◇第百五十話◇友情の花火が未来を照らす
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母親は、大きな背中を見送ると、そそくさと逃げるように扉を閉めた。
その時を今か今かとと待ち侘びる隣人たちの希望と喜びに満ちた姿を見ていられなかったのだ。
途端に、外の空気は消え失せ、息苦しい我が家の止まった時間が戻ってくる。
娘と自分を残して出ていった薄情な旦那を恨んだこともある。
でも今では、旦那の判断は正解だったと思うようになっていた。
自分が先に家を出ていけば良かった。早い者勝ちだったのだ。
今まで、必死に必死に、なんとか踏ん張ってきた。いつかきっと、娘を思う愛情も努力も報われると信じてきた。
でも、殺人未遂事件が起こったことで、母親の心はとうとう折れてしまった。娘の快方を願う心はもう既に消滅している。
今はただ、時間が過ぎていくのを待っているだけだ。
もちろん、娘は愛おしい。
今だって愛おしく大切で、幸せになってほしいと願っているのに、同時に、心の奥底で、早く娘が死んでくれないかと願ってしまっている。
そんな最低な自分に気づいて、何度死にたくなったことだろう。
それでも、娘を残しては死ねないのだ。
だからこうして、時間が止まった家の中で、娘とゆっくりゆっくり死んでいくのを待つしかない。
もう何度目かのため息を漏らしてから、母親はキッチンに入り、食事の準備を始めた。
たった二人分の食事だ。しかも一人は、作ったってほとんど食べようとはしない。
それでも、彼女はいつも、娘の好物を丁寧に調理する。
今夜は、少しだけ奮発して、お肉入りのシチューにした。
我が家だって、他のみんなと同じように、人類の勝利を祝ったっていいはずだ。
出来立てのシチューをトレイに乗せ、彼女は、リビング奥の階段を上がり、娘の部屋へと向かう。
ちょうど階段を上がったところで、大きな爆発音が響いた。
花火が上がったようだ。
今夜、トロスト区に住むすべての人達が、調査兵団があの日の仇を討ってくれたことを、祝っている。
皆で喜びを分かち合い、酒を酌み交わし、子供達は可愛らしい笑い声を上げているのだろう。
陰気な空気だけが流れる我が家には、関係のないことだーーーーと、彼女は小さく首を横に振った。
娘の扉の前に立つといつも、元から憂鬱だった気持ちが、何十倍にも膨れ上がる。
あんなにはつらつとしていて、いつも笑顔で、友人も多かった美しい娘が、たった1日でその全てを奪われてしまうなんて、誰が想像しただろうか。
優しく頼り甲斐のある素晴らしい青年と恋に落ち、これから結婚して、さらに幸せになるはずだったのにーーーー。
巨人が憎い。
今、調査兵団が仇をうってくれたことを心から喜び、祝っている他の誰よりもずっと、あの日の巨人を憎んでいる自信がある。
娘から、幸せの全てを奪った巨人が憎くて、憎くて、仕方がない。
自分に力さえあれば、壁外に出てやっつけてやりたい。人類最強の兵士がそうするように、ブレードを振り回し、殺してやりたい。
でも、そんなことは出来ない。
結局は、現実を受け入れるしかないのだ。
「リヴ、夕飯を持ってきたわよ。」
シチュー皿を乗せたトレイを起用に片手で持ち、彼女は慣れた手つきで扉を開ける。
相変わらず、娘はベッドの上で、ヘッドボードに背中を預けて座っていた。
虚な目でただぼんやりと窓の外を見ている。
あの男、ジャン・キルシュタインは、どんな伝言を娘に届けたのだろう。そもそも、本当にそんな伝言なんてものはあったのかも分からない。
事件の被害者であるジャンから手紙が届いたのは、数日前のことだった。
その手紙には、伝言を頼まれているから、一度だけ会わせてほしいと書かれていた。
あの事件の後、逆恨みを心配したなまえはジャンと一度別れ、そしてまた、婚約者に戻ったと聞いている。
もしかしたら、刺された恨みで、ジャンは娘に復讐をしようとしているのかもしれない。
そう思ったのに、気づいた時にはもう、了承の返事を出していた。
いっそ、ジャンが娘を刺し殺してしまえばいいと思ってしまったのだろうか。母親にも、自分の気持ちが分からないのだ。
どちらにしろ、相変わらず、彼女の娘は死んでいるように生きていて、ただゆっくりと死が訪れるのを待っている。
ジャンが伝言を伝えたにしても、他に目的があったにしても、それは無駄足に過ぎなかったということだ。
ぼんやりと窓の外を眺める虚なリブの顔を、色鮮やかな花火の赤、緑、黄色が、まるで万華鏡のようにキラキラと照らす。
とめどなく色を変えていくから、怒ったり、泣いたり、笑ったり、コロコロと表情を変えていた幼い頃の娘と重なった。
その姿があまりにも美しくて、泣きそうになる。
「今日の夕飯は、リヴの好きなシチューを・・・ーーーーーー。」
「大丈夫よ、リコ。なまえが言ったように、私達ならきっとやれるわ。」
「…え?」
あの事件以来、リヴからは、本当に言葉がなくなってしまっていた。
その娘が今、何かを喋ったように聞こえたのだ。
でもまさか、そんなはずはない。
リヴはもう声を忘れたのだ。誰かに思いを伝えることも、伝えられることも、放棄してしまった。
精神科のお医者様がそう仰っていた。
聞き間違いに違いないーーーー母親は自分にそう言い聞かせて、トレイを両手でしっかり持って娘の元に歩み寄る。
「そして、みんなで花火を打ち上げて、人類の初勝利を祝いましょう。」
あと一歩で、ベッド脇に辿り着くところだった。
その手前で、母親の足が、ぴたりと止まる。
やっぱり、娘の声だ。娘が喋っている。
人類の初勝利を祝うと言ったかーーーー娘は、調査兵団が仇を討ったことを知っているのだろうか。
いや、そんなはずはない。
母親は、娘には一切、世間の実情を話さないようにしていた。ジャンにも、その点だけは注意してほしいとお願いしておいた。
精神科のお医者様からの助言でもあったが、母親もまた、娘には生きづらい現実の話など聞かせたくなかったのだ。
だから、母親は混乱していた。
ふ、と娘が首を動かし、振り向くように母親を見る。
その表情は、相変わらず虚ろで、何を考えているか分からない。
「あ、ママ。ねぇ聞いて。私の友達が、初めて巨人に勝ったみたい。
ほら、花火が上がってるのが見えるでしょう?」
虚な表情に反して、まるで、スキップでもして踊っているかのような軽やかな声だった。
その違和感が、彼女はまだ悪夢の中に囚われていることを教えてくれる。
でも、母親にとっては、そんなことどうでも良いくらいに嬉しいことだったのだ。
(娘が…、リヴが…、私を見てくれた…!ママって、呼んでくれた…!)
母親の両手からトレイが落ち、シチューを淹れた皿が滑っていく。
ガシャーンと音が響き、綺麗に掃除されていた床にシチューが零れ落ちた。
「あぁ…!リヴ…!!」
母親は、娘の元へ駆け寄った。
そして、強く強く、娘を抱きしめた。
こんな風に娘に触れるのは、いつぶりだろうか。
元から細身の娘だったけれど、こんなに華奢で、こんなにも小さかったか。
まるで、小さな子供のようだ。
こんなに小さな身体で、民間人を守るのだと駐屯兵団の精鋭兵として戦っていたのか。
苦しい現実に立ち向かってきたのか。
あの日、恐ろしい巨人を前にして逃げることもせず、空を飛んでいたのか。
急に、母親は娘のことが誇らしくなった。心から尊敬した。
「約束してたの。
私たちが勝ったら、花火を上げてお祝いしましょうって。」
腕の中で、リヴが口にする。
その約束が何なのか、母親には分からない。
でも、精神を病んでも尚、忘れられないくらいに大切な約束だったのだろう。
「約束したのよ、約束したの。」
リヴは何度もそう繰り返した。
虚な瞳から、涙をこぼしながら、何度も何度も、そう繰り返していた。
その時を今か今かとと待ち侘びる隣人たちの希望と喜びに満ちた姿を見ていられなかったのだ。
途端に、外の空気は消え失せ、息苦しい我が家の止まった時間が戻ってくる。
娘と自分を残して出ていった薄情な旦那を恨んだこともある。
でも今では、旦那の判断は正解だったと思うようになっていた。
自分が先に家を出ていけば良かった。早い者勝ちだったのだ。
今まで、必死に必死に、なんとか踏ん張ってきた。いつかきっと、娘を思う愛情も努力も報われると信じてきた。
でも、殺人未遂事件が起こったことで、母親の心はとうとう折れてしまった。娘の快方を願う心はもう既に消滅している。
今はただ、時間が過ぎていくのを待っているだけだ。
もちろん、娘は愛おしい。
今だって愛おしく大切で、幸せになってほしいと願っているのに、同時に、心の奥底で、早く娘が死んでくれないかと願ってしまっている。
そんな最低な自分に気づいて、何度死にたくなったことだろう。
それでも、娘を残しては死ねないのだ。
だからこうして、時間が止まった家の中で、娘とゆっくりゆっくり死んでいくのを待つしかない。
もう何度目かのため息を漏らしてから、母親はキッチンに入り、食事の準備を始めた。
たった二人分の食事だ。しかも一人は、作ったってほとんど食べようとはしない。
それでも、彼女はいつも、娘の好物を丁寧に調理する。
今夜は、少しだけ奮発して、お肉入りのシチューにした。
我が家だって、他のみんなと同じように、人類の勝利を祝ったっていいはずだ。
出来立てのシチューをトレイに乗せ、彼女は、リビング奥の階段を上がり、娘の部屋へと向かう。
ちょうど階段を上がったところで、大きな爆発音が響いた。
花火が上がったようだ。
今夜、トロスト区に住むすべての人達が、調査兵団があの日の仇を討ってくれたことを、祝っている。
皆で喜びを分かち合い、酒を酌み交わし、子供達は可愛らしい笑い声を上げているのだろう。
陰気な空気だけが流れる我が家には、関係のないことだーーーーと、彼女は小さく首を横に振った。
娘の扉の前に立つといつも、元から憂鬱だった気持ちが、何十倍にも膨れ上がる。
あんなにはつらつとしていて、いつも笑顔で、友人も多かった美しい娘が、たった1日でその全てを奪われてしまうなんて、誰が想像しただろうか。
優しく頼り甲斐のある素晴らしい青年と恋に落ち、これから結婚して、さらに幸せになるはずだったのにーーーー。
巨人が憎い。
今、調査兵団が仇をうってくれたことを心から喜び、祝っている他の誰よりもずっと、あの日の巨人を憎んでいる自信がある。
娘から、幸せの全てを奪った巨人が憎くて、憎くて、仕方がない。
自分に力さえあれば、壁外に出てやっつけてやりたい。人類最強の兵士がそうするように、ブレードを振り回し、殺してやりたい。
でも、そんなことは出来ない。
結局は、現実を受け入れるしかないのだ。
「リヴ、夕飯を持ってきたわよ。」
シチュー皿を乗せたトレイを起用に片手で持ち、彼女は慣れた手つきで扉を開ける。
相変わらず、娘はベッドの上で、ヘッドボードに背中を預けて座っていた。
虚な目でただぼんやりと窓の外を見ている。
あの男、ジャン・キルシュタインは、どんな伝言を娘に届けたのだろう。そもそも、本当にそんな伝言なんてものはあったのかも分からない。
事件の被害者であるジャンから手紙が届いたのは、数日前のことだった。
その手紙には、伝言を頼まれているから、一度だけ会わせてほしいと書かれていた。
あの事件の後、逆恨みを心配したなまえはジャンと一度別れ、そしてまた、婚約者に戻ったと聞いている。
もしかしたら、刺された恨みで、ジャンは娘に復讐をしようとしているのかもしれない。
そう思ったのに、気づいた時にはもう、了承の返事を出していた。
いっそ、ジャンが娘を刺し殺してしまえばいいと思ってしまったのだろうか。母親にも、自分の気持ちが分からないのだ。
どちらにしろ、相変わらず、彼女の娘は死んでいるように生きていて、ただゆっくりと死が訪れるのを待っている。
ジャンが伝言を伝えたにしても、他に目的があったにしても、それは無駄足に過ぎなかったということだ。
ぼんやりと窓の外を眺める虚なリブの顔を、色鮮やかな花火の赤、緑、黄色が、まるで万華鏡のようにキラキラと照らす。
とめどなく色を変えていくから、怒ったり、泣いたり、笑ったり、コロコロと表情を変えていた幼い頃の娘と重なった。
その姿があまりにも美しくて、泣きそうになる。
「今日の夕飯は、リヴの好きなシチューを・・・ーーーーーー。」
「大丈夫よ、リコ。なまえが言ったように、私達ならきっとやれるわ。」
「…え?」
あの事件以来、リヴからは、本当に言葉がなくなってしまっていた。
その娘が今、何かを喋ったように聞こえたのだ。
でもまさか、そんなはずはない。
リヴはもう声を忘れたのだ。誰かに思いを伝えることも、伝えられることも、放棄してしまった。
精神科のお医者様がそう仰っていた。
聞き間違いに違いないーーーー母親は自分にそう言い聞かせて、トレイを両手でしっかり持って娘の元に歩み寄る。
「そして、みんなで花火を打ち上げて、人類の初勝利を祝いましょう。」
あと一歩で、ベッド脇に辿り着くところだった。
その手前で、母親の足が、ぴたりと止まる。
やっぱり、娘の声だ。娘が喋っている。
人類の初勝利を祝うと言ったかーーーー娘は、調査兵団が仇を討ったことを知っているのだろうか。
いや、そんなはずはない。
母親は、娘には一切、世間の実情を話さないようにしていた。ジャンにも、その点だけは注意してほしいとお願いしておいた。
精神科のお医者様からの助言でもあったが、母親もまた、娘には生きづらい現実の話など聞かせたくなかったのだ。
だから、母親は混乱していた。
ふ、と娘が首を動かし、振り向くように母親を見る。
その表情は、相変わらず虚ろで、何を考えているか分からない。
「あ、ママ。ねぇ聞いて。私の友達が、初めて巨人に勝ったみたい。
ほら、花火が上がってるのが見えるでしょう?」
虚な表情に反して、まるで、スキップでもして踊っているかのような軽やかな声だった。
その違和感が、彼女はまだ悪夢の中に囚われていることを教えてくれる。
でも、母親にとっては、そんなことどうでも良いくらいに嬉しいことだったのだ。
(娘が…、リヴが…、私を見てくれた…!ママって、呼んでくれた…!)
母親の両手からトレイが落ち、シチューを淹れた皿が滑っていく。
ガシャーンと音が響き、綺麗に掃除されていた床にシチューが零れ落ちた。
「あぁ…!リヴ…!!」
母親は、娘の元へ駆け寄った。
そして、強く強く、娘を抱きしめた。
こんな風に娘に触れるのは、いつぶりだろうか。
元から細身の娘だったけれど、こんなに華奢で、こんなにも小さかったか。
まるで、小さな子供のようだ。
こんなに小さな身体で、民間人を守るのだと駐屯兵団の精鋭兵として戦っていたのか。
苦しい現実に立ち向かってきたのか。
あの日、恐ろしい巨人を前にして逃げることもせず、空を飛んでいたのか。
急に、母親は娘のことが誇らしくなった。心から尊敬した。
「約束してたの。
私たちが勝ったら、花火を上げてお祝いしましょうって。」
腕の中で、リヴが口にする。
その約束が何なのか、母親には分からない。
でも、精神を病んでも尚、忘れられないくらいに大切な約束だったのだろう。
「約束したのよ、約束したの。」
リヴは何度もそう繰り返した。
虚な瞳から、涙をこぼしながら、何度も何度も、そう繰り返していた。