歴史学習会

 思い詰めた様子の包老師の呟きに、学生たちの間に動揺が走った。

「包老師!」
「とにかく、分かって欲しい。君たちはこの国の将来を担う希望だ。今、無駄に民主化運動に関わることによって命や将来を失ってはならないのだ」

 低く、穏やかな、それでいて峻厳な包老師の言葉の裏にある、現実への絶望感を察して、学生たちもまた肩を落とした。

「先生…、我々は同胞たちが戦う姿を前に何か出来ないのでしょうか…」

 もはや何も出来ないと分かっていながらも、梁文志は一縷の希望を抱いて尊敬する老師に問いかけた。

「今は苦しくとも耐えて欲しい。君たちは将来、政府高官や党幹部など上層部に入り、正々堂々と正規の手段を使ってこの国を変えるしかないだろう」
「そんな…そんな壮大なことが、我々にできるのでしょうか…」
「必ず、君たちには出来る。私が君たちに歴史を教えてきたのはそういうことだ」
「…先生…」

 今の身動きできない苦しい状況に、包伯言が学生たちに言えるのは、先の見えない未来のことだけだった。

 その時、古い教員寮の廊下を軽やかに駆けてくる靴の音がした。
 ここで、こんな音を聞いたことが無い一同は、不思議そうに顔を上げた。その靴音はしばらく迷っていたようだが、やがて包講師の部屋の前で止まった。
 室内から様子を窺っていると同じく、廊下の靴音の主も少しだけ逡巡しているようだ。

 だが次の瞬間、その場の重苦しい空気が木っ端みじんに破壊された。

「ウェンウェン~。迎えに来てあげたわよ~」
「!」

 その場の雰囲気にこれほど似つかわしくないと思われる、若く、明るく、華やかな、まるで天真爛漫の妖精のような少女が飛び込んできた。
 包講師はじめ学生たちも、あまりの違和感に声も出ない。

「き、恭安楽!」

 茫然とする一同の中、口を開いたのは物静かな秀才の梁文志だった。

「もう、外はすっかり盛り上がってるわよ。まるでお祭りみたいで楽しそう。さあ、私たちも『広場』まで見に行きましょうよ」

 恭安楽と呼ばれた娘は、豊かな黒髪を高い位置でポニーテールにし、それをツヤツヤした水色のシルクサテンのリボンで結んでいた。
 心からワクワクしているのか、何か言うたびに髪とリボンが揺れる。
 そんな無邪気な安楽の楽しそうな笑顔に、先ほどまで深刻に語り合っていた学生も、思わず見とれて頬が緩む。
 だが、年長のこの部屋の主は、そんなもので誤魔化されることは無かった。

「何を言っているんだ、君は!」

 包伯言が一喝するも、恭安楽はキョトンとして、愛くるしい大きな目をクリクリさせている。

「何よ、このオジサン」
「お、おじさん…」

 あまりに素直な小娘の言葉に、さすがの包講師も調子を狂わされる。思わず素っ頓狂な声を上げてしまうが、それさえも面白そうに見ている恭安楽に、口惜しさを覚えて包伯言は顔を背けた。



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