【第2章】一足遅れの哀歌
フロン・ガナドーなる人物はイヅの予想を裏切り、土壇場で干戈を交える行為には及ばなかった。
子爵に事件のあらましを的確に告げられているのに、変貌するのは……伺いしれる『小さな表情』は、思考による表情の空白や視線が天井をに向けられる程度。
いずれの場合も、思考を中断したり、視界から情報量を削除して頭脳を巡らせる際にみられる生理的反応だ。……つまり、何かを考えているか何かを思い出そうとしている。
イヅが見るに、フロンが子爵と無言で睨み合っていても、次に打つ手を、あたかも脳内の本棚から引き出しているように思われた。
子爵とフロンが見えない盤でボードゲームをしているように見えた。
考えすぎだろうか……。今日、この場でフロンは警吏に問われるのも予知していたようだ。
怒りの感情があっても、焦燥に起因する間違いが無い。
気味が悪いほどの理路整然。
「先ほども申しましたが、子爵が仰られている事は全て状況証拠だけです。それに私が家令に普段から小言を言われていて、腹に据えかねて殺害したとして……なんの得になりますか? 私は彼の忠告を聞いていたからこそ今まで大きなミスを犯さなかった恩人でもあるのですよ」
フロンは感情を飲み込んだ声で静かにはっきりと子爵に言う。
(!)
(言葉に『隙間がある』。この『間合い』は何処かに嘘を含んでいる! 今フロンは確かに何かの嘘を言った!)
今すぐ、子爵に耳打ちできないのがもどかしい。イヅはここでの立場上、従者なのだ。従者の言葉で態度や顔色を変える貴族など存在してはならない。
胸の中で大きな舌打ちをする。
子爵は顎を引き、小鼻を膨らませる。
子爵の後頭部から視ているイヅでも、敬愛すべき子爵のこめかみや頭皮、頚部の筋肉の動きを見るに、用意した手札を全て見せたのに、ことごとく、それを上回る手札で封じられた感覚だろう。
軽口に転じそうだった子爵は再び防御と警戒の仕草を見せる。彼の背中からその仕草が見えた。
フロン・ガナドーは大きく姿勢を崩した。
ソファの背もたれに背中を預け、程よく脱力して子爵の顔を顎を上げ気味にして見る。先ほどとは対になるような態度の現れ。
爵位が上の人物のその態度は無礼も甚だしいと普通なら言いたいが、今は爵位の上下以前に警吏の捜査として伺っている以上、無礼を理由に怒鳴るのは逆に寛容でない人物だと評されるので子爵は沈黙したままだ。
(それにしても引っかかる)
(家令のゴフという事が出たときだけフロンの『顔が読みにくくなるんだよなぁ』……さっきの『何かの嘘』と関連があるはずなんだけど)
(それに肝は、『ゴフがいつ、どのタイミングで死んだか』で事件の内容が違ってくる)
敗北ではないが限りなく敗北に近い。……子爵が。
今日この場で決着を付けなければフロン・ガナドーは貴族として明日も明後日も大手を振って歩くだろう。
家令のゴフを殺されても健気に振る舞っている姿は或る種の同情票を買うに違いないし、仲間の貴族の求心力を引き寄せる材料にもなる。
悔しさを隠すようにライデ・ジーロ子爵はとっくに冷めた茶を一気に飲んで、助けを求めるように懐に手を伸ばした。葉巻のケースを取り出す。
(やれやれ。仕方ないか)
(少し危険だけども……)
イヅは一礼してライデ・ジーロ子爵のティーカップに2杯目の茶を淹れる。
「ライデ様、失礼します」
と、イヅは葉巻の吸口をナイフで楔形に切った子爵に話しかける。
茶を淹れる作法は慣れたもので少年の手元に淀みはない。
この作法も読書で知ったのを試したくて、高い地位で仕える給仕の動作を見て覚えたものだ。彼自身は決して給仕に憧れているわけではない。
形骸化した茶の作法の精神性を理解する途上に発生した好奇心だ。
「まだ、ゴフ氏の地位についての説明を伺っていないようですが。『あれほど息巻いておられたのに』」
勿論これはハッタリだ。
子爵にもフロンにも効くハッタリだ。
子爵は切るカードがことごとく役に立たないので頭に血が上っていたらしく、イヅがあれほど前提に固執していたのを忘れていたらしい。
その片鱗のワードを匂わせることで彼に冷静さを取り戻させる。
意外にも子爵よりも男爵のほうが反応が早かった。
フロンの瞳孔が開き、逆転勝利を確信していた表情がピタリと止まる。喉仏が上下に動く。
ライデ・ジーロ子爵はゴフの地位という言葉を出されて気がついた。なんとも間抜けに、長い間探していたものがこんな手近にあったのだ、と言わんばかりの顔つきだった。
貴族に仕えて殉職しただけの無爵の庶民に名誉爵位を授けるとまで言っていたのを思い出した。
賊に殺されただけの庶民など、忠義の人であっても、形だけの爵位を与えて、葬儀を自費で執り行ってやればいいだけではないか。
なのに、この事件の前提……。
イヅが露天のテーブルで懐紙に大量の文字を書きなぐって情報を整理していた時に浮上した、『急ではないが重要な情報』に相当する事柄である、家令のゴフについてまとめた情報と調書が今ここに来て役に立った。
前提がおかしかった。
イヅはそれを何度も口に出して繰り返して懐紙に葦ペンで書いた。
前提、前提、前提……。
庶民の命をなんとも思わない貴族が庶民のために不自然で不必要なほど忠義に報いようとしている。
普通なら家長と家令の美談として語られるだろう。
何もかもを処分して生きながらえなければならない使命を負った家長が、それなりに金額を払わねばならない爵位の贈呈を庶民に行う……つまり、葬儀のために家長として恥ずかしくないだけの規模の金を先日まで無爵と同然の人間のために出す。
金策に困っているはずなのに、出金する理由を自ら増やしている。
ゴフに名誉爵位を与えるのも只ではない。
名誉爵位を与えられたゴフはまがりなりにも貴族として扱われるのだから、それに恥じない葬儀が執り行われる。
従って、葬儀には金がかかる。フロンが自費で執り行うにしても、家計の圧迫はひどくなる。
このことから金が関係する原因の事件ではないのは明らか。
そして、丁重に扱われすぎる家令のゴフ。
イヅは前提を思い出して疑ってほしい願いを込めて、ハッタリを放った。
それはコインの表裏だけで決める博打のような気持ちだった。
博打ではあるが、当たっても外れてもイヅには捜査権はないので白い目で見られるのは子爵だけという気楽さが、酷い話ではあるが、大胆に打って出ることができた。
ゆえに気軽に『雰囲気を大きく覆す可能性を秘めた』ハッタリを呟けたのだ。
そのハッタリに引っかかって大きな反応を先に見せたフロン。
(さあ、ライデ様。ここからが勝負ですよ)
子爵は彼なりに頑張っている無表情を維持したまま、卓上のゼンマイで着火する火打ち石で火花を起こして、その火で燃焼させた葉巻用の粗朶で葉巻の先端を炙りながら吸う。唇の端から白い煙がゆったりと流れ出る。
イヅは子爵の葉巻を吸う仕草である程度以上に感情が読める。
今彼は、端緒を掴んだ。
吐き出される紫煙が荒くない。
「仰られるとおりです。状況証拠しか私は述べていません。そして、この事件ですが、犯人は恐らくいないでしょう」
子爵がイヅの仮説と同じくした。
イヅもこの事件には『殺人犯』は居ないと思っている。
仮説の段階なので口にしていなかっただけで、仮説が実証されたのならその瞬間、大きな証明となる。
子爵は葉巻の効果でリラックスを得たのか、思考が素早くなっている。
「ガナドー卿。あなたが守りたいのはこの家ではなかったのですね」
普通なら脈絡のない話だと、子爵の言葉は無視されるだろうが、フロンの片眉は一瞬だけ大きく吊り上がった。眉目周辺に緊張による微痙攣が走るのは図星の場合が多い。
この家を守る気なら余計な出費は控えるのが第一選択だ。他の貴族にトラブルを悟られぬように使用人を急に解雇したりしない……それに対して、無爵のゴフに名誉爵位を与えて、葬儀を執り行うという、あたかも財政事情に困っていない貴族の振る舞い方なのだ。
それが目立ちすぎる違和感。
目立ちすぎる。当たり前のように最初から目前に有ったので気が付かなかった。
ゆえに、奇妙と違和感だけがつきまとい、結果として事件の前提を疑うという基本の基本まで消去法で思考した。
「『守りたい者』を守りたい。その一心で最後の講義を聴いたのではないですか?」
フロンは勝利を確信したままの体勢と表情のままの像となり、片方の唇の端を引きつらせていた。ソファで寛ぐ等身大の蝋人形のようだった。
「最後の講義……これを開陳したのは誰か!」
やや芝居がかったように語気を強くする子爵。
葉巻が挟まれた彼の右手の指がフロンの顔を差す。
「もしかしなくとも……」
子爵は美貌に剣呑な鋭さを乗せて虚勢を張っているだけに見える男爵を見据える。
「ゴフは自ら命を絶ったのでは?」
沈黙。
どうしようもない止めを放った子爵と、その直撃が致命的な部位『付近』に命中した男爵。
暫しの時間が静かに流れた。
もしかしたら瞬き数回分の時間だったのかもしれない。
人間は感情によって時間の進み方にある程度の変動を感じ取ってしまうらしい。
この場にいる全員が時間の流れに何かしらの心理的影響を感じるほどに硬直していた。
イヅは男爵の顔を見続ける。
耳は子爵の声を何も聞き漏らすまいと研ぎ澄ます。
鼻の奥をかすかに葉巻の香りが擽ってゆく。
彼の匂いがする。
「『もう少し』詳しくお話しましょう」
「ほう。それは楽しみですね」
ライデ・ジーロ子爵の諭すような声に、震える声を押し殺してフロンは平静を装いながら返答する。
(もう、何を喋っても喋らなくても、フロンの『社会通念的な逃げ道』はないんだよね)
(貴族として大鉈を振るうなら『事件』からは幾らでも逃げられるけど、それを見逃さないのが、また貴族連中なんだよね)
(彼に針の筵で生きていける胆力があれば可能かもしれない……胆力が有れば『ゴフは生きていただろう』な……)
「先にあなたの名誉のために言っておきますよ、ガナドー卿。あなたはゴフ氏を殺害はしていない」
「…それは何度も聞いていますし、そのように証言もしておりますが」
「しかし、ゴフ氏を負傷させたのはあなたです」
フロンの喉下の筋肉群が引き締まる。瞳孔がややしぼむ。……緊張、焦燥、不安、警戒。初めて事件の首魁らしい反応を見せた。
「何かしらが有って、あなたはゴフ氏を負傷させた。腹の刺し傷の一つだけがなまくらの刃物だったのですよ。他の5箇所の傷は綺麗な刺傷で、深く刺さっていました。そこで刃物と刺傷の痕を調べたら、5箇所の刺傷はゴフ氏の手元に落ちていたナイフと一致するのです。なまくらな刃物はこの屋敷内部に残されていた贋作の刃物と同じで、『動物の脂分』も検出されています。…その偽物の美術品として飾られていた刃物は台所で包丁に使うような刃物で張りませんよね? …彼は自分を負傷させた家長たるあなたを庇うために、あなたを殺人者にさせないために、さも賊と勇敢に争って殺害されたかのように見せるために使用人の部屋へ入り内側から鍵を…」
空気を裂いた、フロンの声。
「もういい! 分かった!」
その声が応接間に響き渡る。
(もう、何を喋っても喋らなくても、フロンの『社会通念的な逃げ道』はないんだよね)
(貴族として大鉈を振るうなら『事件』からは幾らでも逃げられるけど、それを見逃さないのが、また貴族連中なんだよね)
(彼に針の筵で生きていける胆力があれば可能かもしれない……胆力が有れば『ゴフは生きていただろう』な……)
と、イヅは子爵がフロンに自分の推察を述べる直前に思っていたことを思い出していた。
(これは調書が分厚くなりそうな予感がする)
この事件を担当したライデ・ジーロ子爵は暫くは徹夜だろうなぁ、と少年の心の中にある冷めた部分は他人顔でそんな事を思っていた。
……そして、さすがライデ様だ、と感嘆の息を漏らしている自分も心の中で共存している。
畢竟、フロンは小言が五月蝿いと一時的感情的になって刺してしまったゴフが自分や家のために本当に命懸けで尽くしていた事実を知り、後悔するも時すでに遅し、だった。これが真相だ。
ゴフは最後の力を振り絞って、現場を隠蔽する知恵を授けたのだろう。
今ここで、このお家の主を殺人者にさせないために自分に残された全ての時間を使い切ったのだろう。
悲しくも、それは自分で自分の腹を執拗に刺して致死することで完成する渾身の策だった。
それは、何通りも有った仮説の中で最後に残った仮説が本命だった。
子爵に事件のあらましを的確に告げられているのに、変貌するのは……伺いしれる『小さな表情』は、思考による表情の空白や視線が天井をに向けられる程度。
いずれの場合も、思考を中断したり、視界から情報量を削除して頭脳を巡らせる際にみられる生理的反応だ。……つまり、何かを考えているか何かを思い出そうとしている。
イヅが見るに、フロンが子爵と無言で睨み合っていても、次に打つ手を、あたかも脳内の本棚から引き出しているように思われた。
子爵とフロンが見えない盤でボードゲームをしているように見えた。
考えすぎだろうか……。今日、この場でフロンは警吏に問われるのも予知していたようだ。
怒りの感情があっても、焦燥に起因する間違いが無い。
気味が悪いほどの理路整然。
「先ほども申しましたが、子爵が仰られている事は全て状況証拠だけです。それに私が家令に普段から小言を言われていて、腹に据えかねて殺害したとして……なんの得になりますか? 私は彼の忠告を聞いていたからこそ今まで大きなミスを犯さなかった恩人でもあるのですよ」
フロンは感情を飲み込んだ声で静かにはっきりと子爵に言う。
(!)
(言葉に『隙間がある』。この『間合い』は何処かに嘘を含んでいる! 今フロンは確かに何かの嘘を言った!)
今すぐ、子爵に耳打ちできないのがもどかしい。イヅはここでの立場上、従者なのだ。従者の言葉で態度や顔色を変える貴族など存在してはならない。
胸の中で大きな舌打ちをする。
子爵は顎を引き、小鼻を膨らませる。
子爵の後頭部から視ているイヅでも、敬愛すべき子爵のこめかみや頭皮、頚部の筋肉の動きを見るに、用意した手札を全て見せたのに、ことごとく、それを上回る手札で封じられた感覚だろう。
軽口に転じそうだった子爵は再び防御と警戒の仕草を見せる。彼の背中からその仕草が見えた。
フロン・ガナドーは大きく姿勢を崩した。
ソファの背もたれに背中を預け、程よく脱力して子爵の顔を顎を上げ気味にして見る。先ほどとは対になるような態度の現れ。
爵位が上の人物のその態度は無礼も甚だしいと普通なら言いたいが、今は爵位の上下以前に警吏の捜査として伺っている以上、無礼を理由に怒鳴るのは逆に寛容でない人物だと評されるので子爵は沈黙したままだ。
(それにしても引っかかる)
(家令のゴフという事が出たときだけフロンの『顔が読みにくくなるんだよなぁ』……さっきの『何かの嘘』と関連があるはずなんだけど)
(それに肝は、『ゴフがいつ、どのタイミングで死んだか』で事件の内容が違ってくる)
敗北ではないが限りなく敗北に近い。……子爵が。
今日この場で決着を付けなければフロン・ガナドーは貴族として明日も明後日も大手を振って歩くだろう。
家令のゴフを殺されても健気に振る舞っている姿は或る種の同情票を買うに違いないし、仲間の貴族の求心力を引き寄せる材料にもなる。
悔しさを隠すようにライデ・ジーロ子爵はとっくに冷めた茶を一気に飲んで、助けを求めるように懐に手を伸ばした。葉巻のケースを取り出す。
(やれやれ。仕方ないか)
(少し危険だけども……)
イヅは一礼してライデ・ジーロ子爵のティーカップに2杯目の茶を淹れる。
「ライデ様、失礼します」
と、イヅは葉巻の吸口をナイフで楔形に切った子爵に話しかける。
茶を淹れる作法は慣れたもので少年の手元に淀みはない。
この作法も読書で知ったのを試したくて、高い地位で仕える給仕の動作を見て覚えたものだ。彼自身は決して給仕に憧れているわけではない。
形骸化した茶の作法の精神性を理解する途上に発生した好奇心だ。
「まだ、ゴフ氏の地位についての説明を伺っていないようですが。『あれほど息巻いておられたのに』」
勿論これはハッタリだ。
子爵にもフロンにも効くハッタリだ。
子爵は切るカードがことごとく役に立たないので頭に血が上っていたらしく、イヅがあれほど前提に固執していたのを忘れていたらしい。
その片鱗のワードを匂わせることで彼に冷静さを取り戻させる。
意外にも子爵よりも男爵のほうが反応が早かった。
フロンの瞳孔が開き、逆転勝利を確信していた表情がピタリと止まる。喉仏が上下に動く。
ライデ・ジーロ子爵はゴフの地位という言葉を出されて気がついた。なんとも間抜けに、長い間探していたものがこんな手近にあったのだ、と言わんばかりの顔つきだった。
貴族に仕えて殉職しただけの無爵の庶民に名誉爵位を授けるとまで言っていたのを思い出した。
賊に殺されただけの庶民など、忠義の人であっても、形だけの爵位を与えて、葬儀を自費で執り行ってやればいいだけではないか。
なのに、この事件の前提……。
イヅが露天のテーブルで懐紙に大量の文字を書きなぐって情報を整理していた時に浮上した、『急ではないが重要な情報』に相当する事柄である、家令のゴフについてまとめた情報と調書が今ここに来て役に立った。
前提がおかしかった。
イヅはそれを何度も口に出して繰り返して懐紙に葦ペンで書いた。
前提、前提、前提……。
庶民の命をなんとも思わない貴族が庶民のために不自然で不必要なほど忠義に報いようとしている。
普通なら家長と家令の美談として語られるだろう。
何もかもを処分して生きながらえなければならない使命を負った家長が、それなりに金額を払わねばならない爵位の贈呈を庶民に行う……つまり、葬儀のために家長として恥ずかしくないだけの規模の金を先日まで無爵と同然の人間のために出す。
金策に困っているはずなのに、出金する理由を自ら増やしている。
ゴフに名誉爵位を与えるのも只ではない。
名誉爵位を与えられたゴフはまがりなりにも貴族として扱われるのだから、それに恥じない葬儀が執り行われる。
従って、葬儀には金がかかる。フロンが自費で執り行うにしても、家計の圧迫はひどくなる。
このことから金が関係する原因の事件ではないのは明らか。
そして、丁重に扱われすぎる家令のゴフ。
イヅは前提を思い出して疑ってほしい願いを込めて、ハッタリを放った。
それはコインの表裏だけで決める博打のような気持ちだった。
博打ではあるが、当たっても外れてもイヅには捜査権はないので白い目で見られるのは子爵だけという気楽さが、酷い話ではあるが、大胆に打って出ることができた。
ゆえに気軽に『雰囲気を大きく覆す可能性を秘めた』ハッタリを呟けたのだ。
そのハッタリに引っかかって大きな反応を先に見せたフロン。
(さあ、ライデ様。ここからが勝負ですよ)
子爵は彼なりに頑張っている無表情を維持したまま、卓上のゼンマイで着火する火打ち石で火花を起こして、その火で燃焼させた葉巻用の粗朶で葉巻の先端を炙りながら吸う。唇の端から白い煙がゆったりと流れ出る。
イヅは子爵の葉巻を吸う仕草である程度以上に感情が読める。
今彼は、端緒を掴んだ。
吐き出される紫煙が荒くない。
「仰られるとおりです。状況証拠しか私は述べていません。そして、この事件ですが、犯人は恐らくいないでしょう」
子爵がイヅの仮説と同じくした。
イヅもこの事件には『殺人犯』は居ないと思っている。
仮説の段階なので口にしていなかっただけで、仮説が実証されたのならその瞬間、大きな証明となる。
子爵は葉巻の効果でリラックスを得たのか、思考が素早くなっている。
「ガナドー卿。あなたが守りたいのはこの家ではなかったのですね」
普通なら脈絡のない話だと、子爵の言葉は無視されるだろうが、フロンの片眉は一瞬だけ大きく吊り上がった。眉目周辺に緊張による微痙攣が走るのは図星の場合が多い。
この家を守る気なら余計な出費は控えるのが第一選択だ。他の貴族にトラブルを悟られぬように使用人を急に解雇したりしない……それに対して、無爵のゴフに名誉爵位を与えて、葬儀を執り行うという、あたかも財政事情に困っていない貴族の振る舞い方なのだ。
それが目立ちすぎる違和感。
目立ちすぎる。当たり前のように最初から目前に有ったので気が付かなかった。
ゆえに、奇妙と違和感だけがつきまとい、結果として事件の前提を疑うという基本の基本まで消去法で思考した。
「『守りたい者』を守りたい。その一心で最後の講義を聴いたのではないですか?」
フロンは勝利を確信したままの体勢と表情のままの像となり、片方の唇の端を引きつらせていた。ソファで寛ぐ等身大の蝋人形のようだった。
「最後の講義……これを開陳したのは誰か!」
やや芝居がかったように語気を強くする子爵。
葉巻が挟まれた彼の右手の指がフロンの顔を差す。
「もしかしなくとも……」
子爵は美貌に剣呑な鋭さを乗せて虚勢を張っているだけに見える男爵を見据える。
「ゴフは自ら命を絶ったのでは?」
沈黙。
どうしようもない止めを放った子爵と、その直撃が致命的な部位『付近』に命中した男爵。
暫しの時間が静かに流れた。
もしかしたら瞬き数回分の時間だったのかもしれない。
人間は感情によって時間の進み方にある程度の変動を感じ取ってしまうらしい。
この場にいる全員が時間の流れに何かしらの心理的影響を感じるほどに硬直していた。
イヅは男爵の顔を見続ける。
耳は子爵の声を何も聞き漏らすまいと研ぎ澄ます。
鼻の奥をかすかに葉巻の香りが擽ってゆく。
彼の匂いがする。
「『もう少し』詳しくお話しましょう」
「ほう。それは楽しみですね」
ライデ・ジーロ子爵の諭すような声に、震える声を押し殺してフロンは平静を装いながら返答する。
(もう、何を喋っても喋らなくても、フロンの『社会通念的な逃げ道』はないんだよね)
(貴族として大鉈を振るうなら『事件』からは幾らでも逃げられるけど、それを見逃さないのが、また貴族連中なんだよね)
(彼に針の筵で生きていける胆力があれば可能かもしれない……胆力が有れば『ゴフは生きていただろう』な……)
「先にあなたの名誉のために言っておきますよ、ガナドー卿。あなたはゴフ氏を殺害はしていない」
「…それは何度も聞いていますし、そのように証言もしておりますが」
「しかし、ゴフ氏を負傷させたのはあなたです」
フロンの喉下の筋肉群が引き締まる。瞳孔がややしぼむ。……緊張、焦燥、不安、警戒。初めて事件の首魁らしい反応を見せた。
「何かしらが有って、あなたはゴフ氏を負傷させた。腹の刺し傷の一つだけがなまくらの刃物だったのですよ。他の5箇所の傷は綺麗な刺傷で、深く刺さっていました。そこで刃物と刺傷の痕を調べたら、5箇所の刺傷はゴフ氏の手元に落ちていたナイフと一致するのです。なまくらな刃物はこの屋敷内部に残されていた贋作の刃物と同じで、『動物の脂分』も検出されています。…その偽物の美術品として飾られていた刃物は台所で包丁に使うような刃物で張りませんよね? …彼は自分を負傷させた家長たるあなたを庇うために、あなたを殺人者にさせないために、さも賊と勇敢に争って殺害されたかのように見せるために使用人の部屋へ入り内側から鍵を…」
空気を裂いた、フロンの声。
「もういい! 分かった!」
その声が応接間に響き渡る。
(もう、何を喋っても喋らなくても、フロンの『社会通念的な逃げ道』はないんだよね)
(貴族として大鉈を振るうなら『事件』からは幾らでも逃げられるけど、それを見逃さないのが、また貴族連中なんだよね)
(彼に針の筵で生きていける胆力があれば可能かもしれない……胆力が有れば『ゴフは生きていただろう』な……)
と、イヅは子爵がフロンに自分の推察を述べる直前に思っていたことを思い出していた。
(これは調書が分厚くなりそうな予感がする)
この事件を担当したライデ・ジーロ子爵は暫くは徹夜だろうなぁ、と少年の心の中にある冷めた部分は他人顔でそんな事を思っていた。
……そして、さすがライデ様だ、と感嘆の息を漏らしている自分も心の中で共存している。
畢竟、フロンは小言が五月蝿いと一時的感情的になって刺してしまったゴフが自分や家のために本当に命懸けで尽くしていた事実を知り、後悔するも時すでに遅し、だった。これが真相だ。
ゴフは最後の力を振り絞って、現場を隠蔽する知恵を授けたのだろう。
今ここで、このお家の主を殺人者にさせないために自分に残された全ての時間を使い切ったのだろう。
悲しくも、それは自分で自分の腹を執拗に刺して致死することで完成する渾身の策だった。
それは、何通りも有った仮説の中で最後に残った仮説が本命だった。