【第1章】喋らない者とその者ども

 翌日。

 溜まった仕事を最優先で片付けるべく、代筆業の斡旋業者から受け取った依頼を四種類に分類し、喫緊で重要な依頼に目を通していた。

 昨夜は西の外れの倉庫から帰宅して直ぐに酒を呷って濡れた毛布のようにベッドで眠り、昼前に起床してカビの生えた硬いパンを折り畳みナイフで削りながら食べた。
 味気がないので豚の脂に岩塩を溶いて固めた固形物をこれまた折りたたみナイフで擦り付けて齧る。

 ライデ・ジーロ子爵は昨夜、宿屋の店主に絵師を寄越すと言ったとおりに絵師を派遣し現場の絵と治安府で一時拘束してる2人の協力者に似顔絵を描かせるつもりだという。

 宿屋で捕縛した協力者の男女はテイ人の男に相当な金をもらって協力したらしい。

 テイ人。

 どんなに容疑者リストから除外しようにも、バザーで出会った赤黒い肌の大男の顔を思い出す。
 腰に提げた短剣を抜いていつ襲いかかってくるのかと思うと気が気ではなかった。その恐怖と大男の顔が強く結びついてしまったようだ。

 あの男も南の大陸の人間の顔つきをしていた。
 海を挟んで帝国に近い南の大陸にはテイ人が主たる構成の国が幾つかある。

 その国々では帝国の同郷人が小さな町を形成できるほど定住しており、その国や大陸の文化を船便で定期的に帝国の要衝に海運で輸入してくる。

 武力で近隣諸国を制圧して統治する時代が去って長い。イヅが生まれたときには既に今のように平和を享受できる時代だった。

 進んで帝国の属州や属国となってゴマすり外交を展開して帝国との貿易や交易の際の税金の軽減を願い出る国々が多い。

 帝国が帝国として栄華を誇る前の群雄割拠の時代はさぞかし地獄絵図で阿鼻叫喚の時代が長かったのだろう。

 今では一応の平和を満喫している帝国ではあるが……。

 敬愛するライデ・ジーロ子爵や名前しか知らないルーフン公爵や太くて強くて、しかし、見えない糸で結ばれている書籍交易商のサルバル・ドルの関連を好奇心で探りたくなるが、その度に自制を効かせていた。

 継ぎ接ぎだらけの文化文明で形成されつつある我がズァルト帝国は一皮むけばまだまだ戦争の延長線上なのかもしれない。次の戦争に向けてもう既に戦争が始まっているのかもしれない。

 イヅは自宅の仕事用の机で座りながら自分の右頬を右手で強くはたいた。

 余計な妄想は繰り返すと記憶に定着していつに間にかその頭の中で事実として錯覚や誤認をしてしまう。
 それに捜査に関与している都合上、余計な推測は思考を阻害する。

 悪い虫でも払うように脳内から憶測や推測や希望的観測を追い出して、再び葦ペンを持ち、インク瓶にペン先を浸ける。

 今は優先度と重要度で4つに分類した依頼を早く片付けるべくペンを走らせる。

 大方が、手紙の代筆だ。代筆の斡旋業者が依頼人に書いてほしい内容の要点を聴いて紙に書き留めて、それが手紙として体裁が良いように整った文章を紡いで仕上げるのだ。
 代筆の斡旋業者はそろって識字率がかなり高いが、自分が全ての仕事を独り占めするよりも、識字のある人間を雇って短期間で大量の依頼をこなしたほうが儲けがデカイのだ。
 勿論、斡旋業者が上前をはねるのは当たり前だ。
 それを知っていても代筆業者には組合がないので立場は弱い。組合がないという隙を狙った卑怯な仕事で搾取される一方なので、夜警団に入団して副業で報告書作成の事務員を始めたのだ。

 悔しいことに、卑怯にも搾取している斡旋業者だが、査定は確かなので、質の高い仕事にはイロをつけてくれる。
 斡旋業者が、自らが雇っている代筆業者が逃げ出さないための飴と鞭を程よく使い分けている。

 生かさず殺さず。しかし、心は労働者として死ぬ分量を弁えた采配を奮うので、イヅは起業や転職の時期が見つけられないでいる。
 転職しても字を書く仕事以外には何も出来ないだろうと諦めている節さえある。

 女衒に声をかけて男娼として売り込むのは最後の手段だ。
 自分はどうやら特定の層には受ける顔らしいので、若さの賞味期限が切れるまでに売り込む算段はいつも頭の隅にある。

 子爵と顔を合わせたのは3日後の夜警団の集合場所になっている町の集会所だ。

 宵前刻(午後8時)を一刻(1時間)ほど経過した時に、残していた報告書の整理をしていたイヅの前に子爵は足早にやってきた。

「あの2人が言っていたテイ人の面が割れた」
「へえ。どのような顔で?」

 子爵は懐から四っつに折った紙を取り出して広げながら言う。

「名前はガラ。金で雇われた船の警護人だ」
「……」

(世界は狭いなぁ)

 鼻息を荒くして自慢している子爵に対してイヅは苦笑いを噛み殺した。

 広げられた紙には、バザーの路地裏で彼を睨み殺さんばかりの勢いで追いかけてきた赤黒い肌の大男の顔が描かれていた。

「この人物の名前まで判明しているということは……緊急手配済みですか」
「ふふん…聞きたいか?」

 今回ばかりは出し抜いてやったぞと言わんばかりの顔をする子爵。
 誠に残念なことに、この子爵様、自分の区画に住む住民……つまり、領民を守る程度の権利さえ手に入れば何でもするが、それが確保できている状態だと、心の何処かが緩んでしまい潜在的な能力が全く活かされずに、手柄を治安府の同僚に奪われてしまうのだ。
 そんな子爵が自慢を開陳したげな顔をしているということは……。

「あ、もういいです。テイ人の男は網に引っかかったのですね。では今頃取調べ中でしょう。尋問はほどほどに」「おいおいおい、感動が薄い反応だなぁ。重要参考人を確保したのだぞ、もう少し喜んでほしいな」

 ライデ・ジーロは非難の色を強くしたが、イヅは夜警団の報告書の下書きからペンを離し、子供のように拗ねている24歳の青年子爵を見ながら言う。

「ライデ様。そのガラという男が、『トカゲの尻尾切り』だとしたらどうしますか? 何故ドル氏殺害後に逃げないのでしょう? 手配が早かったとは言え、身柄の拘束も問題なかった。事件が発生した日時と、ここ3日ほどの時間から考えて、潜伏しているにしても、現場から大して離れることなく市井に紛れていたのですよね? 船の警護なら船に乗り込めばよその管轄の与りになるので十分に逃亡できる時間が稼げたはずです。治安府やその与りの夜警団の中程度の役職では、交易府与りの港湾部や海運関係には門前払いされてしまい、司立庁の令状なしでは何も出来ません……その辺りはどうなっていますか?」

 次々と少年に指摘される間、年上の子爵は「それは…」「裏取り中で…」「ん……不明」などを繰り返すだけで鬼の首を取ったような先ほどまでの勢いが消え失せていた。
 それもそのはずだと子爵は強く反論しなかった。
 彼としてもこの目眩ましだらけの事件を、誠の心でルーフン公爵理不尽な命令を聞き届ける意欲は高いとは言えなかった。

 とは言えライデ・ジーロは、その容貌を磨けば輝くかもしれない少年に対して圧倒されているばかりの無能者ではなかった。
 直ぐに懐から糸綴じの手帳を取り出して、手帳に挟んでいた羽ペンをインク瓶に浸けると、イヅが指摘した疑問点を素早く筆記した。

 暫しして。

「普通なら」

 2人は同時に同じ言葉を発した。
 少し気まずい雰囲気。
 呼吸一回分の後にイヅが先を譲る。

「ライデ様からどうぞ」

ライデ・ジーロ子爵は少しでも爵位持ちらしい威厳を持ち直そうとやや芝居がかった咳払いをしてこう言った。

「普通なら名誉毀損で庶民の首など撫で斬りされているぞ。理解のある私でよかったな」

 あくまで、上位者として振る舞いたい一方で顔が少し赤くなっている。
 様々な恥や不勉強加減や礼を言いたい気持ちが混ざり合って心の内は複雑なのだろうか。

「そうですね。普通なら…。でも僕はライデ様だけの僕でいたいとも思っています。だからライデ様の前でいる時はライデ様にしか見せない僕の顔だと思ってください」

 イヅは眦をほんの少し潤ませながら子爵の目を見た。

(あなただけが重要な、本を買うための金蔓なんです! 僕以外に『都合の良い使い捨て』を飼われると、本を買う機会が少なくなるんです!)

 と、イヅは目で訴えていた。
 だのに、子爵は何故か生唾を飲んで欲しいものを堪えるような顔をして耳まで赤くしている。

(…それにしても眠い。ライデ様、早く治安府に戻って取調べしてくれないかな。……まずい、眠すぎて涙が出そう。早く報告書を纏めたいのに……)
(どうやら僕は役者のような目力とやらで無言で人を退散させる才能はないようだ……知ってたけど)

「んっ…お前こそ、その何を言いたかったんだ?」

 ライデ・ジーロは首を右下に向けていながら視線をさらに右に向けようとしている。手に持った羽ペンを強く握り、ペン先が自分の体に向いている。唇と鼻の中間の筋肉が小さな緊張を一瞬見せた。
 肩幅が少し狭くなる。喉仏が大きく上下する。体重をかけている軸足が左右入れ替わる。

(緊張。防御……何かに耐える? 何かに耐えたい?)
(何故に!?)
(この人は何を警戒してるんだ!?)

 失礼と分かっていても視えてしまったものは仕方がない。
 ライデ・ジーロの口元から喉、肩と全体を『微細な動作』から推し量ってしまった。

「僕はですね、普通なら庶民なんてなんとも思わないのが貴族様なのに、ここまで可愛がってくれているので、僕も身も心もあなたのために尽くさないといけませんよね。と、言いたかったのです」

(あなた様がもっと手柄を立てて役職が上がると俸給も良くなるので僕の『駄賃』も増えるに決まっている!)
(だから手伝いますから早く事件を解決しないと! 早く出世してください! そのためなら多少の面倒は我慢しますゆえ!)

「なっ、バッ、おまっ…何を! はあ? その、そういうのは!」
「はあ?」

 まさか、本を買う駄賃以外の報酬を期待されていると思っていたのか? それとも名誉貴族や無爵に推薦しろと言われると思っていたのか? と、頭に疑問符を浮かべるイヅ。
 目の前の美丈夫は自分の言葉の何にそんなにわたわたと反応しているのか全く分からない。
 イヅは啼き散らす色彩豊かなインコを見るような目で子爵を見ていた。
10/14ページ
スキ