【第1章】喋らない者とその者ども
「じゃあ……」
視線がゆっくりと死体に向けられた子爵の顔が青ざめる。
いわずもがなだ。
イヅはうなずく。
「なのでこの死体を解剖してほしいのです。特に喉から肺といった呼吸に関する臓器を」
顔が青ざめた子爵は今度こそ、気付け薬としてフラスコを呷る。
「まいったな…。しかし、色々と繋がってきた」
「だと思います」
「宿屋の惨状はわざとこしらえたもので、撹乱が目的……か……」
ライデ・ジーロ子爵は独りごちるように呟く。
「ええ。予め西の外れの倉庫で生きた鶏の首を落として血を抜きとり、その血を宿屋でまいたのでしょう。宿屋の2人の協力者も顔色を悪くするのも当然でしょう」
イヅは青い顔ながらも必死で思考を回転させて推理を固めようとしている子爵のつぶやきを拾って補足する。
「しかも鶏は死体の隠蔽の小道具にも使われた…あの倉庫までドルを運んだ協力者は」
「…その協力者のお陰で移動距離が計算どおりに合致しています。しかし、今は『敢えて余分な情報は思考の範囲外』に措いておきましょう」
「何故だ? それこそが分からない! お前は何を隠している! 何を知った!」
ライデ・ジーロ子爵は気付け薬の勢いもかったのか、苛つきと怒りを含んだ強い語気でイヅに怒鳴った。
イヅは視線を右下に落としてキュッと握り拳を作る。
「仮説は実証されてこそ価値があるんです。それがもうすぐ僕たちの目の前に現れます…それまで、新しく現れた協力者の存在は『触れない方がいい』……それが…それが、僕の仮説なんです」
悔しさとも悲しさとも思えるか細い声でイヅは唇を噛む。
その姿が酷く頼りなさそうに見える。ランタンをかざせば消えそうな雰囲気をまとう彼は小さな少年そのものだった。
八つ当たりをぶつけてしまった子爵は奥歯を噛んですまん、と沈痛な声でイヅに謝罪する。
イヅはも仮説が仮説でなくなったらと考えると、仮説に至る論拠を全て開陳するわけにはいかなかった。
彼自身、子爵が自ら推理したのを口に出してくれたのでそれに乗じて補足するという形で今回の事件の全容を『示唆』することで襲いかかる『何か』から身見を守ろうとした。
その結果、彼を怒らせてしまい、爵位持ちなのに庶民に謝罪をさせた。
普通なら、無礼極まりないと、彼が腰に佩いた剣でイヅの首は切り落とされているだろう。
到底、本を買う駄賃がほしいために支払う危険ではない。
子爵の信頼よりも子爵の陰りのない笑顔を見たい思いが……無いと言えば嘘になる。
……ような気がする。
「ガラが実行犯で間違いないと思われますが、検視報告のとおりだと、殺害されてから右足を切り落とされたのは正しいと思います」
「…それは報告書に書いてあったな。お前も言った」
「ただ、ガラや姿のない協力者にとってはドル氏を殺害する予定は無かったと思います」
「生きているから使える駒、の可能性です」
「!」
ライデ・ジーロの美しい顔が引き攣る。
「予定外が予定外の場所で発生したために予定外の行動をしたのではなく、予定通りの場所で予定外の行動をしたのです。その結果、筋書きの最後だけ変更した」
「それがドルの死、か」
イヅはうなずく。
「分かった。兎に角、腑分けしないとダメなんだな」
「はい」
「すぐに解剖医を呼ぶ」
それから四半刻(30分)ほど経過して死体の解剖が始まったが、イヅはその場には立ち会わなかった。
立ち会うことになった子爵にこう言った。
「『何が出ても』それは僕には言わないでください。『何も出なかったら』、僕に言ってください」
※ ※ ※
「怒鳴ってしまってすまなかった。お前が気を使って『守ってくれてたんだな』」
子爵は露店でいつもの粥を啜っていたイヅにぼそりぼそりと話しだした。
イヅの対面に子爵が座っている。
子爵は濃厚な風味の茶を目の前にそれが冷めるままにしている。
検視解剖の結果、イヅが聞きたくなかった展開となった。
『何かが出た』のだ。
それが何であるのかは子爵は言わない。
今回の駄賃だ、と辺りに聞こえない声で話して、テーブルの上に布で包まれた四角い何かを置く。
まだ昼時だ。
何処で誰の目が光っているかわからない。何処の誰が聴いているかわからない。
ドル氏の解剖から3日経過した。
イヅの顔には疲労と報われないモヤが浮かんでいる。豚肉と野菜の切れ端が入った麦主体の雑穀粥の味がしない。
「さて、今日は報奨金が出たので朝から飲んでいるので気分がいい。だから独り言を言うかもしれないが、それは酔っ払いの戯言なので忘れてくれ」
子爵は隠す気のない前置きを言う。
「僕は連日の代筆業と夜警の副業と何処かの誰かさんの手伝いで疲労困憊です。ましてや耳目を立てて集中するのを放棄してます……子爵様の麗しいお顔も蜂蜜のようなお声も記憶に残せるわけがあろうはずが有りません」
平凡な声の見事な棒読みを返答として置くイヅ。
子爵は茶を少し口に含んで少年の真正面に座りながらも左肘をつき、そこへ顎を乗せて目は左を向けて聞いた噂話をするように話し出す。
「テイ人は宿で商人に麻痺毒の入った酒を飲ませて宿の下男下女に、警吏を混乱させるための細工…なんだったかなぁ、窓際に傷跡とか、床に血糊とか? をさせてから主人の居ない時にテイ人と一緒に商人を裏手口に運び出して未だに警吏にも知られていない御者にそいつを運ばせたようだ」
イヅは今日の粥は豚肉が多いので助かると思いながら鉢に匙を差す。
「で、倉で密輸している商品の品目を言え、俺たちにも上がりを寄越さないと治安府に訴えるぞと脅したそうな」
イヅの匙が鈍る。子爵は筋書きの大きな改変をしたらしい。彼の声のハリと抑揚の変化で分かる。大きく息を吸う呼吸も聞こえる。
「断った商人は一番価値がある商品を飲み込んで喉をつまらせて死んだそうな。それをみた犯人連中は驚いて死体を隠そうと思ったが…運悪くそこが夜警団が巡回するコースだと知るやいなや、焼いて証拠を消そうと油をまいて火を点けたそうな」
一番価値がある商品…それがドル氏が飲み込んだ『何か』だろう。流石にそれが何なのか具体的に聞きたくはない。聞く気もない
『何か』の正体が分かると同時に仮説が証明されるが、それは同時にイヅの生命的な意味での破滅を指す。
ルーフン公爵子飼いの商人が消え去っただけでは一方的に犯人側が疑われるので、子飼いの商人が裏切った形跡を宿に残し、西の外れの倉庫で『一番価値がある商品』を奪って生きたまま開放する算段が崩壊したのだ。
「まあ、帳簿と帳簿を読む符牒が無いと商人は何もできないな」
イヅの目が細く鋭くなる。
帳簿と符牒。
子爵の声がここで少し淀んだ。
(飲み込んだのは……暗号に対応した解読表!)
(仮説の裏付けが証明されたな……ということはガラは……)
「犯人は捕まったし、何処かの貴族様御用達の商人を強請って自死させたのだからすぐに処刑台送りだろうな」
氏が裏切り者の汚名を被ったまま逃走する役を押し付けて、ガラは大手を振って船に乗り海外へ逃亡のはずだった……のか。
ドル氏を各地に連れ回しては人目に付く場所でわざと警吏に見せつけてさらに各地を転々とする。そうなればあたかもドル氏は逃げているかのように見えるので裏切り者の商人ドルとして指名手配される。
最後まで姿形のわからない協力者は…姿形が有るのかどうか、大きいのか小さいのかのかも判然としない不気味な存在だった。
否、存在たちだった、だろう。
テイ人のガラも帝国内部に放たれた何処かの国の諜報部員なのだろう。それは想像に難くない。決死の思いで任務に臨み、断頭台に露と消える。
処刑されず生きていれば二重スパイとしての使い道もあるだろうが、それはイヅが考えることではない。
イヅは脳内で仮説を思い出して子爵から得た情報と『それまでの違和感を打ち消す仮説』を付け加えて犯行現場を整理する。
ドル氏は西の外れの倉庫で暗号表を何処に隠したのかと拷問に遭っていた。右手が自由だったのは暗号表の在りかや暗号表そのものを筆記させるつもりだったのだろう。隙を見てドル氏は隠し持っていた暗号表を飲み込んで窒息死。
犯人のガラは飲み込んだものを吐き出させようと首を手にかけたが結果的に縊り殺すことになった。
かねてからの通りにこの場で『情報が錯綜する混乱した犯行現場を作り上げて逃亡したと見せかけるためにドル氏は自分の足を切り落とした』……と、普通なら常軌を逸した行動をドル氏に演じさせるつもりだったのだろうが、先にドル氏が死亡し、死体をどうするか考える暇もなく、夜警団の気配が近づいてきたので考え付いたのが死体の隠蔽。
あとで死体を回収するつもりだったのだろう。血痕を作るのに用いた鶏の生々しい死骸を整列させて、床板の下に隠したドル氏の真上の床板に並べていかにも乾物倉庫らしい配列と見せかけた。
その後に放火して夜警団や消防団が破壊消火してほとぼりが冷めた頃にドル氏の死体を回収するつもりだったのだろうが、ガラの背後で居る姿の見えない協力者は、焼け跡にルーフン公爵が配置させた警吏が現場で隙間なく居るので手出しできなかった。
おおかたはその通りだろう。仮説の段階にやや希望的観測や推察を交えただけのイヅの見解だが、それで以て反論したり上申したりするつもりはない。
事件に関与しているであろう、姿の見えない協力者と同じく『名前しか分からない、姿形が分からない、何処に住む、何処の誰の与りであるかも分からないル―フン公爵自体』も恐ろしい存在だった。
世の中には知らなければ知らないでいる方が幸せな事の方が多い。
「……と、そんな与太話を考えついたので戯曲でも書こうと思ったのだが、誰も相手にしてくれないのでこのネタを才気あふれる文筆屋に買い取ってもらおうかと思ったのだが?」
「断固拒否です」
才気あふれる文筆家の部分は否定せず、イヅはつんとした顔で言った。
「たまには優しくしてくれてもいいだろ?」
「優しいにも料金表がありますので今度お持ちします」
2人は軽口を飛ばしているが、少なくともイヅは背中に脂汗が浮いている。
バザーで見た、あの【南方動物稀譚】にこの帝国に潜む外敵の影がちらつく展開になるとは。
結果として、予想通りに知りたくない展開になりそうなので考えるのをやめた。
市井たちが思っている以上に深く敵味方が入り乱れて日夜、諜報活動が行われているとは……。
子爵の戯曲ネタの通りに創作の産物だからこその平和の享受なのであって、背中合わせで亡国につながる戦いが繰り広げられているとは……。
ただの庶民である。シラフで考えたい話ではない。
子爵の懐からフラスコを一口いただこうかと本気で思った。
「それでさっきの戯曲の話だけど」
イヅはまだ続くのかと眉を歪める。
「原稿を書いたのだけど、あ、それだ」
イヅが2人の間に置かれていた布で包んだ四角いものを見る。子爵が最初にここへ置いたものだ。
「『話が読み解けなくなった』のでお前に進呈。受け取ってくれ。有望な若者に投資だ」
そういうと子爵様は言いたいことは全て言ったという顔で満足して席を立った。
恐る恐る、布をめくると、そこには【南方動物稀譚】そのものが有った。
暗号表こと【南方動物稀譚】だ。
目の前で大砲の弾が炸裂したかのような衝撃を受けたが、よく考えれば……。
「あ……」
(そうだよな、そりゃあそうだ)
(ドルとルーフン公爵しか知らないから価値がある暗号表と解読表も、それ以外に暴露してしまえば暗号そのものとして役に立たなくなる……たとえ治安府務めの子爵でも)
(ドル氏の死体を腑分けした時にこの『暗号表』に対する『解読表』を見ていれば本当に僕は今頃墓の下だ)
イヅは暗号表の役目を果たす予定だったであろう【南方動物稀譚】の表紙を撫でる。もうこの本は人畜無害な翻訳書だ。
この一冊のために海の向こうの同郷人は暗号を作ったのだろう。
この一冊だけを運ぶ密使としてドルは危険な船旅を繰り返したのだろう。
この一冊とその秘密を奪うために、見上げるのか覗き込むのかわからない『喋らぬ者とその者共』が命がけで生きているのだろう。
これが今回の駄賃ならば知識欲と同時に国の趨勢すらも占ってしまう推測をしそうだと眉をハの字に下げて悩んだが、本の間に子爵の字で「中身はただの学術書だから安心して読んでくれ」と書かれた紙が挟まれていた。
本を手に取りページをパラパラとめくると、ふわりと彼の葉巻の匂いがした。中身を丁寧に検分してくれたのだろう。
子爵の……イヅを思う心が手元に一つそっと置かれた気分になった。
この本は安心して読んでもいいぞ。
そんな彼の声が今にも背後から聞こえそうだった。
《第一章・喋らぬ者とその者共/了》
視線がゆっくりと死体に向けられた子爵の顔が青ざめる。
いわずもがなだ。
イヅはうなずく。
「なのでこの死体を解剖してほしいのです。特に喉から肺といった呼吸に関する臓器を」
顔が青ざめた子爵は今度こそ、気付け薬としてフラスコを呷る。
「まいったな…。しかし、色々と繋がってきた」
「だと思います」
「宿屋の惨状はわざとこしらえたもので、撹乱が目的……か……」
ライデ・ジーロ子爵は独りごちるように呟く。
「ええ。予め西の外れの倉庫で生きた鶏の首を落として血を抜きとり、その血を宿屋でまいたのでしょう。宿屋の2人の協力者も顔色を悪くするのも当然でしょう」
イヅは青い顔ながらも必死で思考を回転させて推理を固めようとしている子爵のつぶやきを拾って補足する。
「しかも鶏は死体の隠蔽の小道具にも使われた…あの倉庫までドルを運んだ協力者は」
「…その協力者のお陰で移動距離が計算どおりに合致しています。しかし、今は『敢えて余分な情報は思考の範囲外』に措いておきましょう」
「何故だ? それこそが分からない! お前は何を隠している! 何を知った!」
ライデ・ジーロ子爵は気付け薬の勢いもかったのか、苛つきと怒りを含んだ強い語気でイヅに怒鳴った。
イヅは視線を右下に落としてキュッと握り拳を作る。
「仮説は実証されてこそ価値があるんです。それがもうすぐ僕たちの目の前に現れます…それまで、新しく現れた協力者の存在は『触れない方がいい』……それが…それが、僕の仮説なんです」
悔しさとも悲しさとも思えるか細い声でイヅは唇を噛む。
その姿が酷く頼りなさそうに見える。ランタンをかざせば消えそうな雰囲気をまとう彼は小さな少年そのものだった。
八つ当たりをぶつけてしまった子爵は奥歯を噛んですまん、と沈痛な声でイヅに謝罪する。
イヅはも仮説が仮説でなくなったらと考えると、仮説に至る論拠を全て開陳するわけにはいかなかった。
彼自身、子爵が自ら推理したのを口に出してくれたのでそれに乗じて補足するという形で今回の事件の全容を『示唆』することで襲いかかる『何か』から身見を守ろうとした。
その結果、彼を怒らせてしまい、爵位持ちなのに庶民に謝罪をさせた。
普通なら、無礼極まりないと、彼が腰に佩いた剣でイヅの首は切り落とされているだろう。
到底、本を買う駄賃がほしいために支払う危険ではない。
子爵の信頼よりも子爵の陰りのない笑顔を見たい思いが……無いと言えば嘘になる。
……ような気がする。
「ガラが実行犯で間違いないと思われますが、検視報告のとおりだと、殺害されてから右足を切り落とされたのは正しいと思います」
「…それは報告書に書いてあったな。お前も言った」
「ただ、ガラや姿のない協力者にとってはドル氏を殺害する予定は無かったと思います」
「生きているから使える駒、の可能性です」
「!」
ライデ・ジーロの美しい顔が引き攣る。
「予定外が予定外の場所で発生したために予定外の行動をしたのではなく、予定通りの場所で予定外の行動をしたのです。その結果、筋書きの最後だけ変更した」
「それがドルの死、か」
イヅはうなずく。
「分かった。兎に角、腑分けしないとダメなんだな」
「はい」
「すぐに解剖医を呼ぶ」
それから四半刻(30分)ほど経過して死体の解剖が始まったが、イヅはその場には立ち会わなかった。
立ち会うことになった子爵にこう言った。
「『何が出ても』それは僕には言わないでください。『何も出なかったら』、僕に言ってください」
※ ※ ※
「怒鳴ってしまってすまなかった。お前が気を使って『守ってくれてたんだな』」
子爵は露店でいつもの粥を啜っていたイヅにぼそりぼそりと話しだした。
イヅの対面に子爵が座っている。
子爵は濃厚な風味の茶を目の前にそれが冷めるままにしている。
検視解剖の結果、イヅが聞きたくなかった展開となった。
『何かが出た』のだ。
それが何であるのかは子爵は言わない。
今回の駄賃だ、と辺りに聞こえない声で話して、テーブルの上に布で包まれた四角い何かを置く。
まだ昼時だ。
何処で誰の目が光っているかわからない。何処の誰が聴いているかわからない。
ドル氏の解剖から3日経過した。
イヅの顔には疲労と報われないモヤが浮かんでいる。豚肉と野菜の切れ端が入った麦主体の雑穀粥の味がしない。
「さて、今日は報奨金が出たので朝から飲んでいるので気分がいい。だから独り言を言うかもしれないが、それは酔っ払いの戯言なので忘れてくれ」
子爵は隠す気のない前置きを言う。
「僕は連日の代筆業と夜警の副業と何処かの誰かさんの手伝いで疲労困憊です。ましてや耳目を立てて集中するのを放棄してます……子爵様の麗しいお顔も蜂蜜のようなお声も記憶に残せるわけがあろうはずが有りません」
平凡な声の見事な棒読みを返答として置くイヅ。
子爵は茶を少し口に含んで少年の真正面に座りながらも左肘をつき、そこへ顎を乗せて目は左を向けて聞いた噂話をするように話し出す。
「テイ人は宿で商人に麻痺毒の入った酒を飲ませて宿の下男下女に、警吏を混乱させるための細工…なんだったかなぁ、窓際に傷跡とか、床に血糊とか? をさせてから主人の居ない時にテイ人と一緒に商人を裏手口に運び出して未だに警吏にも知られていない御者にそいつを運ばせたようだ」
イヅは今日の粥は豚肉が多いので助かると思いながら鉢に匙を差す。
「で、倉で密輸している商品の品目を言え、俺たちにも上がりを寄越さないと治安府に訴えるぞと脅したそうな」
イヅの匙が鈍る。子爵は筋書きの大きな改変をしたらしい。彼の声のハリと抑揚の変化で分かる。大きく息を吸う呼吸も聞こえる。
「断った商人は一番価値がある商品を飲み込んで喉をつまらせて死んだそうな。それをみた犯人連中は驚いて死体を隠そうと思ったが…運悪くそこが夜警団が巡回するコースだと知るやいなや、焼いて証拠を消そうと油をまいて火を点けたそうな」
一番価値がある商品…それがドル氏が飲み込んだ『何か』だろう。流石にそれが何なのか具体的に聞きたくはない。聞く気もない
『何か』の正体が分かると同時に仮説が証明されるが、それは同時にイヅの生命的な意味での破滅を指す。
ルーフン公爵子飼いの商人が消え去っただけでは一方的に犯人側が疑われるので、子飼いの商人が裏切った形跡を宿に残し、西の外れの倉庫で『一番価値がある商品』を奪って生きたまま開放する算段が崩壊したのだ。
「まあ、帳簿と帳簿を読む符牒が無いと商人は何もできないな」
イヅの目が細く鋭くなる。
帳簿と符牒。
子爵の声がここで少し淀んだ。
(飲み込んだのは……暗号に対応した解読表!)
(仮説の裏付けが証明されたな……ということはガラは……)
「犯人は捕まったし、何処かの貴族様御用達の商人を強請って自死させたのだからすぐに処刑台送りだろうな」
氏が裏切り者の汚名を被ったまま逃走する役を押し付けて、ガラは大手を振って船に乗り海外へ逃亡のはずだった……のか。
ドル氏を各地に連れ回しては人目に付く場所でわざと警吏に見せつけてさらに各地を転々とする。そうなればあたかもドル氏は逃げているかのように見えるので裏切り者の商人ドルとして指名手配される。
最後まで姿形のわからない協力者は…姿形が有るのかどうか、大きいのか小さいのかのかも判然としない不気味な存在だった。
否、存在たちだった、だろう。
テイ人のガラも帝国内部に放たれた何処かの国の諜報部員なのだろう。それは想像に難くない。決死の思いで任務に臨み、断頭台に露と消える。
処刑されず生きていれば二重スパイとしての使い道もあるだろうが、それはイヅが考えることではない。
イヅは脳内で仮説を思い出して子爵から得た情報と『それまでの違和感を打ち消す仮説』を付け加えて犯行現場を整理する。
ドル氏は西の外れの倉庫で暗号表を何処に隠したのかと拷問に遭っていた。右手が自由だったのは暗号表の在りかや暗号表そのものを筆記させるつもりだったのだろう。隙を見てドル氏は隠し持っていた暗号表を飲み込んで窒息死。
犯人のガラは飲み込んだものを吐き出させようと首を手にかけたが結果的に縊り殺すことになった。
かねてからの通りにこの場で『情報が錯綜する混乱した犯行現場を作り上げて逃亡したと見せかけるためにドル氏は自分の足を切り落とした』……と、普通なら常軌を逸した行動をドル氏に演じさせるつもりだったのだろうが、先にドル氏が死亡し、死体をどうするか考える暇もなく、夜警団の気配が近づいてきたので考え付いたのが死体の隠蔽。
あとで死体を回収するつもりだったのだろう。血痕を作るのに用いた鶏の生々しい死骸を整列させて、床板の下に隠したドル氏の真上の床板に並べていかにも乾物倉庫らしい配列と見せかけた。
その後に放火して夜警団や消防団が破壊消火してほとぼりが冷めた頃にドル氏の死体を回収するつもりだったのだろうが、ガラの背後で居る姿の見えない協力者は、焼け跡にルーフン公爵が配置させた警吏が現場で隙間なく居るので手出しできなかった。
おおかたはその通りだろう。仮説の段階にやや希望的観測や推察を交えただけのイヅの見解だが、それで以て反論したり上申したりするつもりはない。
事件に関与しているであろう、姿の見えない協力者と同じく『名前しか分からない、姿形が分からない、何処に住む、何処の誰の与りであるかも分からないル―フン公爵自体』も恐ろしい存在だった。
世の中には知らなければ知らないでいる方が幸せな事の方が多い。
「……と、そんな与太話を考えついたので戯曲でも書こうと思ったのだが、誰も相手にしてくれないのでこのネタを才気あふれる文筆屋に買い取ってもらおうかと思ったのだが?」
「断固拒否です」
才気あふれる文筆家の部分は否定せず、イヅはつんとした顔で言った。
「たまには優しくしてくれてもいいだろ?」
「優しいにも料金表がありますので今度お持ちします」
2人は軽口を飛ばしているが、少なくともイヅは背中に脂汗が浮いている。
バザーで見た、あの【南方動物稀譚】にこの帝国に潜む外敵の影がちらつく展開になるとは。
結果として、予想通りに知りたくない展開になりそうなので考えるのをやめた。
市井たちが思っている以上に深く敵味方が入り乱れて日夜、諜報活動が行われているとは……。
子爵の戯曲ネタの通りに創作の産物だからこその平和の享受なのであって、背中合わせで亡国につながる戦いが繰り広げられているとは……。
ただの庶民である。シラフで考えたい話ではない。
子爵の懐からフラスコを一口いただこうかと本気で思った。
「それでさっきの戯曲の話だけど」
イヅはまだ続くのかと眉を歪める。
「原稿を書いたのだけど、あ、それだ」
イヅが2人の間に置かれていた布で包んだ四角いものを見る。子爵が最初にここへ置いたものだ。
「『話が読み解けなくなった』のでお前に進呈。受け取ってくれ。有望な若者に投資だ」
そういうと子爵様は言いたいことは全て言ったという顔で満足して席を立った。
恐る恐る、布をめくると、そこには【南方動物稀譚】そのものが有った。
暗号表こと【南方動物稀譚】だ。
目の前で大砲の弾が炸裂したかのような衝撃を受けたが、よく考えれば……。
「あ……」
(そうだよな、そりゃあそうだ)
(ドルとルーフン公爵しか知らないから価値がある暗号表と解読表も、それ以外に暴露してしまえば暗号そのものとして役に立たなくなる……たとえ治安府務めの子爵でも)
(ドル氏の死体を腑分けした時にこの『暗号表』に対する『解読表』を見ていれば本当に僕は今頃墓の下だ)
イヅは暗号表の役目を果たす予定だったであろう【南方動物稀譚】の表紙を撫でる。もうこの本は人畜無害な翻訳書だ。
この一冊のために海の向こうの同郷人は暗号を作ったのだろう。
この一冊だけを運ぶ密使としてドルは危険な船旅を繰り返したのだろう。
この一冊とその秘密を奪うために、見上げるのか覗き込むのかわからない『喋らぬ者とその者共』が命がけで生きているのだろう。
これが今回の駄賃ならば知識欲と同時に国の趨勢すらも占ってしまう推測をしそうだと眉をハの字に下げて悩んだが、本の間に子爵の字で「中身はただの学術書だから安心して読んでくれ」と書かれた紙が挟まれていた。
本を手に取りページをパラパラとめくると、ふわりと彼の葉巻の匂いがした。中身を丁寧に検分してくれたのだろう。
子爵の……イヅを思う心が手元に一つそっと置かれた気分になった。
この本は安心して読んでもいいぞ。
そんな彼の声が今にも背後から聞こえそうだった。
《第一章・喋らぬ者とその者共/了》