【第2章】一足遅れの哀歌

 庶民のイヅとして想像できる状況が実は身近にあった。

 夜逃げだ。

 近所に住む一家が何もかもを置いて姿をくらます事が多い中、小金持ちが家財を処分してその日の夜に逃げ出すことがあった。

 喫緊に片付けなければならない事態に追い込まれた人間はとにかく、判断を早める。結果として誤りを招く。
 逃げるにしても計画的でない逃走は終わりがない。

 今回は破滅的に似た事件の裏側が見え隠れし始めている。

「で、だ。……その番犬のことだが」
「!」

 ライデ・ジーロ子爵は口元を小さく緩めて小鼻を膨らませる。
 興奮。優位性。肯定的な歓び。

(え?)

 正直、意外だった。
 イヅは目を丸くして彼に向き直った。手にしていた茶器を落としそうだった。
 今日は容疑者たちの報告を聞いた後に、これから番犬の行方を掴んで終了するかと思われたからだ。

 子爵はここぞとばかりに胸を反らせて誇らしげな顔をしてる。
 自身の実力を誇示したがる大型犬のようで、見えない尻尾をブンブンと振っている幻すら見えそうだ。
 
 人間の始末など造作もないこの街では番犬の始末など子供の小遣い稼ぎ程度の気軽さでできる。
 この帝国には文字通りに犬を食べる文化圏から入国している民族も多い。その民族ならば一食分の代金を浮かせるために出どころの知れぬ犬でも迷いなく食べる。

 即ち、捜査は難航を極めるとイヅは勝手に想像していた。

(あ……『そうだった』……)

 彼は勉強ができる馬鹿なのだ。
 教えなければ出来ない。教えたことはできる。

 興味のないことには職掌であっても興味はないが、興味があれば職掌外でも全力を出す。
 知識や雑学の利用応用転用は苦手でもそれらの一方的な蓄積は得意だ。

 そんな彼に、イヅは昨夜の夕暮れに、眠気が勝りそうな状態で何か言ってしまった挙げ句にそれに興味を持ち忠実に実行したのなら……ライデ・ジーロ子爵の頭脳は恐らくこの街の治安府では勿体無い働きをするだろう。

「結論から言うと、番犬は始末されている。毒物の混じった肉をたらふく食べて死んでいた」

(あ、誰かに食べられたわけじゃなかったんだ)

 別段、愛犬家ではないがなぜかホッとするイヅ。

「ということは、番犬の死骸は見つかったのですね」
「ああ。犬の検視の結果は不明。担当の検視官は人間ほど検体が多くないので死亡時間は不明とのことだ。死骸は吐血して死後硬直が始まっていたらしいが、人間とは違うのでこのあたりはなんとも言えない」

 朗々と詠うように子爵は手帳に視線を走らせながら言う。

 更に続く。

「番犬の死骸はガナドー家邸宅の庭にあるゴミ焼却炉に放り込んであった。…ここでお前の嫌う仮説というものが2つ生まれた」

 イヅはまたも驚きを覚える。子爵がイヅの疑問を先んじたからだ。

「番犬の死体を焼かなかった理由ですね。『番犬が啼かなければなんでも良かった』場合と『盗品の運び出しを想定して、番犬がその場所に居たら困る場合』ですね。…夜中に死骸を焼いて証拠を消す理由はないですものね。だから焼却炉に放り込まれたままの死骸が見つかったと」

 子爵は肩をすくめた。

「屋敷の台所、側溝、便所や浴場の排水路を辿っても、どこのゴミ除け用の柵にも番犬と思しき死骸がなかったので、屋敷内部から持ち出していないと踏んで部下に探させた。勿論、庭の掘り返した土の色も確認した」

 彼は苦いものを飲み込んだように少しだけ、片眉を歪めた。

(ああ。ルーフン公爵のアレか……)

 前回の事件では警吏が、並ぶ鶏の死骸の惨状からそれ以上その場所を調べなかったゆえにドル氏の遺体を床板の下から見つけることが出来なかった。

 今回はその轍を踏むまいと、庭の土も調べたのだろう。
 それこそ、番犬が埋めたおもちゃの骨も取り除いて更に掘り返して調べたのだろう。

 夜遅くに動員された警吏と叩き起こされたであろう検視官に感謝だ。

「……ん?」

 ふと、イヅは良い香りを立てる茶碗を口に運ぶ前に動作が止まった。

「どうした?」
「…子爵の2つの仮説ですが」
「間違えているか?」
「いえ、その後から考えられる分岐です。まあ、仮説なのですが」

 子爵は首を傾ける。イヅが何を考えついたのか推し量れないという顔だ。
 イヅは子爵の仮説が間違いだと言いたいのではない。
 寧ろ、気がつくべき要点に漸くたどり着いた顔をしている。

「『番犬が啼かなければなんでも良かった』場合と『盗品の運び出しを想定して、番犬がその場所に居たら困る場合』…と、僕は先程言いましたが」
「それがどうした? お前もも概ね同意だと思ったが?」

 イヅはテーブルの上に茶碗を置き、視線をそれに落としながら言う。

「与えられた情報や条件が最初から無かった事になりませんか?」
「んん? どういうことだ?」

 全く不可解な発言をする少年に子爵は困惑を隠せないでいた。
 治安府の捜査能力を馬鹿にする話しなら聞き捨てならないぞ、と顔が少し渋くなる。

「使用人の急な解雇と番犬の死亡時刻……それと屋敷の盗品。これにばかり執着しているというか、執着させられている気がします」

やや、間を置いて子爵は珍しいものを見た顔で言う。

「お前らしくない…本当に推測で話をしているな」

 子爵のその声は少しだけ無視した。

「あの方に、こんな高度な細工が出来ましょうか? こんなにも時の神様が味方をしてくれるでしょうか?」
「それは運が重なった間抜けな犯人連中が……」

 子爵もそう言いながらも言葉尻が小さくなっていく。

 少年と子爵は前提以前の大前提がおかしいと疑い始めた。
 今手に入っているこれらの情報は、計算されたものだと疑い始めている。

「家令はご長男に何故、忠誠を誓っていたのでしょう?  それは本当でしょうか? 次男のほうが優秀なのでしょう? 家督を継ぐのなら劣る長男より次男が適任とも言われていたそうですね。実際、次男は軍を率いて駐屯しています。能力的に劣る人物にそこまでお家の未来を託す理由はなんなのでしょう? お家のため? 誰かがあの方を思う一心?」

 イヅの顔からすう、と表情が消えた。

 ああ、嫌な顔だ。

 子爵は彼の唯一の嫌いな顔を目の前にして、悲しい眼差しで少年を見据える。

 少年は人間の嫌な部分に直接触れたときには必ず、表情が消える。
 それは彼の心の防御反応なのだろう。
 心を冷たくしなければ直視できないなにかに触れた時の顔だ。

「与えられた前提や条件、情報といったものが全て正答に繋がるとは限りません。繋がったとしたら、それは出題者の思うままの答えを答えさせられただけのような気がします」

 先のルーフン公爵の件では正しい情報を前提とした結果、近づいてはいけない正答を導いてしまったために、イヅはやや疑心暗鬼になってた。
 その曇った視界を払っただけだ。

 偏見や先入観、認知の歪みなど、人間は兎に角、経験を主体にした思考の補正で世界を見てしまう。
 目の前の情報だけが、提示された事柄だけが、全て正しいと思い込む事が多い。

 イヅの脳裏の端で古代の哲学者の言葉が過ぎる。

 『賢い人間とは知識を蓄えた事を誇る人間ではなく、蓄えた知識によって歪んだ自分の世界を自力で正すことのできる手段を知っている人間のことだ』

 前提、前提、前提……。

 イヅはベストの内ポケットからさっと懐紙を取り出し、胸のポケットから葦ペンを抜き、ペン先を舐めると紙にその先端を走らせる。

 子爵は無言で、私物の持ち歩き用のインク瓶を開けて、彼の手元に静かに置く。

「ありがとうございます!」「好きなだけ使ってくれ」

 子爵も先程、自分の言葉尻が小さくなった悔しさが有るのか、美しい顔を物憂げに変貌させて、少年の手元の懐紙を見つめていた。

 紙の中心に事件の概要。その四方八方へ線を引き、大きな疑問を幾つか書く。その疑問を丸で囲み、更に四方八方へ線を引く。それを繰り返す。たちまち、テーブルの上は懐紙で埋め尽くされる。

 その懐紙に書かれた情報や疑問や独自だと思われる解釈を書き込んだ要点だけを更に別の懐紙に書いて、真っ先に考えなければならない重要な点と、重要ではあるが優先順位は低い点と、真っ先に考えなければならないが、重要度は低い点と、緊急性も重要性も低い点を分別して4枚の紙に書き出す。

 これはイヅが本業の文筆業で依頼が重なって忙殺されそうな時に用いる思考の順番だ。

 それを今回の捜査に応用した。

 緊急性と重要性が低い点だけを書き出した事柄は子爵の力を借りる。正直に言って、多少の人海戦術で解決できる問題だからだ。イヅには指揮権がないので実行できないだけだ。

 緊急だが重要でない点だけを書き出した紙。これは、事件の後に判明するであろう事柄なので『留意』と紙の端に書いて折り畳んでポケットに入れる。……どちらかというと仮説の答え合わせに近い。

 緊急性も重要性も高い点を書いた紙は……この場合最も、雑音と化している点ばかりだ。つまり、事件発生に関する前情報や自分たちが入手した情報や、背後にいるかも知れない貴族階層別の条件など。重要な点ほど、上位者を常に敬わないといけない煩わしさが知らぬ間に足枷になり、今回の捜査は行き詰まっていると判断した。そしてそれを無視することを決断したのだ。……貴族である子爵の手前、口には出していないが、イヅはこの喫緊の問題のせいで全てが眩んで見えていたと理解した。

(役人と貴族の世界に詳しい人間の発想だ。『フロンがそれらを全て計算できるのなら』かなりの切れ者で、跡継ぎ云々の話は元から無かっただろう)

 そして最後の、最も重要視すべき緊急でない点。ここに事件の重要性が集約されていると言える。

 事件の重要性。
 それは貴族に仕える人間が殺された、という一言で済まされる影に潜む真意だ。

 その真意こそが、今回の事件そのものを生み出したと言える。

 単純に人が殺されたから調べてくれというありきたりな事件として『処理されてしまいがち』な治安府としての日常、貴人に仕える人物が不幸に遭ったから原因を突き止めてほしいという庶民に対する責務を装った篤い賢人アピール。

 この前提の上で事件が成り立っている。

 それがそもそもの『事件の根底を混迷させている大元』だと整理できた。

 脳内の曖昧模糊とした概念じみた思考を紙に書き出し、それを整理して可視化させなかったのは……心に自然とブレーキが掛かっていたのは、『ただの庶民』のイヅと『命令には逆らえない』ライデ・ジーロ子爵だからこそ陥った罠だった。

 そしてその罠を『短時間で考案し、実行するほどの能力の高い人物ならば、嚢の錐のごとく一廉の名を挙げているに違いない』。なのに、最初からそのような人物は何処にも居ない。

 少なくとも容疑者として浮上していない。

 子爵は、テーブルの上に散らかった懐紙を集めながら、沈痛な面持ちで分類されたそれぞれのカテゴリーを見る。

 イヅが、貴族への敬いの心を疲労のせいで忘れていたとして目を瞑ろうと思った。
 それを看過してしまった自分の責任だと責められるつもりだった。……然るべき部署に懐紙に書かれたこれがバレたのならば、だ。
 彼が不敬として処罰されても仕方がない事柄が並んでいる懐紙をカテゴリーごとに束ねて二つに折る。誰かに読まれては拙い。

「そういうわけです。もう一度、あのお方の屋敷へと参りましょう」

 鉄の仮面を被ったように表情が消えているイヅは胸ポケットに葦ペンを差しながら言うと、静かに冷めきった茶を飲んだ。

 上等で美味い茶は冷めても美味いと言うが、庶民が利用する露店で出されるような高級の程度はたかが知れている。

 冷めた茶が氷水のように臓腑に染み渡る感触を覚えた。

 この事件がなければこの茶はきっと天上の甘味のように美味かっただろう。
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