【第2章】一足遅れの哀歌
子爵はその場で……夜警団の事務所になっている集会所の一室で報告書の束を出した。
それを慇懃に受け取り目を通すイヅ。
どれもこれも玉石混交。
夜警団から挙がってきた報告書はかろうじて字の読み書きができる者が書いたであろう読みにくい報告書。
治安府の警吏が提出した報告書は流石に事務的で読みやすかったが、逆に必要な情報がところどころ抜け落ちている。
その差異は同じ状況を記した別の報告書を比べて読むと、何処のどんな部分の情報が抜けているか比較できる。
曲がりなりにも情報媒体に触れて文筆業を生業にしているイヅから見れば、情報の精度はお世辞にも高いとは言えない。
確かにこれならば、子飼いの情報屋を頼りにする治安府関係者が多くて当たり前だ。
「表向きは、貴族の家に押し入った不逞の輩を追い詰めて然るべき厳しい罰を与えたいから早急に解決せよとのことだ」
「…ですが、この報告書と検分報告で事件が解決できたら苦労しません。正しい情報の精査だけで大量の人と時間と予算を使ってしまいます」
「被害者が名誉貴族ならなんとか放置できた事件だが、落ちぶれたとは言え、海運卿の男爵が被害者だと貴族のメンツが許さないんだ……」
頭痛の種を払うかのように目の前に出された茶を飲んでから不意に席を立ち、テーブルの燭台を寄せて獣脂でできた蝋燭の火で葉巻に火を点ける。
気が荒れているのか乱暴に紫煙を吐き出す。彼は「名誉貴族なら放置できた」と思わず放言してしまったことに嫌悪している。正確には庶民など切り捨てればいいという意味の言葉を庶民のイヅの前ではなってしまった悔悟だ。
イヅは人の命など木の葉のように軽いこの世界で生きている庶民なので特に気にしなかったが、子爵様は貴族の貫禄を出せないでいる。
(ライデ様は何か平民階層に思うところでも有るのか?)
「分かりました…と気軽に言えない事件ですね」
「ああ。私がこの事件を解決したら、ガナドー家と反駁し合う集団や家系に目をつけられるのだろうな……事件を解決しなければガナドー家と加盟しているその派閥から恨まれる……」
苦い薬を飲み込んだような顔で葉巻を吸う子爵。
貴族に生まれなくてよかったと思う一方で、貴族のお家の話になる度にこの世で一番嫌いなあいつの顔がどうしても脳裏を過るのでイヅの顔も苦くなる。
「兎に角、今すぐできることはありません。ライデ様さえよろしければ明日の日次刻(午前10時)に捜査を始めませんか?」
会話の先制権を先に発揮するイヅ。
貴族に対して庶民が提案してそれを飲み込ませるのは普通なら不敬として処罰されても仕方がないが、ライデ・ジーロ子爵はイヅの知恵を借りたいので都合よく自分の、下層の人間に頭を下げられない身分の弱みを解釈してくれたイヅの申し出に頷いたのだ。
「あ、ああ。そうだな。家令のゴフの死体も治安府の検視室だし、ガナドー家の邸宅は不寝番の警吏たちが見張っている」
「念の為に聞きますが、今回の捜査の主導はライデ様で間違いないですね?」
「いかにも。それがなにか?」
少し含みのありそうな呼吸の間合いを置いてイヅはできるだけ敬愛する子爵様を怒らせないように静かに言った。
「先日の一件では危うく私に流れ弾が飛んできそうだったので。失礼ですが、今回もそれを防ぐ盾も見当たりませんでしたので」
「ああ、ルーフン公爵の話しか。それは問題ない。あの件のように横紙破りな命令系統から降りてきた捜査の指令ではない」
「それは何よりです。安心しました」
人に物を頼むにしても背後を見せているうちに、愚痴を垂れている姿を装う必要があるとは貴族とはなんと面倒な世界の住人なのだろう、とはおくびにも出さない少年だった。
※ ※ ※
日次刻(午前10時)を僅かに経過。
治安府の門の前で向かいの役所の壁に背を任せていたイヅの顔がひまわりのようにぱっと変わる。
その唐突な笑顔に中てられたライデ・ジーロ子爵はつられて笑顔になる……のを堪えた。
威厳ある治安府でニコニコと白い歯を見せて笑う治安府の役人などと噂されればいらぬ悪評がたつ。
ただでさえ、ジーロ子爵に浮いた噂の一つも浮いてこないのは、陰で稚児を囲っているからだという噂が立っている。何処の誰がそんな寝も葉もない噂を! 稚児とは誰のことだ! と少し職場の空気に嫌気が差している。
治安府の庁舎から出て、誤魔化しの咳払いをしてからイヅを門の内側から招いた。
いつもながらに面倒臭い儀式だが、これが貴族と庶民の隔たりを示す行いなのだと理解している。どんなに事件を解決しようとも、イヅは庶民だ。下賤な生まれの一人に過ぎない。
2人は挨拶をした後にすぐに検視室へと向かう。
「これは……」
「言葉に詰まるだろ?」
死体安置用の台に60絡みの中肉中背の壮年が瞑目したまま横たわっている。
全裸で。
検視官が書いた報告書をライデ・ジーロ子爵から受け取る。彼はもう既に内容を覚えているのかもしれない。
「腹部に6箇所の刺傷。凶器は鋭利な両刃のナイフ」
チラと死体の横の台に置かれたナイフを見る。
子爵様が少しでも情報の足しになればと凶器と思われる刃物や脱がせた衣服なども並べさせていたのを見た。
(このナイフか。刃渡り、刺傷…の形状…は間違いない)
(けど、これは……)
イヅは検視の報告書と死体とナイフを何度も往復して見る。
辺りを見回す。
予め、ライデ・ジーロ子爵が人払いをしていたので少なくともこの部屋には2人以外に誰も居ない。潜伏する場所もない。
「やはり『おかしい』だろ?」
ふと、葉巻の香りが漂ったと思ったら、子爵が背後から顔を寄せて、イヅの右耳の近くで囁いたのだ。
熱い吐息と普段から隠さない美声がねっとりとイヅの体内に入り込む。
少年の右耳は瞬間的に沸騰したように真っ赤に熱を帯びる。両足がぶるりと震えて内股になる。
「は、はい……おかしいですね」
イヅは子爵の奇襲に辛うじて耐えて平静ないつも通りの声で返答する。まあ、彼は奇襲を仕掛けたつもりはないだろう。普通に接したつもりだろう。
今、彼に赤い顔を問われるとなんと返答していいか分からないので、できるだけ彼の方に顔を向けない。
少なくとも顔から熱が引くまで見ないでおこう。
(美人は声まで美人なのだから困る……それにらいで様の声は間近で聞くといつも濡れているような感じがするんだよなあ)
(もしもこの先、音声を閉じ込められて自由に聞ける絡繰が発明されれば、声だけの色街ができて繁盛するのんじゃないか?)
検視の報告書を再び見る。
「6箇所の刺傷。大量の血液を短時間で失ったのが死因。毒でも盛られない限りそれは覆らないでしょう」
「私も同意見だ」
「そして、これも同意見だと思います」
イヅは台の上に置かれたナイフを手に取る。
細かな装飾が施された柄とヒルトから伸びる両刃の身。
刃渡りはイヅの尺骨ほどもある、大型のナイフ。護身用としてだけでなく、日用としても腰に提げているのだろう。この国では老若男女問わずに何かしらの刃物を持っているので不思議ではない。
イヅも葦ペンを削るための折り畳みナイフをいつも持っている。
脱がせた衣服のズボンのベルト部分に鞘があった。
「1箇所だけ、『違う刺し傷』があります。他の5箇所とは異質です」
「気付いたか」
「はい。報告書を信用するのなら『凶器はこのナイフで間違いない』と思います」
イヅは彼の勤務場所を重んじて彼の職掌を侮辱しないように言葉を選んだ。
子爵は美しい顔を小さく歪ませると、眉間に浅い溝を作る。
「『そのナイフで決まりだろうな』」
「異論は今のところありません」
「『これ』に気が付いたのだな」
「はい」
子爵は解剖に使う刃渡りが短く柄の長い鋏を指で摘んで、その切っ先を他の5箇所を点々と指す。
ここにあるナイフで刺されたのは5箇所。
それはきれいな刺し傷で痕に乱れがない。
腹部に集中した6箇所の刺傷痕。
5箇所は見事な刃物で刺された痕。
残りの1箇所は切れ味の悪い同じ大きさのナイフか類似する刃物。……その刃物は見つかっていない。
(事件か? ……『法律上は事件になる』だろうな……)
脳裏に一つの仮説が過る。
仮説の段階なのでイヅはいつも通りにそれを述べない。
「犯人は『複数』の可能性だ。家令のゴフはナイフで立ち向かおうとしたがナイフを奪われて刺された」
「ですが、ライデ様はその報告を疑っていらっしゃる」
「ああ。傷口が腹部に集中。凶器が違う刺し傷が刺傷群まぎれているのが気になる」
全くの同意見だ。
「海運で一儲けしたお家なら、結構な造りのお屋敷なのでは?」
「ん? ああ、海運業で儲けたのは先々代までの話で、先代からは海難事故が続いて財政は厳しくなっていた。で、先代は亡くなり長男のフロンが跡を継いだと。負債は辛うじてなし。帳面ではな……それが?」
「ガナドー家へ行きませんか? ライデ様と一緒に事件現場も見てみたいです。一緒に行ってください」
ライデ・ジーロという青年は18歳の割にもっと幼く見える少年に「一緒にイってください」と焦がれるような目で請われて少し固まったが、他意はない! 自分にもイヅにも! と呪文のように脳内で唱えて硬直を解いた。
(早く解決して本代を稼ぐぞ!)
(それにしてもこの部屋は空気が乾燥しているな。カビ対策だろうな…)
イヅはしっとりとした目を瞬かせながら彼と部屋を出た。
※ ※ ※
「なるほど。これは……」
「使用人どころか、番犬もお払い箱にするのだからかなり厳しい財政難だったようだ」
「邸宅の規模は……」
乗合馬車を継いでフロン・ガナドーの邸宅に来ると、イヅはその屋敷の造りを眺めた。
街中に構える屋敷としては小規模。海運の儲けで買ったのは郊外の複数の別荘や事業拡大の投資。成金にしては手堅い買い物だ。
それもこれも帝国やお家に万が一が発生した場合に備えて預金と保険に余念がなかったのだろう。
それが先細りするほどの海難事故とは本当についていないとしか言えない。
「中に入ろう」
「はい」
ライデ・ジーロ子爵が先頭に立ち右手後方で従者の顔で付き従うイヅ。
彼と歩く時はこのポジションが一番無難だ。
瀟洒な造り。豪華絢爛とはいかないが、他の貴族を招いてのお茶会なら及第点以上のおもてなしが期待できると想像に難くない。
2人は2階建ての邸宅の隅々まで歩く。外部や庭では警吏たちが警備にあたっている。屋内には2人だけだ。
「ここですか」
「ここなんだよ」
2人は殺人現場の部屋の前に立つ。
ドア。鍵があるドアノブ。
ライデ・ジーロ子爵が鍵で解錠してドアを開けて先に入る。
「……」
イヅは鍵穴と子爵から借りた鍵を見比べる。前回の安宿のドアの鍵と違って名のある職人が作ったものだと一目で分かる。鍵穴をのぞくが、部屋の中を見通せない時点で厄介な鍵だと分かる。
「家令のゴフはここで死んでいた」
子爵は細い指で差す。
血溜まりの跡が見える。固まった血飛沫にゴミ虫やキンバエが集っていた。
これだけの血液の流出ならば助からない。前回の安宿のような偽装された血痕でもない。
ただ気になったのは……。
「ライデ様、この血の跡ですが、これだと」
「?」
「これだと、家令のゴフはここで倒れて背中を壁に凭れさせて腹を何度も刺されていることになります」
「報告書の通りだろ? それが?」
イヅは少し思考を巡らせる素振りで天井を見る。
「事件当時にこの邸宅にいたのは被害者ゴフと主人のガナドー卿だけ……ですよね」
「うむ。使用人も事件前に解雇したばかりで……!」
すぐにライデは気が付く。
「急な解雇の逆恨みか! 確かに全員が円満な解雇でなかったので不満が大きかったようだ。餞別も少なかったし、別口の雇先の紹介もなかったと証言している」
それを聞いたイヅは報告書で知っていたとは言え、やはり、第一の容疑者群の聞き込みは必至だな、と思い後頭部を掻いた。
それを慇懃に受け取り目を通すイヅ。
どれもこれも玉石混交。
夜警団から挙がってきた報告書はかろうじて字の読み書きができる者が書いたであろう読みにくい報告書。
治安府の警吏が提出した報告書は流石に事務的で読みやすかったが、逆に必要な情報がところどころ抜け落ちている。
その差異は同じ状況を記した別の報告書を比べて読むと、何処のどんな部分の情報が抜けているか比較できる。
曲がりなりにも情報媒体に触れて文筆業を生業にしているイヅから見れば、情報の精度はお世辞にも高いとは言えない。
確かにこれならば、子飼いの情報屋を頼りにする治安府関係者が多くて当たり前だ。
「表向きは、貴族の家に押し入った不逞の輩を追い詰めて然るべき厳しい罰を与えたいから早急に解決せよとのことだ」
「…ですが、この報告書と検分報告で事件が解決できたら苦労しません。正しい情報の精査だけで大量の人と時間と予算を使ってしまいます」
「被害者が名誉貴族ならなんとか放置できた事件だが、落ちぶれたとは言え、海運卿の男爵が被害者だと貴族のメンツが許さないんだ……」
頭痛の種を払うかのように目の前に出された茶を飲んでから不意に席を立ち、テーブルの燭台を寄せて獣脂でできた蝋燭の火で葉巻に火を点ける。
気が荒れているのか乱暴に紫煙を吐き出す。彼は「名誉貴族なら放置できた」と思わず放言してしまったことに嫌悪している。正確には庶民など切り捨てればいいという意味の言葉を庶民のイヅの前ではなってしまった悔悟だ。
イヅは人の命など木の葉のように軽いこの世界で生きている庶民なので特に気にしなかったが、子爵様は貴族の貫禄を出せないでいる。
(ライデ様は何か平民階層に思うところでも有るのか?)
「分かりました…と気軽に言えない事件ですね」
「ああ。私がこの事件を解決したら、ガナドー家と反駁し合う集団や家系に目をつけられるのだろうな……事件を解決しなければガナドー家と加盟しているその派閥から恨まれる……」
苦い薬を飲み込んだような顔で葉巻を吸う子爵。
貴族に生まれなくてよかったと思う一方で、貴族のお家の話になる度にこの世で一番嫌いなあいつの顔がどうしても脳裏を過るのでイヅの顔も苦くなる。
「兎に角、今すぐできることはありません。ライデ様さえよろしければ明日の日次刻(午前10時)に捜査を始めませんか?」
会話の先制権を先に発揮するイヅ。
貴族に対して庶民が提案してそれを飲み込ませるのは普通なら不敬として処罰されても仕方がないが、ライデ・ジーロ子爵はイヅの知恵を借りたいので都合よく自分の、下層の人間に頭を下げられない身分の弱みを解釈してくれたイヅの申し出に頷いたのだ。
「あ、ああ。そうだな。家令のゴフの死体も治安府の検視室だし、ガナドー家の邸宅は不寝番の警吏たちが見張っている」
「念の為に聞きますが、今回の捜査の主導はライデ様で間違いないですね?」
「いかにも。それがなにか?」
少し含みのありそうな呼吸の間合いを置いてイヅはできるだけ敬愛する子爵様を怒らせないように静かに言った。
「先日の一件では危うく私に流れ弾が飛んできそうだったので。失礼ですが、今回もそれを防ぐ盾も見当たりませんでしたので」
「ああ、ルーフン公爵の話しか。それは問題ない。あの件のように横紙破りな命令系統から降りてきた捜査の指令ではない」
「それは何よりです。安心しました」
人に物を頼むにしても背後を見せているうちに、愚痴を垂れている姿を装う必要があるとは貴族とはなんと面倒な世界の住人なのだろう、とはおくびにも出さない少年だった。
※ ※ ※
日次刻(午前10時)を僅かに経過。
治安府の門の前で向かいの役所の壁に背を任せていたイヅの顔がひまわりのようにぱっと変わる。
その唐突な笑顔に中てられたライデ・ジーロ子爵はつられて笑顔になる……のを堪えた。
威厳ある治安府でニコニコと白い歯を見せて笑う治安府の役人などと噂されればいらぬ悪評がたつ。
ただでさえ、ジーロ子爵に浮いた噂の一つも浮いてこないのは、陰で稚児を囲っているからだという噂が立っている。何処の誰がそんな寝も葉もない噂を! 稚児とは誰のことだ! と少し職場の空気に嫌気が差している。
治安府の庁舎から出て、誤魔化しの咳払いをしてからイヅを門の内側から招いた。
いつもながらに面倒臭い儀式だが、これが貴族と庶民の隔たりを示す行いなのだと理解している。どんなに事件を解決しようとも、イヅは庶民だ。下賤な生まれの一人に過ぎない。
2人は挨拶をした後にすぐに検視室へと向かう。
「これは……」
「言葉に詰まるだろ?」
死体安置用の台に60絡みの中肉中背の壮年が瞑目したまま横たわっている。
全裸で。
検視官が書いた報告書をライデ・ジーロ子爵から受け取る。彼はもう既に内容を覚えているのかもしれない。
「腹部に6箇所の刺傷。凶器は鋭利な両刃のナイフ」
チラと死体の横の台に置かれたナイフを見る。
子爵様が少しでも情報の足しになればと凶器と思われる刃物や脱がせた衣服なども並べさせていたのを見た。
(このナイフか。刃渡り、刺傷…の形状…は間違いない)
(けど、これは……)
イヅは検視の報告書と死体とナイフを何度も往復して見る。
辺りを見回す。
予め、ライデ・ジーロ子爵が人払いをしていたので少なくともこの部屋には2人以外に誰も居ない。潜伏する場所もない。
「やはり『おかしい』だろ?」
ふと、葉巻の香りが漂ったと思ったら、子爵が背後から顔を寄せて、イヅの右耳の近くで囁いたのだ。
熱い吐息と普段から隠さない美声がねっとりとイヅの体内に入り込む。
少年の右耳は瞬間的に沸騰したように真っ赤に熱を帯びる。両足がぶるりと震えて内股になる。
「は、はい……おかしいですね」
イヅは子爵の奇襲に辛うじて耐えて平静ないつも通りの声で返答する。まあ、彼は奇襲を仕掛けたつもりはないだろう。普通に接したつもりだろう。
今、彼に赤い顔を問われるとなんと返答していいか分からないので、できるだけ彼の方に顔を向けない。
少なくとも顔から熱が引くまで見ないでおこう。
(美人は声まで美人なのだから困る……それにらいで様の声は間近で聞くといつも濡れているような感じがするんだよなあ)
(もしもこの先、音声を閉じ込められて自由に聞ける絡繰が発明されれば、声だけの色街ができて繁盛するのんじゃないか?)
検視の報告書を再び見る。
「6箇所の刺傷。大量の血液を短時間で失ったのが死因。毒でも盛られない限りそれは覆らないでしょう」
「私も同意見だ」
「そして、これも同意見だと思います」
イヅは台の上に置かれたナイフを手に取る。
細かな装飾が施された柄とヒルトから伸びる両刃の身。
刃渡りはイヅの尺骨ほどもある、大型のナイフ。護身用としてだけでなく、日用としても腰に提げているのだろう。この国では老若男女問わずに何かしらの刃物を持っているので不思議ではない。
イヅも葦ペンを削るための折り畳みナイフをいつも持っている。
脱がせた衣服のズボンのベルト部分に鞘があった。
「1箇所だけ、『違う刺し傷』があります。他の5箇所とは異質です」
「気付いたか」
「はい。報告書を信用するのなら『凶器はこのナイフで間違いない』と思います」
イヅは彼の勤務場所を重んじて彼の職掌を侮辱しないように言葉を選んだ。
子爵は美しい顔を小さく歪ませると、眉間に浅い溝を作る。
「『そのナイフで決まりだろうな』」
「異論は今のところありません」
「『これ』に気が付いたのだな」
「はい」
子爵は解剖に使う刃渡りが短く柄の長い鋏を指で摘んで、その切っ先を他の5箇所を点々と指す。
ここにあるナイフで刺されたのは5箇所。
それはきれいな刺し傷で痕に乱れがない。
腹部に集中した6箇所の刺傷痕。
5箇所は見事な刃物で刺された痕。
残りの1箇所は切れ味の悪い同じ大きさのナイフか類似する刃物。……その刃物は見つかっていない。
(事件か? ……『法律上は事件になる』だろうな……)
脳裏に一つの仮説が過る。
仮説の段階なのでイヅはいつも通りにそれを述べない。
「犯人は『複数』の可能性だ。家令のゴフはナイフで立ち向かおうとしたがナイフを奪われて刺された」
「ですが、ライデ様はその報告を疑っていらっしゃる」
「ああ。傷口が腹部に集中。凶器が違う刺し傷が刺傷群まぎれているのが気になる」
全くの同意見だ。
「海運で一儲けしたお家なら、結構な造りのお屋敷なのでは?」
「ん? ああ、海運業で儲けたのは先々代までの話で、先代からは海難事故が続いて財政は厳しくなっていた。で、先代は亡くなり長男のフロンが跡を継いだと。負債は辛うじてなし。帳面ではな……それが?」
「ガナドー家へ行きませんか? ライデ様と一緒に事件現場も見てみたいです。一緒に行ってください」
ライデ・ジーロという青年は18歳の割にもっと幼く見える少年に「一緒にイってください」と焦がれるような目で請われて少し固まったが、他意はない! 自分にもイヅにも! と呪文のように脳内で唱えて硬直を解いた。
(早く解決して本代を稼ぐぞ!)
(それにしてもこの部屋は空気が乾燥しているな。カビ対策だろうな…)
イヅはしっとりとした目を瞬かせながら彼と部屋を出た。
※ ※ ※
「なるほど。これは……」
「使用人どころか、番犬もお払い箱にするのだからかなり厳しい財政難だったようだ」
「邸宅の規模は……」
乗合馬車を継いでフロン・ガナドーの邸宅に来ると、イヅはその屋敷の造りを眺めた。
街中に構える屋敷としては小規模。海運の儲けで買ったのは郊外の複数の別荘や事業拡大の投資。成金にしては手堅い買い物だ。
それもこれも帝国やお家に万が一が発生した場合に備えて預金と保険に余念がなかったのだろう。
それが先細りするほどの海難事故とは本当についていないとしか言えない。
「中に入ろう」
「はい」
ライデ・ジーロ子爵が先頭に立ち右手後方で従者の顔で付き従うイヅ。
彼と歩く時はこのポジションが一番無難だ。
瀟洒な造り。豪華絢爛とはいかないが、他の貴族を招いてのお茶会なら及第点以上のおもてなしが期待できると想像に難くない。
2人は2階建ての邸宅の隅々まで歩く。外部や庭では警吏たちが警備にあたっている。屋内には2人だけだ。
「ここですか」
「ここなんだよ」
2人は殺人現場の部屋の前に立つ。
ドア。鍵があるドアノブ。
ライデ・ジーロ子爵が鍵で解錠してドアを開けて先に入る。
「……」
イヅは鍵穴と子爵から借りた鍵を見比べる。前回の安宿のドアの鍵と違って名のある職人が作ったものだと一目で分かる。鍵穴をのぞくが、部屋の中を見通せない時点で厄介な鍵だと分かる。
「家令のゴフはここで死んでいた」
子爵は細い指で差す。
血溜まりの跡が見える。固まった血飛沫にゴミ虫やキンバエが集っていた。
これだけの血液の流出ならば助からない。前回の安宿のような偽装された血痕でもない。
ただ気になったのは……。
「ライデ様、この血の跡ですが、これだと」
「?」
「これだと、家令のゴフはここで倒れて背中を壁に凭れさせて腹を何度も刺されていることになります」
「報告書の通りだろ? それが?」
イヅは少し思考を巡らせる素振りで天井を見る。
「事件当時にこの邸宅にいたのは被害者ゴフと主人のガナドー卿だけ……ですよね」
「うむ。使用人も事件前に解雇したばかりで……!」
すぐにライデは気が付く。
「急な解雇の逆恨みか! 確かに全員が円満な解雇でなかったので不満が大きかったようだ。餞別も少なかったし、別口の雇先の紹介もなかったと証言している」
それを聞いたイヅは報告書で知っていたとは言え、やはり、第一の容疑者群の聞き込みは必至だな、と思い後頭部を掻いた。