◇第三十二話◇星達に会える夜に真実のキスを
Name change
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
目の前の光景に、私は言葉を失った。
ジャンの手を強く握りしめて、立ち尽くすことしか出来ない。
胸が震えて、なぜかわからないけれど、涙がせり上がってきそうな感覚に襲われていた。
「ここ、…どこ…?」
訊ねる私の声は、震えていた。
ジャンが連れてきてくれたのは、調査兵達がテントを張った場所から少し離れたところにある川のほとりだった。
サラサラと水が流れる心地の良い音が響くそこには、奇跡があった。
少なくとも、私にはそう見えた。
だって、黄色とも橙とも言えない淡く美しい光が、幾つも輝いて、夜の闇を照らしているのだ。
まるで、幾千の星が夜空から降りてきたみたいだった。
ううん、目の前に広がるその世界こそが、幾千の星が美しく輝く遥か遠い夜の空だった。
空を飛んで星空の世界へやって来たんだと、もしも、ジャンがそう答えても、私は信じると思う。
心から、信じると思う。
「これ全部、蛍って虫らしいですよ。」
「虫!?」
驚いて思わず叫んでしまった。
この心を震わせるほどの美しい光景を作り上げているのが虫だなんて、信じられなかった。
そんな私を、ジャンが腹を抱えて笑う。
「こっち来てくださいよ。」
ジャンが、私の手を引いて、光る虫の元へと連れていく。
虫達が、私達を避けて飛ぶから、キラキラと輝く光の道が出来ていくみたいで、とても幻想的だった。
幾つもの光る虫達の中心までやって来て、ジャンが漸く歩みを止めた。
辺り一面を柔らかい光が飛び交う幻想的なそこに立つと、まるで、空を飛んでいるみたいな気分だった。
だって、目の前に広がる光景のすべてが、柔らかい明かりを地上に届ける月と幾千の星が広がる夜空そのものだったのだ。
「俺が、」
不意に、ジャンが口を開いた。
彼は、辺り一面を自由に飛ぶ星達を眺めながら、続けた。
「調査兵なんかしてんのも、そのくせ、生にしがみついて、何度も死に損ねてんのも、
誰の物とも知れねぇ骨の燃えカスにがっかりされたくないだけです。
どっかの死に急ぎ野郎みてぇに明確な意志があるわけでもねぇし、
人類最強の兵士みたいに仲間の想いを背負ってるわけでもねぇ。」
どこか虚しさの宿る声で言うジャンは、悔し気に眉を歪めていた。
でも、心の声を吐露する彼の横顔は、今まで見たどんな表情よりも人間味があって、私は好きだと思った。
少なくとも、意地悪ばっかり言ってるときのあの嫌な笑みよりも、数倍いい。
「大体の人がそうだよ。私だって、そう。」
握ったままの手に力を込めて私が言うと、ジャンが視線をこちらに向けた。
何がジャンをそんな表情にさせたのかは分からないけれど、彼は、一瞬だけ、どこか遠くを見るような目をした。
それがあんまりにも寂しそうだったから、たったの一瞬で消えてしまったそれが、ひどく印象に残ってしまった。
「でも、精一杯生きて、戦った後に、こんな風に綺麗な光になれるなら、
もしかしたら、残酷な世界で足掻き続けんのも、悪くねぇんじゃないんすかね。」
ジャンは、私を真っすぐに見て言う。
(あぁ…。)
彼が、悪戯っ子みたいな顔をして私をこの場所に連れて来た本当の意味に、今さら気づいた。
やっぱり、子供は私で、彼の方が大人だったということだ。
補佐官に、慰められるなんて———。
「そうだね。」
グッと込み上げてきたものをなんとか堪えようとしたけれど、喉を鳴らしてしまったら、もうダメだった。
震えた声と一緒に、せり上がっていた涙が溢れて落ちた。
だって、嬉しかった。
まるで、目の前で輝く光が、幾千の星みたいだったから。
もう二度と会えないと思っていた友人達が、会に来てくれたみたいで———。
ジャンが、無念に、無残に、ただ無意味に死んでいった哀しい彼らを、精一杯に生きたって、戦ったって、言ってくれたから————。
彼らのことを、綺麗な光だって、そう、言ってくれたから————。
「泣き虫な人っすね。」
ジャンが、私の頬を大きな両手で包んだ。
その手を濡らしながら、涙は静かに流れ続ける。
喋ってしまったら、涙が堰を切って溢れ出してしまう気がして、私はただ、ジャンの切れ長の瞳を見上げることしか出来なかった。
涙が止まらないことを知ったジャンは、私の瞼に唇を落とした。
次に、目尻、涙袋、頬骨のあたり———。
まるで、涙を拭うみたいに、涙の流れている場所にキスを落としていった。
普段の私なら、怒ったり、冗談みたいに笑ったりして、拒絶していたかもしれない。
でも、柔らかくて温かい唇の温度とか、触れるときの優しさとかが、ひどく心地が良くて、気づいたら、私は目を閉じていた。
そのときの私は、自分に触れるジャンの優しさ以外もう、何も見たくなくなったのだ。
それ以外は、何も要らなかった。
残酷な世界も、涙を飲み込んだ過去も、恐ろしい体験も、仲間も、明日の命も、幸せばかりが溢れる夢さえも————。
10年の月日は、私が思うよりも、私の心をひどく弱らせていたのかもしれない。
優しく私の涙を拭ったジャンの唇が、私の唇に重なった。
私は、いつもみたいに怒らなかった。彼の胸元を押し返しもしなかった。
でも、ジャンの唇は、そっと軽く触れただけで、すぐに離れて行った。
私はすぐに、目を開いた。
まるで引き留めるようだったそれの理由は、私にも分からない。
まさか、ほんの一瞬、触れるだけのキスを、寂しいなんて、思うはずはないのに———。
目が合うと、ジャンが少しだけ口の端を上げた。
「知ってますか、今のが俺達の10回目のキスなんですよ。」
「…わざわざ数えてたの。」
「これで、リヴァイ兵長との妄想キスに並びましたね。」
「な…!?」
一瞬で涙も引っ込んで、私は顔を真っ赤にした。
そんな私を見下ろして、ジャンは眉尻を下げて可笑しそうにしながら、口元を右腕で隠した。
でも、馬鹿にしたみたいに漏れる意地悪なククッて笑い声は、隠し通せていない。
「趣味の悪いヤツ…!」
「妄想で憧れの人とキスすることがですか?」
「うるさいな!!」
顔を真っ赤にして怒る私を、ジャンはもう口元を腕で隠すこともしないで、おかしそうに笑う。
本当に趣味が悪い。
いいじゃないか。
妄想でキスをするくらい。
私に勝手にキスをするジャンみたいに、私はリヴァイ兵長に迷惑はかけていない。
「もう帰る!!」
怒ったように言って、ジャンに背中を向けた。
ムッとしたわけじゃなくて、ただ恥ずかしかった。
顔を真っ赤にして怒る私を見れば、ジャンにはお見通しだったはずだ。
実際、彼は焦った様子もなく、クスクスと笑いながら、私の手を掴んで引き留めた。
「すみませんって。
もうからかいませんから、機嫌直してくださいよ。」
笑ながら言われても、反省してるなんてちっとも思えない。
でも、私は立ち止まって振り返って、機嫌を直すことを選んだ。
きっと、今日の私は、どうかしてるんだと思う。
夜空を飛んで、星達と一緒の世界にいるせいだ。
普段とは違う幻想的で、綺麗に澄んだ空気が、私を解放的にしているのだ。
そうに、決まってる。
ほら、今だって———。
「抱きしめていい?」
「考えてみる。」
「じゃあ、抱きしめてる間に考えといてくださいよ。」
ジャンが、クスリと笑って私を抱き寄せた。
長い腕が、私をいとも容易く包み込む。
少し肌寒い夜の風に晒されていた身体が、じんわりと暖まっていく。
ジャンの腕の中は、安心する。
それを知ったのは、いつだろう。
彼が補佐官になってそんなに経たずに知った気がするし、恋人のフリをするようになってから気づいたような気もする。
「こっち向いて。」
私の頬をジャンの手がそっと撫でるように滑って、顎に添えられた。
とても自然に、大切そうに顔を上げさせられれば、幾千の星達を背負ったジャンが、私を、宝物でも見るみたいな優しい目で見つめていた。
私は、彼が何をするつもりか理解していて、そっと瞼を降ろした。
途端に、瞬く星達の煌めきは消えて、闇が訪れたけど、今の私は何も怖くなかった。
ジャンの手は、片方は私の頬に触れたまま、もう片方の手で腰を引き寄せた。
それからすぐに、もう何度目かの———。
あぁ、そっか。
私とジャンは、11回目のキスをした。
それは、10回目のキスのときみたいに一瞬で離れることはなかった。
もしかしたら、それは、私のせいかもしれない。
長い歳月の中で、大切であればあるほど、どれだけ必死に手を伸ばしたって届かないものばかりだと思い知らされて、何度も仕方がないと手放しては諦めることを覚えてしまった、私の哀しい両手が、ジャンの温もりが離れることを拒んだのだ。
だって、私が気づくことすら出来ないくらいに、まるで引力に導かれるみたいに、強くあるしかなかった私の両手は、ジャンの腕を握りしめていたから。
それはまるで縋るみたいで、力いっぱいにジャンの腕を握りしめる私の両手は、震えていたと思う。
その痛みすらも受け入れて、ジャンは唇を重ねたままで、私を包み込んでいた。
それはまるで、星が空を飛ぶ音すら聞こえない夜空の中で、お互いの優しさとか、温度、心臓の音を教え合おうとしているみたいだと思った。
あんまりにも静かだから、私達の周りだけ、時間が止まってしまったようで————。
(このまま、止まってしまえばいいのに…。)
そうすれば、私はもう、悲しいものを見なくていい。
今このとき、私を守るためだけに存在しているみたいな優しくて温かい腕に包まれて、会いたくて堪らなかった星達に囲まれて、ひどく安心した時の中で生きていられる。
でも、しばらくすれば、どんな美しい物語にも結末が訪れるみたいに、名残惜しそうに、ゆっくりとジャンの唇が離れて行った。
睫毛が揺れるのが分かるくらいに、私もゆっくりと時間をかけて瞼を押し上げた。
そうすると、私を見つめるジャンと視線が重なった。
「我儘でクソ野郎の眠り姫さんは、
ファースト・キスのシチュエーションを、お気に召してくれました?」
ジャンは、片手で私の腰を抱き寄せたまま、悪戯の成功した子供みたいな顔で言った。
「…へ?」
「壁外の星空の下がよかったんでしょ?」
「でも、誰かさんのせいで、
私のファースト・キスは、兵舎の部屋の中だった。」
「大丈夫ですよ。
妄想キスと並ぶまでは、キスだって認めてなかったんで、俺。」
「…勝手にキスしておいてビックリするくらいのトンデモ理論だし、
何度も妄想キスって言うのやめてよ。」
私が少し大袈裟に頬を膨らませると、ジャンが吹き出した。
そして、「ごめん、ごめん。」とまるで友達にするみたいに笑いながら、全く心のこもっていない謝罪をする。
とんでもないクソ野郎は、たぶん、お互い様だ。
あぁ、でも———。
「シチュエーションは、褒めてやろう。理想以上だ、よくやった。」
これじゃお姫様じゃなくて王様だなと思いながら、威張った態度で言って、ジャンの頬をつねった。
ジャンは、一瞬だけ切れ長の瞳を見開かせた後に、クスッと笑った。
「大変光栄です、俺のお姫様。」
ジャンが、私の頬を軽くつまんで、悪戯っぽく笑った。
ジャンの手を強く握りしめて、立ち尽くすことしか出来ない。
胸が震えて、なぜかわからないけれど、涙がせり上がってきそうな感覚に襲われていた。
「ここ、…どこ…?」
訊ねる私の声は、震えていた。
ジャンが連れてきてくれたのは、調査兵達がテントを張った場所から少し離れたところにある川のほとりだった。
サラサラと水が流れる心地の良い音が響くそこには、奇跡があった。
少なくとも、私にはそう見えた。
だって、黄色とも橙とも言えない淡く美しい光が、幾つも輝いて、夜の闇を照らしているのだ。
まるで、幾千の星が夜空から降りてきたみたいだった。
ううん、目の前に広がるその世界こそが、幾千の星が美しく輝く遥か遠い夜の空だった。
空を飛んで星空の世界へやって来たんだと、もしも、ジャンがそう答えても、私は信じると思う。
心から、信じると思う。
「これ全部、蛍って虫らしいですよ。」
「虫!?」
驚いて思わず叫んでしまった。
この心を震わせるほどの美しい光景を作り上げているのが虫だなんて、信じられなかった。
そんな私を、ジャンが腹を抱えて笑う。
「こっち来てくださいよ。」
ジャンが、私の手を引いて、光る虫の元へと連れていく。
虫達が、私達を避けて飛ぶから、キラキラと輝く光の道が出来ていくみたいで、とても幻想的だった。
幾つもの光る虫達の中心までやって来て、ジャンが漸く歩みを止めた。
辺り一面を柔らかい光が飛び交う幻想的なそこに立つと、まるで、空を飛んでいるみたいな気分だった。
だって、目の前に広がる光景のすべてが、柔らかい明かりを地上に届ける月と幾千の星が広がる夜空そのものだったのだ。
「俺が、」
不意に、ジャンが口を開いた。
彼は、辺り一面を自由に飛ぶ星達を眺めながら、続けた。
「調査兵なんかしてんのも、そのくせ、生にしがみついて、何度も死に損ねてんのも、
誰の物とも知れねぇ骨の燃えカスにがっかりされたくないだけです。
どっかの死に急ぎ野郎みてぇに明確な意志があるわけでもねぇし、
人類最強の兵士みたいに仲間の想いを背負ってるわけでもねぇ。」
どこか虚しさの宿る声で言うジャンは、悔し気に眉を歪めていた。
でも、心の声を吐露する彼の横顔は、今まで見たどんな表情よりも人間味があって、私は好きだと思った。
少なくとも、意地悪ばっかり言ってるときのあの嫌な笑みよりも、数倍いい。
「大体の人がそうだよ。私だって、そう。」
握ったままの手に力を込めて私が言うと、ジャンが視線をこちらに向けた。
何がジャンをそんな表情にさせたのかは分からないけれど、彼は、一瞬だけ、どこか遠くを見るような目をした。
それがあんまりにも寂しそうだったから、たったの一瞬で消えてしまったそれが、ひどく印象に残ってしまった。
「でも、精一杯生きて、戦った後に、こんな風に綺麗な光になれるなら、
もしかしたら、残酷な世界で足掻き続けんのも、悪くねぇんじゃないんすかね。」
ジャンは、私を真っすぐに見て言う。
(あぁ…。)
彼が、悪戯っ子みたいな顔をして私をこの場所に連れて来た本当の意味に、今さら気づいた。
やっぱり、子供は私で、彼の方が大人だったということだ。
補佐官に、慰められるなんて———。
「そうだね。」
グッと込み上げてきたものをなんとか堪えようとしたけれど、喉を鳴らしてしまったら、もうダメだった。
震えた声と一緒に、せり上がっていた涙が溢れて落ちた。
だって、嬉しかった。
まるで、目の前で輝く光が、幾千の星みたいだったから。
もう二度と会えないと思っていた友人達が、会に来てくれたみたいで———。
ジャンが、無念に、無残に、ただ無意味に死んでいった哀しい彼らを、精一杯に生きたって、戦ったって、言ってくれたから————。
彼らのことを、綺麗な光だって、そう、言ってくれたから————。
「泣き虫な人っすね。」
ジャンが、私の頬を大きな両手で包んだ。
その手を濡らしながら、涙は静かに流れ続ける。
喋ってしまったら、涙が堰を切って溢れ出してしまう気がして、私はただ、ジャンの切れ長の瞳を見上げることしか出来なかった。
涙が止まらないことを知ったジャンは、私の瞼に唇を落とした。
次に、目尻、涙袋、頬骨のあたり———。
まるで、涙を拭うみたいに、涙の流れている場所にキスを落としていった。
普段の私なら、怒ったり、冗談みたいに笑ったりして、拒絶していたかもしれない。
でも、柔らかくて温かい唇の温度とか、触れるときの優しさとかが、ひどく心地が良くて、気づいたら、私は目を閉じていた。
そのときの私は、自分に触れるジャンの優しさ以外もう、何も見たくなくなったのだ。
それ以外は、何も要らなかった。
残酷な世界も、涙を飲み込んだ過去も、恐ろしい体験も、仲間も、明日の命も、幸せばかりが溢れる夢さえも————。
10年の月日は、私が思うよりも、私の心をひどく弱らせていたのかもしれない。
優しく私の涙を拭ったジャンの唇が、私の唇に重なった。
私は、いつもみたいに怒らなかった。彼の胸元を押し返しもしなかった。
でも、ジャンの唇は、そっと軽く触れただけで、すぐに離れて行った。
私はすぐに、目を開いた。
まるで引き留めるようだったそれの理由は、私にも分からない。
まさか、ほんの一瞬、触れるだけのキスを、寂しいなんて、思うはずはないのに———。
目が合うと、ジャンが少しだけ口の端を上げた。
「知ってますか、今のが俺達の10回目のキスなんですよ。」
「…わざわざ数えてたの。」
「これで、リヴァイ兵長との妄想キスに並びましたね。」
「な…!?」
一瞬で涙も引っ込んで、私は顔を真っ赤にした。
そんな私を見下ろして、ジャンは眉尻を下げて可笑しそうにしながら、口元を右腕で隠した。
でも、馬鹿にしたみたいに漏れる意地悪なククッて笑い声は、隠し通せていない。
「趣味の悪いヤツ…!」
「妄想で憧れの人とキスすることがですか?」
「うるさいな!!」
顔を真っ赤にして怒る私を、ジャンはもう口元を腕で隠すこともしないで、おかしそうに笑う。
本当に趣味が悪い。
いいじゃないか。
妄想でキスをするくらい。
私に勝手にキスをするジャンみたいに、私はリヴァイ兵長に迷惑はかけていない。
「もう帰る!!」
怒ったように言って、ジャンに背中を向けた。
ムッとしたわけじゃなくて、ただ恥ずかしかった。
顔を真っ赤にして怒る私を見れば、ジャンにはお見通しだったはずだ。
実際、彼は焦った様子もなく、クスクスと笑いながら、私の手を掴んで引き留めた。
「すみませんって。
もうからかいませんから、機嫌直してくださいよ。」
笑ながら言われても、反省してるなんてちっとも思えない。
でも、私は立ち止まって振り返って、機嫌を直すことを選んだ。
きっと、今日の私は、どうかしてるんだと思う。
夜空を飛んで、星達と一緒の世界にいるせいだ。
普段とは違う幻想的で、綺麗に澄んだ空気が、私を解放的にしているのだ。
そうに、決まってる。
ほら、今だって———。
「抱きしめていい?」
「考えてみる。」
「じゃあ、抱きしめてる間に考えといてくださいよ。」
ジャンが、クスリと笑って私を抱き寄せた。
長い腕が、私をいとも容易く包み込む。
少し肌寒い夜の風に晒されていた身体が、じんわりと暖まっていく。
ジャンの腕の中は、安心する。
それを知ったのは、いつだろう。
彼が補佐官になってそんなに経たずに知った気がするし、恋人のフリをするようになってから気づいたような気もする。
「こっち向いて。」
私の頬をジャンの手がそっと撫でるように滑って、顎に添えられた。
とても自然に、大切そうに顔を上げさせられれば、幾千の星達を背負ったジャンが、私を、宝物でも見るみたいな優しい目で見つめていた。
私は、彼が何をするつもりか理解していて、そっと瞼を降ろした。
途端に、瞬く星達の煌めきは消えて、闇が訪れたけど、今の私は何も怖くなかった。
ジャンの手は、片方は私の頬に触れたまま、もう片方の手で腰を引き寄せた。
それからすぐに、もう何度目かの———。
あぁ、そっか。
私とジャンは、11回目のキスをした。
それは、10回目のキスのときみたいに一瞬で離れることはなかった。
もしかしたら、それは、私のせいかもしれない。
長い歳月の中で、大切であればあるほど、どれだけ必死に手を伸ばしたって届かないものばかりだと思い知らされて、何度も仕方がないと手放しては諦めることを覚えてしまった、私の哀しい両手が、ジャンの温もりが離れることを拒んだのだ。
だって、私が気づくことすら出来ないくらいに、まるで引力に導かれるみたいに、強くあるしかなかった私の両手は、ジャンの腕を握りしめていたから。
それはまるで縋るみたいで、力いっぱいにジャンの腕を握りしめる私の両手は、震えていたと思う。
その痛みすらも受け入れて、ジャンは唇を重ねたままで、私を包み込んでいた。
それはまるで、星が空を飛ぶ音すら聞こえない夜空の中で、お互いの優しさとか、温度、心臓の音を教え合おうとしているみたいだと思った。
あんまりにも静かだから、私達の周りだけ、時間が止まってしまったようで————。
(このまま、止まってしまえばいいのに…。)
そうすれば、私はもう、悲しいものを見なくていい。
今このとき、私を守るためだけに存在しているみたいな優しくて温かい腕に包まれて、会いたくて堪らなかった星達に囲まれて、ひどく安心した時の中で生きていられる。
でも、しばらくすれば、どんな美しい物語にも結末が訪れるみたいに、名残惜しそうに、ゆっくりとジャンの唇が離れて行った。
睫毛が揺れるのが分かるくらいに、私もゆっくりと時間をかけて瞼を押し上げた。
そうすると、私を見つめるジャンと視線が重なった。
「我儘でクソ野郎の眠り姫さんは、
ファースト・キスのシチュエーションを、お気に召してくれました?」
ジャンは、片手で私の腰を抱き寄せたまま、悪戯の成功した子供みたいな顔で言った。
「…へ?」
「壁外の星空の下がよかったんでしょ?」
「でも、誰かさんのせいで、
私のファースト・キスは、兵舎の部屋の中だった。」
「大丈夫ですよ。
妄想キスと並ぶまでは、キスだって認めてなかったんで、俺。」
「…勝手にキスしておいてビックリするくらいのトンデモ理論だし、
何度も妄想キスって言うのやめてよ。」
私が少し大袈裟に頬を膨らませると、ジャンが吹き出した。
そして、「ごめん、ごめん。」とまるで友達にするみたいに笑いながら、全く心のこもっていない謝罪をする。
とんでもないクソ野郎は、たぶん、お互い様だ。
あぁ、でも———。
「シチュエーションは、褒めてやろう。理想以上だ、よくやった。」
これじゃお姫様じゃなくて王様だなと思いながら、威張った態度で言って、ジャンの頬をつねった。
ジャンは、一瞬だけ切れ長の瞳を見開かせた後に、クスッと笑った。
「大変光栄です、俺のお姫様。」
ジャンが、私の頬を軽くつまんで、悪戯っぽく笑った。