ワンスモアアゲイン
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もう会えません、と伝えた。許嫁ができたから、と。
河合さんはただ一言、そうですかとだけ答えた。表情一つ崩さなかった。
句の勉強会が休みのその日は、丁度わたしも河合さんも予定がなく、長いこと伝えられず黙っていたこの話を河合さんに話すとしたら、それは今日しかないだろうと実のところ前々から思っていた。今日を逃したら、きっと、わたしはこの人に一生この話を伝えることはできないだろうと思っていた。心にずっしりとのし掛かる重石を取り除けないまま、彼に何一つ真実を伝えられないまま、ひっそりと彼の前から姿を消していたかもしれない。
伝えられて良かったと思う反面、なんでこんなこと伝えなくちゃならないんだろうとも思う。好きで好きでたまらない人に自分から別れを告げるなんて、出来ることなら一生経験したくなかった。
昼から夕方へと移り変わろうというこののどかな時間に、まるで似つかわないお別れの話を持ち出したわたしを彼はどう思っているだろう。土手の上、右手に見える川の流れを見下ろしながらゆっくりと前を歩いている河合さんの背中を、歪む視界の中そっと盗み見た。
わたしのこと、空気の読めない女だと思っただろうか。なんでこんなこといちいち報告するんだとでも思っているのかもしれない。ちょっと恋人のまねごとをしたくらいでなにをいい気になっているんだ、と。思い上がるな、とでも思っているかもしれない。
わたしと河合さんはお付き合いをしていた。お付き合いをしていたといっても、それは実際のところごっこ遊びのようなものだ。ちょくちょく芭蕉さんのお家を出入りしていたわたしが勝手に河合さんのことを好きになって、それを知った芭蕉さんが、半ば無理矢理河合さんにわたしと付き合うよう勧めたのが始まりで、当たり前だけれど、河合さんは初めのうちわたしと付き合うことに拒絶していた。なんでですか、いやですよこんなへなちょこ、と。わたしも必死に止めた。駄目ですよ芭蕉さん、やめましょうよ、と。河合さんに嫌われたくなくて必死だった。だけど芭蕉さんは、「恋をするとね、世界観が変わるよ。」「曽良君の俳句も、きっと変わると思うな。」「もちろん、いい方向に。」なんて、まるで俳句の師匠のような、(実際そうなのだけれど、)もっともらしいことを言って、あの河合さんをうまく丸め込んだのだ。河合さんの俳句への情熱を上手く利用した芭蕉さんの勝利だった。河合さんは舌打ちしつつも了承した。こうしてひょんなことからお付き合いを始めたわたしたちだったわけだけれど、正直なところ、これはすぐに破局するだろうな、と思っていた。だって好きなのはわたしばかりで、河合さんは仕方がなく、それこそ自身の俳句の幅を広げるため、わたしみたいなのに付き合ってくれているのだから。顔を合わせたら挨拶するだけのわたしたちが恋人だなんて、無理だ。河合さんが良くても、私が無理だ。きっとしばらく顔を合わせなくなれば自然消滅するだろうと結論づけ、わたしは早速翌日から自宅に引きこもった。これは河合さんのためだから、河合さんはこんなことに時間を浪費すべき人じゃないんだ、と自分に言い聞かせて。本当は、自分が傷つくのが怖かっただけなのだけれど、それを認めて認めた上で、河合さんと顔をつきあわせて呑気に笑っていられるだけの強い心をわたしは持ち合わせてはいなかった。これでいい、これでいいんだよね、うん、と呪文のように自分自身に言い聞かせながらじっと時間が経つのを待っていた。だけど、河合さんは黙っていればなかったことにするほどそんな無責任な人ではなかった。その日布団に潜り引きこもっていたわたしの部屋へと突然押し掛けると、あろうことか彼は、わたしの布団を引っ剥がし、わたしの足を掴み布団の中から引きずり出したのだ。ななななにをするんですか河合さんやめてください!と耳まで真っ赤にしながら悲鳴を上げるわたしに、彼は、「この意気地なし。」「いいんですか、あのおっさん、僕らのこと挑発しやがったんですよ、悔しくないんですか。」「僕は悔しいですよ、すごく悔しい。」「ねぇ、一度、ちゃんと、お付き合いしましょう。それで駄目なら僕も諦めますから。」
好きな人にそんなこと言われて首を横に振れる人がいるならぜひとも会ってみたいものだ。ぐっと言葉に詰まり、視線を泳がせ、俯いた後でわたしは答えたのだ。……お願いしますと。
それからなにか変わったかと聞かれると正直答えにくい。彼がわたしに対して優しくなったかと言われれば否だし、むしろ以前のような他人行儀な関係でなくなった分、だいぶ雑な扱いを受けていたような気もする。足で転がされたり部屋から閉め出されたり冷たい目で見られたり、吊されたり、ひっぱたかれたり、まるで芭蕉さんに接するような態度でぞんざいにあしらわれていた。「それ、女としてみられてないよ。」とずばり友人に言われたときは、やっぱりね、そうだよね、と返すことしかできなかった。正直へこんだりもしたものだ。だけど後々、これは芭蕉さんからこっそり聞いた話なのだけれど、実は河合さんが俳句関連以外の自分の空いている時間をほとんどわたしに割いてくれていると知り、彼は彼なりにちゃんと恋人を演じようとしてくれているのがひしひしと伝わってきて、申し訳ない反面飛び上がるほど嬉しかったのを覚えている。例えそれが仮の恋人という、あくまで偽りの関係でしかないものだとしても、彼にとって単なる暇つぶしでしかなかったとしても、私にとって彼と過ごした時間は、何物にも代え難い、人生で最高の素敵な思い出だと胸を張って言うことができる。そして同時に、わたしはどうしようもなくこの人が好きなんだなぁと思ったのだ。きっとなにがあっても嫌いになれない。
この土手も、前に一度一緒に歩いたことがある。葉桜に集まる虫に恐怖する貴女の顔が見たいから、と文字通り彼に引っ張られて。ただあの時は、まさか今日のようにお別れの話をするとは夢にも思わなかったのだけれど。
「ありがとうございました。」
ゆっくりと歩いていたつもりが、気がつけばとうとうわたしの家の前に着いてしまっていた。
わたしも河合さんも、あれから一言も喋っていない。妙な沈黙があった。今までこんなことがあっただろうか、と思われるほど、息をすることすらはばかられるような重苦しい空気がずっしりと肩にのし掛かっていた。
果たしてこれで終わりなのだろうか。本当に?これでお別れ?一生さようなら?もしそうだとしたら、それってなんてあっけないんだろう。今日こうして分かれるのなら、今まで一緒に過ごした時間に何の意味があったんだろう。わたしたちの関係は、あれから何か変わったのだろうか。
足下へと向けていた視線をそっと上げると、何か深く考えるような彼の横顔が見えた。
(だ、だめだ……)
どうしてこんなに好きなんだろう。嫌になる。
ぼんやりと視界がにじんできて、耐えられず背を向けた。「…それじゃあ。」玄関へと滑り込もうとした途端、彼は弾かれたように顔を上げるなり突然わたしの腕を掴んだ。
「僕は、」
何か言い掛け口を開いたはずなのに、彼は、まるでなにを言おうとしたのかその瞬間すっかり忘れてしまったかのように、口を開いたまま暫し固まった。
それから、わたしの目を見つめたまま掴んでいた腕をゆっくりと下ろし、比較的しっかりと答えた。
「正直分かりません。」
「……」
「自分でもどうしたいのか、貴女のことをどうしたいのか、全く。貴女と俳句、どちらかを選べと言われたら僕は間違いなく俳句をとる。」
その瞬間、ああ、この人は本当に、心底、自分の気持ちを掴みきれていないんだなぁと思うと同時に、彼の中で大きな割合を占める俳諧というものにわたしは一生かかったって勝てっこないんだということを改めて思い知った。
…しょうがないか、とようやく自分の中で諦めがついたような気がした。パンパンに張り詰めていた風船がしゅるしゅると萎むように、私は肺から吸い込んだままの空気をそっと外へと吐き出した。
本当は心のどこかでほっとしていたのかもしれない。
「すみません。」
「…………」
「自分から頼んでおいて、こんな、」
「あ、謝らないでください。」
「…………」
「……わたし、きっと幸せになります。河合さんが羨むくらい。」
「…………」
「だから河合さんはせいぜい、遠くから指くわえて見ていてください。あぁ、彼女と結婚しとけばよかったなぁって後悔してください。」
「言いますね。」
「……」
じっ、とあの河合さんお得意の目で見つめられ、瞬間我に返り、言葉に詰まる。確かに私は今、彼に、普段からは考えられないような自信に満ち溢れた台詞を口にしている自覚があった。口にして数秒、今更どっと冷や汗があふれてくる。
わたわたと額の汗を拭い、あちこちと視線をさまよわせる私を見つめ、彼はふっと、そう、ふっと……
「…いいですよ。じゃあ、僕は羨ましがる練習でもしておきますから、貴女はせいぜい幸せになってください。僕が羨むくらい。」
そっと彼の手が離れていく。
「実は近々、俳諧の道を極めるため、旅に出る予定でした。」
「……」
「貴女のおかげで決心がついた。」
ありがとうございます、と微笑する彼の顔は私の初めて見る彼の笑顔で、だけどなぜかほんの少しだけ泣いているようにも見えたのは、多分、きっと、目の錯覚か何かだろう。
ワンスモア
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