【第1章】喋らない者とその者ども

 残念なことにイヅはサーガに出てくる英雄とは違うので早くも眠気が出てくる。
 顔には疲労の色が濃い。

 今夜は2人分の『顔を見て』、さらに腰布で大立ち回りをした。夜警団所属とはいえ、巡回の部署ではないので体力がないのだ。
 本業からして腕っぷしを奮う事は皆無だ。

 ライデ・ジーロは隣であくびをする少年に気がつくと「先に帰っていいぞ」と声をかけた。
 イヅは精一杯の空元気を出した顔で礼を言うとトボトボと歩きだした。

「……あー」

 イヅの背中がどんどん小さくなり、夜の影に飲み込まれそうな路地に入ると、ライデは小さく息を吐き、彼の後を追い、イヅの小さな肩に手を回した。

「え? ライデ様?」
「その足取りだと強盗に身包みを剥がされるぞ。近くまで送っていこう」
「そ、それは困ります! 世間が誤解します!」
「どういう方向の誤解だ? まあ、大人しくしろ、頭と体力を使いすぎて頭痛がするんじゃないか? 明日も頑張ってもらわないと困るのにここで倒れられたら一層困る」

 ライデ・ジーロ子爵のやや過剰な甘い声質が不思議と耳の奥に残る時がある。
 それは概ねして、ライデ・ジーロが爵位持ちなのにそれを全く鼻にかけずに、名誉庶民でもないイヅを珠のように扱う時だ。
 
 事象があるのなら、その謎よりもその必然性を疑え。

 いつか何かの書物で読んだ一節だ。それがふと頭に浮かぶ。

(子爵に下心が有るからそれを疑うのか?)
(何の下心よ?)
(あれ……なんだっけ?)

 疲労で足元が覚束なくなって、子爵の体に自分の顔を預けるようになりながら朦朧と歩くイヅの脳裏に乖離したかのように全く場違いなその一節が浮かんではループする。
 疲労が極まる直前で正常に思考が働いていない証拠だ。
 もしかしたら彼は歩きながら寝言を言っているのかもしれない。

「え? ……どうした?」
「…………す」
「ん? 何か言いたいのか?」

 半分以上目蓋が落ちたイヅの頭がズルっと落ちる。首が切り落とされたのかと思うほどの脱力だった。
 そしてハッと目が覚める。

「おいおい、しっかりしろ。もう少し歩いたら乗合馬車に乗ろう」
「あ、いや…ライデ様!」
「お、おう?」

 彼は敬うべき子爵の顔をしっかりと見た。数瞬の睡眠で頭脳が回復したと言わんばかりに。

「『事象があるのなら、その謎よりもその必然性を疑え』ですよ!」
「ん? んん?」

 フクロウのように首を大きくかしげるライデ・ジーロ。

「事象……つまり、ドル氏が姿を消した宿。宿屋の男女が見たくなかった物は、ドル氏への危害ではなく、『現場の目眩まし』では?」
「血痕だらけの床の部屋か……」
「はい。あれは明らかに血痕でした。人間なら致死量の。しかし、ドル氏は危害を加えられていない。そのまま拉致された。……つまり、その後の目眩ましの血痕の工作をあの2人は手伝わされていたのでは? あの二人の顔には『思い出した恐怖』が浮かんでいました」

 ライデは顔を上げて少し遠くを見る。顎を指で掻きながら考える。

「なんの血液なのでしょうね。人間の死体ならバザー裏の路地で毎日幾つか転がっていますが、『乾いた後の鮮度』が違います」
「……生きた人間」
「もしくは、人間と同じ血液の色素を持つ動物」

 ライデ・ジーロは脳内の記憶を検索する。
 家出人や行方不明者には困らない町ではあるが、見つかった死体は尽く身元がはっきりしているし、『大動脈を大きく損傷した死体』はここ数日は無い。

「ライデ様。『お薬』をいただきますね」
「あ、こいつ! …まあ、いいか」

 イヅはいつの間にか(恐らくライデの体に密着していた時に)、彼のポケットから嗜好品兼気つけ薬の蒸留酒が入ったガラス瓶のフラスコを抜き出して右手で弄んでいた。
 彼の許可を貰う前に先程までその場で眠りこけそうだった少年はフラスコの中身を呷って口に含んだ分を一気に嚥下した。

 酒精の強さに喉を焼かれて思わず片頬を吊るイヅ。

「さすが効きますね!」

 フラスコに栓をしながら子爵に返す。こいつは自分の都合のいいことだけは全く意に介さない正直なやつだ。

「西の外れの乾物倉庫にいきましょう。例の、火事があった倉庫です。それと、治安府に盗難届は出ていませんか? 牛とか豚とかヤギとか」
「盗難って言っても……それにそんな大きな動物なら直ぐに目を引くし、浮浪者や難民が奪って食べるのが毎日発生しているぞ」

 少年はニヤと笑う。

「でしょうね」

 今、二人の足は話しながらでも自然と乗合馬車が集まる通りを目指している。

「今夜一晩もう一働きしますよ。敬愛する子爵様のご褒美のために」

 口では威勢の良いことを言ってはいるが彼はまだ少ししっかりしない足元でライデの体に身を寄せて蒸留酒で上気した笑顔を向ける。
 ライデは彼の視線から鼻筋、唇、顎先、首筋、喉仏と視線を下に滑り落として、胸元の隙間に到達させる。
 
「いいか、そんな顔は絶対に路地裏とか色街で見せるなよ!」
「んー? 何がです?」
「ああもう…酔ってんのか……しっかりしろ」

 ライデもイヅのほのかに赤い顔にうっと詰まりながらも視線をまっすぐ元に戻す。

 実のところ、イヅは正直に言えなかった。
 子爵の衣服の煙草の匂いで心地よく安堵して一瞬で眠り一瞬で起きたとは。

(煙草ってそんなにリラックスできるものなのかな?)
(なにか違う気がする)

 唇の端に僅かな笑顔を見せていることに気が付いていない少年と、その笑顔の根源が理解できない子爵は、やがて乗合馬車を掴まえて西の外れの倉庫街まで一路、進んだ。
 乗り心地がお世辞にもよくない馬車の客室内は6人が乗れた。左右の壁に突き出るように設けられたベンチ型の椅子にそれぞれ分かれて座る。乗客は少年と子爵だけだ。

「!」

 イヅは階段を踏み外す夢を見た瞬間に自重で首が落ちたのを感じた。
 入眠時に起こりやすいとされる筋肉の無意識の痙攣で起こされた彼は先程以上に頭がはっきりしていた。
 気付け薬の蒸留酒は眠りに関する副作用が大きいのが難点だ。

「起きたか。着いたぞ」
「え、ああ。そうですか」

 十分な夜中。ライデの話では真刻(午前0時)に近い時間だという。
 明日は今と同時刻に夜警の仕事が入っているので、今日拾える情報は全て拾っておきたい。
 ライデ・ジーロ子爵は自らのバナーが入ったランタンを持っていたが、足元を照らす程度だろう。現場を存分に照らし出すのは無理だと思われる。

 馬車から降りた2人は屋根が焼け落ちた乾物倉庫の前に立っていた。
 乾物倉庫の前では不寝番の警吏が見える範囲で5人、立っていた。誰もが剣と身の丈ほどの棒で武装している。
 きっとルーフン公爵与りの事件の現場なので、現場の保存のために、倉庫内を荒らされたくないのだろう。
 焼け落ちたとはいえ、乾物倉庫なのだから、被災を逃れた食料や食料の燃えカスを漁りに来る不逞の輩を追い払うために配備されているに違いない。

 ライデ・ジーロ子爵は自身の名を言うだけで不寝番の警吏は背筋を伸ばして焼け落ちた倉庫内部を見せてくれた。

「何か分かりそうか?」
「……ここで、ドル氏の右足の膝下が見つかったのですね」
「報告ではな」

 話しながら、イヅは腰布の端をナイフで切り、その布切れをナイフの刃に巻きつけて、子爵のランタンから、オイルをそれに垂らして警吏から借りた火種で簡易的な小さな松明を作った。

 広さは先程の宿と比較すると3倍ほどの大きさと推測される。
 すす焦げた匂いが未だ残る。
 火の洗礼を受けなかった乾物が棚に整然と並んでいる。
 破壊消火の際にかなり気を使ったのだろう。
 災害や飢饉が発生すればこの区画にある倉庫一帯から食料や日用品などの備蓄品を放出して庶民の生活の立て直しを図るためにある倉庫街だ。
 皇帝陛下の篤い御心に臣民としては頭が下がるばかり。と、イヅは心のなかで形式だけの敬いの姿勢を見せる。 

 為政者としては万が一に備えてこれだけの備蓄があるとか、臣民のためにこれだけ深い愛情を注いでいるとか、そういった人心掌握のための布石に余念がない。
 イヅはそれも理解している。
 警吏や軍隊がどんなに強大でもそれ以上の人数の臣民が大挙して押しかければ栄華を誇る帝国でもあっという間に滅んでしまう。

 国民のためにどれだけの、どれくらいの規模の倉庫を設けているかで甲斐性を試されるのだから皇帝陛下に於かれましては胃に穴があかないようにご自愛くださいとしか言えない。

「……?」
「何か?」

 二手に分かれて棚の間を探っていた時、少年の足音が止まったのを聞いた子爵が気付いて声を挙げる。

「ライデ様、これを」
「んー? 鶏か? 鶏肉の乾物?」
「確かに、これは焼け焦げた鶏肉の乾物だと思われます…というか、そう見えます」

 イヅが懐紙の灯りをかざした足元には横一列に整然と並んだ鶏肉がある。
 元は、鶏は首を落とされ、血と内臓と羽毛を抜かれ、塩漬けにされて一羽ずつ麻袋に入れられて壁から壁へ横に張った縄に吊るされていたのだろう。
 それが火事で縄が切れて床にドスンと落ちた状態で横一列に整然と並んでいるように、床で焦げている。辺りの棚も炎の洗礼を受けている。

 普通ならば。普通の、食料としてなら。
 その鶏の塩漬けは切断された首の断面から凝固して変色しつつある血の色を広げていた。
 イヅは落ちていた板切れに燃える布をナイフからそれに移して板切れの布の灯りを翳しながら、ナイフの切っ先で焦げた麻の袋をどける。焦げた鶏肉の列、どれもこれもにナイフに先を押し込み、軽く裂き、唇をへの字に結ぶ。

「さきほど僕は子爵に盗難された豚や羊はと訊きましたが…」
「『これが代用』か?」

 子爵も何か思い当たったようだ。
 それは裂かれた鶏の中身を見て理解したらしい。

 どの鶏も、内臓を抜かれていない。羽毛すら抜かれていない。
 抜かれているのは血液のみ。

「なるほど。これが宿屋の床の血痕かもしれないと?」
「可能性ですが。バザーには珍しい動物の見世物の小屋も有りましたので、そこの肉食動物に食べさせる餌だけでもかなりの量になると思います」
「…それが小細工用の血液の出どころだと?」
「血の正体を知らない宿屋の協力者たちはさぞかしおぞましい思いをして床に血を垂らしていたでしょうね。ドル氏は宿屋で拷問されたかのような痕跡を造りたかった……とも『解釈できます』」

 子爵は顎を掻きながら言う。

「ふーむ。ではお前があの2人から感じていた『何か』の正体がこれか」
「はい。あの2人は最後まで人間の血液だと思っていたでしょうね」
「犯人は2人に種を明かしていれば顔に出なかったのに」

 腰布でナイフを拭って折り畳んでズボンのポケットに差す。
 すう、と子爵に向き直り、こう言う。

「事象があるのなら、その謎よりも必然性を疑え。ですよ。この事件自体は時間をかければ誰にでも解決できると思います。……どうやら、ルーフン公爵の子飼いのドル氏はただの書籍専門の交易商ではなかったという話は『本当のようですね』」
「今まで『それを気が付いていないふりをしていたのか?』」

 絶妙に痛いところを突いてくる子爵に対してできるだけ思わせぶりな微笑で表情を隠す。……それを悟られてはいけない気がした。
 
「ルーフン公爵は反意があればドル氏を始末するようにさえ言っています。そのドル氏は何者かによって理解しがたい目眩ましで行方不明です」

 推測だけでは想像が羽ばたいてしまい、不要な情報までもが必要な情報に見えてしまう危険性があるので、確実に出揃った情報だけで真相までの道を組み立てる。
 想像通りなら、真相は解明寸前で横槍が入るだろう。

「果たして犯人の確保が優先でしょうか? それとも『ドル氏のみが国内に持ち込んだ【南方動物稀譚】という本が必要』なのでしょうか? はたまた【南方動物稀譚】であれば誰の訳書でも良かったのでしょうか? あるいは、二股膏薬のように『両者』に内通していた利益追求型の亡者だったのでしょうか?」

 淡々と他人事のように述べるイヅに対してライデ・ジーロ子爵は何も答えなかった。
 それこそが真相直前で横槍が入り、完全に解明されない理由だと悟る。

 治安府で捜査活動を束ねる子爵が窮して口を噤む時は、彼はイヅに対して嘘は言っていないが本当のことは言っていない時だ。
 
(お役所努めご苦労さまです)

 イヅは恐らく表向きの顔の下で渋い顔をしている子爵の心中を思いながら労う。

 その顔の理由を絶対に訊かない。
 知らないほうが安穏に暮らせる気がする。
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