りかざしてまで図書館へ行く気がしない。それは彼が最も嫌う人間の力を用いるということ他ならない。

 腰のベルトに提げた布袋に入っている金額では一冊の本を買うだけで精一杯だ。
 一冊でもいいから本がほしい。
 国外で活躍する同郷人が翻訳してくれたのだ。自分の国の言語で本が読める機会はそうそう無い。

 彼自身が自在に読み書きできるのは母国語のみ。
 外国の言語はなんとか読めるものが幾つかと、なんとか発音できるものが幾つか。……つまり、達者な話者とはいかない。

 何か一冊でもと目を皿のようにして並べられた本を見る。

 上着のベストの胸ポケットに差していた葦のペンを取り出して先端を舐めてから荒い繊維の懐紙に本の名前や著者を次々に書きなぐる。

 店の主であろう、立派な体躯で熊ヒゲの中年が少年を怪しみながら見ていたが、少年が字を識る者だと分かると直ぐに追い払った。

(……うーん。残念)

 少年は中年店主の追い払う声を背にその露店を去る。

 『字を識る未成年』で『貧しい身なり』…この2つが揃えば真っ当でない本を売る人間からすれば脅威でしか無い。

 何処かの知識階層が放った偵察だと相場は決まっている。

 金持ちの知識階層がその店で扱っている本が本物かどうかを確認するために『覚えの悪い書生』に扱っている本の表題を調べさせたのだと判断したのだ。

 それで追い払ったとなると……この店で扱っている本や諸々の書類は母国語で書かれた『得体のしれないもの』だと見抜かれるのを恐れたのだ。
 店主がもう少し賢ければ、少年が本を手に取る前に腰布で手を拭く所作を見れば、本に愛情を持っている、立派な知的階層だと判断できたのに。

 これから良い取引ができる可能性が高い客を自ら遠ざけてしまった。

 本を扱う店に冷やかしは来ない。
 本を読める者は字に親しんだ生活をしている。
 本を読めないものは本とは縁のない生活をしている。
 だから、本を換金する盗人は居ても、本の価値を知る盗人は『普通は居ない』。

 字の読み書きができても身なりが伴わないとそれだけで怪しまれてしまう。

 こればかりは少年の自助努力ではどうにもならない。
 少年は自分が何処かの家で飼われている貧乏書生だと思われたのなら仕方ないとすぐに諦めた。

(それにしても……)

 彼は懐紙に書きなぐった先程の露店で扱っていた本の題名や著者を一瞥すると口元を緩めて再び目に輝きを取り戻した。

(ということは、『これ』の原本が有る可能性が高いな)

 全くの偽書でもない限り、書き写しの間違いが有る写本でもない限り、今後の可能性に望みを託した。

 バザーはまだ開かれたばかりだ。
 さあ、これから違う店に行こう!

 少年……イヅは本を扱う次の露店に大きな期待を抱いた。

 イヅの仕事は『今晩』は何もない。
 久しぶりに大枚を提げてバザーにやってきたのだ、すぐに自宅へ戻るのも面白みがない。

 露店では売るだけではなく、見世物としての珍品名品が並べられた店も多い。
 貴族階級や小金持ち以上の金持ちに自分の販路をアピールするためのデモンストレーションだ。
 精密な蝋人形に軽く驚いたり、珍妙な名前の毒蛇の毒の成分に惹かれたり、ロープを駆使して人や動物の形に編み上げた調度品などなど。

 いつものことながら一日では全てのバザーを見て周ることは出来ない。
 このバザーは今月の末まで続くのだから、もしかしたら、明日には新しい本屋が軒を連ねるかもしれない。

 この国は交易路で栄えた国なので心もとなかった地場産業の紙と布を広く発信することに成功した。

 軍靴が響かなくなって久しい。
 周辺諸国やその属国ではまだまだ干戈を交えている国があるが、名君の皇帝陛下のお陰で今は平和を享受している。
 下賤な身分を自称しているイヅが知識欲を満たせるのも帝国の…ひいては皇帝陛下とその家臣が優秀だから他ならない。

(……と、言うことにしておこう)

 イヅは心の中で覚えめでたい存在に礼を述べた。

「……?」

 不意に振り返る。
 辺りを見回す。

 視界の端に先程からイヅの歩幅に合わせて並行して歩いたり、背後に一定の距離を置いて歩いたりする影が見える。

 掌にじっとりと汗を掻き始めて咄嗟に生成りの腰布を握る。
 民族衣装としての生成りの腰布。質は中程度。
 国民のあらゆる階層が腰巻きをしている。

(異邦人……? さっきの本屋からツけてきているな。スリでも拐かしでもない……まさか! あの人の敵か!?)

 この世で一番嫌う人間のとばっちりで命が危険に晒されるのはゴメンだとばかりに、足早にバザーの出入り口へと向かう。

 人混みが多すぎる雑踏で素早く直線的に走るのは不可能だ。

(仕方ない!)

 衣料品や日用品を扱う露店の隙間を折れて細い路地に飛び込む。

 日が高い時間であっても賑わう大通りの路地裏は日常的に物乞いや行倒れが見られる場所だ。勿論、犯罪に遭遇する可能性が高いので路地裏はできることなら避けたかった。

 犯罪者の吹き溜まりであり犯罪の温床でもある路地裏はイヅにとっては非常に相性が悪い場所だ。
 彼自身がそこそこ整った顔立ちをしているので人身売買組織の末端に拐われそうになったことも有るし、身ぐるみを剥がされそうになったことも有るし、貞操を奪われそうにもなった。

 何より……『副業で請け負っている仕事柄、顔覚えられい居る人間から命そのものを狙われる』ことも考えられる。

 ……考えられるだけで、今まで具体的に副業が理由で殺されそうになったことはまだない。
 同僚が何人か路地裏で死体で発見された事が過去にあった。
 そんな危険な場所に飛び込んででも追っ手を巻きたかった。
 同郷人なら同じ文化と言語なので手八丁口八丁でなんとかなるだろうが、異邦人なら文化や言語の成り立ちが違うのでジェスチャーすら成立しない。

(ひ!)

 イヅの喉がコヒュッと鳴る。
 追手と思しき人物は大きな肩を揺すって迷うことなく路地裏へと入り込んできた。
 ポケットには簡素な造りの折りたたみナイフが有るが、これは葦ペンを削る程度の切れ味しかなく中指より少し刃渡りが長い程度の日用品だ。
 副業の同僚たちが腰に提げている立派な剣とは用途が違う。

 かび臭く埃が舞う路地裏を走りながら、汗の浮いてきた右手で腰巻きの布の腹の辺りをギュッと握る。

 背丈の小さなイヅの膂力では大柄な異邦人の男には勝てない。走りながら何度も振り返り男を観察した。

 やがて路地裏の、道の真ん中で爪先に急ブレーキをかけて追手に振り返ると、素早く左足を半歩ひき、右半身で構える。両手は握り拳を作りそれぞれの腰の辺りに押し付けて、右肩を男に突き出すように向ける。

 イヅの背中は冷たい汗でびっしょりと濡れている。少なくとも、絞れば汗が滝のように出るくらいに緊張していた。

 顔がややひきつる。
 異邦人の男。年齢は30代だろうか。南方の国から来たのか? 肌がやや赤黒い。
 背丈はイヅよりも頭二つ以上は高い。左腰にはやや反った小剣。 
 その剣を抜くまでもなく、腕を掴まれただけで骨が折れそうな太い腕、太い指。
 その男は何処で覚えたのか、かたことの帝国の第一言語で話しかけてきた。

「本屋、お前は、何を、見た。動物、の本を、見たか」

 野太い声で、発せられた。

 イヅは緊張が途切れて腑抜けた顔で長い息を吐き、崩れるように『構え』を解いた。

 否定。攻撃。不快。緊張。……男はそれらを漂わせない容貌をしていた。

 イヅには『それ』が解る。
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