バカヤロウは愛の言葉

学会そのものなんて、実は退屈なのだ。
 そんな話は、あんたの口から聞かされなくても学術雑誌で読んだよッ、とか、後から聞けばいいやッ、とか、ほとんどの参加者の本心はそんなものだ。稀に、周りが見えないほどに熱心な御仁がおられるが、そんなのは逆に煩わしい時もあるのだ。いや、ホント。
 だから、真弥先生は聴衆というよりも「眠衆」と化していた。
「真弥先生、今発表してらっしゃるの、先生のお知り合いの先生なんでしょう? 不味(まず)いですよ、こんなに堂々と寝てたら」
 薬理学会のホスト校経験者である周太は、その時のとある教授同士のトラブルを思い出して、オロオロしながら真弥先生の耳元で囁き続けた。それを真弥先生がむしろ楽しんでいることなど、全く気もつかずに。
「しかも、かなり目上の先生じゃないですか。後、どうなっても知りませんよ」
 周太にしてみれば、見ず知らずの「お爺さん教授」に対する礼儀というよりも、たたひたすら真弥先生の立場を心配してのことだった。こんなに心配しているのに、周太の気持ちなど真弥先生は全然考えてくれないんだから。
(でも……)
 真弥先生の寝顔を間近にして、ちょっと得した気分を味わう愚かな周太であった。
 学会に参加する真の趣旨は、発表時ではなく、実はその前後のレセプションにあると行っても過言ではない……(多分)。
 初日のレセプションでは、普段、滅多に顔を合わせられない教授陣が、全国から一堂に会して旧交を温めようというのだ。いろんな意味で、盛り上がらないはずがない。
 今回、真弥先生と周太が参加したのは、東西医療の融合とか、超心理学とかを語り合う、少しばかりオカルティックな医学学会だったので、規模としては全国大会にしては幾分小さめだった。だが、内容が内容だけに、正式会員の医療関係者よりも、当日受付の一般来聴者の方が多いのではないか、という勢いだった。
 そこで、当初から準備されていた、この洛北の緑に囲まれたホテルの、二つのバンケットルームは、大混雑を見せていた。
「し、真弥先生ッ」
 大方の予想通り、人混みの中でまごまごしていた周太は、真弥先生とはぐれてしまった。
 二つのバンケットルームは、ロビーのような廊下を挟んで分かれている。大きい方の「比叡(ひえい)の間」はステージがあり、メイン会場としての役割を果たしている。対して向かいにある「妙法(みょうほう)の間」は、「比叡の間」に比べれば手狭な感もあるが、こっちは主にバイキングの飲食専門といった感じで、役割分担がはっきりしていて、かえって迷わない。それに「妙法の間」にはテレビモニターも設置されていて、「比叡の間」のステージ上が逐一映し出されていた。
 周太は、セレモニーめいたことに無関心な真弥先生のことなら、飲み食いに走ったに違いないと、すぐさま「妙法の間」に向かった。
「では、ここで、前回報告の有りました、『音楽的心理療法』に由来して、素晴らしいピアノ演奏をもって、当学会員相互の親睦を深めるさらなる手助けと致したいと存じます」
 周太が、「妙法の間」に足を踏み入れた途端に、モニターに大きく写し出された司会者が、紹介を始めた。
 ふと気になり、そちらを見る。
「演奏者は件(くだん)の報告者、誠信学院大学医学部助手・的場真弥君です」
 司会者の紹介の後、照れくさそうにモニター画面に現れたのは、確かに周太が大好きな真弥先生だった。
「う、嘘ッ……」
 狐につままれたような感じで、周太は画面にかじりついて見た。
「曲は、ラヴェルの『亡き王女のためのパヴァーヌ』です」
 画面から司会者の姿が消え、真弥先生一人が画面に大写しになった。先生の顔つきが変わる。まるで本物のピアニストだ。
 ぽかんと見とれている周太の居る画面の向こうで、真弥先生は優雅にグランドピアノの前に座った。
 真弥先生が、ゆっくりと呼吸する。それにつられて周太まで。そしてそのおかげで、周太はハッと気づいて「妙法の間」を飛び出した。当然だろう。大事な真弥先生の演奏だもの。生で聴かずしてどうする!
 周太がお偉い教授陣をかき分け、ピアノの見える最前列にたどり着くのと、真弥先生の指が鍵盤に触れたのは、ほとんど同時だった。
 美しい曲だった。だけど、それはとても寂しくて、切なくて、音楽に疎いはずの周太の心にもひどく響いた。
 例えば、一口に「寂しさ」と言ってもいろいろあるだろう。
 誰かに側に居てほしくて堪らない、孤独な寂しさとか、たった一人で泣き続けたい自分だけの寂しさとか。手の中にない寂しさを嘆いてみるけれど、決して代用品などでは妥協できない、そんな、どうにもならない寂しさ。周太は、この曲のまとわりつくような思慕に共鳴していた。
 「亡き王女のためのパヴァーヌ」。亡き王女を偲んで泣く人は、もう二度と帰らぬ彼女を、もう手の届かない所へ行った彼女を、どれほど想っていただろう。
 真弥先生が演奏を終えて、ちらりと周太の方を見た時、周太の澄んだ瞳が少し潤んでいた。


 演奏後、お偉いさん連中に捕まるのが嫌で、真弥先生は周太を連れてホテルの庭へと逃げ出した。
「真弥先生、ピアノがお上手なんですね。さすがインテリだなー。感心してしまいました」
 「妙法の間」で、少しアルコールを摂取した周太は、ほんのり頬を染めていつもより饒舌になっていた。周太にすれば、あの曲でひどく切なくなった自分を、アルコールの力で慰めたかったのかもしれない。
 そんな周太を見守る真弥先生の眼差しは、とても暖かだった。
「お前、クラシックとか全然ダメだろ」
 はっきりと言ってしまうのが真弥先生らしいけれど、もはや周太はこれくらいのことでは堪えない。
「はいっ!」
 脳天気な周太に、真弥先生は苦笑する。
「お前なー。誠信学院出身で、よくそんなこと、堂々と言えるな」
 誠信学院大学は、医学部、薬学部の他に、文学部、経済学部、社会学部、そして、芸術学部がある。このばらつきには理由があって、もともと誠信学院というのは、裕福な家庭の子女を対象とした、いわゆる「おぼっちゃま・お嬢様」学校として設立されたからだ。
 昔は、富豪のパパが、バカ息子のために学院に大金を払って学部を作らせたのだという噂が、誠しやかに囁かれている。これが本当だとしたら、絶対に医学部あたりが怪しい。
 そんな名前だけの大学が、一種の権威を持って存在しうるのは、実は芸術学部あってこそだった。貴族的とも言えるこの学院の芸術学部、特に音楽学科の名声は内外によく知られているのだ。
「だって、芸術学部のキャンパスは完全に独立してるじゃないですか」
 いくら学院一(唯一?)の実績誇る芸術学部と言っても、全く別の場所に立つキャンパスでは、もう他校と同じ感覚だ。
「それでも、少しくらいは関心を持っておくものだ」
「そうですか?」
 さっき飲んだワインの勢いか、珍しく周太は真弥先生に対して反抗的だ。いつもなら、「はい」の一言で済むのに。
「そうだよ。俺だって、もしかしたらそっちに行ってたかもしれないんだし」
 確かに、そうかもしれないと、周太は遅ればせながら思った。趣味で楽器を嗜む先生たちを、周太もたくさん知っている。あの佐々木先生も、休みの日にはバイオリンを弾くこともあると言っていたのだ。
 でも、真弥先生の演奏は、そういった趣味のレベルを越えていたように思う。まさかプロとまでは言わないが、音大レベルには十分到達していただろう。
「先生は、芸術学部を目指してらしたんですか?」
 よくある話だ。本人は金にならない音楽をやりたがり、周囲はそれに反対する。そして結局押し切られて、音楽を趣味にすり替え医学部に進む。ただしこの場合、大抵は音楽を選ばなかった方が正解だった人が多い。周太は、真弥先生もそういう経緯(いきさつ)だったのかなぁと、ぼんやり思っただけだった。
「俺はどっちかと言うと、その逆だよ」
「逆?」
「俺の一族は、みんな『ゲイジュツカ』してるんだよ。両親も、祖父も、伯父も」
 へぇっ、と周太は感心したように先生を見た。それがおかしかったのか、真弥先生は誠信学院大学芸術学部で一番有名な教授の名を口にした。若い頃は美貌の演奏家として知られ、今でもマスコミにもてはやされている音楽学科の教授だ。その名前くらいは、誠信学院の学生でなくとも、周太ですら知っていた。
「それが、俺の伯父さんだよ」
 周太は驚いて、言葉も出なかった。
「だから、医者になるなんて言った時、みんながすごく反対した。俺、一人っ子だからね。両親も、祖父も、そこそこ期待してたようなんだ」
 自分のことを、なんだか照れたように話す真弥先生を、周太は可愛いと思ってしまった。
「だけど、俺はやりたいようにやる主義だから」
 分かる。
 周太は思わず頷いた。他人には優しくて決して頑固ではないけれど、真弥先生は意志の強い人だ。周りに何を言われても、自分の信じた道を行くなんて、とても真弥先生らしい生き方だ。そして、きっと先生の選択した道は間違っていない。周太はそう信じていた。そういう真弥先生らしい生き方に、周太はずっと憧れているのだから。
「何を笑ってるんだよ」
 恥ずかしそうに笑って、真弥先生は背を向けた。
 やっぱり、周太は真弥先生が好きだ。自分らしく生きる、自由な真弥先生が好きだ。「自分らしい」といえるほど「自分」を持っている真弥先生が好きだ。今の周太が、自信をもって「自分」だと言えるのは、真弥先生に対するこの気持ちだけかもしれない。
「泣いてただろ」
 ふいに真弥先生が、向こうをむいたままで言った。
 分かってる。先程の先生の演奏を聴いて、瞳を潤ませていた周太のことを言っているのだ。今度は周太の方が恥ずかしくなって、とぼけることにした。
「何のことですか?」
「いい曲だったろ」
 とぼけた周太に、真弥先生はそれ以上言及してこなかった。
「はいッ」
 いつもの、周太らしい素直な返事。それだけで真弥先生もご満悦だ。
「なんて言うか、おごそかなんですけど、どこか素直で、気持ちが引きつけられるような、切ない音楽でした」
 素知らぬ顔をしているが、この時真弥先生は周太の感受性の鋭さに驚かされていた。ろくにクラシック音楽なんて知らないくせに、形のない「音」というものを、こんなに繊細に感じることができるなんて。きっと周太の無垢な性格の成せる技なんだろうと、真弥先生は変なところで、一人得心する。
「曲が終わっても、なんか、こう、後ろ髪を引かれるようで……」
 ここまで言って、周太はハッとした。これって、もしかして曲のせいじゃなくて、真弥先生が演奏したからなのではないかと思ったのだ。だから、自分はこんなに惹かれて……。
「いや、その、ぼ、僕なんて、素人ですから、よく分かりませんけど」
 慌ててごまかそうとするが、真弥先生は、笑っているだけだった。
「あの曲の一番の特徴は、掛留音だからな。ネチネチ引きずるような、辛気臭い感じが付きまとうんだ」
「ケーリューオン?」
 聞き慣れない専門用語に、周太は眉をしかめる。中国人の名前みたいだ。
「つまり」
 愛しいおバカさんのために、真弥先生はご親切に講義を始めて下さった。
「メロディは、普通、小節ごとに区切られてる。一つの小節に、四拍子ならおたまじゃくしが四つ、お行儀良く並んでいるのが、基本的なまとまりなんだ」
 そう言って、真弥先生は日本庭園のちょうど地面の土が剥き出しの所へ、周太を引っ張っていった。
「いいか、お前が一つの小節。俺もそれに続く小節だとする。二つは、ここで区切られている」
 そして、真弥先生は靴の先で周太と自分の間に、足元の土の上に線を引いた。
 正に「一線を引いた」関係だ。周太は、どきりとした。
「お前は、この線を越えないのが基本だ。もちろん、俺からもそっちへは行かない」
 一体、何の話だったっけ。二人の間に「一線」を引かれてしまった周太はボーっとした。真弥先生は、そんなに僕が嫌いですか?周太はもう少しで泣き出すかもしれない。
「但し、どんなことにも例外はある」
 言った途端、真弥先生の腕が、周太の方へ伸びた。あっと思う間もなく、周太は「一線」を越えて、真弥先生の胸に抱かれていた。
「これが、掛留音さ。越えてはいけない線を越えて、前の小節の音を次の小節まで残しておくんだ。離れがたくて、放したくなくて、断ち切れない想いを、残しておこうとするんだ。ルールを破ってまでも」
 真弥先生の胸の中は、暖かくて、静かで、爽やかで、周太には全く居心地が良かった。あの、新幹線のどさくさの時よりずっと長く、周太は真弥先生の腕の中で守られるかのようにして抱かれていた。
「判るか?周太」
 胸の中で聴く真弥先生の声って、よく響いて素敵だなー、と、周太はうっとりしていた。
「ケーリューオンって、ロマンチックなんですねー」
「……バカ」
 涙が出るほど優しい声で、真弥先生は言った。でも、周太はそれでも幸せなのだ。
「僕、真弥先生が好きです」
 好きだから、周太には何を言われても、それが真弥先生の声なら、さながら至上のメロディーにさえ思える。
「バカヤロウ」
 口では、そう言いながら、真弥先生もまた、嬉しそうに周太を抱きしめた。
「先生?」
 驚いたのは、周太の方だ。
「そんなこと、ずっと知ってたさ」
 がーん!
 マンガチックに、そんな言葉が周太の頭の中を飛び交う。
 まさか、そんな。
 ショックを受けるのは、せいぜい周太一人だ。佐々木先生初め、誠信学院大学附属病院で、周太と真弥先生を知る者なら、周太の片思いなど、全員知っている。一方、真弥先生の気持ちの方は、まだ余り知られてはいないけれど……。
「だけどな」
 周太にしてみれば、必死の告白であったはずなのに、真弥先生はこんなに冷静で、しかも優しい。
「お前に、そんなことを言わせたくなかったんだよ」
 やっぱり。やっぱりね。周太は、心の中で泣きべそをかく。
 先生は、普段は隠しているけど、とても思いやりのある人だから、同性なのに好きだなんて言ってしまう非常識で、不道徳な自分にも、こんなにも優しいのか。周太は、心の中で悲しく呟く。
「……迷惑ですよね」
「ああ」
 絶望的だ。周太は、辛くなって先生の胸の中から、そっとその身を引いた。
「俺から言い出す楽しみがなくなったからな」
「?」
 あんまりにもおバカさんなので、周太は一瞬真弥先生が何を言っているのか、見当もつかなかった。
「済みません、真弥先生。間違ってたら失礼なんですけど、それって先生も僕のこと……?」
「バカヤロウ。それ以上言うと嫌いになるぞ」
 周太の顔が、戸惑いながらも笑みを浮かべる。
「じゃあ、今は好きでいて下さるんですか?」
「あーもー!ったくデリカシーの無いバカだなぁ、お前ってヤツは」
 怒ったふりをして、真弥先生は周太の体を突き放した。本当は、これだけでも十分照れくさいのに、これ以上恥ずかしいことを言ってしまいそうな自分に慌てたからだ。
「でも、先生。僕、バカですよ」
 それでも、こんな僕でも、先生は好きになってくれますか?
「バカ。お前は、バカになるほど俺に惚れてるんだ。……それに、俺はバカが嫌いじゃない」
「僕はバカですけど、真弥先生が好きなんです。先生にも好きでいて欲しいんです」
 周太のあの澄んだ目を、真弥先生はしばらくの間、じっと見つめていた。真弥先生も、本心は同じはずだった。
 周太は恐る恐る、震える指先を真弥先生の頬に伸ばした。分かっているくせに、真弥先生はじっとしたままだ。仕方ない。周太はこんな性格と知っていて、真弥先生が好きになったのだから。
 少しずつ、少しずつ、スローモーションのようにもどかしい動作で、周太は自分の顔を真弥先生の顔に近づけていく。
 慎重に、焦らず、この想いが壊れないようにそっと、先生の元に届けたい。そんな周太の決意が報いたのか、無事に周太の唇が真弥先生の唇に微かに触れた。
 それは、周太から仕掛けた、初めての誓いのキス。触れただけの、優しい口づけ。でも、二人にはそれだけで十分だった。
「俺が引っ張る前に、自分から飛び込んで来やがって、バカヤロウ。……泣いても知らないからな」
「泣きません。先生が傍に居て下さるなら」
 おバカなくせに、真弥先生と駆け引きをして、周太は笑った。
「生憎だな。俺は、お前の泣き顔が大好きなんだ」
 意地の悪い、真弥先生のいつもの口調。でも、それでいつもの真弥先生に戻ったことが分かって、周太は嬉しい。
「僕の泣き顔が見れるかどうかは、先生次第ですよ」
 一瞬、オトナの真弥先生は、いろんなことを考えてギョッとしたが、周太が分かっていないようなので、知らん顔で済ました。まだまだ周太には、愛し合うって意味が分からないのだ、きっと。
「どうか、しましたか?」
 ほら、やはり気づいてない。真弥先生は、大人だから笑ってごまかす。でも、心のどこかでは、この先の二人の恋の行方に期待している。
 いつかきっと、周太に「好き」ではなくて「愛してる」って言わせてやる。真弥先生のそんな決心など、おバカな周太に届くはずもない。
「バカヤロウ、俺が本気になれば、お前なんかすぐにでも泣かせてやる」
 何も知らず、周太はクスクス笑っている。
「何がおかしいんだ、このバカ!」
 笑い転げる周太を、真弥先生は、放すまいとぐっと抱きすくめた。
「そう何度もバカバカ言わないで下さい。それとも、真弥先生の言う『バカヤロウ』は、『好き』の意味ですか?」
「そうだよ」
 お喋りなおバカさんのために、今度は真弥先生からの甘い口づけ。
「先生、もっと、バカヤロウって言って下さい」

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エエやん♪