【第2章】一足遅れの哀歌

 フロン・ガナドー男爵の邸宅を後にして歩きながら。

「確かにそれはおかしい。おかしいと言えばおかしい」
「もちろん、犯人や犯人連中がどうしようもない間抜けでも幸運は人一倍なら可能性はありますが」

 イヅとライデ・ジーロ子爵は早足で乗合馬車を探す。今日はこれから容疑者たちの家に出向いて直接の聞き込みをする。

 まとめて出頭させれば最良なのだが、次の職場探しに躍起になっているであろうから、全員が揃う時期を見定めるのは難しいと判断した。

「順序としては先ほども言いました点がおかしいのです。その点だけでも使用人たち…容疑者たちに確認するだけでも大きな収穫となるはずです」
「それはそうだが、では、犯人が外部の…複数の可能性は?」
「それも否定できません。一人の可能性ももちろん否定できません」

 ライデ・ジーロ子爵は届けられた報告書の中でも一番強く記憶に残っている書類の内容を脳内に浮かべて気になった文節を検索する。

 イヅは何事かを言おうとつい、とライデ・ジーロ子爵の顔を見上げるが、集中するその顔は、苦み走った精悍な美丈夫と化した彼の顔に一瞬だけ呆けてしまう。
 直ぐに頭を振って言いたいことを口にする。……美人が仕事に没頭するとこう、なんとも言語化が難しい気品とも色気とも言える雰囲気がだだ漏れになるので何かと不便だろう。
 そんな美貌なのに浮いた噂がないので余計に面倒な縁談に追われるのも納得できる。
 さっさとお手つきでも作って見た目だけの夫婦生活をアピールすればいいのにと不謹慎ながらいつも思う。

「確かに、屋敷内部では調度品や美術品が奪われた痕跡がありました。それが……いや、それを残らず正確に説明してくれたガナドー卿が…」
「…」

 イヅは子爵が途端に睨みつける厳しい顔に変貌したのを見て口を閉じた。

 往来で貴族に嫌疑をかける発言を庶民がしたとなっては、誰かが聞いて警吏に訴えれば、さすがのライデ・ジーロも権力を以てしても揉み消したり不問に付すことはできない。
 ライデ自身への不敬なら幾らでも目を閉じよう。可愛い奴めと戯れ程度に聞いてやろう。
 だが、直接の交流も親睦もない貴族への誹りは『彼の権力では止められない』。

「失礼しました……」
「…」

 またもしょげた顔になるイヅ。自分に非があるとは言え、自分だけではなく場合によっては監督不行き届きで子爵も何かしらの責任を負わされる事態も想像するべきだった。
 そこには確かに上司を叱る部下の姿があった。
 従者を躾ける主人の顔があった。

 イヅだから特別に取り立ててやっているという身分的上位者の驕りというより、少しでもこの国で長生きしたかったら口に出していいことと悪いこと、そしてその言葉を口にしてもいい機会があることを肝に銘じろという教育でもあった。

 夜警団の連中ならば自分より汚れていない服を着ている人間ならば分け隔てなく平身低頭する。それは、相手の身分や地位や役職を見破る能力を持っていないので、身なりだけの印象で『自分たち側か、そうでないか』を決めているだけの思考停止だ。それは彼らなりの処世術でもある。

 しかし。

 ライデはイヅが低いレベルでの判別しか知らない無教養の人間なら叱りはしない。
 そもそも、傍に置こうとは思わない。

 彼が自分の時間を投資しても惜しくないと、惚れ込んでしまった頼もしい少年を往来でのくだらない失言で失いたくない。

 誤解を恐れずに言うのなら、子爵は彼を広義の意味で愛している。

 願わくば、その失言は犯人逮捕の瞬間まで温存しておいて、犯人に向けて放ってほしい。

 現行犯でも検挙した後の自供でも、犯罪者だと確定すれば身分は関係なく断じられる。

 何より、小さな猟犬のようによく働く存在の口から他者を悪く言う言葉は聞きたくない。

 魂が穢れるのには若すぎる。

「これは独り言だが」

 と、唐突にライデ・ジーロ子爵は前置きした。取って付けたような喋りだしだが少年はその顔色から機微を読んで黙った。

「初めてあの屋敷へ来たときも、先程もくだんの屋敷へ戻ったときも、当主は迷うことなく『同じ順序で家の中を説明してくれた』な」
「…まるで観光名所を案内する案内人のような正確さでしたね。それとも自分の家での出来事ですから忘れようとしても忘れられないのかもしれません。『思い出深いのでしょう』」
「今は一時保留として覚えておこう。とにかく聞き込みだ」
「日が暮れる前に片付けばいいですね」

 うまく噛み合っている独り言を2人は交互に口から漏らした。

 やがて2人は漸く掴まえた乗合馬車に乗り込み、子爵の手帳に書かれた容疑者たちの家を一軒ずつ巡ることで本日の捜査は終了の目標とした。

 実のところ、捜査は続けるつもりだったが、昼次刻(午後4時)を一刻(1時間)ほど過ぎた時に、一番近くの容疑者の家に向かう前に、早めの夕食を摂ろうと露店に出向いたが、体力面で子爵より劣るイヅが食後すぐに眠気を覚えて大きなあくびをした。欠伸を連発して一休みしないとどうしようもないと判断した子爵はイヅを先に帰宅させた。

 帰宅させてから後はライデ・ジーロは独りで手帳と手帳に挟んだ懐紙を見ながら雑踏に揉まれながら容疑者の家へ単身、向かった。

 ライデ・ジーロ子爵とて馬鹿ではない。記憶力のいい馬鹿で、応用が効かない馬鹿なのだ。
 それゆえに、昼にフロンの家を探っていた最中にイヅが気にかけている事柄を全て懐紙に書き込み、それを残りの容疑者たちに同じ質問を繰り返すだけだったので楽な仕事だった。
 それに少年は食後の急激な眠気に必死で耐えながら子爵に同じ質問をしてほしいと頼んでいたのだ。半分寝顔の少年。その声も寝言さながらに舌足らずに聞こえて可愛らしいものだった。

 仕事は楽だが、仕事が楽に感じられるほど要件を要約した文言を考えたのは他でもないイヅだ。

 日がどっぷり暮れる。
 子爵の背中が人混みに飲まれる。 

 やはり敵わないな、と手帳を見ながら後頭部を掻く。

 街中の雑踏に吸い込まれていくように、溶けるように、紛れるように消えていく子爵の背中が有った。

  ※ ※ ※

 翌日、正刻(正午)。

 早朝から手書き新聞と代筆の仕事を優先順位の高い順から片付けたイヅ。
 正直な所、夜警団の範疇を超えた職掌のおかげで副業は割と実入りがいい。
 それでも代筆業と比較してのことで副業を始めてから少しばかり露店で高い注文をする回数が増えたくらいだ。

 帝国の飲食店事情は独身男性で成り立っているとまで言われている。

 結婚すれば自宅で妻に食事を作ってもらえばいいという考えが強いのだ。

 そんなわけで自宅に食材を買い込んで自炊する男は珍しい。
 イヅ自身はその珍しい分類に半分ほど、入る人間だが、露店で食べることが多い。
 というのも、帝国内の地方の珍しい料理や外国の料理のレシピをまとめた本を手に入れると、実際にどんな味なのか試したくなってつい、自炊してしまう。
 腹を膨らませるためではなく、好奇心ゆえの調理だ。

 それどころか、服用薬や外用薬の作り方をまとめた本を入手すると、その薬を作るだけでなく、実際に使用してみる。

 イヅの持論としては知識というのは覚えただけでは全く役に立たない、脳の容量を圧迫するだけの雑念でしか無いとのことだ。
 知識は実践して成功と失敗を繰り返して、何故成功したのか何故失敗したのかを見直してその要因を洗い出し、さらに成功率を高める工夫をし、失敗の可能性が低い方法を模索する。
 イヅの感覚では失敗した理由を徹底的に解析したほうが成功への道が見つかりやすい……覚えて、実行して、学んで、さらに覚えたものを試すべく実行する。

 いづの脳の端にはいくつかの格言がスローガンのごとく存在するがそのうちの一つに、とある国の発明家の言葉が掲げられている。

 『この方法では失敗するということを1000回実験して証明し、結果として成功するたった1つの方法を見つけるに至った。』

 この繰り返しの結果、本当に知識は知識として活かされるのだと思っている。
 それは数ヶ月も数年もかかる長い習得方法だ。
 いつか読んだ古代の数学者の言葉で『誰であろうと自ら苦労して習得していくほかない』という一文が彼の気が付かないレベルでこれもまた掲げた格言の一つになっている。

 昼飯時のいつもの露店。

 今は食材や薬の材料を買う金子に乏しいので露店でいつも通りに食事中だ。
 
 具が皆無の雑穀粥と焼いたうなぎの昼食を胃袋にゆっくりと収める。
 うなぎのタレは魚醤と蜂蜜をベースにした煮汁に香草で香りをつけたものだ。

 豚肉と野菜の切れ端が入った雑穀粥ばかりだと流石に飽きるので偶に少し高いメニューを注文する。

 今日は日頃の不摂生を食事で賄う意味もあり、少し高い注文をしたのだ。東方のとある書物では『日頃から滋味あふれる食事を楽しむことで病を防いで治す』と書かれており、医術の基礎の一つだそうだ。

 食事の間はできるだけ考えたくないと思っていても、フロン・ガナドーの家令殺人事件が脳裏にすぐに浮かぶ。

 何故、フロンが助けを求めたら即座に夜警団が問題なく屋敷の敷地内に入れたのだ?
 庶民はいかなる時も貴族に招かれなければその敷地に踏み込むことを許されていない。後頭部を殴られて目が覚めたフロンが真っ先に助けを求めた。夜警が通り、敷地内へ招いた……理由はそれだけか?

 確かに強盗が荒らしたような形跡はある。それにしては『正確にして大雑把、それでいて確実』。

 この2つがどうしても引っかかる。
 昨夕以降の捜査は子爵に任せっきりなのでその報告を聞くまで今は何もできない。
 情けないことに、はっと気がついて飛び起きたときには自身は菰のベッドの上だった。眠気に抵抗できなかったらしく何も覚えていない。記憶が不明瞭だ。

 …これはきっと脳が疲れを訴えているので全身の筋肉にに緊急停止命令を出したのだ。

 と、解釈している。
 さて、子爵様のご機嫌はいかがだろうか?
 寝落ちした庶民に呆れ果てているだろうか?

 事件の内容が頭の隅に追いやられて、敬愛する子爵の顔が浮かぶ。

 彼は治安府警邏部警吏副官長。けっして暇な職務ではない。
 彼は机の前ばかりだと運動不足で息が詰まりそうだと言いながら外出しては市井に混じって景気や治安に聞き耳を立てている……らしい。

 ジーロ家の家督を継いだ子爵ほどの人物ならば従者を連れて出歩くのが普通だろうに、貴族らしくなく、従者を雇っていない。
 前には彼専門の従者が居たらしいが、特に興味がそそられる気配がないので詳しく聞いていない。
 ジーロ家は役職こそ高いが、俸給は中の中だと自称していたのでフロン・ガナドーのように実際は先代やその前から引き継だ負債で帳面では赤い字が踊っているのかもしれない。

「本当に美味そうに食べてるなぁ。山のように盛った麦と焼いた牛の切り落とし肉を思いっきり食べさせてやりたい」
「うわっ」

 思わず声が出る。粥の鉢とうなぎの皿ばかりを見ながら思考を巡らせていたイヅの左手側からのほほんとした声が聞こえた。
 聞き間違えようのない、我らが子爵様の登場だ。
 麗しい声で、田舎に帰った孫を見る祖母ようなことを言う。

 それにしても、この子爵。
 食事の時だけいつも不意をついた登場をするのよな。

「ら、ライデ様!? なにか言ってくださいよ!」
「リスみたいに頬を膨らませて食べる顔を見ていると声を掛けるタイミングがなかなか見つからなくてな」

 そう言いながら、体を大きくくるりと回してイヅの右手側の椅子に腰掛けて、露店の給仕を呼んで濃い茶と砂糖をまぶした焼き菓子を注文する。

 子爵が露店で注文するものは決まって茶と甘味だ。
 腹持ちのいいものを食べると眠くなって仕事にならないのと、頭がいつも疲れているので自然と甘いものを欲しがるのだそうだ。
 ……余計なお世話だと叱られるかもしれないが、いつかは彼にはっきりと言わねばならぬとイヅは思っている。

「そのままだと飲水病(糖尿病)になりますよ」

 と、はっきりと言ってやらねばならない!

 彼を喪うのは非常に痛手だ。
 主に本を買う資金を調達するという意味で。
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