象牙の塔シリーズ④ 君のためなら…

合い鍵を持っているにも関わらず、戸田はマンションのエントランスで部屋番号を押し、開錠を求めた。エレベーターで最上階に向かい、部屋のドアの前に立っても合い鍵を使う事をしない。ドアが開くまでの短い間、戸田は取り憑かれたかのようにチャイムを押し続けた。
「何があった?」
尋常ではない戸田の様子に、恋人が気遣いげに訊ねる。
「……なんでもない」
整った顔立ちを苦しげに歪め、戸田は煩わしそうに呟く。
「俺に隠せると思ってるのか。何でも無いわけないだろ」
ただならぬ様子なのはひと目で分かる。恋人である進藤は、ガサツで、無神経で、軽薄な人間だと思われているが、実際には少なくとも最愛の恋人のことには敏感で繊細な思いやりを有しているのだ。
今日が、会議であるのは聞いていた。内容までは戸田は話さない。もちろん、業務上の守秘義務に触れるからだ。しかし、内容は知らずとも、その結果がこの戸田の様子であることは推し量る事ができた。
「進藤っ!」
リビングの真ん中まで黙って俯いたまま入って来た戸田が、ふいに振り返り後ろで不安げに戸田の背中を見つめていた進藤に抱きついた。
「あっ!…、と、お、お前…。な、なんだよ、急に~」
慌ててその体を受け止める進藤だが、なんとなく予感はあったのか、男だけに動じなかった。何か言おうとした進藤の唇を、らしくない性急さで戸田が奪う。
驚いた進藤だが、拒む理由がない。こんな戸田を受け入れられるのは自分しか居ない事を知っているのだ。
ゆっくりと唇を舐め合い、舌を絡めた。仕掛けたのは戸田の方であるのに、さらなる積極さを発揮して進藤が深く求める。ひと心地ついたのか、名残惜しげに軽い口づけを繰り返し、静かに唇を離した。それでも、大の男がふたり、モダンなリビングの中央で抱き合ったままでいる。
「いいか…。お前を抱いていいのか?オレみたいな卑劣な人間がお前を抱いていいのか?」
いきなり、まるで泣きそうな声で戸田が囁いた。
「何言ってるんだ、お前?」
戸田の気持ちを察するかのように、進藤は優しい声で問い返した。そんな優しさに安心したのか、次第に戸田は自分の本心を吐き出していった。
「僕は弱く、卑劣な人間だ。保身に走り、正義なんてものは見て見ぬフリをする」
「何の話しか知らねえけどな、大学内のことなら自分をあんまり責めるな」
大学という組織は、象牙の塔などと呼ばれ学問の聖地のように思われているが、実際は組織たる以上、そこに政治的な思惑や駆け引きは当然のように存在する。それは、大学だからではないし、大学だから異質だと言う事でもない。
しかし、実直な研究者であり教育者であろうとする戸田には、その現実があまりに醜くて、直視できないほどなのだ。それでも、自分はそんな醜い、汚れた世界で生きて行かねばならない…。
「僕は不純な存在だ。純粋で、真っ直ぐで、自分に正直なお前の隣に存在するのに相応しい人間じゃない…」
自分に突きつけられた現実の醜さを嘆いて投げ出すほど、戸田は未熟ではない。けれど、そんな欺瞞の中にいる自分を素直に愛してくれる相手が不憫でならなかった。なぜなら、愛しているから。その汚れた世界に浸ろうとしない潔さを、純粋さを、それらを持ち続ける強さを…。それが、進藤そのものだった。
進藤もまた、戸田を愛しているからこそ、戸田の苦しみを、弱さを、受け止めてやろうと思っていた。それら全てが戸田であるのだから。
「いいじゃん。オレだって不純だぜ…。お前とのセックスのことばっか考えてるんだからさ」
あの愛くるしい瞳を輝かせて、進藤が笑った。屈託のない、やんちゃ坊主…そんな印象の進藤は誰からも愛される。それは、彼が子どもと同じほどに正直で、一途で、真っ直ぐであることを、彼を知った誰もが感じるからに違いない。
進藤は裕福な実家に甘んじて、大学という組織に身を置こうとはしなかった。自身は「俺みたいなハンパモン、どこの大学も拾っちゃくれねーよ」と嘯いてはいたが、その実、彼の人柄の良さ、そして研究者としての能力の高さから、いくつもの大学から席は用意されたのだ。しかし、進藤はそれら全てを断り、ただひとつ、戸田の在籍する大学の非常勤講師のみ引き受ける事にした。それはもちろん、愛する者の傍で彼を見守っていたいという純粋な気持ちからである。
「ふふ…。茶化すな」
進藤の優しさと温かさに、ようやく戸田も心を緩めた。その緩みが涙腺に伝わる。ぼんやりと視界が滲んでいた。
「…だったらさ、もう自分を責めるな。お前は悪くない。組織の中で生きるということは、自己矛盾と向き合う事がたくさんあるってことだ。お前はソレを選んだ。選んだ以上、そこから逃げるな」
愛してはいるが、戸田は男だ。進藤は決して戸田に自分の元へ逃げ込んでこいとは言わない。
「けど、お前にはオレがいる…」
進藤が力強く抱き締めると、戸田の腕にも力がこもった。気持ちが繋がっていた。
「逃げる事はできなくとも、余計なことは考えるな。そんな暇があるなら、オレを抱けよ。抱いて、めちゃくちゃになっちまえ。八つ当たりでもいい。お前なら…オレの事どうしたってかまわない。お前にそれが必要なら、オレを利用して、踏み台にしたって構わない」
愛しい者のためなら、進藤は自己犠牲も問わないと言う。全てを受け入れ、受け止め、全てを捧げる。そんな愛し方を進藤は戸田の為にできると言っていた。
「バカ言うなよ。お前をそんな…。出来るわけ無い。そんなことだけは、出来るわけないだろ!」
そんな進藤の大きな愛情に戸田は戸惑いすら感じる。けれど、自覚はなくとも戸田もまた進藤の為ならば何かを犠牲にする事も厭わないだろう。
「なら、オレのためにも自分を苦しめるようなことはするな。オレを抱いていいのはお前だけだ。お前だけなんだから…。そんなお前が傷ついたり、苦しんだりしているトコ見たくない…」
「進藤…、しんど、う…」
もう、涙で目の前が見えなかった。戸田が進藤の姿を認めようと瞬きをすると、頬が濡れた。それを自覚した途端、堰を切ったように涙がこぼれた。辛かった、でもこの男の前だけなら泣けるのだと、戸田はこの上ない信頼を感じていた。
「泣けよ。オレの前だけなら、泣けって」
「……」
泣きながら、進藤を抱きすくめた。愛しい気持ちをその力に込めた。それはすぐに進藤にも伝わる。
「お前が、素顔に戻っていいのはオレの前だけだぞ、いいな。他の誰にも、そんな『戸田教授』を見せるな。オレの前だけなら、泣いてもいい。心を許して甘えていいんだ」
「こんな弱い僕でいいのか?」
「どんなだって、オレは戸田ならそれでいいのさ」
二人はもう一度口づけを交わし、なんの確認も必要としないまま寝室へ向かった。
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