【第1章】喋らない者とその者ども

 それまで従者然とした涼しい顔で彼の右手側で立っていたイヅが突然、子爵の右肘をつつく。

「ライデ様。後ろの…男性の方は直接何かを知っています。女性の方は間接的に何かを知っています」
「!」

 ライデ・ジーロとて様々な人間と交流を深める機会が多い故に顔を見れば多少の機微は分かるが、不思議だったのは、イヅは店主に対してだけ尋問して脈絡のない台詞を読み上げさせたていたことだった。

 ライデはてっきり、店主が何か訳知りだと思い、演技成分多めの尋問を店主に浴びせ続けていたのに、右手側背後で控える少年は全く気にしていなかった従業員を怪しいと踏んだのだ。

(共通する顔…不安。緊張。焦燥。恥……)
(『小さな表情』からして協力者はこの2人だろうな)

 店主からは表情の小さな動きや『癖以外の癖』から何も読み取れなかった。
 読み取れたのは怪訝と焦りが強く合致した混乱だけだった。

 本当に子爵が何を言っているのか分からないらしい。額に汗をかいているが、脂汗ではない。恐らく額に冷たい風が吹いていると錯覚しているだろう。

 イヅに指された2人の従業員は一様に驚愕の反応を見せる。
 男は喉仏を上下させて。
 女は筋張った肉でも噛んでいるようにこめかみの辺りが上下する。
 2人とも視線が急激に走り出す。

(拙い! 『逃走』に移る!)

「ライデ様! 後ろの男を止めてください!」
「よし!」

 イヅとライデは同時に大して高くないカウンターを飛び越えてそれぞれが、それぞれの標的に飛びかかった。

 目を白黒させる店主は逃げ場がないのを知っているのか、その場にしゃがみこんで頭を抱えた。

 ライデの右手が左腰の細身の剣の柄を握る。
 狭い空間でその長い剣を抜く空間的余裕はない。なのに彼の動作には迷いがなかった。何しろ、殴り合いができる距離で長物の剣を抜くと簡単に懐に入られて反撃されやすいのだ。

「う!」

 それを織り込んだ上で、子爵の右手の一閃は最後まで走らない。
 剣の柄尻が男の従業員の鳩尾にめり込んで、呻き声を短く吐き、折りたたみナイフのように体を折ってその場に倒れ込む。

 イヅもそれとほぼ同時に腰布に手を伸ばし、一端を握り強く引っ張って腰布のもう一端で女の顔をはたいた。
 その布の端では痛みは殆どない。しかし、彼女の次に行う動作……逃げる行動を一瞬だけ遅らせることが出来た。
 
 顔を手の平で覆う女の首に腰布を一巻して、背後に回り込み膝裏を蹴り、その場に強制的に膝まづかせる。

 イヅは店主だけが質問攻めに遭い、安心していたところへ脈絡のないような話題に『心当たりがあった』2人が虚を衝かれたように反応したのを見逃さなかった。

 空振りに終わるかどうかの賭けだったが、空振りでも誰も何も気を負わない。当たりなら事件の真相に一歩近づける。

 これこそがイヅの武器だ。
 
 人の表情の変化だけで感情や思考の変化がわかる。

 しかも彼は、【表情の変化は『心の負荷』と密接に繋がっていると記されている。それはどんな民族でも大差はない】という学説を元に記された本を頭に叩き込んだだけでなく、実用として実践しているうちに自身で証明してしまったのだ。

 尤も、それは嘘か本当か試してみたいという興味本位で始めた学習と検証だったが、人間の表情や仕草だけでその人物の内面が大方の場合、判断できるのは今となっては少し面倒な能力となっていた。

 出会う人間の嘘や真意が見えてしまうとその分絶望してしまう確率も跳ね上がるのだ。

 なのに……本を読んで知的好奇心を刺激されたのなら、それを体得して本当に通用するのかどうか試してみたいという欲望は抑えられない。

 その技術がどんなに危険でも有用でもそれらの観念は後回しだ。

 早く覚えた知識を実践して技術として蓄えたい。脳内で褪せない知識として磨きたい。

 イヅとはそんな少年だ。

 そのイヅが女に対して放った腰布を用いた体術も武芸書の中にあった護身術の一つだった。

 運動能力に関しては大して高くない彼は力づくの勝負なら簡単に負けてしまう。
 今しがた放った腰布の捕縛術も夜警団に入団してから初めて試して覚えていた基本的な技の一つでしかない。

(……焦った)

 その数少ない、覚えた捕縛術も技が決まる確率は半々程度なのだ。

 膂力で劣るので咄嗟に男の方は男爵に任せて、最悪、殴る蹴るならなんとかなりそうな女を標的に選んだのは、曲がりなりにも男であるイヅからすれば卑怯千万の誹りを受けても仕方がない。
 結果的に限りなく怪しい関係者を取り押さえることができたので、男爵からの追求は無かった。

 イヅとライデの視線が一瞬交差する。互いに心の中で頷く。

 次の瞬間、イヅとライデはそれぞれが捕えた関係者の後ろ手を捻り上げ、頭を抱えるのやめて、全く理由がわからぬ顔をしている店主に同時に怒鳴り気味に命令した。

「警吏を呼べ!」
「警吏を呼んで!」

 何事かも全くわからないままに宿を飛び出た店主の背中を見送りもせずにライデは早くもこの場で尋問を開始する。

「何故、逃げた? なにか疚しい事が有るのだろう? 『顔色が悪いぞ?』」

 ライデもイヅとの付き合いから多少は慣れたもので、当たり障りもなく、確信に触れない、それでいて心当たりがある人間が聴くと何でもかんでも吐いてしまいそうな鎌かけの言葉を浴びせる。

 男は驚いたから逃げたでは済まされない立場にいる。
 女も同様だ。

「ライデ様。手短にしたいので『いつも通りに指を一本づつ』切り落としましょう」

 イヅは呼吸を整えながらはったりを効かせる。勿論、指を切り落とすなど今までにしたことがない。

 肉体的苦痛が伴う拷問に近い尋問は苦痛から逃げるために、なかば混濁した意識が関係ない記憶を織り交ぜて自白したり、反射的に意識に反する文言を吐露しても本人は自白しているという認識なのでその場にいる誰もがその自白を信じてしまう場合があるという。
 過去に他国で諜報員が拷問で自白したとされる内容で作戦の方向性を誤り戦局が大きく左右された事例を聞いたことが有る。
 それでも尚、拷問と紙一重の尋問が横行しているのは、時間の節約と人材の教育の観念が皆無だからだ。
 イヅとしては少々の時間がかかっても懐柔を前提にした尋問が有効だと思っているが……今は思っているだけにしておこう、と決めた。

 指を守るために男も女も両方の手の指を強く握って拳を作るのを見たからだ。
 これなら子爵様が白刃を抜く素振りを見せるまでもなくなにか喋りそうだ。

「か、金をもらった! 男、そう、男だ! 背の高いテイ人の男でおやじの居ない時に」
「手引をしたのだな。金をもらって。ドルの部屋の鍵を渡したか?」

 ライデの尋問に脂汗を額に浮かべながら嘔吐するようにまくしたてる男。
 その男の隣で後ろ手に腰布で緊縛された女が続けて喚く。

「そこの、カウンター裏の出入り口から3人で運んだわ! 客が大男だったから重たかったの! 最初に約束していたよりも多くのお金を出してくれたから!」
「だから手伝ったのか。3人でこの奥の部屋の……?」
「裏の出口は路地に繋がっているの! そこで客の男を荷台に乗せたわ!」

(…ほう?)
(興味深いというか、恐ろしいことになりそうな予感……)

 イヅは足元に膝まづかせた女が逃げ出さないように背中を強く踏みつけながら唇を少し歪ませた。

 ライデが犯行時刻やその時の状況をさらに聞き出す。

「宵前刻(午後8時)を1刻(1時間)ほど過ぎた時だ! テイ人の男に渡された酒を、今日は開店記念日で祝いだからとその客の男に飲ませた! それから宵刻(午後10時)の鐘が鳴った時にテイ人の男が店に来て」
「その時には客の男は寝ていたのか? 眠り薬でも入れたか?」

 男の瞳孔が大きくなり、胸腔が膨らむ。奥歯を何度も強く噛む。

(……眠っていない。起きている? いや…恐怖? 焦燥か。不安もある……だんだん緊張してきたな……ああ、そうか)

 ライデの言葉に含まれるある種の部分にのみ反応する男の表情から一つの仮説を立てる。
 ドル氏は眠らされていない。起きていた。しかし、真っ当な状態ではなかった。慣れない者が見たら心臓に悪い状態になっていた。そんなところだろう。これはあくまで仮説なのでライデに伝えない。

「早く金をもらって見なかったことにしたかった、ということでしょうかね」
「……そうなのか?」
「そうだ…そうです!」

 女も激しく首を縦に振って肯定の意思を見せている。

 その時におっとり刀でやってきた3人の警吏にライデは自身の爵位と役職を明かして「ルーフン公爵の件にて一時捕縛。公爵の件で取り調べが終わるまで牢に入れておけ」と素早く命じる。

 恐らく、この場で収集した情報以上に何も聞き出せないだろう。それでも関係者には違いない。ライデ・ジーロとしても自分よりも爵位が上の人間の名誉に関わる事件かもしれないので逮捕と捕縛はできても独断で釈放とはいかない。
 司法と律法と行政が公平に分割されていても、そこで従事する人間の縦社会は往々にして司法も立法も行政も飛び越えてしまう。横紙破りにしてしまう。

 悲しいが、ライデ・ジーロ子爵は治安府の高官であっても爵位ではルーフン公爵に強く反対意見を述べるのは恐縮してしまうのだ。

 イヅは世界一嫌いなあいつは何故こんな面倒くさい世界に執着しているのか全く分からない。奥歯で舌を噛んですぐにあいつの話題を脳裏から消す。
 そして首をブンブンと横に振って、脳裏に浮かんだ嫌なあいつの顔を掻き消した。
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