【第1章】喋らない者とその者ども

「ガチガチに警戒して緊張してくれていたから、子爵が読み上げてくれたカマかけや嘘に咄嗟に反応できなかったのです」
「ほう?」
「人は心が緊張するとその強張りが体の末端にまで現れてしまいます」
「……」

 子爵は取り調べの様子を思い出しながら葉巻の煙を吐く。

「貿易船に乗り込んで警護をしているガラという人物が行く先々の港の港湾やその隣接する街並みを熟知している可能性は低いのです」
「そりゃあ、次回はもう来ないかもしれないし、自分が死んでいるかもしれないからな。船乗りはそれだけに危険だ」
「なのに、あたかもこの一体に関しては馴染のように詳しく、緊張状態でも脳内で整合性を探って当て嵌めようとする思考が働いていました」
「普通の心理じゃないのか?」
「はい。普通の心理です…。ただそれは、この街の界隈を知っている人間の思考なのです」

 ライデ・ジーロ子爵は少し苦い顔をした。葉巻が不味かったわけではなさそうだ。

「予めこの街を知識として知っていたのです。この街の地図を見せた時にガラの握り拳は固くなりました。今までと違う取り調べが始まると思ったのでしょう。彼の脳内では急遽、『事前に叩き込んでいた情報と手順にない取り調べにどう対処するか』を考え始めました。彼の目が地図を見ながら左右に泳いでいました。そして地図に貼り付けた僕の紙切れが余計に気になったのでしょう」
「んー…そんな事したら、あの男は混乱しないか? 正確な情報が引き出せないかも」

 イヅはそれを聞いてほんの少しだけ悪い微笑みを唇の端に浮かべる。

「たくさんの情報、手順通りでない取り調べ、目の前の地図は知っているが紙切れの意味はわからない、さらに『何も喋らなくてもいい』と前置きされる……彼が用意周到なのは分かっていましたから、用意周到を揺さぶって心構えに隙といいますか、ひずみを生ませました」
「その結果が火と時間と距離か。『紙切れを貼った位置に規則性はない』と取調室に入る前に懐紙に書いてあったな? それも適当に指をさせとも書いてあった……」
「その幾つかは宿屋と西の外れの倉庫も含まれています」

 子爵は葉巻を挟んだ指で顎を掻きながら自らも脳内で情報を整理している、かのような顔をする。

「つまり、宿屋と西の外れの倉庫に突然指が止まって、何かの表情が『視えた』のか」
「はい。その間の距離はかなり離れています。子爵と僕たちでさえ乗合馬車に乗らないとスムーズに進みません」
「……おい」

 子爵の顔に影が差す。
 嫌な想像に到達した顔だ。

「馬車の手配が必要です。或いはもう一人の協力者の登場です」

 頭を掻く子爵に対して、イヅはサッパリと切り捨てる。

「協力者の存在は、この際は留意しておきましょう。情報過多だと今度はガラのように我々が惑わされるだけです」
「……そうか。分かった。お前がそう言うのなら、何か『あるのだろう』。だが、宿屋の2人以外の協力者の存在は報告としてまとめさせてもらうぞ」

 子爵は再び葉巻を銜える。
 彼もまた、執務室で籠もって書類とにらみ合う職掌なのだ。彼自身がイヅの正確な報告書を気に入ったのと同じく、自らも正確な報告書を記すことに誇りを持っている。

 イヅは彼には街中に協力者が最初から潜んでいることは明確に教えなかった。

 この街の情報を予め詳しく教えることができる人間が居たからこそ、テイ人のガラはこの街で正確に行動することが出来たのだ。
 船旅の途中で寄った港湾部とその近辺の街に最初から詳しい人間は居ない。
 ガラは下船の後、協力者からこの街の最新の情報を聞かされて覚えたのだろう。
 それもドル氏を拉致するのに必要な最低限の情報と警吏や治安府の動向程度。
 
 イヅの違和感は確信に変わりつつある。
 ガラは使い捨ての駒だ。
 犯人だが、真犯人ではない。

 素直に口を割っていれば既に暗殺されているだろう。捕えられた時点で暗殺されていても不思議ではない。

 これだけ大掛かりな事件の割に問題のドル氏の背後はルーフン公爵と取引しているただの商人以上の情報がない。
 ドル氏が帝国が放った諜報員だという前提で捜査を続けるのなら、全てが丸く収まると同時に、自分や子爵も口封じされるだろう。
 我が帝国の諜報員の練度は不明。規模も不明。
 何もかもが不明ならば、何もかもを知らぬ顔で行動したほうが身のためだ。

 ゆえに、今はルーフン公爵からの命令で交易商ドル氏の行方を追う警吏高官とその従者として振る舞ったほうがいい。

 ドル氏の諜報員疑惑は正確な判断を狂わせる材料なので今まで違和感として覚えていたが、黙っていた理由はそれだった。情報の肥大化が招く陰謀論は子爵もろともの口封じに繋がりかねない。

 時には愚鈍を演じるのも知恵の一つだ。
 子爵が勉強のできる馬鹿でなければ彼はとっくに窓際送りで若くして隠居だろう。

 何事もそうであるように、違和感の輪郭がはっきりしてくると2つの意味でイヅは自動で働く癖のように或る種の思考を遮断する。
 一つは推測でしかものを考えられなくなる癖が付くので遮断。
 もう一つは歴史上、どのような階層のどのような『識る者』も例外なく非業や悲運を遂げるので遮断。

 好奇心が旺盛でも触れてはいけない事は確かにこの世に存在する。

 イヅはただの庶民として、庶民が頑張った範囲で手に入る知識を吸収して細く長く生きていたい人間なのだ。

 ……あの、顔を思い出すのも名前を口にするのも虫酸が走る大嫌いな人間にだけはなりたくないと心に誓っている。

「これからどうする? 取り調べは形の上では続けるつもりだ」
「そうですね。ライデ様、警吏を何人か動員してくださいませんか?」
「別働班か…。火事の現場はすぐにでも動員できるが、時間と距離とは? どうやって計る?」
「厳密には事件発生時間とその間にガラが移動した距離ですが、矛盾がないか調べてほしいのです。……『子飼い』は僕だけでは無いはずだと思っていますが、ライデ様?」

 イヅはニヤリと粘着質な笑いを浮かべる。
 痛くない腹を痛くなるように探られた顔でライデ・ジーロ子爵は眉間にしわを寄せる。イヅが言う通りに彼にも心当たりはある。
 治安府に務める捜査員なら、誰でも自分だけの情報網や情報屋を飼っている。
 イヅは情報屋ではなく、情報を解析する懐刀だ。その懐刀が突然、此方の腹を刺したのだから知らぬ存ぜぬの態度をとると不自然だ。……そもそも、この少年に隠し事は通用しない。

「分かった。今から手配する」
「有難うございます」

 イヅは頭を下げてから懐紙を出して彼の手下の警吏に伝えてもらう内容を書き始める。

 もうたっぷりとガラに休憩時間を与えたはずである。
 子爵は銜えていた葉巻を廊下に落として爪先で蹂躙する。

「さあ、取り調べの再開と行こうか」

 そう言いながらライデ・ジーロは取調室のドアを開け放った。

   ※ ※ ※

「矛盾がなかったので、『こうだと思ったのですよ』」

 イヅは語りだした。

 サルバル・ドルの右膝下のない死体を前にして。

 死体は西の外れの倉庫で発見された。

 主に乾物を蓄えておく倉庫で首のない鶏の大量の焼け焦げた死骸が見つかった辺りから、時間を疑い出した。
 そして脳裏の端に一旦保留した宿屋での犯行現場の惨状と宿屋の2人の協力者を必要とした理由。

「矛盾は無かった。確かに調書のとおりに移動している。距離も供述と合う」

 ライデ・ジーロ子爵は調書の束をドルの死体脇で読みながら言う。

 ここは治安府の検視所で、レンガと瀬戸物で組み上げられた検視台の脇に2人は立っている。

 煙で燻されているかのようにイヅの目が細くなる。
 死体の直視に慣れていないのだ。

 何度も探したと報告書にある火事に遭った倉庫の床下から見つかったドルの死体。
 新しく判明した状況としては、数列の床板がはがせるようにるように釘を抜いていた。彼の死体をその床下へ押し込んでから釘を差した。

 と、簡素に書かれていた。こんな時ほど人間は保身に走るものだ。
 いつもは雄弁に大袈裟に大層に記している報告書なのに、『自分たちの失態を小さく見せるために』いかにもありのままを報告しましたと言わんばかりの文章だ。

 その数列のはがせる床下の上にまだ片付けられていなかった大量の鶏の焼死体と切り口の首から漏れる血液を精神的に嫌悪忌避して誰も、鶏をどけてまで血で汚れた床下の板を調べようとしなかった。

 ガラの移動距離とその時間に矛盾がなかったからこそ、火災現場に何かしらの鍵があると思った。
 なぜなら、その火事の遭った日、イヅは夜警団の事務所で報告書を書いており、火事を報せる半鐘を聴いていた。

 その日の火事はその一件のみ。
 
 その時には既にドル氏は殺害されていた。

 ガラが犯行を行うのに正確に道をたどったお陰で火事の発生時刻が分かり、彼はそれ以外に誰にも接触していないのが目撃者の証言で幾つも証言されている。

「情報が錯綜していましたね」
「今更だな。何がどうなっているのか分からない……宿屋のあの血痕はなんなんだ? ドルを移動させる意味は?」

 苛つきを抑えるように懐から取り出した葉巻を銜えたが、検視所の係員に禁煙だと言われて口をへの字に曲げる子爵。

「僕は今回の事件で幾つか省略した疑問があったのですが」

 イヅは話しながら全裸にされた死体の周りをゆっくりと歩いて体に浮いた創傷を目測する。
 どれもこれも拷問として有効な部位に拵えられた傷だ。それでいて致命傷には遠い。

「省略した…疑問? 私にはどれもこれも省略してはいけない事柄ばかりに見えたがね」

 葉巻を吸えないいらだたしさなのか事件の真相が皆目見当もつかないいらだたしさなのか、彼は気付け薬としてポケットに忍ばせているフラスコを取り出して呷った。
 フラスコでの飲酒には係員も文句は言わなかった。

「……」

 イヅは死体から離れて大きく息を吸う。

「ライデ様、検視官にこの死体の腑分けをお願いできますか?」
「!?」

 思わず口に含んだ気付け薬を吹き出すライデ・ジーロ子爵。

「な、何を言ってるんだ! ドルが毒でも飲まされたか?」

 顔を青くしたり赤くしたりで憤慨する子爵に対して、イヅは無表情で冷たく言い放つ。

「右足は殺害後に切断されたものです。全身の刃物の傷は拷問の痕です。……そして、ドル氏は縊り殺されています。…見てください。舌骨が凹んで首の周囲が黒い輪のように変色しています。手は強く縛られた痕が見られません足首はしっかりと痕が付くほど縄か何かで結ばれているのに」
「…つまり、なんだ?」

 イヅの表情の変化を見て自らも感情を抑えようと務める子爵。

「手を、左手は手首で結ばれた痕があります。右手にはない。刃物の傷からみて、生きている間に拷問されて、とどめは首を絞められたのでしょう」
「ちょっと待て!」

 すかさずライデ・ジーロ子爵は異を唱える。

「ガラの押収品に確かにガラの国で作られた短剣が有った。何故それでとどめを刺さない?!」

 イヅはようやくそこまで訊いてくれたかという思いを無表情の下に隠してこう言った。

「縊り殺したのは結果です。ガラは止めたかったのでしょう。……ドル氏が何かを嚥下するのを」
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