バカヤロウは愛の言葉

周太は、真弥先生にそそのかされて、とうとう有給休暇を一日だけとは言え取ってしまった。ただ問題なのは、そんな真弥先生の強引なやり口までも、周太は好ましいと思ってしまうことだ。
 出発を翌日に控えた木曜日の夜、真弥先生が、突然周太のアパートを訪れた。
「明日の用意は出来たか」
 周太が何か言うより早く、真弥先生は悪魔のような素早さで、周太一人の室内に入り込んでいた。
「あ、あの、狭くて、汚い所ですけど……」
 赤面もので周太は、モゾモゾとそんな言葉を口の中で繰り返していた。
「うん、俺のマンションよりは、狭い。でも、ちゃんと整理整頓ってヤツをやってるじゃないか。偉い、偉い」
 子供をあやす時のような言葉遣いだけれど、周太はバカにされたというより、甘やかされて褒められたような嬉しい気持ちになっている。
 恋するっていうのは、こういうことなのかもしれない。どんなことでもいい、真弥先生が、自分のことを何か興味を持ってくれて、自分の一部を知ってくれたことが周太には幸せなのだ。
「何か、飲み物でも?何が宜しいでしょう、真弥先生」
 真弥先生は、それには何も答えなかった。不信に思った周太が、真弥先生の顔を見上げた時、ドキッとした。
 先生は、今までに見せたことがないような、怖いほどに真剣な眼差しで周太を見ていた。
「せんせい?」
 これもまた、先生の冗談の一つ何だろうか? おバカな周太には判断がつかない。
 どうしてよいのか分からずに、怯えた周太は自分の方からスッと視線を外した。視線なんて、いつだって先に反らしてしまった方が負けに決まってる。
「いいか、周太」
「は、はい」
「これだけは覚えておけ。旅行中、絶対に俺には酒を飲ますなよ」
「どうして、ですか?」
 無邪気な周太の質問に、大人の真弥先生は、苦い笑いでもってそれに答えた。
「理性のタガが外れると、俺は何をしでかすか分からん」
「えっ!真弥先生って、酒乱でしたっけ」
 ここまでの徹底した周太の大ボケぶりに、さすがの真弥先生も吹き出した。
「クックックッ……。ほんっとに、お前ってヤツは……」
「せ、先生?僕、どこか変でしたか?」
 もしかして、真弥先生に呆れられたり、ましてや嫌われたりするのではないかと、冷や冷やしながら周太は尋ねた。
「いいや、悪い。何でもない。なんでもないんだ。お前は、そのままでいいんだよ」
 さっきまでとは打って変わり、今度は真弥先生は、この上なく優しい笑顔で周太の不安を解消してくれる。
 単純な周太には、複雑な構造の持ち主らしい真弥先生という人間は、中々理解しにくい。それでも、こんな笑顔一つで、周太には真弥先生の人間性の全てが信じられるのだ。やっぱり周太は、真弥先生が好きだ。
「周太。これが明日の『のぞみ』の切符だ。失くしたり、忘れたりするなよ。ホームで集合だ。遅れるな。俺は待ってなんてやらないぞ」
 わざわざこれを届けるために、真弥先生はここまで足を運んだのだ。偉そうに呼びつけてくれれば、周太なんぞは尻尾を振って喜んで取りに行っただろうに。やっぱり、真弥先生も周太に夢中だ。甘い、甘すぎる。
「持ち物は?」
 真弥先生は、この上周太の持ち物検査までしていこうというのか。あー、これまた周太は幸せそうな顔で鞄を開けて、せっかく詰めたばかりの中身を、一々出して見せている。この二人、案外似た者同士なのかもしれない。
「パジャマは?洗面道具は?」
 パジャマが入ってないことに、つい真弥先生の口許に不謹慎な笑みが浮かぶ。もちろん、周太は気づかない。
「え?そんなの、ホテルのを使おうと思って」
 何の疑念をも抱かず、周太は小首を傾げて真弥先生を見つめる。なんとも可憐な仕種だ。わざとやっているとしたら、とんでもない奴だ。だが、無心だからこそこれほど愛らしいのだと、真弥先生は一人で納得する。
「バカ。俺が、そんなトコに泊まるか」
「えぇーっ!浴衣も歯磨きセットもないような所に泊まるんですか?」
 印象的な目を真弥先生に見せつけるかのように、ぱちくりさせて周太は抗議した。
「どんな所を想像してるのか知らんが、多分お前の貧困な知識では、思いも寄らない所だよ」
 確かに周太には何のことだか見当もつかない。だけど本当はそんなこと、どうだっていいのだ。真弥先生と二人でいられるなら。
「京都の岡崎と言うところに、知り合いが家を持ってる」
「住んでらっしゃるのではないのですか?」
「あん?そうだな、いわゆる別宅だから」
 周太はまたもや首を傾げる。「別宅」?それは、「別荘」とはなんとなく違うニュアンスだぞ?
「以前は祇園の女を囲ってたらしいんだが、今は滅多に使ってないらしいんだ。ま、俺の人脈の有り難さ。一軒、丸ごと借りてしまった」
「……」
 もはや、その感覚の違いに、周太はついていけなくなっていた。
「自宅は、成城にお屋敷を持ってる人さ」
 その名を聞いて、周太は返す言葉を失った。それは、あの有名な与党議員の名だったからだ。大臣経験者でもあるあの議員の、京都妻の住んでいた別宅を貸切り?一体、真弥先生ってどういう人付き合いしてるんだろう。
「楽しみだな、周太」
 にこやかな真弥先生を余所に、今更ながらなんとなく不安を感じ始める周太だった。


 寝苦しい夜をなんとか乗り越え、ギリギリの時間に、周太はアパートを飛び出した。それでも、真弥先生と並ぶ時のことを考えて、彼なりのお洒落をしているつもりだ。
 コロンは、先生が好きな微かな柑橘系。いつか褒められたさらさらの髪を生かすために、昨日買ったばかりの専用ミスト。常に身につける物のベースカラーをブルーに決めている先生に合わせて、学生っぽくて避けていた紺のスーツを敢えて着た。後は、隣に真弥先生がいれば、完璧だ。
 意気揚々として新幹線ホームに駆け上がった周太を待っていたのは、真弥先生と見知らぬ人物のツーショットだった。
「……」
 反射的に、周太は人混みに紛れて姿を隠していた。
 そんな必要は何もないはずだ。周太は、これから先生と旅行するのだ。そのために先生はここに来ているはずなのだから、誰が居ようと堂々と先生たちの前に現れていいのだ。
 でも、何故か周太には出来なかった。真弥先生と、側に居た少年との余りの親密さに自分の割り込む余地を見つけられなかった。
 それは、とても美しい少年だった。綺麗と言ってもいいかもしれない。綺麗という言葉は、何だか無機質的な気がするけれど、本当にお人形のように完璧な美しさなのだ。まだ、16、7にしか見えない。けれど、その綺麗な顔を見せられると、大人でも圧倒されるだろう。
 真弥先生を大好きな周太が、少しくらい身ぎれいにしたって、生まれつきのこれだけの美貌の少年を前にしては、真弥先生の目だってこっちを見ようとは思わないだろう。
 想っても、想っても、遠すぎて届かない想いっていうのは、本当にあるもんだなぁ、などと、周太は一人でホームの隅で黄昏(たそがれ)ていた。
 そんな、周太が見たくない構図の中に、さらに追い打ちを掛けるかのような人物が割り込んできた。
 病院では見られない、シックだけれど洗練されたカジュアル。ルックスの優れた人っていうのは、どんなスタイルでもちゃんと着こなしてしまうものなんだなぁ、と、またもやおバカな周太は感心する、そして一瞬遅れて落ち込むのだ。
 多分、真弥先生の注文らしいお弁当を買ってきたのは、佐々木先生だった。
 いくら真弥先生が素敵だからって、何もこんなにカッコいい男と綺麗な少年を近くに配置しなくてもいいじゃないか。周太のこんな愚痴は、神様にでも向けたものだろうか。
「真弥先輩。言っときますけど、いきなり西野くんを泣かさないで下さいよ。彼、とてもいい子だし。もし苛めたら、教授に言いつけて、先輩に嫌がらせをしてもらいますからね」
 佐々木先生の脅迫は、真弥先生には全くこたえていないらしい。意味深に笑っている真弥先生は、ちょっと不気味なほどだ。
「ねぇ、真弥。それにしても、その西野さんって人、ちょっと遅くないかな?」
 少年が、真弥先生の腕に掴まるようにして時計を覗き込んだ。ひどく親しげな様子だ。
「大丈夫だって、例え遅くなっても、あいつは絶対に乗り遅れる事だけはしないさ。そういうとこだけは、信じてやっていいんだ」
「へぇ。自信あるんだ」
 からかうような眼差しで、美少年クンが真弥先生を見る。会話は、周太の居る所までは聞こえないけれど、そんな仕種に周太の心は乱されっぱなしだ。
(真弥先生、どうか先に乗って下さい)
 車内で合流しようと、周太は考えた。彼らの居る前に現れるのが、どうしても嫌だったのだ。卑屈な考えだとは思う。でも、真弥先生を好きだという気持ちに、周太はとても臆病なのだ。それはきっと、これが許されない恋だからかもしれない。
「そろそろですよ」
 佐々木先生が、ご自慢のロレックスで時間を確かめた。
「ん……」
 不機嫌そうに真弥先生は、辺りを見回した。
(ったく、あのバカは、何をしてるんだ)
 遅れたら、待ってやらないと言ったにも係わらず遅れてくる周太の神経を、真弥先生はちょっと疑う。好きな相手をこんなにヤキモキさせるとは何事だ。真弥先生は、自分が勝手に気を揉んでいるくせに、内心、周太への文句で一杯だった。
(先生ってば、待たないって言ったくせに、早く乗ってくれればいいのに)
 周太は周太で、真弥先生に対する恨み言で一杯だ。
(先生っ、先に行って下さい。僕なんていいから、先に、先生だけでも)
 周太は心の中で必死に叫ぶが、一向に真弥先生には届かない。
(先生っ!)
(周太、早く来いっ!)
 アナウンスが流れて、周太はやっと気が付いた。先生は、確かに自分を待っていてくれてる。真弥先生が今、待っているのは、西野周太、自分だけなのだ。おバカな周太が、やっとそれだけのことに気づいた時、発車の合図がホームに響いた。
 遅れたら置いて行くと言ったのに、先生は、周太を待っていてくれた。周太のために、待っていてくれた。
「真弥先生っ!」
 気づいた時には、周太は先生に向かって一直線に走っていた。
「来いっ、周太!」
 真弥先生に腕を取られ、抱きすくめられるようにして、周太は先生と車内に転げ込んだ。その瞬間にドアが閉まる。
 発車だ。
 ドアの外で、佐々木先生とあの少年が呆れたように周太たちを見ていた。
「遅いぞ、周太」
 叱る先生の声は、何故かとても優しかった。周太はまだ、先生の腕の中に居た。
「申し訳ありませんでした」
 近くに見た真弥先生の顔が、とても嬉しげで幸せそうに見えたのは、おバカな周太の勘違いだろうか。
「やっぱり、間に合ったな」
「『やっぱり』って……」
 真弥先生は、僕のことを信じていて下さったんですね、と続けたかった周太だったが、ふいに真弥先生の腕が解かれて、言えなくなった。一人で立つことが、こんなに心細いことなのだと、周太はこの時初めて知った。
「せっかく見送りに来てくれてたのに、ろくに言葉も掛けずに、飛び乗ってしまったじゃないか」
 指定席に着いてしばらくすると、真弥先生がそんなことを言い出した。
「今夜、電話でもして謝っておくかな。お前も謝れよ」
「……。どなたが、見えてたんですか?」
 白々しいかな、と思いつつも周太はそらっとぼけて聞いてみた。
「なんだよ、お前。俺しか見えてなかったのか?」
 真弥先生にとっては、言葉通りの意味でしかないだろうけど、周太にはその何気ない言葉のデリケートな意味に、少しだけはにかみながら頷いた。周太は、いつだって真弥先生しか見えてないのかもしれない。
「佐々木と、俺と一緒に暮らしてる……」
 一瞬、周太の体が硬直した。
「従弟(いとこ)の有季弥(ゆきや)。有季弥は特に、お前に紹介しておきたかったのに」
 何?従弟?
 あの美少年が、真弥先生の単なる従弟?
「あんなに、綺麗な従弟ですか?」
 周太は、まだどこかで疑っている。
「?なんだ、お前、有季弥には気づいてたのか。ま、あいつは目立つからな」
 真弥先生は、通り掛かった販売員からビールを買いかけて、ちらりと周太の顔を見ると、それをオレンジジュースに変更して2本求めた。
「ほい、お前の分」
 何となく、周太はいつもの真弥先生のコーヒーを思い出して、嬉しくなった。
「ありがとうございますッ!」
 行儀良く礼を述べて、周太はそのジュースを、ぎゅっと握りしめた。
「有季弥は、俺の一番近い肉親なんだよ。あ、物理的な意味で」
 真弥先生が家族のことを話すのは、これが初めてだった。周太は、ますます真弥先生に近づけるような予感に期待してしまう。
「俺の両親は、海外生活が長くて、多分もう日本にも帰ってこないだろう。兄弟もいないし、有季弥はちょうど弟みたいなもんなんだ。あいつの両親、4年前に離婚して、その時あいつは父親についてイギリスに行ったんだけど、どうしても行きたい大学があるからって、先月、帰って来たんだ」
「そう、だったんですか」
 周太は、自分が少し恥ずかしい。明らかに、自分は有季弥くんに嫉妬していたのだ。真弥先生が、弟みたいに大事に思っている有季弥くんに対して、周太は浅はかな嫉妬の目を向けていたのだ。
 確かに、周太はおバカだ。例えどんな人が真弥先生の側に居ようと、周太が真弥先生に寄せる想いに、何ら変わりはないのに。
「周太、あいつ、気難しいくせに、寂しがり屋なんだ。良かったら、友達っていうか兄貴代わりになってやってくれよ。今度改めて紹介するから」
「はい、喜んで。僕、兄が1人居るだけなんです。いつも偉そうにされてて……。弟がいたらなぁって、ずっと思ってたから。弟が出来たら、僕も嬉しいです」
 まさかいくら周太でも、ついでに真弥先生がお兄さんになってくれたらいいのに、なんてことを言えるわけは無かった。
「そうか、周太は兄さんが居るのか」
「あ、でももう結婚してますし」
 何を思ったのか、周太は、慌てて付け足した。
「なにも、そんなことを聞いてないよ。周太の兄さんなら、優しい人だろうなと思っただけだ」
 周太の慌てぶりに、真弥先生は、優しく笑った。真弥先生が欲しいのは、なんたって周太本人だけなんだから。
「ジュース、飲まないのか?」
 真弥先生が、周太がしっかり握りしめたオレンジジュースに気づいた。
「生温いジュースは、飲めたもんじゃないぞ。あーあ、やっぱり口を開けた俺の方が、まだ冷たいくらいじゃないか」
 そう言うと、真弥先生は周太の手の中にあった缶を取り上げた。
「旨いぞ、俺のを、飲んでみろよ」
 強引に真弥先生のを握らされて、戸惑っている周太に、先生は飲めと命じた。
 ごくん。
 同じところに口をつけて、そのジュースは、真弥先生の味がした。
(間接キッスなんて喜ぶほど、僕は女子高生レベルじゃないぞ)
 それでも、周太は随分と動悸が上がっていた。
「先生のジュース、おいしいです」
 満足げに、真弥先生は周太を見つめた。
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エエやん♪