【第2章】一足遅れの哀歌

「と、その前に使用人たちに会う前に会いたい人がいるのですが」
「フロン・ガナドー卿だな」

 イヅの申し出にライデ・ジーロ子爵は即答した。名誉不名誉の面子の世界で生きている貴族としては殺人事件の容疑者として名前が浮上するだけで一騒動だ。
 イヅが容疑者として濃厚な使用人たちに会う前にフロンと会いたがるのはライデとしても簡単に予想できた。

 ライデからすれば、いつまで経ってもイヅの耳に届かないフロン・ガナドーという人物が気になって仕方がないだろう。使用人たちの聞き込みや身の上調書は既に聴取が終わって作成されているので、疑問があったとしてもその部分だけを裏付ければ一応は疑念が晴れる。

 だが、貴族という立場に守られているフロン・ガナドー男爵についてはイヅに手渡された報告書では邸宅の持ち主程度の記述しかない。
 被害者の家令ゴフに関しても、フロンに常に付き従ってくれた忠義を評価され、殺害されてから、その働きを評価して名誉爵位を与えるとさえ言われているのでその名誉人に傷をつけるわけにはいかない。
 報告書の上では腹部を刺されながらも自らのナイフで応戦した義に篤い勇気ある人という扱いなのである。

  ※ ※ ※

「つまり、本当に何も……」

 ライデ・ジーロ子爵は高級な材質だが質素なデザインの家具や調度品で囲まれた部屋でテーブルを挟んでフロン・ガナドーと神妙な顔で当時の様子をうかがっていた。

「はい、子爵。あの晩……宵刻(午8時)、使用人たちに解雇を下して自宅から追い出すと……恥ずかしながら、急に寂しくなり」
「お察しします。先代の意思を貫けなかったので仕方無しに使用人を全員、急遽解雇とは。私も同じ立場なら自分が情けないやら恥ずかしいやらで何をするか分かりません」
「……お察しいただき、有難うございます。……まさか続けてゴフまで喪うとは! ゴフはもう雇いたくても雇えません……」

 ゴフ以外の使用人の代わりはいくらでもいると言わんばかりの、30代前半だと思われるその男爵は下瞼を震わせて眦に涙を浮かべる。小鼻が小さく収縮を繰り返す。合わせてきつく閉じた両の拳は血の気が引くほど強く握られている。

(恥。悲しみ。怒り。怒り……恥。悔い。悲しみ)
(この男……本当に被害者を悼んでいる。焦燥も緊張も無い)
(ここに来るだけ無駄だったかな。報告書も偶には正確に取捨選択された情報が書かれているのだなぁ……)

 イヅはあらかじめ、懐紙に書いた質問を子爵に覚えてもらって、何も知らない従者の顔で椅子に座る彼の右手後方で控えていた。
 もちろん、質問に潜ませた相手を揺さぶる言葉を幾つか紛れ込ませていたが、それらはことごとく、言葉通りに解釈されてしまう。
 つまり、本当に家令を喪った事実を悲しんでいる。使用人を解雇したことを恥じている。事件自体を悲運だと嘆いている。
 フロンの『小さな表情』や『感情と連携した仕草』がそれを物語っている。
 捜査のために訪れたと前置きしても、椅子に座るフロンの肩は開いたままで、爪先も肩幅を維持したまま。さらに手の位置も最初からテーブルの上だ。……これらは無警戒や相手の話を聞き入れるための姿勢で警戒や注意はしていない。心理的圧力を感じていない。

 かねてからの合図で、イヅはベストのポケットから手帳を取り出すとパラパラめくり、失礼します、と声をかけてライデ・ジーロ子爵の耳元でささやく。

「ん? ああ、もうそんな長く話しているのか……ガナドー卿、今日はありがとうございました。本日はこれにて失礼します」
「大したお役に立てずに申し訳ないです……どうかゴフの仇を!」
「全力を尽くします」

 子爵と男爵は握手をして邸宅を後にした。
 フロン・ガナドーは別れの握手のときでさえも泪と洟を流して子爵の捜査の進展を心待ちにしている台詞を継いでいた。

「……」

(? 今少し……『あの顔になにか見えた』が……気のせいか?)

 治安府へ戻るまでに乗合馬車を探している最中にイヅはライデ・ジーロに高級な装丁の手帳を返す。少しでも身分が上の従者の小道具として自分を演出させるために子爵から借りたものだ。
 自分の手帳を受け取った子爵は今一つ冴えない少年の顔を見て、なんの成果も得られなかったのを悟った。

「……まあ、少なくともこれで貴族を犯人扱いすることはなくなったと思えば気が楽だ」

 子爵はしょげた顔をする少年を労るように言う。
 
「さあ、これで貴族間の面倒ごとから遠ざかったぞ! 犯人は少なくともガナドー卿じゃないそうだしな!」

 さらに子爵は笑顔で肩の荷が下りたことをアピールする。少しでもイヅの顔を平穏に戻したい一心だ。
 子爵は心の何処かでフロン・ガナドーが犯人かも知れないという疑いを持っていた。そうなった場合の後々に発生するであろう派閥やお家の面倒事を考えると気が重いのだ。
 だが、イヅの何処か陰りのある顔を見ると、犯人はガナドー卿ではないようだ。
 それを思わず喜んでしまったが、自分の配慮の足りなさに感づいて息を呑んだ。
 貴族が犯人でなければそれで全く問題ないというニュアンスを含んでいるからだ。貴族ではない庶民の前で口にする言葉ではなかった。
 自分で自分の鍍金をヤスリで剥がしているようなものだ。
 もしかしたら、今この時を以てイヅは口を利いてくれないのではないか? とさえ疑うほど長い時間が経過した。
 実際には数瞬ほどだろう。

「そう……ですね。そうですね。気分を切り替えましょう」
「そ、そうだぞ! 次はやはり当初の予定通りに使用人を当たるか?」
「はい。是非」

 少しだけ口元に笑顔が浮かんだ少年のをお見た子爵は思わず彼の頭を撫でてしまった。彼が言葉を継いでくれて、心の隙間から安心が溢れ出てしまったのだ。
 なのに撫でてしまってからしまった! と慌てて手を引っ込める。彼は少年だが男だ。大人になろうとしている男だ。いつもならジトッとした嫌そうな目で無言で抗議してくるのに……。

 失言に無礼。
 ライデ・ジーロ子爵は生まれながらに何か人間として重要な機微を読み取る力を忘れてしまったのではないかと、自分を殴り飛ばしたくなる。
 非言語の意思疎通が苦手で、相手の発信を読み取る能力が低く、なのにこちらが相手にどれだけ非言語で発信しても相手には皆目伝わっていない。
 自分の生まれ持った病気なのか、こういう性分なのか分からないが、自分の発言や行動で傷つく人間が居るのは事実なのでなんとか、気合と根性だけで自分を制御したい。……と、常々思っている。

「……あ、すまん」
「…………」

 頭を撫でられたイヅはというと、全く意に介さず腕を組み何事かを考えながら顎を指で撫でていた。

「何か? 他に気になることでも?」
「……」

 イヅは顎を引き気味にして視線を空に向けて違和感とも言えない小さな何かの正体を探っていた。

 ライデはイヅのその顔を認めると何か言いたげに開いた口を閉じた。
 彼は今なにかを…『整合性があるなにか』と比較している。
 それは恐らく報告書の様々な記述だったり、五感から拾った情報だったりと、子爵の感性や視点からでは思いもよらないことだろう。
 この少年は決して推測を論拠としない。推測を証明するための仮説を先に打ち立ててから裏付けをするタイプだ。

 問題の解決方法はどのような場合でも大別して三種類しか無い。

 自力で解決できるレベルまで問題を細分化するか、他に類似する問題を探して比較してどのような方法で同じ問題を解決したか、それともさっぱりと視点を変えるか。

 一番難しいのは視点を変えて問題を見ることだ。その人物だからその見方をするのは個性とも言える。それを全く違う方向から眺めるのは自分を一旦解離させる必要がある。

 その場合、自分という個性が一番の障壁とも言える。

 ライデ・ジーロ子爵は自分の限界というよりも得手不得手を知り尽くしている。
 だからこそ、イヅという子飼いのシンクタンクを手懐けている。
 自分の視点では何も見つからなかった場合に備えてのイヅだ。

 最初は都合のいい駒として駄賃をちらつかせて顎で扱っていたが、今では……今となっては、そんな無礼な出会いを演出するのではなかったと後悔している。
 社会的地位と見合う俸給を携えて官吏補佐として正式に取りたてるべきだった。少なくとも胥吏待遇で交渉するべきだった

 自分の最初の接し方が無礼だと分かって姿勢を正して彼と向き合って全ての本音と謝罪を述べたうえで自分の右腕になってほしいと強く願ったことも一度や二度ではない。

 それをいつも思い留めるのは……庶民として溌溂と生きている顔が魅力的な生命力に包まれて眩しいからだ。
 あの笑顔は何処かの組織に強制的に編入させた途端に失われるだろう。
 彼は安息を求めているが、怠惰は求めていない。

 ライデ・ジーロ子爵と従者の如き少年。

 今はその関係でいい。
 
 ふと思い返せば、先代の従者を喪ってから悲嘆に暮れるのが嫌で、爵位持ちでありながら決まった従者を連れずに出歩く変な貴族だと思われているのも、考え方によっては都合がいい。

 あんな悲しい別れをするくらいなら、代筆業の少年の知恵を金で買っている鼻持ちならない貴族と思われている方がいい。

「解雇したのは……容疑者……使用人……何か……」
「使用人は全員で4人。男の料理人、下男、女の使用人が2人だが」

 あの規模の邸宅なら主人のフロンと家令のゴフを足しても丁度いい。街中の屋敷なので土地自体も広くはない。
 番犬を飼い、警備員を雇う金も渋るほどなのだから家も土地も小さいほうが処分しやすいだろう。元は海運の商売で儲けた家柄だ。あらゆる形の保険……処分しやすい家や土地、売りやすい別邸、換金しやすい調度品も視野に入れての購入だろう。

「!」

 フッとイヅは顔を上げる。

「ライデ様、使用人への聞き込みは後にしましょう! それよりもガナドー卿の家にもう一度向かいましょう!」
「え?」




 突然何を言い出したかと思えば、と思いながらも2人はやや小走り気味にフロン・ガナドーの邸宅にとんぼ返りして、ライデ・ジーロ子爵は、先程の邸宅の検分中に落とし物をしたので失礼を申したい、と言って、本当に検分した通りの順でライデ・ジーロは歩いた。エスコートするように2人の先頭をゆくのはフロンだ。
 もちろん、現場の最低限の状況は治安府の絵描きに描き残させるために触れない用に注意はしている。
 フロンが先頭を歩いてるが真に目を光らせているのはその最後尾のイヅだった。

 最初、ぽかんとしていたフロンだったが、案内が終わると、役所務めも大変ですねと声をかけただけで応接室で自ら茶を淹れている。貴族、ましてや当主が茶を淹れるなど他の貴族からすれば噴飯ものだが、本人曰く、なんでもいいからしていないと気が紛れないらしい。

(思った通り!)
(違和感が『大きすぎた』!)

 子爵とフロンが応接室で雑談をしている間、イヅは調度品や壁の絵画や貴族階級の家なら珍しくない武器や盾を見る。
 指先で家令ゴフの血痕と思しき跡も追う。

 強盗に荒らされた、というのが第一報。
 その報告はフロン・ガナドーが自ら強盗に襲われたと夜警団に助けを求めた。
 夜警団は難なく、邸宅内部に入れた。

 そうなれば……2つの疑問が同時に湧く。

 一刻(2時間)ほどの時間差だが、それで十分だ。

 だが、仮説でしか無い。証明されても状況証拠でしか無い。

 人情や感情では裁判は開けない。

 決定的な証拠は無い。
 一つの仮説が脳内で様々な分岐を見せて無限に可能性だけが広がっていく。

 目を皿のようにしてイヅは這いつくばったり、舐め回すように壁や床や家具を見る。

 フロンとの雑談の最中に視界の端で、少年が床を這う。フロンは特に気にしていないようだ。

 しばらくして何もなかったような涼しい顔でいつもの従者の芝居で子爵の右手後方に来て立ち、子爵に耳打ちする少年。

「探しものは彼が見つけたようなので、これで失礼します」
「本当にお役所務めは大変ですね」

 苦笑いのフロン。
 両者は握手をして、来た時と同じ順路で玄関から出る。
 握手と会釈を交わして退散する2人。

 先程の廊下を這う少年のその姿をライデは手綱から放たれた愛玩犬が匂いを探っている様子をなぜか連想してしまった。

 こちらに尻を突き出すように向けながら床に顔を埋めんばかりにしている様など、つい、その誘わんばかりの尻を……。床についた両手の脇から見えた彼の桜色の乳首など……。

 と、思ったところで、イヅが考え込んで路面を視ている隙に近くの壁に額を打ち付けて、どこから湧いてきたのかわからない度が過ぎる邪念を追い払ったライデ・ジーロ子爵。(自称24歳。未婚)
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