象牙の塔シリーズ⑤ 体調管理に気を付けて

とある閑静な地に広大なキャンパスを有する、名門・エカテリナ学院大学部。
およそ100年の歴史を持ち、戦前は華族や財閥の令嬢が集う優雅な学舎(まなびや)であった。
今では共学となり、俗世の話題に上るような「偏差値」とは無縁の地味な校風へとは変わったものの、ロマネスク様式のホールだとか、ロココ調のテラスであるとか、その往年の栄華を物語るような過去の遺物が気楽な学生たちを見守っていた。

そんな学院の中でも、ことさらに目立つ2人の教員がいた。
端正な顔立ちと、研ぎ澄まされた知性で知られた専任講師・戸田。
聡明さと陽気さで人を逸らす事をしない、非常勤講師の進藤。
どちらも専門分野を同じくする、共に新進気鋭の有能な学者だった。
けれど性格は正反対と言えるほどで、戸田が冷徹無比の完全主義な優等生の代表であるとすれば、進藤は熱血漢ではあるが快楽主義的なヤンチャ坊主めいたところがあった。
それはそれで、学生の人気を二分するほどであり、のんびりした気風のエカテリナ学院にあって、唯一とも言える学問的な良心・戸田と、自由闊達として青春を謳歌する歓びを学生たちに体現する自由人・進藤は、今やエカテリナの若手名物教員として、その学内で知らないものはないほどだった。
そんな対照的な二人だが、意外なほどその関係は親密だった。
実はその親密さは、学生はもちろん、身近な誰もが思いもよらぬほどであった。

その日の深夜、戸田は不意に不快感を覚えて目覚めた。
ここは、進藤のマンション。すっかり夜も更けた寝室のベッドの上だった。
進藤はこう見えても地方都市の名家の3男で、末っ子のせいか、それとも新進気鋭の研究者としての優秀な才能を愛されてか、30を超えた今も実家から充分すぎるほどの仕送りを与えられ、大学の非常勤講師という気楽な身分にありながらも、何不自由のない優雅な生活を送っている。
このマンションも賃貸ではなく、親から買い与えられたと言うが、噂によるとこの辺には珍しい高級デザイナーズマンションで、並の独身サラリーマンが購入できる額ではないらしい。
それでも私学の内では、中の上の給与ランクにあるエカテリナ学院大学の教員である戸田ならば、かなりの長いローンになるだろうが、購入できないこともないだろう。
しかし、質素倹約、清貧の志を重んじる保守的な戸田は、進藤と同じ高級マンションに住むよりも、職場に近い古い貸家で充分満足していた。
それでも、2人が人に言えない仲である以上、夜を共にする必要がある。
時に進藤が待ちきれずに戸田の古家に押しかける事もあるが、大抵は進藤の強引な誘いに負ける形で、戸田がこのマンションに訪れる事が多い。
そして、熱く、深く、互いを確かめ合い、安心して眠りにつくのだ。
不思議な事に、普段は眠りの浅い戸田であるのに、その行為のせいもあるだろうが、進藤のベッドは快適で毎回ぐっすりと熟睡することができた。
それなのに、今夜は珍しく真夜中だというのに目が覚めてしまった戸田だった。
これもまた親に買わせたという北欧製だというクィーンサイズの広々としたベッドに、なんの邪心もなく進藤は眠っている。
その満足げな、どこかあどけない寝顔が戸田は何より気に入っていたが、今夜はその寝顔を堪能する余裕すらない。
汗が滲んできた。
胸がむかつき始める。
我慢しようと思ったが、胃の辺りの焼けるような不快感と喉まで上がってきた苦いものに、ついに耐えきれずにベッドから抜け出した。
目の回りそうな気分の悪さだが、それでも進藤の眠りを妨げまいと慎重に起き上がり、ベッドから離れ、部屋を出た。
デザイナーズマンションというだけあって、機能的でかつスタイリッシュな構造のこの部屋は、戸田にはなんとなく高級ホテルを感じさせる。
オシャレな独身生活を満喫する進藤には不満はないだろうが、戸田には生活感や暖かみを感じさせない刹那的な空間に感じられ、どことなく落ち着かない。
特に、このバスルームは広々としてはいるが、ホテル並みの美しさと同時に合理的な冷ややかさを感じた。
ドアを開くと丸い部屋がある。
ここがランドリーコーナーで、入浴時に脱衣し、目の前の最新式の洗濯機に入れれば、明日の朝には洗濯、乾燥までお任せである。
その左手には大きな洗面台。正面の壁一面が鏡となっており、時々ふざけた進藤が、風呂上がりの体を鏡に映しては戸田に見せつけ、反応を楽しんでいる。
しかし、今の戸田にはそんな余裕はなく、右手のドアを開き、トイレに頭から飛び込むように入った。
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