【第2章】一足遅れの哀歌

「誰かいないかー! た、助けてくれ!」

 早次刻(午前4時)の、早い街中に若い男の声が静謐な空気を裂いて突き通る。
 それを聞きつけたのは漸く巡回が終わったばかりで帰路に就こうとしている数人の夜警団だった。

 彼らは蛮勇を誇る粗野な人間たちであったが、自分たちに助けを求める声には使命感によって敏感に研ぎ澄まされていた。
 従って、その声を聞くやいなや、我先にと声がした方向へと走りだす。

 しかし、腕っぷしで鳴らす彼らも、そこへ来るなり、爪先に制動をかけて停止するしかなかったが。対して、助けを呼んだ主は構わないから早く来てくれと叫んだ。

 それはいつもの夜明けとは違う始まりを報せていたが、少年がそれを実感するのは、起床していつも通りに生業のために頭を絞る前日のことであった。

  ※ ※ ※

 イヅは今日もズァルト帝国よ朗らかたれと心で祈りながら露店で朝食を食んでいた。

 今朝は芋の蔓に似た根っこが多く含まれた雑穀粥だ。粥はズァルト帝国の国民食だ。 
 帝国の粥はズァルト帝国が建国する前に礎を築いた民族が雑穀と肉や魚を香草と煮込んで嵩を膨らませたものが起源だという。
 歴史ある国民食で、皇帝陛下におかれても主食として粥を召されていると聞くが、どのような穀物でどのような具材が入っているか興味は深い。帝国の粥は、穀物で煮込んでいれば粥という大きなくくりに分類される大雑把な料理だ。

 雑穀粥を啜りながら、テーブルの上に広げた懐紙を見ながら本日の予定を確認する。

 手書き新聞の項目の先頭にある四角い印にはバツ印が入っている。この仕事はもう済んだ。

 手紙の代筆に、ペンすら持てなくなった病人の口述筆記、日用品の買い出し、代筆業者の斡旋場で依頼の受け取り……。

 これじゃ今夜も夜警は辛いな、と口の中が塩辛くなる。

 そう言えば、昨日の朝早くに隣の区画で物騒な事件が発生したらしいが、あの区画はライデ・ジーロ子爵の担当なので彼は今頃、指揮官の選抜に忙しいだろう。
 
 子爵の職掌は現場での事件解決ではなく、その事件解決に相応しい人物やチームを編成するのが本来の仕事だった。
 ところが、治安府は慢性的な人材不足で高級警吏が自らも現場に出る機会が多い。
 人材に困らなければ、そもそも自警団やその下部組織の夜警団に巡回を委託したりはしない。

 何かと時間があり、イヅと絡んでいるライデ・ジーロ子爵だが、それは机での事務仕事から逃げ出す口実を作っては、庁舎外へ出て気分の入れ替えを頻繁に行っているだけだ。
 怠け者ではないが、組織であるからには自分一人が不在でも組織なのだから代わりはいくらでもいるだろうと自分の重責を甘く視ているフシがある……のかもしれない。

 自警団や…ひいては夜警団や、街角の警吏から挙がってくる報告書に目を通し、事件性があるのならその度に専門の組織を構築する。
 普段から書類だけに目を通していればいい楽な身分ではなく、いつでも自分の仕事のためによい返事を返してくれる使い勝手のいい駒を確保していなければならない。……自身の息抜きの時間を増やすために。

 なのに、あの子爵様は記憶力がよくて勉強ができるというだけの応用力に乏しい性分のくせに、貴族の間で通用する人心掌握術より、庶民に飴を与えることのほうが得意な人間なので、職場の治安府では割と陰口を叩かれているらしい。
 口の悪いやつ等は子爵を昼行燈などと呼ぶのだという。

(……の、かもしれないなぁ)
(まあ、当たらずしも遠からずだろうなぁ……)

 ふと思考が、顔だけはいい子爵に飛び火すると、少しだけ粥の味の塩気が引いたような気がした。

 イヅが自宅へ戻る途上で同じく副業で夜警団に所属している青年に会った。
 その青年より聞き捨てにしたい言葉を聞く。

「今夜の巡回前の集会にジーロ子爵様が来るってよ」

 笑顔でそれはどうもと答えたがイヅの頭の中は一気に曇る。
 ライデ・ジーロ子爵は本来ならばはるか後方でふんぞり返っていなければならない地位にいる人物なのに、自身が直々に現場付近へ出向くことが多い。
 彼曰く、後学のためらしいが、後学以前に治安府の基礎の仕事もこなしてほしい。

 すなわち、イヅの脳内が文筆家から商人へと切り替わったのだ。

 面倒ごとの匂いがする。

 子爵様は善人に違いないが、善人だから悪事が寄り付かないとは限らない。

 さらに子爵様は場の雰囲気を読めないことでも有名で、『頼られれば断固として断ることが苦手なのだ』。

 それがどんな不条理でも、理にかなった案件でも、根が善人ゆえに職業や地位を天秤にかけて無下にするのが苦手なのだ。もしかしたら、推し量るという概念を知らないのかもしれない。
 
 食事をしながら考えていた本日の予定の一部を省略するか先送りにするか考え始めた。

 ……子爵様が直々に集会所へ来る。

 大きな駄賃の匂いがする。  
 イヅの知的探究心を擽られる見返りが手に入るチャンスが訪れたかもしれない。……『商人の頭のイヅ』はそう考える一方で、本来の文筆家としてのイヅを抑え込んでいた。

(いい匂いがする)

 どうやら彼の脳内では高速で算盤を弾く商人のイヅが勝利したらしい。

   ※ ※ ※

 二律背反に決着をつけるように、緊急で重要な仕事だけを片付けたイヅは、どうせ子爵様は自分に用があるのだろう? と大きく高をくくって集会所に出向いた。

 時刻は宵前刻(午後8時)の鐘が鳴ったばかり。

 イヅが到着すると、巡回に出る班分けが終了して、どの班がどのコースを廻るのかが既に決まっていた。

 驚いたのは、その陣頭指揮を取っている夜警団の団長の背後で苦い顔をしているライデ・ジーロ子爵が椅子に座り、腕も足も組んでいた事だ。

 虫の居所が悪いのがよく分かる。
 少しだけ気を引き締めるイヅ。

 夜警団の団長と各班が威勢よくぞろぞろと集会所を出ていくと、子爵は眉根を揉んで座ったままイヅを見た。

(苛立ち、恥、隠蔽……)

 失礼なことだと分かっていても、自分の好奇心には勝てずに子爵様の『小さな表情』を読み取る。

(あ、これは…面倒な仕事を理不尽に押し付けられた顔だな)
(多分、横紙破りな命令が下りてきた感じか、それに近いことかな)
(ん? このストレス反応は防衛か?) 

 イヅはご愁傷さまと心で苦笑いをする。表情には出さない。つとめて、ごきげんようライデ様。と、こうべを垂れて挨拶する。

「イヅ……『大方、お前の思っているとおりだよ』」

 彼は遣る瀬無いため息とともにそう言った。

 イヅもその表情と台詞、声色から、何故子爵が既に勤務を終えている時間帯にわざわざ自分から夜警団が集まる集会所まで来たのか分かりつつあった。
 彼の職掌だが、彼に招集がかかる大きな事件は『今日は』発生していない。ならば昨日早朝の件だろう。

「先に言う。『この件』は爵位階層の間での均衡に直結する話だ」

 イヅはあ、と口を開く。早くこの先の話を聞かないようにせねば。
 この話は最後まで聞くと危険な匂いがする。
 どんなに高額な書籍をちらつかされてもこの話だけは別物だと、直感が囁いている。

「お待ち下さい! そのような話はこのような小屋同然の場所では不釣り合いです!」

 イヅは直接、拒否するのではなく、彼のこれから話す内容が高貴で高度な立場だけの人間が口にするのだから破落戸同然の庶民しか集まらない下賤な場所でするべきでないと、子爵の立場を思い出させるように言う。

 爵位持ちだけが集まるサロンの個室で当事者同士が額を合わせながらひそひそと憚りながら話すのが普通だ。……爵位持ちの普通はどのようなものかは詳しくは知らないが。

「この集会所だから安全なんだ。壁は薄いが、幾つもの部屋が有って、各部屋は今しがた全て空になった。表や裏には不寝番が立っている。最初の巡回班が帰投するまで一刻(2時間)以上ある。寧ろ、治安府のほうが魔窟だ。爵位や役職や俸禄の下剋上を狙う狐連中が何処に手の者を放っているか分かったものではない」
「……」

(こりゃ、深刻だな。自分のお家が抵当にでも入りそうな深刻加減だ)

 勉強ができる馬鹿だから職場でも馬鹿とは限らない。
 勉強ができるゆえに、『注意すべき事柄』を全て頭に叩き込めば、最低限、それを守る能力を得たことになる。

 ライデ・ジーロ子爵は、だからといって都合が悪いとすぐに駒の一つだと嘯くイヅを駄賃をちらつかせて操り人形にしない。
 
 イヅ自身も彼が日々研鑽を積んでいることは知っている。業務が忙しくて脳内の記憶の棚を整理している暇が無いのだ。
 その足りない部分を埋めるための都合の良い駒が自分だとイヅは自分で思っている。状況に応じて適切な場面で適材を起用するのは人を束ねる者として当たり前の技能だ。

 この距離感がいい。
 使う者と使われる者の距離感はこれくらいがちょうどいい。

 その距離感が破綻する時は決まって面倒な、それも庶民出身ではどうしようもない事態が発生した時だ。

 泣く子も黙る暴力好きな男連中が集まる集会所に好き好んで侵入する馬鹿は本物の馬鹿だ。

 この小屋が安全だという彼の言葉はある意味では正解だった。

 子爵が治安府務めで夜警団のスポンサーでなかったら、たとえ爵位持ちでも鼻をひん曲げた顔をしてこの集会所には近寄らないだろう。

 暫し、少年と青年子爵の視線が交差し、圧力で鍔迫り合いをする。
 貴族の言葉が聞けぬのか! と癇癪のように腰の剣に手を伸ばさない子爵に対してイヅは最大の、そして僅かな譲歩として、目を伏せた。
 視線をずらすことで、圧力での鍔迫り合いはイヅの負けと相成った。彼へ勝利を譲った。
 ここで視線で問答をしていても何も話が進まないと少年は表情の端で溜め息を吐く。きっと今の少年には諦めや疲労の『小さな表情』が現れていただろう。
 
「僕はお茶を淹れます。ライデ様が喉が渇いたと無様に喚き散らす言葉は聞きたくないので」

 少年の無礼な言い草に対して、深く長い一息を吐いたライデ・ジーロ子爵は顔ですまんな、と勝利したはずなのに、敗北を知った顔を見せる。
 少年が背中を見せているうちに少年に聴いてほしいことを全て話してしまっても、それは『茶の一杯も出さないとは! それはスポンサーに対する敬意が足りない証拠だと』聞こえにくい小さな声で愚痴を溢しているだけだと、イヅは『受け取って』くれるのだ。

 物分りの良い少年で助かった。

「二日前の早次刻(午前4時)頃に海運卿ことガナドー男爵の邸宅で殺人事件が有った」

 子爵はとつとつと喋りだした。
 
「近隣の巡回を終えて帰投していた最中の、その地元の夜警団員にガナドー家当主のフロン・ガナドー男爵が助けを求めた。夜警団員が男爵の許可の元、邸宅に入ると、彼に仕える家令ゴフ・リルトという壮年が腹を複数箇所、刺されて死んでいた。犯人は強盗らしく、フロン・ガナドー男爵も背後から殴られて気を失っていた。」
 
 ライデ・ジーロ子爵は一旦言葉を区切った。

「ただ、ただ……」

 そのまま彼は沈黙した。

 沈黙したまま中々続きを話さないので、此処から先が機密事項に該当する部分に抵触するのかと生唾を飲んだイヅ。

「家令が発見された場所は密室だった」

 イヅは思わず「またかよ!」と叫びたくなる衝動を下唇を強く噛むことで抑えて防ぐ。
 
「先代のガナドー家当主には我がジーロ家も輸入品の販路で世話になっているから、穏便に事件を強盗だけで済ませたいのだが」
「?」

 言葉の切れが悪くなる子爵を思わず振り向いて見てしまう。

「この事件……正直言って、臭い。当主で長男のフロン・ガナドー男爵はよく知っているが学業も先見性も次男のほうが上で嫡子権は次男が引き継がれると思っていたのに長男のフロンが継いだ。家令のゴフは私もよく知っている。ガナドー家のため若い頃より尽くしてきた忠義の人だと聴いているしそのとおりだと思う」

 イヅは思わず口を挟む。『彼の愚痴』に思わず口を挟む。

「ライデ様、何がどのように臭いのですか?」

 イヅの割って入った言葉に応答するように話すライデ・ジーロ子爵。

「家の財政難のために使用人や下男を全て追い出した当日に狙ったかのように事件が起きた。内部の事情を詳しく知っている人間が犯人なのだろうが、だとすれば……家や『コミュニティ』同士の泥の塗り合いになる」

(あー……それか……)

 爵位持ちの貴族は家や派閥や属している『協会』などの集団性の帰属意識が強く、横の連帯が強固だ。
 ガナドー家をよく思っていない何処かの貴族が仕組んだ事件の可能性が否定できないとライデ・ジーロ子爵は言っているのだ。
 そして、そう言った横の連携の強い集団や組織や家系の一端に狙われると、末代まで嫌がらせを受ける。

 その面倒くささを抱えつつも性根が真面目な子爵は僅かな事件性が無視できずに心を曇らせているのだ。

 実際にフロン・ガナドー男爵は襲われて夜警団に助けを乞うている。つまり、被害届が出されたわけだ。

 イヅは話の背景を仮説無しで読み取った。
 子爵は、被害届が受理された以上捜査はするが、この事件はただの行きずりの犯行だと証明しろと命令されて、道化を演じさせられる自分が歯がゆいのだ。

 なんでもかんでもなあなあで済ませる事件の報告書など、治安府という組織の中では箸にも棒にもかからない奴がする仕事だという位置づけなのだろう。……それは仮説を立てなくとも彼の表情を見ていれば分かる。

 彼の顔が「私がなんでこんな事をしなければならないのか?」と黙って理不尽を表明している。

 イヅは遣る瀬無い息を吐くと、頭を抱える彼の前に安っぽい器に入った茶を置いて一言、湿度が多く粘液質な声でこう言った。

「……今回のお駄賃、楽しみだなぁ」
「!」

 はっと子爵は顔を上げた。

「人格者であらせられる子爵様はまさか、愚痴を長々と庶民に聴かせただけで終わらないでしょう。何か口止め料的なものをお支払いになるやも知れません。…これは独り言ですが、珍しい書籍が入荷したのですが、今月は財布が寒くてまいっています」

 イヅはわずかに微笑んだ顔でやけに赤い舌を出して唇を湿らせて彼の顔を見た。
 駄賃の強請りに、自分の顔が一定の層に受けているらしいのを悪戯心から試したくなっただけの軽い気持ちのイヅだったが、ライデ・ジーロ子爵は激しく情緒が乱された。

 貴族の威厳として、奥歯で舌を噛んで平常を装う。

 早くも彼の頭の中ではこの少年に報酬として何を与えるべきか考え出して恐ろしくなった。
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