【第2章】一足遅れの哀歌
「さて、容疑者の使用人たちへの聴取の結果だが」
と言いながら子爵は懐から取り出した手帳を捲りながら言う。
「料理人のガス。40歳。男…下男のフォル。55歳。男…使用人のメル。33歳。女…同じく使用人のリータ。25歳。女」
容疑者の名前や年齢性別を読み上げる子爵の声に興奮や緊張は伺えない。瞳孔の収縮にも大きな変化はない。……無礼と分かっていても、つい、『読んで』しまう。
空振りだ。
「空振りだ」
子爵はため息を吐くように言った。
その表情にはこんな事もあるさという諦観と、こんな事もあるのだなという歯がゆさが混じっていた。
容疑者たちは全員一同に解雇を急に言い渡されている。それは、事件のあった直前の時間にフロンから直々に全員集められて即座に解雇宣告だった。
理由は財政難の一点張りだ。
家令のゴフだけはその場に居ず、誰もが家令一人だけは解雇を免れたのだと妬んだ。
そんなふうだからガナドー家の人間に恨みを持っても仕方がない。
そのガナドーの屋敷には事件当夜には家令のゴフしか居ない。
独身の家長であるフロンは酩酊に近いほど飲んで帰宅したので後頭部を何者かに殴られて気絶するまで記憶がない。殴られた痛みで一瞬だけ酔いが覚めただろうが、次の瞬間には意識は沈んでいたらしい。
ガナドー家次男は片道2週間はかかる遠方で駐屯。
先代の父親は3年前に流行り病で亡くなり、母親は早くに胃瘻で亡くなる。
「容疑者だとされていた全員に足取りあり。その裏付けも今朝方に確認した」
(恨みは有っても殺意はない。殺意を向ける意欲を次の就職口探しに向けていたのか…確かに、元凶を殺害しても腹は膨れないしな)
「全員が全員、恨みは有ったが、貴族を恨んでも仕方がないから次の職場を探していたとのこと。その足取りの裏も取れた。全員が就職活動に躍起になって、嫌な思い出を忘れようと必死だったそうだ…それとも必死だったのは就職口探しの方かな」
ライデ・ジーロ子爵は時折、濃い茶を飲んで唇を湿らせながら聞き込みによる情報の読み挙げを行う。
全員見事に決定打に欠ける。
全員容疑者から外しても問題ないほどだ。
だとすれば、実に運が良い実行犯か実行犯たちだ。
屋敷に家令しかいない時間帯に速やかに忍び込んで家財を荒らしたのだから。
荒らされた家財のリストもフロンの積極的な協力の元、作成済み。今はそのリストを書写したものを持って警吏や警邏が古物商や質屋をあたっている。
貴族の屋敷から盗み出したものならば手っ取り早く売り払える店に出入りするだろう。
事件発生から3日経過。足掛け4日経過か。
売り飛ばされた家財は全部を回収するのは難しいだろうが、売りに来た人間や買い取った店が分かるだけでも捜査の進捗は違ってくるので、目下の所、ライデ・ジーロ子爵直轄の部下が総動員されている。
それでも尚、部下が信用できないからイヅを頼っているのではない。
それはイヅは察している。 察していると信じている子爵。
粥の鉢を抱えて一気に掻っ込むと、少年はぬるくなった白湯の器を手に取った。
すうっと彼のその手を優しく押さえる子爵の大きな温かい手。
子供の頭を撫でるような緩やかさだ。
「?」
イヅは彼の顔を見ると、彼は店の奥の方へ指を立てて茶を持ってくるように給仕にジェスチャーで合図していた。
貴人の下命ならばと、急いで若い女性給仕が五徳にかけていた薬罐を持って足早にやってきて、イヅの前に熱い茶を淹れる。
この茶の色…そして香りはイヅが嗜好品として楽しむときの茶の銘柄だ。
食事の後に飲むには茶自体が高級なので注文はしない。
「お礼。さあ、召し上がれ」
「なんのお礼です?」
湯気のたつ芳醇で良い香りの茶の器を手に取り、手の平から伝わる温かさを楽しむ。
お言葉に甘えて楽しむが…僅かな警戒は解かない。
茶を奢ってもらうことは何もしていないはずだ。
お礼としての茶なら相対的な金額として、大したことはないだろうと茶器を手にしたが……。
「昨夕、別れる前に『容疑者たちの容疑をまとめて晴らすように助言してくれた』だろ?」
(ああ、そう言えば)
(時間が有れば『番犬はどうだった?』と容疑者たちの質問に付け加えて聞いて下さいって言ったけ……ん? 記憶が曖昧だ……覚えていない……)
「お前が言ったことが何の事かと思ったけど、手帳に書いて覚えていたんだ」
早い夕食後に急激な眠気で頭が正常に働いていなかったので別れの挨拶をしたのかもどうかも思い出せない。覚えていない。
もしかしたら……あろうことか、仮説の域を出ない幾つかのことを寝言のように呟いたのかもしれない。
イヅにとっては意識にない不本意な寝言でも子爵にとっては重要なことだと判断されたらしい。
食後の眠気と最近の脳の疲労は早急に解決しなければならない問題であるとイヅは肝に固く命じた。
……それにしても普段から嫌っている仮説(かもしれない事柄)を朦朧とした状態で口走り、さらに急に機転が鋭くなっていた子爵がそれを忘れないように記帳していたとは……。
時々、子爵様は無意識に有能な人間の皮を被るので調子が狂う。
「容疑者全員、番犬に啼かれないほどに勤務が長く、事件の有ったときも……解雇された時も番犬に啼かれなかった、と。屋敷を出るまでいつもの頭数…3頭の番犬が居たと証言している」
「……」
イヅの目蓋がやや下がり、視線が左から右下へと移動する。
「宵刻(午後8時)、解雇。使用人たちは屋敷の敷地外へ。その時には番犬は居た。警備員を雇うよりも安いから頭の良い犬は重宝していたと証言あり。……真刻(午前0時)から早次刻(午前2時)の間に犯行。早次刻の鐘を聴いた時に屋敷の表で目を覚ましたガナドー卿が近所を巡回をしていた夜警団に助けを求めた。夜警団数人がガナドー卿を先頭に屋敷に入ると荒らされた後と血痕が見つかり、血痕近くの部屋で鍵がかかった部屋が有ったのでガナドー卿が解錠して入ると……家令のゴフが死んでいた、という流れだな」
子爵が手帳のページを捲りながら時系列順に事件をまとめてゆっくり話す。
「解雇した使用人たちには、事件が解決してから私物を取りに戻れと言ったそうだ。」
(うえ……そこまで貴族様の勝手がまかりとおるのか)
喉に苦みが走るイヅ。
イヅは茶器を顔の高さまで掲げて目礼すると、程よく冷まった茶を一気に呷る。
貴人の奢りを無下にしない作法と礼儀だ。
「『番犬はいつ処分したのでしょう』ね?」
「そう。それなんだ」
子爵は大きく息を吸い瞑目した。
すぐに開眼し、息を吐く。
子爵自身、幾つかの不審な点には気がついている。
犯人、或いは犯人たちが犯行に及ぶタイミングが良すぎるので、整合性が辛うじて取れている。
この事件の犯人は強盗か?
これが子爵が悩む問題点だ。
内部の犯行を疑っている。
しかし、子爵とフロンが顔を合わせて聞き込みをした時に、イヅがフロンの『小さな表情』からは本心から悲しんでいるという表情と仕草しか伺えなかったと明言している。
イヅも人間だから誤りもあるだろう。イヅの見立ても時には狂うだろう。
その2つが子爵の頭脳で衝突しているのだ。
ガナドー家の内部の犯行だと疑いたい。
一方で、自分が惚れ込んだ碩学な少年の技量を信用したい。
いずれも感情論で考えるから混乱する。
それも理解している。
もっと冷徹になれとライデ・ジーロ子爵は自身を律する。
治安府の高官なのだから警吏を束ねる者として自供だけでなく、また状況証拠だけでなく、疑念だけの感情だけでなく、冷静に動かぬ証拠を捕まえる必要があると感じている。
頼れる少年はあくまで、補佐だ。逮捕権も捜査権も持たぬ彼は本当なら市井に紛れて路傍の石のように生きているはずの人間だ。
その少年の知恵と慧眼を高く買っているのだから彼にも報われる機会を与えたい。
そんな贔屓が子爵の心の根底に渦巻いている。
子爵は自分の心の奥底に彼に対する依存と好意の渦巻きが形作られつつあるのを自覚していない。……それがそもそもの『大きな壁』となって有能なライデ・ジーロ子爵自身の目を曇らせている。
「おまえの傍にいつでも俺の心の一部を置いておきたいんだ!」
と彼に向かって叫ぶことができればどんなに楽だろう。
それがあらぬ誤解を呼んでしまう表現でも、視点を変えれば友情の発露でしかない。
いつから自分は自分に対して詭弁を弄し、自分を謀る文言ばかりを探しているのだろう。
この事件の捜査でもそうだ。
お前の入手した情報をすべて信じる。だから好きなように振る舞え。
と、有り体に言えないもどかしさ。
「すべての責任は俺が持つ」と付け加えられない身分と役職が子爵の情緒をかき乱す。
「番犬をいつ処分したか…それが鍵の一つかもしれません」
「あ、ああ…」
数瞬の間に、果てしなく長く苦悶していたライデ・ジーロ子爵は、茶を飲んで声が滑らかになった少年の言葉ですぐに現世に引き戻された。
「犯人あるいは犯人たちは外部から侵入したとなると、番犬は吠え立てます。しかし、番犬の啼き声はなかった。……使用人を解雇して同日同夜の短時間にガナドー卿が経費削減のために番犬を間髪入れずに処分したのなら、外部の人間が犯人である説は濃厚です」
「ただ……そんな運が良いことが幾つも重なるか?」
「これは独り言ですが」
姿勢を正してイヅはそのようそう前置きした。
「あのお方の家中の『誰か』が犯人ならば容易です。ですがそうなると、あのお方の本物の悲しみの涙はどのような感情なのでしょう? 『僕の感情』だけで述べるのなら、あれだけの悲しみを発露できる人間は、さぞや普段から感受性豊かで人心に対して敏感だったのではと思う次第です」
イヅは往来に面する露店でできるだけフロン・ガナドーの名前や匂わせる発言をしないように注意を払った。
前にもガナドー家の名前を口にして疑いを述べようとしたらライデ・ジーロ子爵に鋭く睨まれた。その反省だ。下賤な庶民からすれば男爵でも天上人だと思わねばならない。
自分で自分を下賤だと卑屈に思いたくはないが、やんごとない世界で住む方々からすれば十把一絡げにイヅの住む世界は濁悪に見えるだろう。
自分が子爵の傍で貴族への誹りと捉えられかねない発言をすることはイヅ一人の処罰だけでは済まない。イヅの躾を怠ったライデ・ジーロ子爵も責任を取らされる。
さらにこの事件は爵位持ちの世界……ガナドー家が属するコミュニティやそれと反駁するコミュニティとの対立の構造も背後に見え隠れするので、自分の発言で子爵の立場が一転する事態も考えられる。
ライデ・ジーロという人物が爵位持ちである限り、必ず何処かの誰かに見られていると思ったほうがいい。
それはこの事件にイヅが駆り出された時もそうだった。
人気の絶えた夜警団の集会所の一室で伝えられたときのことを思い出す。
自分を記す記号の全てを脱ぎ去って、何も纏わないままの姿で子爵が撫でてくれる手の平に呆けて痴れる事ができるのなら、様々な誤解を生むとしても、望むところだとイヅはいつも思っている。
他人に『自分』を見せられる人間が今の世の中でどれだけ居るだろうか。
……貴重な本を買うためなら媚びを売る犬猫のように撫でられても構わないと思っている。
それで本が買えるのなら安いものだ。
と言いながら子爵は懐から取り出した手帳を捲りながら言う。
「料理人のガス。40歳。男…下男のフォル。55歳。男…使用人のメル。33歳。女…同じく使用人のリータ。25歳。女」
容疑者の名前や年齢性別を読み上げる子爵の声に興奮や緊張は伺えない。瞳孔の収縮にも大きな変化はない。……無礼と分かっていても、つい、『読んで』しまう。
空振りだ。
「空振りだ」
子爵はため息を吐くように言った。
その表情にはこんな事もあるさという諦観と、こんな事もあるのだなという歯がゆさが混じっていた。
容疑者たちは全員一同に解雇を急に言い渡されている。それは、事件のあった直前の時間にフロンから直々に全員集められて即座に解雇宣告だった。
理由は財政難の一点張りだ。
家令のゴフだけはその場に居ず、誰もが家令一人だけは解雇を免れたのだと妬んだ。
そんなふうだからガナドー家の人間に恨みを持っても仕方がない。
そのガナドーの屋敷には事件当夜には家令のゴフしか居ない。
独身の家長であるフロンは酩酊に近いほど飲んで帰宅したので後頭部を何者かに殴られて気絶するまで記憶がない。殴られた痛みで一瞬だけ酔いが覚めただろうが、次の瞬間には意識は沈んでいたらしい。
ガナドー家次男は片道2週間はかかる遠方で駐屯。
先代の父親は3年前に流行り病で亡くなり、母親は早くに胃瘻で亡くなる。
「容疑者だとされていた全員に足取りあり。その裏付けも今朝方に確認した」
(恨みは有っても殺意はない。殺意を向ける意欲を次の就職口探しに向けていたのか…確かに、元凶を殺害しても腹は膨れないしな)
「全員が全員、恨みは有ったが、貴族を恨んでも仕方がないから次の職場を探していたとのこと。その足取りの裏も取れた。全員が就職活動に躍起になって、嫌な思い出を忘れようと必死だったそうだ…それとも必死だったのは就職口探しの方かな」
ライデ・ジーロ子爵は時折、濃い茶を飲んで唇を湿らせながら聞き込みによる情報の読み挙げを行う。
全員見事に決定打に欠ける。
全員容疑者から外しても問題ないほどだ。
だとすれば、実に運が良い実行犯か実行犯たちだ。
屋敷に家令しかいない時間帯に速やかに忍び込んで家財を荒らしたのだから。
荒らされた家財のリストもフロンの積極的な協力の元、作成済み。今はそのリストを書写したものを持って警吏や警邏が古物商や質屋をあたっている。
貴族の屋敷から盗み出したものならば手っ取り早く売り払える店に出入りするだろう。
事件発生から3日経過。足掛け4日経過か。
売り飛ばされた家財は全部を回収するのは難しいだろうが、売りに来た人間や買い取った店が分かるだけでも捜査の進捗は違ってくるので、目下の所、ライデ・ジーロ子爵直轄の部下が総動員されている。
それでも尚、部下が信用できないからイヅを頼っているのではない。
それはイヅは察している。 察していると信じている子爵。
粥の鉢を抱えて一気に掻っ込むと、少年はぬるくなった白湯の器を手に取った。
すうっと彼のその手を優しく押さえる子爵の大きな温かい手。
子供の頭を撫でるような緩やかさだ。
「?」
イヅは彼の顔を見ると、彼は店の奥の方へ指を立てて茶を持ってくるように給仕にジェスチャーで合図していた。
貴人の下命ならばと、急いで若い女性給仕が五徳にかけていた薬罐を持って足早にやってきて、イヅの前に熱い茶を淹れる。
この茶の色…そして香りはイヅが嗜好品として楽しむときの茶の銘柄だ。
食事の後に飲むには茶自体が高級なので注文はしない。
「お礼。さあ、召し上がれ」
「なんのお礼です?」
湯気のたつ芳醇で良い香りの茶の器を手に取り、手の平から伝わる温かさを楽しむ。
お言葉に甘えて楽しむが…僅かな警戒は解かない。
茶を奢ってもらうことは何もしていないはずだ。
お礼としての茶なら相対的な金額として、大したことはないだろうと茶器を手にしたが……。
「昨夕、別れる前に『容疑者たちの容疑をまとめて晴らすように助言してくれた』だろ?」
(ああ、そう言えば)
(時間が有れば『番犬はどうだった?』と容疑者たちの質問に付け加えて聞いて下さいって言ったけ……ん? 記憶が曖昧だ……覚えていない……)
「お前が言ったことが何の事かと思ったけど、手帳に書いて覚えていたんだ」
早い夕食後に急激な眠気で頭が正常に働いていなかったので別れの挨拶をしたのかもどうかも思い出せない。覚えていない。
もしかしたら……あろうことか、仮説の域を出ない幾つかのことを寝言のように呟いたのかもしれない。
イヅにとっては意識にない不本意な寝言でも子爵にとっては重要なことだと判断されたらしい。
食後の眠気と最近の脳の疲労は早急に解決しなければならない問題であるとイヅは肝に固く命じた。
……それにしても普段から嫌っている仮説(かもしれない事柄)を朦朧とした状態で口走り、さらに急に機転が鋭くなっていた子爵がそれを忘れないように記帳していたとは……。
時々、子爵様は無意識に有能な人間の皮を被るので調子が狂う。
「容疑者全員、番犬に啼かれないほどに勤務が長く、事件の有ったときも……解雇された時も番犬に啼かれなかった、と。屋敷を出るまでいつもの頭数…3頭の番犬が居たと証言している」
「……」
イヅの目蓋がやや下がり、視線が左から右下へと移動する。
「宵刻(午後8時)、解雇。使用人たちは屋敷の敷地外へ。その時には番犬は居た。警備員を雇うよりも安いから頭の良い犬は重宝していたと証言あり。……真刻(午前0時)から早次刻(午前2時)の間に犯行。早次刻の鐘を聴いた時に屋敷の表で目を覚ましたガナドー卿が近所を巡回をしていた夜警団に助けを求めた。夜警団数人がガナドー卿を先頭に屋敷に入ると荒らされた後と血痕が見つかり、血痕近くの部屋で鍵がかかった部屋が有ったのでガナドー卿が解錠して入ると……家令のゴフが死んでいた、という流れだな」
子爵が手帳のページを捲りながら時系列順に事件をまとめてゆっくり話す。
「解雇した使用人たちには、事件が解決してから私物を取りに戻れと言ったそうだ。」
(うえ……そこまで貴族様の勝手がまかりとおるのか)
喉に苦みが走るイヅ。
イヅは茶器を顔の高さまで掲げて目礼すると、程よく冷まった茶を一気に呷る。
貴人の奢りを無下にしない作法と礼儀だ。
「『番犬はいつ処分したのでしょう』ね?」
「そう。それなんだ」
子爵は大きく息を吸い瞑目した。
すぐに開眼し、息を吐く。
子爵自身、幾つかの不審な点には気がついている。
犯人、或いは犯人たちが犯行に及ぶタイミングが良すぎるので、整合性が辛うじて取れている。
この事件の犯人は強盗か?
これが子爵が悩む問題点だ。
内部の犯行を疑っている。
しかし、子爵とフロンが顔を合わせて聞き込みをした時に、イヅがフロンの『小さな表情』からは本心から悲しんでいるという表情と仕草しか伺えなかったと明言している。
イヅも人間だから誤りもあるだろう。イヅの見立ても時には狂うだろう。
その2つが子爵の頭脳で衝突しているのだ。
ガナドー家の内部の犯行だと疑いたい。
一方で、自分が惚れ込んだ碩学な少年の技量を信用したい。
いずれも感情論で考えるから混乱する。
それも理解している。
もっと冷徹になれとライデ・ジーロ子爵は自身を律する。
治安府の高官なのだから警吏を束ねる者として自供だけでなく、また状況証拠だけでなく、疑念だけの感情だけでなく、冷静に動かぬ証拠を捕まえる必要があると感じている。
頼れる少年はあくまで、補佐だ。逮捕権も捜査権も持たぬ彼は本当なら市井に紛れて路傍の石のように生きているはずの人間だ。
その少年の知恵と慧眼を高く買っているのだから彼にも報われる機会を与えたい。
そんな贔屓が子爵の心の根底に渦巻いている。
子爵は自分の心の奥底に彼に対する依存と好意の渦巻きが形作られつつあるのを自覚していない。……それがそもそもの『大きな壁』となって有能なライデ・ジーロ子爵自身の目を曇らせている。
「おまえの傍にいつでも俺の心の一部を置いておきたいんだ!」
と彼に向かって叫ぶことができればどんなに楽だろう。
それがあらぬ誤解を呼んでしまう表現でも、視点を変えれば友情の発露でしかない。
いつから自分は自分に対して詭弁を弄し、自分を謀る文言ばかりを探しているのだろう。
この事件の捜査でもそうだ。
お前の入手した情報をすべて信じる。だから好きなように振る舞え。
と、有り体に言えないもどかしさ。
「すべての責任は俺が持つ」と付け加えられない身分と役職が子爵の情緒をかき乱す。
「番犬をいつ処分したか…それが鍵の一つかもしれません」
「あ、ああ…」
数瞬の間に、果てしなく長く苦悶していたライデ・ジーロ子爵は、茶を飲んで声が滑らかになった少年の言葉ですぐに現世に引き戻された。
「犯人あるいは犯人たちは外部から侵入したとなると、番犬は吠え立てます。しかし、番犬の啼き声はなかった。……使用人を解雇して同日同夜の短時間にガナドー卿が経費削減のために番犬を間髪入れずに処分したのなら、外部の人間が犯人である説は濃厚です」
「ただ……そんな運が良いことが幾つも重なるか?」
「これは独り言ですが」
姿勢を正してイヅはそのようそう前置きした。
「あのお方の家中の『誰か』が犯人ならば容易です。ですがそうなると、あのお方の本物の悲しみの涙はどのような感情なのでしょう? 『僕の感情』だけで述べるのなら、あれだけの悲しみを発露できる人間は、さぞや普段から感受性豊かで人心に対して敏感だったのではと思う次第です」
イヅは往来に面する露店でできるだけフロン・ガナドーの名前や匂わせる発言をしないように注意を払った。
前にもガナドー家の名前を口にして疑いを述べようとしたらライデ・ジーロ子爵に鋭く睨まれた。その反省だ。下賤な庶民からすれば男爵でも天上人だと思わねばならない。
自分で自分を下賤だと卑屈に思いたくはないが、やんごとない世界で住む方々からすれば十把一絡げにイヅの住む世界は濁悪に見えるだろう。
自分が子爵の傍で貴族への誹りと捉えられかねない発言をすることはイヅ一人の処罰だけでは済まない。イヅの躾を怠ったライデ・ジーロ子爵も責任を取らされる。
さらにこの事件は爵位持ちの世界……ガナドー家が属するコミュニティやそれと反駁するコミュニティとの対立の構造も背後に見え隠れするので、自分の発言で子爵の立場が一転する事態も考えられる。
ライデ・ジーロという人物が爵位持ちである限り、必ず何処かの誰かに見られていると思ったほうがいい。
それはこの事件にイヅが駆り出された時もそうだった。
人気の絶えた夜警団の集会所の一室で伝えられたときのことを思い出す。
自分を記す記号の全てを脱ぎ去って、何も纏わないままの姿で子爵が撫でてくれる手の平に呆けて痴れる事ができるのなら、様々な誤解を生むとしても、望むところだとイヅはいつも思っている。
他人に『自分』を見せられる人間が今の世の中でどれだけ居るだろうか。
……貴重な本を買うためなら媚びを売る犬猫のように撫でられても構わないと思っている。
それで本が買えるのなら安いものだ。