【第2章】一足遅れの哀歌

 2人はガナドー家の邸宅敷地内に入ると、たった独りで家屋の番をしてると思われたフロンの姿を想像したが違った。

 若い女性とやせ細った中年男性が2人を出迎えたのだ。

 イヅははて、と門扉の前で目を白黒させていた。
 男女2人の向こうにある邸宅の正面玄関から出てきたフロン・ガナドー男爵を見て目礼をした。

 フロンは「今日はどのような件でご協力いたしましょう?」と両手を広げて出迎えてきた。

 そして、2人の使用人を紹介する。
 嘗て急に解雇したはずの使用人であるメルと下男のフォルだ。

 ライデ・ジーロ子爵は容疑者リストにその名前を認めていた。イヅは子爵が解雇された使用人リストの名前を読み上げた中にその名があったことを思い出した。

 フロン・ガナドーはメルに茶を淹れるように命じ、下男のフォルには庭掃除の続きを促した。

 フロンが先頭に立ち、イヅと子爵を邸宅内部に招き入れながら廊下を渡り、応接室に至るまでに解雇したはずの使用人を再び雇った件を訊かれてもいないのに話しだした。

「この家は悲しい事件が起きたのでもう売り払ってしまおうかと思ったのですが、そうなると急に思い出深くなってしまいまして。そこで暫くの間、解雇した使用人の中でまだ職の見つかっていない者を再雇用したのです。こう広いと、夜は寂しいものです。なので、2人の使用人にはこの屋敷の部屋を無償で貸しています」

 自分で追い出しておいて自分の都合で雇い直して、さらに恩着せがましく無償で部屋を貸して住まわせているとまで言い放つ貴族の性根に、正直、イヅは心の中で唾を吐き捨てた。

 それと同時に……。
 フロンという人物は本当に寂しいらしい。独りで屋敷で過ごすのが寂しいのか、家令のゴフを喪ったことが寂しいのかは不明だが、声のトーンや『小さな表情』からは寂寞が現れていた。

 「……」
 
 ライデ・ジーロ子爵はちらりとイヅを見た。
 イヅはつい、と顔を上げてライデ・ジーロ子爵を見た。

 2人の視線が偶然に空中で衝突する。

 何も焦る心当たりなど無いのに、2人の視線は反発するように僅かに逸れる。2人とも、自分たちの反応に何故か困惑している……。
 あたかも、どんな感情が原因でお互いが、相手を見ようとしていたのか理解不能だと言わんばかりに。

 イヅに対して、貴族の庶民の扱い方は千差万別だからな! と目で言い訳をしていたのがバレたくなかったからか。
 ライデに対して、あなたもこんな酷い仕打ちをするのですか? と口では尋ねていないが、顔で尋ねていたのではないかと咄嗟に思ったからだ。
 
 実は、イヅも子爵もただ、『またも、廊下を歩くコースが同じだ』と言いたかったのだ。

 この廊下が伸びるコースはいやが応にでも事件が有った現場を全て見ることができる。
 ゴフのものと思しき血痕は薄くなっている。どんなに血抜きを施したところで、壁や露出した一部の床板に飛び散った血痕はそれ以上は薄まらないだろう。

 盗難に遭った絵や刀剣、花瓶の跡が見える。
 そこにの台には埃で丸く花瓶の後が残っている。
 そこの壁にかけられた奪われた刀剣が架かっていたであろう壁には細長く日で色褪せていない刀剣の形が残っている。
 そこの壁には絵が掛かっていたのだろう、四角い、日に焼けていない跡がある。

(埃と日の変色で気が付かなかったけど……)
(これは『見世物』だ)

 イヅは盗難に遭った物が置いてあったとされる場所やその痕跡、捜査後に他の場所へ移されたと思われる調度品や美術品を見て、ちぐはぐな印象を強く受けた。

 それを子爵に伝えようとしたかったのだが、子爵も気がついたらしい。
 チラと見た彼の顔には思考、警戒、それと戸惑いの『小さな表情』が見えていた。

「我が商会や海運業は暫くは代行を雇って任せています。それで、今日はどのような」
「賊に奪われたものは高価な品物ばかりですね」
「え? ええ。そうですが」

 応接室のソファに座るなり、挨拶もなしに子爵は火蓋を切った。
 今回は子爵には何も言っていない。イヅは子爵の右手後方で従者の顔で立っている。
 子爵が何を言い出すか不安と期待がせめいでいた。

 屋敷の敷地に入る前に彼にフロンに対する質問をまとめたメモを渡すつもりだったが、見慣れない2人の使用人の登場で時間を奪われてしまい、打ち合わせも何もなしだ。
 屋敷に来るまでに乗合馬車を用いたが、他の客が居る乗合馬車のキャビンで貴族が関係する犯罪の話を口にするわけにはいかなかった。

 さて、どのように攻めるか? と頭を一捻りする間もなく、子爵は唐突に話しだしたのでイヅは驚きの顔を鉄の意志で抑えて、直ぐ様、お手並み拝見と気分を切り替えた。

 イヅの頭の中では様々なパターンの仮説が次々と可能性を否定されて着実に一つの答えに近付きつつある。
 願わくば、その答えと子爵の答えが同じでありますように。
 そして、この事件の前提である核心からずれないように、と願うばかりだ。

 使用人の女性がティーセットを持ってきて、湯を注し、茶を蒸らす。最後にシンプルな砂時計を逆さにする。
 それだけを行うと、一礼して、応接室から出ていく。
 
「さて」
「はい」

 女性使用人が入室してから退室するまで無言だった空間に再び子爵の声とフロンの声が交わされる。

「私は美術品には詳しくないが、仕事柄、美術品の特徴を見定める技能を求められる。治安府の証拠物品を置いておく倉庫はちょっとした美術館なみでしてね」
「はあ……」
「で、その付け刃の審美眼の持ち主がみたところ……『奪われたのは本物だけだな』と、思いまして」

 子爵は声は穏やかだったが、恫喝に近い眼光でフロンを射抜いた。
 子爵が言葉を少しずつゆっくり、はっきりと発音したのは前回の事件で犯人の1人であるガラを取り調べた時に用いた話し方だ。……勿論、その時にそれを教えたのはイヅだが。

 その声の穏やかさと鋭い眼光と、何故か耳の奥に届くアクセントの置き方。

 言語でありながらどこか非言語なそれらは、話している内容は理路整然とした文法なのに、あたかも二重束縛的な話術に陥ったように認知してしまい、脳内で子爵の言葉の噛み砕きと、子爵の非言語の仕草と、余計な印象だけを拾いそうな声質に惑わされ、思考が遅れる。

 思考が遅れるとそれだけ脳内で処理された情報が言語化されて口頭で答えるという出力にも影響が出る。
 つまり、しどろもどろになる。
 咄嗟の反応ができにくくなる。

(ほう……これは)

 イヅは涼しい顔のまま目をフロンの顔や肩や手先に向けながらも、子爵の生兵法だが、基礎の基礎を押さえた尋問技能に舌を巻いた。

 イヅが尋問するならば導入は違うが、これはこれで非常に好奇心が刺激される展開なので子爵の次の一手を待った。 
 
 これはイヅでは絶対に質問できない、帰属集団的概念が働く社会的地位での上位階級だからこそ放つことができる質問だった。

 先程の子爵の言葉の意味は、『お前の家にある美術品は偽物が混じっている』と家の主人に対して決めつけで言っているのだ。

 普通ならば侮辱が成立して裁判なり決闘なりが開かれるのだろうが、少年は子爵の後頭部しか見えない。顔が見えないので、男爵の『小さな表情』を読み取って、自らも表情を動かさないように始終した。

「これは手痛い! と、申したいところですが、当家の財政が逼迫してからというもの、価値のある物は少しずつ売却しておりまして…美術品や調度品もその限りではなく。恥ずかしながら、見栄だけでも、と思いまして、よくできた贋作を並べていたのです。凋落寸前の貴族でも痩せ我慢を悟られたくはないのです」
「なるほど。確かに。私も実家の台所が苦しくなると卿のようにこっそりと本物と贋作を入れ替えて、本物を売りに出すかもしれません。我々貴族は懐に関する醜聞はぜひとも避けたいですからな」

 ライデ・ジーロ子爵は貴族としてはデリケートな話題なのに自らも苦境に陥ったら同じことをするだろうと宣い、更に彼は、男爵と数瞬遅れでティーカップを口に運び、茶の芳醇な香りに目を伏せている。……目を伏せる動作もフロン・ガナドーと同じタイミングだ。

 相手との心理的距離を詰めるために普段の所作を利用応用する手法が幾つかあるが、そのうちの鏡写しの動作をライデ・ジーロは用いたのだ。
 イヅは舌を巻いただけで足らずに、奥歯を少し強く噛む。

 前回のガラの取り調べにおいても拷問は心理的に有効ではないと感じたので、事件が解決してから子爵に「相手を懐柔する方法を学べば短時間でなんとかなるかもしれませんよ?」と吹き込むべきか悩んだが、子爵は打てば響く太鼓のようにイヅの望む手法を広げていく。

 勉強ができる馬鹿は応用が利かないだけで、『応用を利かせる』ということ自体に興味を持たせれば貪欲になる。殊に、自分の興味と職掌が一致すれば不眠で習得に励むだろう。
 ……とは言え残念なことに、子爵は高給取りには興味はないようなので、その応用を活かせる範囲はあくまで現場一辺倒で終わるだろう。
 貴族同士の軋轢や、職場での力関係や上意下達の際に発生する齟齬や矛盾に対処する技術まで興味の範囲が及ぶとは思えない。
 ライデ・ジーロとはそんな残念な優秀な頭脳の持ち主なのだ。

「その贋作を踏まえての話なのですが……贋作だらけですな」
「ええ、それは先程も申しましたとおりに……」
「いやいやいやいや。私は押し入った賊の手並みを恥ずかしながら鮮やかだと感じているのです」
「…」

(!)

 ライデ・ジーロ子爵が強盗を褒める内容を滑らかに話した瞬間にフロンの瞳孔は収縮し緊張を見せた。舌骨も上下する。連動して胸鎖乳突筋の顎側もピクリと動く。

「ガナドー卿、あなたの協力のもとに作成した盗品のリストを何度も見返したのですが……見事に『本物』だけを狙って賊は奪っていますね」

(緊張、警戒、焦燥)
(一気にライデ様を『敵認定』したな)

 ライデ・ジーロがゆっくりと友好的距離を縮めて、突然、今回の聴取の核心まで距離を詰めたので、フロンは髪の毛が逆立つような感覚に陥っただろう。
 実際に頭皮がきゅっと上下するのを確認した。

「治安府の見解では犯人は1人乃至少数で、家屋内部の構造に詳しい人物……つまり、屋敷に関連する誰かの手引が最低限必要だと睨んでいました」
「つまり、我が家のものを疑っていると?」

 フロンの肩が硬直する。靴の爪先が狭くなる。硬い干し肉でも噛んでいるように顎の表皮が上下する。
 ライデジーロの言葉は、フロンの触れてほしくない部分に触れたか、触れられると困る部分に触れたか。

「いやいや、誤解されては困りますよ。知らぬ間に利用されていた、ということもあるでしょうから」

 ライデ・ジーロ子爵は刃を返すように苛立たしさを掻き立てる口調でフロンに言う。
 
「これは治安府の内密の資料からの抜粋なのですが」

 と、子爵は勿体ぶって前置きする。
 頭に血が上ったフロンを宥めると言うより、頭に血が上っている今だからこそ大量の情報を流しこむことで墓穴を掘るのを誘うつもりだ。
 イヅも捜査権が有ればこの機会でそのようにしていただろう。

 感情の撹乱。
 社会通念としてはスマートではないが、激しい感情の発現を控えるとを美徳とする貴族からすれば、内なる自分を抑えるので精一杯だろう。

 それもこれも、イヅが、フロンがそんなに優秀なのか? 次男が家督を継げばいいとも言われていたのでしょう? と疑問を持ったことを子爵に言ったのを、覚えていたのだ。

 短絡。
 それがフロンがガナドー家を継ぐに相応しくない理由として辺りの人間が次男を跡継ぎに推していた理由だった。
 短絡を更にカミソリで撫でてボロを出すように仕向ける子爵。

 恐らく勝負はこれからだ。
 イヅの脳内では様々な仮説が脱落して、最早、一つの仮説しか生き残っていない。

 この事件に直接的な犯人は居ない。

 それがイヅの仮説だ。
 敬愛する美貌の子爵は、そのイヅと仮説を同じくしてくれているかどうかが心配だった。
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