【第1章】喋らない者とその者ども

 翌日の陽が昇る頃に夜警団としての勤務が終わった。

 事務室で大きなあくびを放つ。

 事務室とは名ばかりで、夜警団が出払って誰も居なくなったら空いたスペースに放置されているテーブルで紙を広げて報告書を書く。

 夜警団は自警団という大きなくくりの民間防衛組織の一部門で、夜間の町の警備を治安府のお墨付きをもらって代行している。
 治安府の警吏の数だけでは広大な首都を守ることが出来ないので末端の警備を委託している状態だ。
 警備や巡回を任せてはいるが、捜査や逮捕の権利はない。
 血の気が多く気が早い男衆で構成された自警団全体の論調では、怪しいやつは犯罪者だからとにかく犯罪を防ぐために取り押さえて閉じ込めた、という不法がまかり通っている。
 それでもなお治安府が自警団やその下部の夜警団などに一部の職掌を任せるのかというと、『怪しいやつは本当に後ろ暗い人間である場合が多いのが、警吏の尋問で判明しているからだ』。

 自警団やその下部の夜警団は割の良いボランティア活動で、手柄次第では名誉市民に格上げの道も開けると約束してくれており、血気にはやる若者や訳有って退役した元兵士が中心となって活動している。
 単純に喧嘩がしたいだけの腕自慢や合法的に人を殴りたいだけの特殊な趣味をした人間も多い。……自警団員と犯罪者は紙一重だと陰で笑われているのも事実だ。

 警吏に同行し、犯罪者の現行犯逮捕や治安維持の活動の手伝いなどで治安府からの金一封で生計を立てようと目論むものも多い。
 そんな腕っぷしに自信がある自称最強がさらに名誉市民になれる道をちらつかされてやる気が出ないわけがない。

 夜警団が事務所となっている町の集会所に集まる時は巡回開始時刻と大きな事件が有ったときで、その度にイヅが報告書を書きながら、『聞き取り対象』からの取り調べの調書を紙に記すのだ。

 腕っぷしに自信のある男連中のことなので、ただの酔っ払いや寝転がっているだけの浮浪者や宿賃が払えなくて適当な場所で雑魚寝している異邦人を片っ端から尋問しては、少しでも歯向かったり夜警団の体に触ろうものなら即座に公務執行妨害の疑いでひっ捕まえて集会所に戻ってくる。

 そして、イヅに対して、あたかも世紀の大悪党を俺がお縄にしたと書けと言わんばかりに圧力をかけて、イヅもその要望を聞き入れたふりをして報告書を書く。

 文筆を表の生業としているイヅとしては事実のみを欲しがる依頼者の治安府に対して、盛りに盛ったり嘘八百を並べた報告書を『自作』しろと言われるのは心外どころか個人的な信用問題に関わるので、顔と口だけはニコニコと頷いているが、実際には修飾や形容のない事務用の書式で文字を並べて報告書の完了としている。
 元から欺瞞と宣伝が盛り込まれた手書き新聞を丸写しするのとは全くわけが違う。
 手書き新聞の責任所在は新聞の情報源を供給している人間や会社にあるが、報告書に嘘を考えて記すのは明らかな背信行為だ。
 
 イヅの感情論としては、人を殴るのに理性が働くのが当たり前で、その形状が文字をなしただけ……つまり、報告書一枚で人の命が左右される重責を担っているという矜持がある。

 幸か不幸か、彼が働く夜警団の事務所では字の読み書きができる団員は皆無だ。従って、彼が無機質な書類を書いているとは誰も気が付いていない。

 荒くれ者しか居ない夜警団が挙げる報告書など見飽きていた治安府警吏副官長のライデ・ジーロ子爵は膨大な、どうでもいい報告書の中にどうでもいいことを要点を押さえてかつ、正確に正しい文法で『読める字』で書いている報告書が届き始めてからイヅを知った。

 イヅは以前に覚えめでたいジーロ家の当主である子爵様がなぜ自分ごときに興味を持つのか聴いたことがあるが、それが理由の一つらしい。

 理由の一つということは他にも何かあるのだろう。
 イヅとしても文筆業以外で目立ちたくはないので子爵様の心にはできるだけ深入りしないでおこうと思った。

 その時は。

 気がつけばも2年も経過し、知らぬ間に本の駄賃で餌付けされている自分が居たのだった。

(慣れとは怖いな……)

 窓から差し込む朝日を浴びながら大きなあくびをする。

 昨夜、意気軒昂とやってきた子爵は、何かを強く抑える……『緊張』『抑制』『恥』『焦燥』の小さな表情や仕草を大量に降りまいて事務所を出ていった。

 あれだけ言えば、あとは容疑者が犯人に切り替わるのを待つだけだろう。

 警吏の取り調べは殆ど拷問だ。隠し立てしていると死ぬ。
 ルーフン公爵の密命が末端の警吏まで深く通達されれているはずだが、組織や集団への通達の確実性と、個々人の通達内容の理解度は別物だ。

 彼は、容疑者のテイ人であるガラなる人物が素直に自白してくれることを願った。

 ガラが犯人ならば。……だ。

 おそらく違う。仮説なので口にはしないが、ガラは行動が目立ちすぎる。犯人ではあるが真犯人ではないといったところだろうか。
 その仮説の段階を出ない根拠が、誰かからの教唆なのか彼が利用されただけなのかを決定づける証拠が皆無だ。
 理屈だけで考えても、一人の人間が一人の人間を殺害するのに手間暇がかかりすぎている。
 あたかも……余計な情報をばらまいているかのような情報の錯綜を見せているのだ。

 ガラというテイ人はあまたいる書籍貿易商の中でも、他にも同じものがあるに違いないだろうに、ドル氏の扱う【南方動物稀譚】だけを狙っていた。

 その理由を探るのはイヅの仕事ではない。
 それこそ我らが子爵の仕事だ。

 これ以上、関連する人物を脳内に張り巡らせても推測の域を出ない仮説ばかりが生まれる。

 推測の繰り返しを、繰り返しだけで終わらせるとそれはその人間の習慣となり、何を見ても暗躍や陰謀や思い込みで物事を推し量ろうとする癖がつく。

 推測は仮説まで昇華した後に実証して検証し、その母数を増やした後に多角的に、確率と統計を比べて解析せねば実用的と言える段階まで信頼度は上がらない。

 イヅは知識の蒐集を何よりも楽しみしているが、その楽しみを一番妨害しているのが勝手な推測だと思っている。

 好奇心と勝手な推測は紙一重だ。

 認知が歪んだ目で世界を見たくない。

 青臭い理想論だと思っていても、自分も既に認知が歪んでいるとしても、誰も自分の正気を保証してくれない。同時に誰も自分の狂気を保証してくれない。

 庶民だから『正しい見識を持つな』という考え方に囚われたあいつだけは……あの人間だけは許せないと思っている。
 憎くて仕方がないあいつに逆らうために『正しい眼』を求めているというのなら、イヅも既に歪んだ認知の世界で生きている暗い心の住人だと言える。

  ※ ※ ※

 子爵の疲れ気味な顔を見たのはテイ人のガラが捕縛されてから2日後だった。

「これはまた随分とお疲れのようで」
「疲れてしまったよ…」

 覇気のない声が子爵の虚ろな顔の洞穴の口から絞り出される。

 食堂の軒先のテーブルで独りで朝食を食べていたイヅの前に幽霊のように現れた彼は胆力も使い切ったと言わんばかりに、椅子に座り、つんのめるようにテーブルに顔を伏せた。
 彼はひょろひょろと右手を挙げて店員を呼ぶと、砂糖を多めに溶いたお茶と季節物の果物を注文した。

(糖分の塊か…この疲労感というか……へこたれ方は何かに詰まっている状態だな)

「なあ……イヅ。私の知り合いの話を聞いてくれ…どうしても聞き出したいことがあるのになかなか話してくれない人がいるらしくて」
「……」

(うわ、面倒臭っ!)

 イヅは露骨に頬を歪める。
 生まれてこの方一度も体を洗っていない犬を見るような目で心が折れそうなライデ・ジーロ子爵を見る。

 野菜や肉の切れ端で水増しした雑穀粥が口の中で味が消失した気がする。

 テーブルに顔を伏せたまま寝たのかと思うほどの時間が経過した。

 朗らかな朝だと言うのに、手書き新聞の収入を得たばかりで朝食を張り込んだのに、こんな覇気のない姿を見せられると気が滅入る。
 何かお困りごとですか? と声をかけたくなる気すら失せてしまう。

 身分の高い人間は格下の庶民に話しかけるのにも相当の言い分が揃っていないと何も話しかけられないのか。
 イヅは子爵の頭部を見ながら女々しい奴め! と罵りたくなったが、本当に寝息を立てているらしい子爵の顔を確認すると、ため息を吐いて椅子に座り直し、彼に暫しの眠りを提供した。
 
(よくもまあ、こんな五月蝿い街中で眠れるものだ)
(……それだけ、手を焼いているのだろうな)

 粥を咀嚼しながら子爵の頭部を見る。
 疲労で寝入った美人の顔はこんな時でも龍顔が崩れないのだから本当に恐ろしい。

 女衒に売り飛ばせば家一軒くらい買えるのではないか?
 子爵様には悪いが、美人のやつれ顔とは絵画のモチーフになるくらいに需要が高いのだ。

 そんな子爵の値千金の寝顔は彼のもとに運ばれてきた茶の芳醇な匂いで終わりを告げる。

 爵位持ちのマナーとして、彼は店員に『慰労の小銭』を渡すと、目の焦点を合わせる薬でも飲むかのように、熱い茶を飲む。
 その傍に置かれた皮が剥かれていない半生の乾果を齧る。
 爵位ある立場としての振る舞いを忘れるがっつき方にイヅは閉口したが、『決して馬鹿ではない彼がここまで疲労するとは何事だ』とやや緊張する。

 糖分の補給を強引に済ませた彼は自らポットから茶をカップに注いでそれを飲み干す。後追いに干した果物を齧る。

 やや生気の戻った彼は、朝食が終わったばかりのイヅを眠気で耐える目で見て、こう言った。

「私の友人の話だが」
「はいはいはい、分かりました。話が進まないので要点を話してください」

 今度こそ本気で殴ってやろうかと思ったが、テーブルの下で握り拳を作って堪える。
 敢えて、彼をぞんざいに扱った。
 こうでもしないと話が進まないのと、彼も思考力が低下した状態で状況を『誰かに置き換えて』話を構築して伝達するのは脳味噌の負荷が大きいと悟ったからだ。

 目の前の少年が無礼な口をきいても咎める様子も見せずに彼は話だした。
 子爵としても友人の話として話すのは大層な労力を使うから助かったことだろう。

「捕えたテイ人の男だが、何も吐かない」
「この街の治安府には『尋問が得意』な部署があるのでは? 大通りに面したここでは言えないような方法を取ればどうでしょう」

 イヅ自身も非人道的なこと言っていると自覚は有った。
 色々と話しを短くするために極論からの二分探索でどの程度の行き詰まりをしているのか探るつもりだった。

「『流血するほど殴りましたか?』『器具を使いましたか? 精神的苦痛を与えましたか?』『薬物を使いましたか?』『睡眠を与えましたか?』『実行犯だと決めつけましたか?』『【真犯人を言え】と迫りましたか?』『動機とアリバイを最初に聞きましたか?』『事件関係者との面通しはしましたか?』」

 イヅは次々と、しかし、少し声のトーンから感情を抑えた事務的な口調で質問した。
 ほんの少しばかりの甘い息を含ませた湿度のある声で……。

 その声は疲労で思考力が低下している人間には聞き取りやすいように調整されているはずだ。
 訓練した声の使い分けではなく、知識で得た声の使い方を夜警団の取り調べで実践して身につけた技能だ。

 子爵は少年の言葉に『小さな表情』を織り交ぜて返答する。どれもこれも素直な反応だ。
 イヅの声は彼には心地よい子守唄に似た声として認識されているはずだ。

 子爵は頷きを繰り返す。
 その頷きの前に見せる『小さな表情』や仕草にも隠し事や嘘の気配はない。
 
「分かりました。兎に角、ライデ様はお休みください。そして、ライデ様と同じ時間だけテイ人の男にも水や食料とともに休息を与えてください。怪我の治療もしてください」
「え? それはどういう?」
「人間は疲労していると必ず、脳が記憶を捏造します。その捏造は事実だと錯覚して言葉や態度に出てしまいます。そうなっては証拠としては使えませんし、大前提のドル氏の件が迷宮入りしてしまいます。ほとんど唯一の手がかりはテイ人の男だけです。そろそろ珠を扱うように待遇して懐柔の姿勢を見せるのも手かと」

 イヅは目を瞬かせている子爵の顔を見てやはり、と思った。

(ああ、この顔はテイ人の男を自白させれば全てが解決すると思い込んでいるな)
(『度が過ぎた拷問での死』で以て完成する迷宮入りを想定していない……)
(テイ人の男が鍵なのは理解しているが、多分子爵は訊く方向を間違えている!)

「ライデ様。兎に角、あなたは寝てください。容疑者も寝かせてください。……『ルーフン公爵はドル氏の件』で困っているのですよ」

 そこまで言うと鈍くなっていた彼も気が付いたのか、テイ人の男の価値と本来の密命を思い出して気恥ずかしそうに口元に茶を運ぶ。

「分かった…これで『友人』にも助言できる。助かる」

 彼が視線だけで礼をすると、イヅは頭を下げてからテーブルに代金を置いて退席した。
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