象牙の塔シリーズ① 戸田先生は苦労性

とある閑静な地に広大なキャンパスを有する、名門・エカテリナ学院。
およそ100年の歴史を持ち、戦前は華族や財閥の令嬢が集う優雅な学舎(まなびや)であった。今回の物語は、その大学部でのこと。
深窓のお嬢さまが学び、思いに耽った乙女の園も、今では共学となり、俗世の話題に上るような「偏差値」とは無縁の地味な校風へとは変わったものの、ロマネスク様式のホールだとか、ロココ調のテラスであるとか、その往年の栄華を物語るような過去の遺物が気楽な学生たちを見守っていた。

そんな呑気なエカテリナ大学キャンパスでは、あくせくと単位稼ぎに神経を尖らせる学生が居るわけではなく、就職率を意識して厳しく学生を律するようなスタッフが居るわけでもなく、そして学生の反応に期待する教授陣が居るわけでもなかったが、唯一「鬼」「冷血漢」の名を欲しいままにする教員が居た。

その名を戸田(とだ)稔(みのる)。
お気楽大学とあだ名されるエカテリナにあって、たった一人の学問的良心、と噂される男である。その真摯な学究的姿勢は、学生への厳しい指導にも現れ、「勉強しないと単位がもらえない」数少ない教員として、学生から恐れられる立場にあった。だが、そんな厳しさの裏側を認める学生は確かに存在しており、ゆえに「専任講師」戸田は、陰では「戸田教授」と呼ばれていた。

しかし、そんな厳しい鬼のように言われる戸田「教授」にも、人知れず悩みや苦労はあった。

「…またかよ…」
戸田講師は、5階建ての研究室棟の3階にある自分の個人研究室の前で今年度何度目かのため息をついた。
授業に出る前には、几帳面な戸田のこと、個人研究室の電灯はきちんと消して、鍵もかけて出たはずなのに、なぜか煌々と明かりが灯っているではないか。
無断侵入者に心当たりが無いでもなく、戸田は呆れたように小さく息を吐いて自分の部屋のドアを開けた。

「おっかえり~」
調子っぱずれの明るい声で出迎えたのは、予想通りの相手であった。
「だ~か~ら~、進藤!勝手に僕の研究室に出入りをするなと言ってあるだろう!」
何度と無く言っているのも関わらず、いつの間に作ったのか進藤はこの部屋の合い鍵を持っていて、自分の出講日には当たり前のように無許可で侵入するのだ。
「それって、犯罪じゃないのか?無断で合い鍵は作るは、部屋に入ってパソコンをいじりたおすは…」
「だって、冗談で立ち上げたら、パスワードが合っちゃうんだもんな~」
すっとぼけた進藤の言い方に、一瞬戸田は返す言葉を無くした。
「まさか、こんなパスワードとは、な」
進藤は、意地悪く口の端を持ち上げた。
「ウルサイ!偶然だ、偶然!」
綿密な講義ノートを机の上放り投げると、戸田は動揺を隠しきれずに部屋の隅に置いてあるポットに近づき、ゼミ生からの差し入れであるハーブティーを煎れようとした。
「あ、俺、それキライだから」
「なんでお前に煎れてやらなきゃなんないんだ」
当たり前のように言う厚かましい進藤に一言、言い返して、戸田はハーブティーとは別の場所から、宇治の新茶の入った茶筒を取り出す。
「ぬるめ、な」
この遠慮の欠片も持たない、無礼で非常識で、傲慢で、ワガママで、お気楽で、無責任で…どこか憎めない進藤は、戸田の秘密の恋人だった。
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