象牙の塔シリーズ④ 君のためなら…

とある閑静な地に広大なキャンパスを有する、名門・エカテリナ学院大学部。
およそ100年の歴史を持ち、戦前は華族や財閥の令嬢が集う優雅な学舎(まなびや)であった。
今では共学となり、俗世の話題に上るような「偏差値」とは無縁の地味な校風へとは変わったものの、ロマネスク様式のホールだとか、ロココ調のテラスであるとか、その往年の栄華を物語るような過去の遺物が気楽な学生たちを見守っていた。

珍しく、戸田「教授」は怒っていた。
それは、いい加減でだらしなくてワガママな恋人に振り回されたからではない。
そんなことよりも、もっと真面目な話だ。
「話しにならないでしょう!」
ここは学内にある小会議室6。戸田が所属する科の学科会議が行われている。
所属教員は教授から助教までの8人。議題は人事についてだった。
「いいですか、宮本くんはもう10年も助教として勤めてきてくれたんです。業績も、確かに学外発表は少ないかも知れませんが、内容や、今後の展開への発展性を考えても申し分ないはずです。どうしてそれが、昇進不可なんですか?」
抗弁をまくし立てるのは戸田ではない。若い水原専任講師だった。戸田は黙っているが、内心は水原に賛同しているし、今回の人事の決定に不満を抱いて怒りを感じているのは間違いない。
「しかしね、宮本くんは指導教員だった島倉教授でさえ推薦を拒否されているんだ。人望が無い人間に昇進の話しもないだろう」
古参の森岡准教授が口を挟む。実際、宮本が今年定年退職した島倉教授から睨まれているのは事実だ。そのことを戸田は何度もこの目で見ている。
ニュータイプ、ニューウェーブとでもいうのか、宮本は10年前の採用時からドライで、「滅私奉公」を当たり前とする古い慣習をありがたがる学科古参の教授陣から煙たがられていた。
学科には伝統的なヒエラルキーが絶対的に存在し、教授に代わっての資料集めや対外交渉、それらを最下層の助教たちは「ありがたく」引き受け「させていただく」ことを良しと考えられている。そんな圧倒的多数の中で、現代っ子の宮本は「それは助教の業務内容に入っていません」とあっさり拒否し、これまでの慣習に浸りきっていた教授たちに冷水を浴びせるような真似をしたのだ。教授たちの楽しみである宴会の席でも「日本酒は嫌いだし」と素っ気なく退出、アッケにとられる教授たちを必死で取りなす准教授、講師たちの苦労も「バカバカしい、ナンセンス」と一瞥もくれない。
確かに宮本の言い分は間違ってはいないと戸田も思う。今どき、徒弟制度を引きずる大学組織のあり方に問題がある。だが、古い組織の中で立ち回る術を身につけるというのも、大学人という以前に社会人としてのわきまえであるとも思うのだ。宮本は大人げない所がある。
だが、それと、それが気に入らないからと言って、条件が整っているのにもかかわらず昇進の邪魔をするというのは別の話だ。実際、社会経験も足らず子どもじみた宮本も宮本だが、それに本気で腹を立てて報復をするなどというやり方は、もっと大人げがない。戸田はそのことに怒っていた。
「宮本君には、もう少し自覚を持って貰わねばね」
「イジメ、だな」
保守派の代表のような小笠原教授の呟きに、普段は無口な沢地准教授が吐き捨てるように言った。
「今、なんと言ったのかね、沢地君?聞き捨てならないようなことを言ったようだが?」
小笠原教授の腰巾着とも言える森岡准教授が迫る。森岡教授は今回の人事で教授昇進が決まっていた。これも、小笠原教授に「滅私奉公」してきたおかげである。そうすることが大学での人事のあり方だと身をもって経験し、信じてきた最後の世代かも知れない。
「将来のある若い世代に自分たちの固執した考え方を押しつけ、言いなりにならないとなると上から力で押しつける。そんなやり方、陰湿なイジメ以外、なんと呼ぶんです。これは自分たちが持ち得ない若さと才能への逆襲ですか」
普段は、頑固そうな顔でむっつりと黙っているだけの沢地准教授が、ここまでいうとは戸田も意外だった。
当事者の宮本は、稟議に立ち会えないことになっており今は席を外しているが、この光景を見れば、泣いて喜んだに違いない。宮本は、指導教員だった島倉教授よりも、他大学からやってきた沢地准教授に懐いていたのは確かだから。
だが、戸田は黙っていた。この大学側のやり口には怒りを感じてはいたけれど、戸田はこの大学の生え抜きで、学生時代の指導教員だった飯沼教授がまだ目の前に現役でいる立場だ。宮本へ味方することや大学当局への圧力を持つ学内屈指の実力者である小笠原教授に楯突く事は飯沼教授の前である以上、また自分自身の今後を考える以上、出来るはずもなかった。
「で、先程から発言のない戸田君と窪田君は、どう思うかね?」
微妙なタイミングで飯沼教授が振ってくる。ここでの戸田の発言がこの会議の場の方向を決めてしまうのは分かっていた。
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