象牙の塔シリーズ④ 君のためなら…

「確かに、宮本さんには問題は残されているかもしれませんが、もう10年も助教をされてきたんです。もう講師としては充分な経験も…」
窪田は、宮本と同じ島倉教授のゼミ出身で、宮本とは違いその素直な人柄に教授たちから気に入られ、あっという間に助教になったのだ。そしてすでに講師への昇進も決まっている。
ある意味、宮本への見せしめと言ってもよかった。
窪田からすれば宮本は同じゼミ出身の先輩。その先輩と同じ助教の立場にいたのも束の間、自分だけが簡単に昇進する事を後ろめたく感じていないではなかった。
「10年、10年というがね。世間体で昇進をさせるわけにはいかんのだよ」
森岡准教授がにんまりと言った。
「で、戸田君、君は?」
期待するように、小笠原教授が言った。まるで戸田を試すかのように。
「確かに、10年は長い期間です」
最初のひと言で、この場の人々は戸田が宮本擁護に出たと思った。
「戸田!」
たしなめるように飯沼が口を開くが、それを小笠原教授が制した。
「今は戸田君の発言中だ。邪魔しちゃいかん」
「……」
いかにも民主的な会議であることを強調するような口ぶりで小笠原教授は言い、戸田に対して挑戦的な視線を送った。
有能で、人間関係もそつなくこなしてきた戸田が、ライバルの飯沼の弟子である事が常々の小笠原教授の不満でもあった。戸田は使えるし、役に立つ。だが、なんとなく気に入らないというのが小笠原教授の見方だった。
「ですが、水原君からの発言もありました通り、宮本君の業績には不足がある。ならば、あと1年、結果を待つという事でいかがでしょう」
「つまり、もう1年助教をさせると?」
「1年後の条件の提示はいかがでしょう。学内外の論文や発表、研究成果、それらの結果次第ということで」
「結果次第では、昇進できんかもしれんな」
「それは、宮本君自身の問題です。彼の努力次第でしょう」
「なるほど。それは客観的な判断だ」
「さすが、戸田君らしい意見だ」
膠着状態にあった会議が、戸田のひと言で決着を見せた。そのことに、飯沼教授は満足そうに頷き、小笠原教授は渋々ながらも承知し、中庸な妥協点を見いだした聡明さに窪田講師は尊敬の眼差しを送った。これで、全てが解決したわけではない。ただ、結論が1年先延ばしにされたにすぎない。1年後、宮本がどれほどの結果を出すが分からないが、もう1度同じメンバーが同じ議論を繰り返すに違いないのだ。それでも、この場は宮本潰しを狙う小笠原教授たちの面目を保ちながら、宮本擁護の沢地准教授の言い分も通した事になる。宮本昇進のチャンスは消えてはいない。1年後には、何かが変わらないとも言いきれないのだから。
会議の終了後、その時間の長さにそれぞれが疲労の色を隠せない。
「どうだね、戸田くん。たまには付き合わんかね」
懐柔しようとしてか、森岡准教授が飯沼教授の目の前で試すように戸田を誘った。森岡准教授の背後で、鷹揚な態度で構える小笠原教授が見える。
「申し訳ありません。今日は少し体調が優れなくて…」
「何、また熱でもあるんじゃないか?」
学生時代、扁桃腺を腫らしては熱を出し、ゼミを休んでいた戸田を知る飯沼教授が救いの手をさしのべる。
「いえ、まだ熱はありませんが…。今日はこれで…」
「そうだな、今日の会議は意外に長かったからな。早く帰って休みなさい」
善良な様子で後ろから小笠原教授が声を掛けた。意図的である事は明確だった。
「はい。申し訳ありません。お先に失礼します…」
そそくさと会議室を出ると、戸田はひとりきりの廊下で疲れ切った溜息を落とした。
全学が憧れると言っても過言ではない、その美貌に疲労の影が色濃く滲み、痛ましささえ感じられた。その上その表情は、苦しみとも哀しみとも言えない深刻な色を帯びていた。こんな戸田が、向かう先は1つしかない。「優等生」という肩書きに縛られる戸田が、こんなやり場のない思いを理不尽なまでにぶつけられる相手は、たったひとりしか居なかった。
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