【第2章】一足遅れの哀歌

 フロン・ガナドー男爵は自供した。

 あくまで自供だ。自白ではない。
 犯行の挙動を時間軸に沿って語っただけだ。

 その話を聞かされたのは、ライデ・ジーロ子爵がフロン・ガナドーとともに治安府へ自首した1週間後だ。

 自首しての自供。
 
 ガナドー家と縁のある、もしくはガナドー家やフロンが与する派閥やコミュニティを慮っての子爵なりの配慮だろう。

 フロンがイヅと同席したあの時に全てを洗いざらい自白して任意出頭の余地をなくして、子爵がフロンをお縄にしたと噂が広まれば、広報や新聞で庶民にも広まれば…決して小さくない波が立っただろう。

 美貌の子爵はその容貌の魅力と魔力を活かす前にガナドー派から駁撃され、反ガナドー派からは拍手喝采を受けて、更にガナドー派を刺激して泥沼の党派性的闘争に発展していたに違いない。

 貴族は常に面子とプライドで生きている。

 仲間を馬鹿にされたのなら、仲間を守ってくれたのなら、それ相当の『お礼』をする。
 分かり易い依怙贔屓と賄賂の形成が始まる。

 それを防ぐためにも、子爵は男爵が自らが『出来事の経緯とそれに対する心情を吐露するために治安府へ来た』という体裁で扱ったのだ。

 貴族の世界は実に面倒臭い。
 世の中には自分の伴侶を売ってでも金策して爵位を手に入れて伏魔殿の如き貴族社会で活躍したがる人間がいる事実があり、おぞましくて仕方がない。

 イヅは頭を振って思い出しかけた嫌な奴の顔を払いのける。

 少し遅い朝食を食んでいたイヅの前で、欠伸を噛み殺した子爵は砂糖漬けのリンゴを一口齧って、濃厚な茶を飲む。どうやらまたもお疲れのようで。

「つまり、ガナドー卿は殺人を犯していない、という結末だった、と」

 イヅは念を押すように聞いた。

「そう。『家令の職を預かったゴフ氏が賊の侵入を許してしまい、呵責の念に耐えられず自殺』でこの事件は捜査終了となった。ガナドー卿は無罪放免。暫くは同情を集めて人気ものになるよ」
「そうなれば体制に不満のある戯曲作家が皮肉った一作を捻りそうですね」
「私は献身的な働きを提供してくれる助手を逮捕したくないからそんな危ない仕事は断るんだぞ」

 イヅの軽い皮肉に子爵も苦笑いしながら、形だけの忠告をする。
 庶民は娯楽に飢えているものだ。この事件の表向きの顛末が手書き新聞で広まって、三文作家が面白おかしく読み物を書くだろうし、何かと思想家が多い戯曲作家がこの手の事件を放置するわけがない。
 きっとイヅにもそれに関連した仕事が舞い込むのは目に見えている。
 凋落手前に見える貴族の美談の裏側を想像してその羽ばたきを大きくするのが作家というものだ。

「勿論僕は規範たる帝国臣民を目指していますのでそのような噴飯ものの仕事など蹴り飛ばしますよ。僕は貴方様のひいては万民の長たる皇帝陛下のお役に立つことが何よりの幸せです」

 苦笑いの子爵に対して棒読みで返すイヅ。

 いつもの雑穀米の粥に臭みの強い魚の干物を放り込んで、腹を満たすだけのものを胃袋に流し終えると、匙を置いて湯冷ましを一気に飲んで口と喉を洗う。

 フロン・ガナドーの罪は殺人未遂にも抵触されず、事件自体も押し入った強盗のせいで未解決となり、裁判すら開くことなく、ゴフという人間が殺されたと書類に書かれて棚にしまわれるだけで、何もかもが一件落着だ。
 それこそがゴフの望んだ展開だ。存在しない強盗に全てをかぶせて有耶無耶のままにする。

 事件の本来の概要は先程、子爵から聞いた。人に聞かれると拙い重要な部分は子爵が目の前で直接手帳にペンを走らせて文字で教えてくれた。

 要約すると、直接の事件はゴフを刺したフロンを庇うための小細工を実行したのがフロン自身だった。そのフロンに知恵を授けたのは瀕死だったゴフ本人。

 先代より嫡男を補佐してガナドー家を守るように言われていた忠義の人であるゴフは、普段からの軽挙な発言や行動で失策失言を繰り返すフロンに対して、それこそ先代の父に成り代わり、小言や箴言諫言を度々具申して家長として相応しい人物になるように教育をしていた。
 ゴフが次男よりも長男のフロンに肩入れしていたのかどうかは不明だが、直系の長子を重んじる貴族社会なら少々劣った長男でも性根を叩き直せばなんとかなるだろうと、先代がゴフに教育係を兼任させたのかもしれない。
 そうなれば長男というだけで全く不相応な重責を負わされたフロンも貴族社会の闇の片鱗だ。

(それに応えられないもどかしさや悔しさが爆発したのでは?)

 ……これはイヅの勝手な想いゆえに口にも表情にも出さない。

 本来、短絡な思考のフロンからすれば家長たる自分が蔑ろにされて、更に何かしらと優秀だとされる次男と比較されて腹に据えかねることが積もり積もっていた。

(ゴフとしては負けないようにと励ましていたつもりだったのだろうか……)

 それが偶々、夜更けに爆発しただけだ。

 近くにあった刃物──偽物のナイフである美術品──を手に取り、ゴフの腹を刺す。
 助かりそうもないゴフが家長のフロンを守って育てて支えることが先代との最後の約束であり、優秀な次男よりも更に伸びしろが有るに違いない長男のフロンを託された事を聞いた。
 フロンが改心するも既に手遅れで、ゴフはフロンを殺人者にしないために自分は賊に殺されたという筋書きと知恵をフロンに授けて、密室に閉じこもり、更に腹を自分のナイフで複数回刺して絶命した。

 仮説が実証されたのを聞かされたイヅはフロンが常に本物の悲しみの『小さな表情』を浮かべていたのを不審に思っていた理由を理解した。
 頭に血が上って大きな怪我をさせた人物のありがたみを知ったが遅かった。その悔悟の念が常につきまとっていたのだ。
 今のイヅの能力と知識では、『小さな表情』から大雑把な感情を拾うことはできても、その感情の細分化は難しい。

 イヅが子爵より得られたフロンの情報を総合しても、機知に富んだ人物だと思えず、実際に顔を見て言動を聴いても『フロンは短絡』という言葉通りのイメージは払拭できなかった。
 人間は先行する情報に惑わされて本質を見誤るという性質を持つ。
 短絡であるというイメージ…それを裏付けるように、彼は爵位が上のライデ・ジーロ子爵を何処か小馬鹿にする態度を隠そうともしないのがイヅの認知を歪ませてしまったのかも知れない。
 礼に失する所作が庶民のイヅから見ても伺えるのだ。何より、イヅの知らぬ人間が目の前でライデ・ジーロ子爵を小馬鹿に扱っているとそれが態度でも表情でも、胸に曖昧模糊としたものが湧いてくる。

 『口の聞き方は知っているが作法は相応に修得していない』と、イヅの心の中でフロンのイメージが固定化されたのも障害の一つだっただろう。

 そんな人物が、あの短時間で……宵刻(午後10時)から真刻(午前0時)の短時間で全てを計算して、この先を予測してどのような場面でも対応できる応答やとるべき態度──それは作り物であっても演技であっても──を想定できたか?

 その疑問が疑問だと認識できなかったから少年は頭を抱えて懐紙に何かを見落としていないかと、書き殴って情報を整理したのだ。

 人間は大量の情報があるがゆえに本質を見誤る場合がある。
 イヅはすべての情報を多角的に検証して、重要度と緊急度別に分類し、最も腰を据えて考えねばならないことを中心に、前提条件以前から事件を組み立てた。

 その結果の仮説と事件の全貌は一致していた。
 彼の仮説は実証された。尤も、それを吹聴する気は毛頭ない。

「かのお方は家令が言うように本当に優秀だったのかもしれませんね」
「お前もそう思うか」

 ライデ・ジーロ子爵は砂糖漬けのリンゴを摘みながら視線だけを少年の方へ向ける。
 子爵の顔には、残念で仕方がないという感情がありありと見えた。
 人間は望む時間に望むものを食べながら有意義な話し合いをすると、互いに好印象を抱きやすくなり、結果として顔には嘘を浮かべられなくなり、また、嘘をついた発言が困難になる。

 ライデ・ジーロ子爵はフロンの土壇場で見せた記憶力と実行力とその後の演技力、それに柔軟な対応を官吏として評価しているようだった。
 それゆえ、自分の部下でもないのにフロンに対して、優秀な人材を喪ったといわんばかりの残念ぶりだ。まだ死んでいない男爵を懐柔して部下に加えるかどうかを割と真剣に考えている顔をしている。 
(本当に役所は人材不足なのだな) 
 
 イヅも心の中で子爵を労る。

 確かにフロンは凄まじいまでの変貌ぶりだった。

 真に賢い人間は失態を境に素早く心を切り替えて同じ轍を踏むまいと、容貌まで変わるという。……何処の国の翻訳書で読んだか、それを『真の人格者が過ちを経て、豹のに変わるかのごとく』と書いていた。

 実際にフロンは瀕死であったであろうゴフの言葉を徹底していれば、この事件はもっと穏便に済んでいた。
 
 賊に荒らされた形跡を作る際に本物の美術品だけを的確に奪わなければ。

 番犬に啼き声を挙げさせることさえできていれば。

 子爵と少年に3度も同じルートで邸宅内部を紹介しなければ。

 この3点が分かれば大して難儀な事件ではなかった。
 この3点が分からなかったから不明瞭だった。

 そして何より、最後にフロン・ガナドーの貴族ではなく人間としての、心の在りようが発揮されなければ、イヅは貴族の事件なのだからそういうこともあるだろうと、怠慢気味に子爵に付き合って駄賃を稼いでいたに違いない。

 フロンの心の在りよう。

 それは解雇したはずの使用人を再び雇用していたことと、ゴフに名誉爵位を与えて貴族として葬儀を開く算段だったことだ。

 これは恐らく、ゴフの最後の知恵にはなかった事柄だろう。

 捜査当時、この2点は子爵が一番腑に落ちなかった点だった。
 金がないはずの貴族がなぜまたも金がかかる真似をするのか?

 この2点についても前提を重要度と緊急度で振りわけした時に『緊急だが重要でない件』としてイヅは判断していた。

 庶民のイヅからすれば貴族が何処に金をどのようの落としてそれを回収するのかという仕組みは知っていても興味はなかった。
 逆に子爵はそこが気になって独自で調べていたらしい。他家の財務と出納が気になるのは貴族ゆえか、同じ家長ゆえか。

 その点も今、朝食を食べ終えた時に子爵より聞かされた。

 ガナドー家は元から大きく儲ける商談は回避して小口で儲ける商法を多角的に展開していた。商店の数も男爵クラスとしては最多の方らしい。
 経済が不安定になっても、主な事業の海運が破綻しても、国の内外で動乱が発生しても…すべての資金資産が一瞬で没収凍結されるのを防ぐために、そのように事業を分散させていたという。

 先代以前からガナドー家は慎重な資金繰りを行っていたので、寧ろ、華やかな貴族の振る舞いなどは逆に財産を隠すのに邪魔だった。

 つまり元から、本当に逃散せねばならないような貧乏貴族ではなかった。そう見える貴族を先代以前から演じていただけだ。

 この事実にはライデ・ジーロ子爵は正直に一本取られたと負けを認めていた。

 家訓に近いこの教えを金科玉条のごとく扱っていたのだから、ゴフは物事を軽々しく考えるフロンには本当に普段から小言が多かったのだろうと予想できた。

 貴族の世界は、『貴族なのだから面子とプライドを守るために湯水のごとく金を使う』……それが日常だったのだ。
 子爵の思考では、財産で人間性を測る世界でガナドー家は今にも出世街道から転落しそうな可哀想なお家に見えたであろう。

 貴族から見て、庶民と庶民同然の人間を篤く迎える姿が不自然だった。

 イヅはイヅなりに、子爵は子爵なりに心の端に引っかかった違和感なのか不審点なのか分からないものをいつまでも覚えていなければ事件の顛末は変わっていた。

 それに、フロン・ガナドーは短絡ではあるが粗野粗暴ではない。

 だからこそ、観念して治安府で『心情を吐露した』のだ。

 それは瀕死のゴフの入れ知恵なのか、一つ成長したフロンの考えなのか…フロンの心の在りようなのか…は不明だ。

 貴族仲間や反駁する集団から疑惑を投げかけられたままの人生よりも、『自ら全ての思うところを話す』という事実のほうが美談として受け取られやすい。

 その美談を逆手に更に一儲けする阿漕な方法は幾らでも転がっているが、その手法の一翼をイヅは担うかも知れない。……こんな時ほど識字者で良かったと思うことはない。

 針の筵で過ごす人生か、悲劇の人物として憐憫の目で見られるか……貴族ならどちらを選ぶだろう?

 理解者である家令を刺すという自分の行いを悔やんで贖罪を果たそうとするのなら、選ぶのは────。

「まあ、この件はこれで落着となった。もう調書は『上』に上げたのでおしまいだ」

 な、と子爵は甘ったるいリンゴを口に含んで切れ長の涼し気な視線をイヅに向けた後、軽くウィンクした。

 ウィンクにはもうこれ以上は深入り禁止だぞ、と言いつけられているようなニュアンスが含まれていた。

「それはそれとして」
「ん? なんだ?」
「今回の『懐紙代』をいただきたいのですが」

 イヅは姿勢を正して、子爵の美しい視線に対抗するような冷たい視線を浴びせながら、右手の平をサッと、彼の前に差し出した。

 貴族のお家の悲劇をいい話だった、で締めくくらせないために彼は先手を打って今回の駄賃を求めた。

 彼はそんなタイプでないと分かっていても、少年は『彼の想い』を確認したい気持ちをそのような台詞と仕草で代行した。

「私を舐めるなよ少年。目の前に居るのは礼を忘れないタイプの子爵様だぞ」

 彼はふんと鼻を鳴らしリンゴの砂糖漬けを口に放り込むと、ひまわりのような笑顔を少年に向かって浴びせた。

  《第2章・了》 
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