【第2章】一足遅れの哀歌
それまでは、フロン・ガナドーという人物について身辺以外の調査をまとめた資料と子爵からの『又聞き』でのみ知った。
それに全幅を置く根拠とするのなら、元から仮説は違っていた。
何度も対面した後の子爵から『直接』聞くフロン・ガナドーは喧嘩っ早いとか短気だとか思考が両極端だとかそういった、表層的な行動で問題を起こす人物ではないという。
その上で子爵がフロン・ガナドー男爵を短絡だと言っていたのは、性格から分かったのではなく、貴族同士の軋轢や所属するコミュニティでの振る舞いや発言や人当たりが『嫌いではないが好きにはなれない人物』として子爵は直感で感じたのだ。
飽く迄、子爵の直感だというのは勿論、念頭に置く。
貴族ならではのパワーゲームの世界。個人のイメージも大切だ。人間はその人物と対面した折の瞬き2回分の時間の観察とそれに基づいた直感で、自分にとっての好悪を判断するという。
理不尽にも、貴族の世界ではお家や名誉や格式と同じくらいに人物像は重要視される。
それに短絡というのも子爵の直感でしか無いが、貴族だけを眺める時間が短いイヅにとっては大きな断片だと言えた。
直感を根拠として思考を構築するのはイヅとしては……本来のイヅとしては反論していただろう。
けっして子爵の人を見る目を信じて短絡というイメージをそのまま採用したのではない。
短絡だったら。
短絡でなかったら。
その2つの場合においての仮説を同時に立てることにしたのだ。そして従来の仮説を修正し、追加する。
そこまで慎重な少年の理念を揺さぶっていたのは、やはり、身分の違う世界の構造に興味はあっても巻き込まれたくはないゆえに、好奇心を無意識に抑えつけていたからだと、後に悟る。
その世界の構造は遥かに複雑怪奇で、イヅのたった一つの脳味噌で噛み砕いて理解できる理は少ない。
寧ろ、触れない方が幸せに生きられる可能性が高い。
イヅが普段から貴族階級の揉め事や力関係に注意しているのは、庶民の命などなんとも思っていないのが貴族だと肝に命じているので、できるだけ貴族の社会やその界隈には触れないでいようと誓っているのだ。
最近ではそれを麻痺させる事態……否、存在であるライデ・ジーロ子爵が現れたために距離感が少しぼやけていた。
目の前のライデ・ジーロ子爵とフロン・ガナドー男爵の非言語を交えた駆け引きを見て背筋が冷たくなった。
甘く見ていた。
ライデ・ジーロ子爵を。
馬鹿にしていたのではない。その奥底を見誤っていたのだ。
何処か抜けた印象がつきまとう彼だが、それは好きでもない職務に忙殺されているからであって、嗜みとして覚えなければ生きていけないばかりか、自身のお家までが関係して飛び火する世界で生きている人物だ。
ただの、『勉強ができる馬鹿』ではなかった。『勉強ができる範囲ならば馬鹿のように感が鋭い』人間でもあった。
「これは治安府の内密の資料からの抜粋なのですが」
子爵は先ほどの言葉をもう一度繰り返した。
少しばかり、ずいと前のめりになる子爵。
「盗まれたものはいずれも名品ばかり。と、言いますか、名品しか盗まれていない。それに盗まれた順番を整理したのですが」
少し間を置く。
「家令のゴフが抵抗したとされる廊下から逃げ込んで内側から鍵をかけた部屋……。この順から逆さに廊下を抜けて『本物の値打ちもの』だけがあたかも選んで盗まれているようなのです。なんの狂いもなく正確に。そして贋作だけが残っている」
フロンの顎周辺の筋肉群が引き攣る。目の瞳孔が広がる。肩が少し上下している。髪の生え際に汗が浮かび始める。
(しかし……妙だ)
イヅは言葉の突き所が少しづつ鋭くなる子爵に追い込まれているはずのフロンが尚も、隠蔽と焦燥を『小さな表情』で表面化させていないのだ。今しがた見せたのは驚きの反応。それだけでは判断に困る。
それに彼の癖を全て掴んでいないのかもしれないので、『小さな表情』は生来の癖の可能性もある。
『小さな表情』を読むのは数学における統計や確率と同じだ。被検体が少ないと参考値としての役目を果たさない。
だから面白い。
人そのものを見るだけでその人を知ることができる素晴らしい学術だ。技術だ。
だからこそ遥か後世に行動分析学と呼ばれるこの学問に興味を持った。
実のところ、イヅはこの事件に犯人は居ないと仮説を強く推しているが決定打に欠けるのが、フロンの反応だった。
犯人とフロンの関係。或いは事件の前提とその根底。……真犯人がいるのなら、だ。
目に見えている証拠ばかりに気を取らて、捜査する自分たちは誰かに都合のいいように誘導させられていると感じたので前提からひっくり返した。……そこまでは間違えていないだろう。
それに、今この場で、賊が押し入った事による事件は解決するだろう。
賊が存在するのなら、だ。
「私の推理はこうです」
(私の推理ときたかー)
不謹慎にもイヅは唐突に聞いた似合わない子爵の台詞に吹き出しそうになったが、なんとか堪えた。
「殺人現場は使用人が使う部屋…ゴフ氏が閉じこもって鍵をかけた部屋で間違いないでしょう。そして腹部の負傷が致命傷になり、死亡。……そこまではガナドー卿の協力で作成された調書にも書いてあります」
ライデ・ジーロ子爵は前髪を自然な素振りで払うと眼光を鋭くして、フロンにざくりざくりと突き刺すように話す。
「ゴフ氏の刺傷を調べたのですが、一番多く、そして深く突き刺さっていた傷は5箇所。一箇所だけ、不審な刺傷がありまして」
イヅは息を呑んだ。
ライデ・ジーロ子爵に寄せられる調書や報告書は正確でないものが多いというのに、その中から、『イヅでも選びそうな書類だけを選んで読み込んでいる』。
興味が向いた時の、底なしのキレを見せ始める子爵に軽い寒気を覚えた。
「執拗に刺されたのではなく、刺されたのは一箇所だけ。残りは別人が刺した。犯人はモノの価値が分かる人物で最初から本物と贋作の位置を知っていた」
「私が犯人だとでも?」
フロン・ガナドーは絞り出すような声で言う。目の前の敵認定した子爵を睨む。その目と目の周りには『小さな表情』の脅迫と疲労が見られた。
(脅迫と疲労……。何を隠している? いや、何を守ろうとしている?)
「あなたが犯人なら話は簡単なはずなのでした」
子爵はさっと、顔を笑顔に変えて両手のひらを大仰に天井に向けてきっぱりと言う。先ほどの怖い顔は冗談ですよ、ご安心をほんの悪戯ですと言わんばかりの変貌ぶりだ。ドスの利いた声が正反対に軽くなっている。
その態度と声の変貌ぶりはフロンに一層な不安を与えただろう。
フロンは目を白黒させている。『小さな表情』にも逡巡が見られる。
「家令のゴフを殺害し、夜に急遽、使用人を解雇して番犬に毒餌を食べさせて、見慣れた本物の美術品を奪い取られたように見せかけた。やたらと贋作だけが残っていたのもそのせいでしょうし、使用人を解雇する際にあなたが直接、使用人たちに解雇を言い渡したのも、家令のゴフは絶命していたからでしょう」
フロンの喉仏が激しく上下する。
イヅもそれは二度目の現場訪問で仮説の一つとして脳内に描いた。その仮説は最後まで残っている。
ただ、この事件はゴフが刺されて……事件が成立したのはゴフの死亡前か死亡後かで話は違ってくる。
常に本物の美術品を見ているのなら本物だけを奪って、賊のせいにすることが可能だ。……貴族の家だから高価なものしか置いていないだろうという審美眼のない賊ならば本物も贋作も奪っていただろう。
短時間でその判別を行い、隠蔽することができるのはやはり、『この家の人間』ということになる。
それでも仮説の域を出ない。
何故なら、『動機が恐ろしく幼稚すぎる』からだ。
その動機は半分が仮説なので決定づける一押しがほしい。
……というのも、そんなことで忠義の人を殺すのか? と、殺人に至る直接の動機が信じられない。
普段から小言を言われていたとしたら、どれくらい辛辣に聞こえたのだろうか?
契約でない人付き合いでは、人が人を嫌いになるのは突然という場合は少ない。
その人物の小さな嫌な部分がだんだん大きく膨らんで『嫌い』に成長し、更に加速して憎悪を抱く。
そして人道的に許されない行為に出る場合がある。
イヅがこれまでの仮説を脳内で検証していると、そこへ子爵の声を借りた誰かが「短絡だったよ」と言ったような気がした。
「…」
(!)
子爵の声を借りた誰かはイヅの仮説から全ての反証を取り除いた。
少年が最初に立てていた2つの仮説のうち、フロンが『短絡だった場合』を選択し、最も排除せねばならない推測を用いなかった場合は……。
(ああ、ライデ様。やはり、この事件は犯人なんていませんよ。『殺人未遂』を犯した過失傷害の犯罪者ならいますが)
次の瞬間、イヅなら絶対にぶつけないであろう言葉を子爵は男爵へと放った。
それを言ってしまえば後には退けない。
貴族の間ではそんな意味合いを持つはずの喧嘩の売り文句だと捉えられてんも仕方がないからだ。
「ガナドー卿。あなたは普段から…ゴフに、小言を言われていましたね。軽挙妄動を慎めとか浮薄な振る舞いはやめろと」
ライデ・ジーロ子爵の言葉に僅かな隙が生まれ不自然に言葉が区切られる。
彼とて逡巡していたに違いない。
しかし、博打を打つのなら今しかないと決めたのだろう。
「…しかし、それは子爵の想像ですよね。事実だとしても、今のところ状況証拠でしかない」
(お。言葉に間があったな。それに言葉の最後の方は『用意された言葉だ』)
(この男爵、『最初からこうなるのを知っていたな!』)
イヅは脳内の記憶を少し検索する。
男爵は普段の振る舞いを家令のゴフにことごとく注意されて不満があった。
家長なのに先代に仕えた家令にとやかく言われたくない思いがあったのだろう。
そこまでは子爵の言うとおりだ。イヅも同意する。
その点をライデ・ジーロ子爵に衝かれて言葉に詰まったり言葉が不自然に区切られたりしたのだろう。
決定打に欠ける証拠しか無い中での博打同然の揺さぶり。人の表情を読み理屈で奥を見る少年には理解の範疇を超えた行動で、恐れおののく。
庶民と貴族の違いではなく、性格の違いだ。
博打に賭けたのは自分の名声とお家なのだ。ただの胆力ではそのような物は賭けない。
そして、男爵の全身に現れたのだ。
防御的反応が。
人間は突如として虚を衝かれると、その内容が真意を言い当てられていると、三段階を経て行動に移る。
先ずは硬直する。
次に逃走しようとする。
最後に戦う姿勢を見せる。
子爵に言い当てられて分かっていても覚悟の隙間を衝かれたのか、言葉が区切られて発音した。これが硬直。
子爵の言葉に想像だとか状況証拠だとか理屈を並べて逃げ道を探る。逃走。
そして、次には戦う姿勢を見せるだろう。
(分かり易い短絡であってくれ!)
少年は表情こそは変貌していないが、背中に冷や汗を流しながら、心の中で男爵が背後の壁に掛けた美術品としての長剣を手に取り襲いかかってくることを強く願った。
現行犯なら別件で治安府へ引っ張ることが可能なので、暴力で以て爵位が上の子爵に危害を加えてほしかった。
自分でも随分と酷い算段を立てているという意識はあった。……残念だが、彼の慕う子爵は見た目は傾国に相当する美貌でも剣の腕前は確実なものだ。腰に提げた細身の剣は飾りではない。
実際には、イヅが望むような展開は発生しなかった。
「……」
「……」
子爵と男爵は口をへの字に結んだまま沈黙する。
(この男爵、『賢い!』)
(誰だ? 『フロンを操っている……いや、フロンに入れ知恵をしている奴』は!)
ライデ・ジーロ子爵の左手側には愛剣がある。
フロンの手の届く範囲の少なくとも3箇所に、近接戦で役に立つ武器の代用品や武器そのものがある。
二人の間の空間が歪む。
(この不気味さの正体が分からない)
(フロンがここまで頭が切れるのなら、この事件自体が無かったことにできそうなものだ)
ライデ・ジーロ子爵とフロン・ガナドー男爵の間で、間合いを測るというボードゲームが繰り広げられている。
その間合いとは言葉による機制か、具体的な暴力か。
沈黙の時間が長いほど敵意は有っても殺意を纏わない刃が互いの首元に近づいている感覚。
(フロンに入れ知恵をしたのは誰だ? 操っているのは誰だ?)
(短絡なフロンを冷静にさせているのはなんだ? 誰だ?)
次の瞬間にも両者の白刃が閃きそうな空間で少年は両者の『小さな表情』を(無礼だと分かりながら)読み、一方で、知恵が足りない『らしい』ことで有名らしい短絡男のフロンをここまで操る存在の影が見え始めて少年は、自らの足の甲に釘を打ち付けたかのようにここを動かないと肝に銘じた。
動けば、何も分からなくなる気がした。
それに全幅を置く根拠とするのなら、元から仮説は違っていた。
何度も対面した後の子爵から『直接』聞くフロン・ガナドーは喧嘩っ早いとか短気だとか思考が両極端だとかそういった、表層的な行動で問題を起こす人物ではないという。
その上で子爵がフロン・ガナドー男爵を短絡だと言っていたのは、性格から分かったのではなく、貴族同士の軋轢や所属するコミュニティでの振る舞いや発言や人当たりが『嫌いではないが好きにはなれない人物』として子爵は直感で感じたのだ。
飽く迄、子爵の直感だというのは勿論、念頭に置く。
貴族ならではのパワーゲームの世界。個人のイメージも大切だ。人間はその人物と対面した折の瞬き2回分の時間の観察とそれに基づいた直感で、自分にとっての好悪を判断するという。
理不尽にも、貴族の世界ではお家や名誉や格式と同じくらいに人物像は重要視される。
それに短絡というのも子爵の直感でしか無いが、貴族だけを眺める時間が短いイヅにとっては大きな断片だと言えた。
直感を根拠として思考を構築するのはイヅとしては……本来のイヅとしては反論していただろう。
けっして子爵の人を見る目を信じて短絡というイメージをそのまま採用したのではない。
短絡だったら。
短絡でなかったら。
その2つの場合においての仮説を同時に立てることにしたのだ。そして従来の仮説を修正し、追加する。
そこまで慎重な少年の理念を揺さぶっていたのは、やはり、身分の違う世界の構造に興味はあっても巻き込まれたくはないゆえに、好奇心を無意識に抑えつけていたからだと、後に悟る。
その世界の構造は遥かに複雑怪奇で、イヅのたった一つの脳味噌で噛み砕いて理解できる理は少ない。
寧ろ、触れない方が幸せに生きられる可能性が高い。
イヅが普段から貴族階級の揉め事や力関係に注意しているのは、庶民の命などなんとも思っていないのが貴族だと肝に命じているので、できるだけ貴族の社会やその界隈には触れないでいようと誓っているのだ。
最近ではそれを麻痺させる事態……否、存在であるライデ・ジーロ子爵が現れたために距離感が少しぼやけていた。
目の前のライデ・ジーロ子爵とフロン・ガナドー男爵の非言語を交えた駆け引きを見て背筋が冷たくなった。
甘く見ていた。
ライデ・ジーロ子爵を。
馬鹿にしていたのではない。その奥底を見誤っていたのだ。
何処か抜けた印象がつきまとう彼だが、それは好きでもない職務に忙殺されているからであって、嗜みとして覚えなければ生きていけないばかりか、自身のお家までが関係して飛び火する世界で生きている人物だ。
ただの、『勉強ができる馬鹿』ではなかった。『勉強ができる範囲ならば馬鹿のように感が鋭い』人間でもあった。
「これは治安府の内密の資料からの抜粋なのですが」
子爵は先ほどの言葉をもう一度繰り返した。
少しばかり、ずいと前のめりになる子爵。
「盗まれたものはいずれも名品ばかり。と、言いますか、名品しか盗まれていない。それに盗まれた順番を整理したのですが」
少し間を置く。
「家令のゴフが抵抗したとされる廊下から逃げ込んで内側から鍵をかけた部屋……。この順から逆さに廊下を抜けて『本物の値打ちもの』だけがあたかも選んで盗まれているようなのです。なんの狂いもなく正確に。そして贋作だけが残っている」
フロンの顎周辺の筋肉群が引き攣る。目の瞳孔が広がる。肩が少し上下している。髪の生え際に汗が浮かび始める。
(しかし……妙だ)
イヅは言葉の突き所が少しづつ鋭くなる子爵に追い込まれているはずのフロンが尚も、隠蔽と焦燥を『小さな表情』で表面化させていないのだ。今しがた見せたのは驚きの反応。それだけでは判断に困る。
それに彼の癖を全て掴んでいないのかもしれないので、『小さな表情』は生来の癖の可能性もある。
『小さな表情』を読むのは数学における統計や確率と同じだ。被検体が少ないと参考値としての役目を果たさない。
だから面白い。
人そのものを見るだけでその人を知ることができる素晴らしい学術だ。技術だ。
だからこそ遥か後世に行動分析学と呼ばれるこの学問に興味を持った。
実のところ、イヅはこの事件に犯人は居ないと仮説を強く推しているが決定打に欠けるのが、フロンの反応だった。
犯人とフロンの関係。或いは事件の前提とその根底。……真犯人がいるのなら、だ。
目に見えている証拠ばかりに気を取らて、捜査する自分たちは誰かに都合のいいように誘導させられていると感じたので前提からひっくり返した。……そこまでは間違えていないだろう。
それに、今この場で、賊が押し入った事による事件は解決するだろう。
賊が存在するのなら、だ。
「私の推理はこうです」
(私の推理ときたかー)
不謹慎にもイヅは唐突に聞いた似合わない子爵の台詞に吹き出しそうになったが、なんとか堪えた。
「殺人現場は使用人が使う部屋…ゴフ氏が閉じこもって鍵をかけた部屋で間違いないでしょう。そして腹部の負傷が致命傷になり、死亡。……そこまではガナドー卿の協力で作成された調書にも書いてあります」
ライデ・ジーロ子爵は前髪を自然な素振りで払うと眼光を鋭くして、フロンにざくりざくりと突き刺すように話す。
「ゴフ氏の刺傷を調べたのですが、一番多く、そして深く突き刺さっていた傷は5箇所。一箇所だけ、不審な刺傷がありまして」
イヅは息を呑んだ。
ライデ・ジーロ子爵に寄せられる調書や報告書は正確でないものが多いというのに、その中から、『イヅでも選びそうな書類だけを選んで読み込んでいる』。
興味が向いた時の、底なしのキレを見せ始める子爵に軽い寒気を覚えた。
「執拗に刺されたのではなく、刺されたのは一箇所だけ。残りは別人が刺した。犯人はモノの価値が分かる人物で最初から本物と贋作の位置を知っていた」
「私が犯人だとでも?」
フロン・ガナドーは絞り出すような声で言う。目の前の敵認定した子爵を睨む。その目と目の周りには『小さな表情』の脅迫と疲労が見られた。
(脅迫と疲労……。何を隠している? いや、何を守ろうとしている?)
「あなたが犯人なら話は簡単なはずなのでした」
子爵はさっと、顔を笑顔に変えて両手のひらを大仰に天井に向けてきっぱりと言う。先ほどの怖い顔は冗談ですよ、ご安心をほんの悪戯ですと言わんばかりの変貌ぶりだ。ドスの利いた声が正反対に軽くなっている。
その態度と声の変貌ぶりはフロンに一層な不安を与えただろう。
フロンは目を白黒させている。『小さな表情』にも逡巡が見られる。
「家令のゴフを殺害し、夜に急遽、使用人を解雇して番犬に毒餌を食べさせて、見慣れた本物の美術品を奪い取られたように見せかけた。やたらと贋作だけが残っていたのもそのせいでしょうし、使用人を解雇する際にあなたが直接、使用人たちに解雇を言い渡したのも、家令のゴフは絶命していたからでしょう」
フロンの喉仏が激しく上下する。
イヅもそれは二度目の現場訪問で仮説の一つとして脳内に描いた。その仮説は最後まで残っている。
ただ、この事件はゴフが刺されて……事件が成立したのはゴフの死亡前か死亡後かで話は違ってくる。
常に本物の美術品を見ているのなら本物だけを奪って、賊のせいにすることが可能だ。……貴族の家だから高価なものしか置いていないだろうという審美眼のない賊ならば本物も贋作も奪っていただろう。
短時間でその判別を行い、隠蔽することができるのはやはり、『この家の人間』ということになる。
それでも仮説の域を出ない。
何故なら、『動機が恐ろしく幼稚すぎる』からだ。
その動機は半分が仮説なので決定づける一押しがほしい。
……というのも、そんなことで忠義の人を殺すのか? と、殺人に至る直接の動機が信じられない。
普段から小言を言われていたとしたら、どれくらい辛辣に聞こえたのだろうか?
契約でない人付き合いでは、人が人を嫌いになるのは突然という場合は少ない。
その人物の小さな嫌な部分がだんだん大きく膨らんで『嫌い』に成長し、更に加速して憎悪を抱く。
そして人道的に許されない行為に出る場合がある。
イヅがこれまでの仮説を脳内で検証していると、そこへ子爵の声を借りた誰かが「短絡だったよ」と言ったような気がした。
「…」
(!)
子爵の声を借りた誰かはイヅの仮説から全ての反証を取り除いた。
少年が最初に立てていた2つの仮説のうち、フロンが『短絡だった場合』を選択し、最も排除せねばならない推測を用いなかった場合は……。
(ああ、ライデ様。やはり、この事件は犯人なんていませんよ。『殺人未遂』を犯した過失傷害の犯罪者ならいますが)
次の瞬間、イヅなら絶対にぶつけないであろう言葉を子爵は男爵へと放った。
それを言ってしまえば後には退けない。
貴族の間ではそんな意味合いを持つはずの喧嘩の売り文句だと捉えられてんも仕方がないからだ。
「ガナドー卿。あなたは普段から…ゴフに、小言を言われていましたね。軽挙妄動を慎めとか浮薄な振る舞いはやめろと」
ライデ・ジーロ子爵の言葉に僅かな隙が生まれ不自然に言葉が区切られる。
彼とて逡巡していたに違いない。
しかし、博打を打つのなら今しかないと決めたのだろう。
「…しかし、それは子爵の想像ですよね。事実だとしても、今のところ状況証拠でしかない」
(お。言葉に間があったな。それに言葉の最後の方は『用意された言葉だ』)
(この男爵、『最初からこうなるのを知っていたな!』)
イヅは脳内の記憶を少し検索する。
男爵は普段の振る舞いを家令のゴフにことごとく注意されて不満があった。
家長なのに先代に仕えた家令にとやかく言われたくない思いがあったのだろう。
そこまでは子爵の言うとおりだ。イヅも同意する。
その点をライデ・ジーロ子爵に衝かれて言葉に詰まったり言葉が不自然に区切られたりしたのだろう。
決定打に欠ける証拠しか無い中での博打同然の揺さぶり。人の表情を読み理屈で奥を見る少年には理解の範疇を超えた行動で、恐れおののく。
庶民と貴族の違いではなく、性格の違いだ。
博打に賭けたのは自分の名声とお家なのだ。ただの胆力ではそのような物は賭けない。
そして、男爵の全身に現れたのだ。
防御的反応が。
人間は突如として虚を衝かれると、その内容が真意を言い当てられていると、三段階を経て行動に移る。
先ずは硬直する。
次に逃走しようとする。
最後に戦う姿勢を見せる。
子爵に言い当てられて分かっていても覚悟の隙間を衝かれたのか、言葉が区切られて発音した。これが硬直。
子爵の言葉に想像だとか状況証拠だとか理屈を並べて逃げ道を探る。逃走。
そして、次には戦う姿勢を見せるだろう。
(分かり易い短絡であってくれ!)
少年は表情こそは変貌していないが、背中に冷や汗を流しながら、心の中で男爵が背後の壁に掛けた美術品としての長剣を手に取り襲いかかってくることを強く願った。
現行犯なら別件で治安府へ引っ張ることが可能なので、暴力で以て爵位が上の子爵に危害を加えてほしかった。
自分でも随分と酷い算段を立てているという意識はあった。……残念だが、彼の慕う子爵は見た目は傾国に相当する美貌でも剣の腕前は確実なものだ。腰に提げた細身の剣は飾りではない。
実際には、イヅが望むような展開は発生しなかった。
「……」
「……」
子爵と男爵は口をへの字に結んだまま沈黙する。
(この男爵、『賢い!』)
(誰だ? 『フロンを操っている……いや、フロンに入れ知恵をしている奴』は!)
ライデ・ジーロ子爵の左手側には愛剣がある。
フロンの手の届く範囲の少なくとも3箇所に、近接戦で役に立つ武器の代用品や武器そのものがある。
二人の間の空間が歪む。
(この不気味さの正体が分からない)
(フロンがここまで頭が切れるのなら、この事件自体が無かったことにできそうなものだ)
ライデ・ジーロ子爵とフロン・ガナドー男爵の間で、間合いを測るというボードゲームが繰り広げられている。
その間合いとは言葉による機制か、具体的な暴力か。
沈黙の時間が長いほど敵意は有っても殺意を纏わない刃が互いの首元に近づいている感覚。
(フロンに入れ知恵をしたのは誰だ? 操っているのは誰だ?)
(短絡なフロンを冷静にさせているのはなんだ? 誰だ?)
次の瞬間にも両者の白刃が閃きそうな空間で少年は両者の『小さな表情』を(無礼だと分かりながら)読み、一方で、知恵が足りない『らしい』ことで有名らしい短絡男のフロンをここまで操る存在の影が見え始めて少年は、自らの足の甲に釘を打ち付けたかのようにここを動かないと肝に銘じた。
動けば、何も分からなくなる気がした。