◇第百五十話◇友情の花火が未来を照らす
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赤に染まり出した街路樹を、小さな子供達が飛び跳ねるように駆け抜けていく。
思わず立ち止まったジャンは、振り返り、彼らの楽しそうな笑い声を目で追いかけた。
きっと、今夜だけは、心配性な親達も子供達が夜更かしすることを許し、遅い時間まで遊ばせているのだろう。
人類の勝利を祝う花火を打ち上げるーーーー駐屯兵団が、そんな賑やかな案を出してきたのは、リコがなまえの見舞いに来た翌日だった。きっと、リコが中心となって動いたのだろう。
そしてついに今夜、駐屯兵達が、壁の上から何千発もの花火を打ち上げる。
ちょうど、巨人化したエレンが大岩で穴を塞いだ場所の真上だ。そこで、たくさんの精鋭兵たちが無惨に死んでいった。
駐屯兵達が、花火を打ち上げるのにその場所を選んだのには、人類の初勝利に大いに貢献した彼らへの感謝と弔いの意味もあるのかもしれない。
いつもよりも賑やかな街路樹を見渡せば、浮き足立っているのは、門限を過ぎても外で遊び回れる子供達だけではないことがよく分かる。
早めに仕事を終えた大人達もまた、通りに出てきて、花火が打ち上がる方向を嬉しそうに見上げている。
憲兵団師団長のナイルがうまく立ち回ってくれたおかげで、調査兵団内部に人類の仇が紛れ込んでいたことは、民間人には伏せられている。
彼らが知っているのは、『調査兵団と憲兵団が手を組み、超大型巨人と鎧の巨人だと思われる人間を壁外に誘き出し、捕獲することに成功した』という話だけだ。
まだシガンシナ区も奪還出来ていない。人類はようやくスタート地点に立ったばかりだ。
でも、きっとこれから、たくさんのことが明らかになっていく。それは確実に、人類が目指す『自由』への第一歩になるはずだ。
この壁の中で不自由なく生きる誰もが、本当の自由を求めて、心を躍らせているのだ。
ジャンは小さく息を吐くと、また目的地に向けて歩き始める。
出来れば、こんな日くらいなまえと一緒に花火を見上げて、前回失敗した告白のやり直しをしたかったのだが、そううまくはいかないものだ。
残念ながら、ジャンにはまだやらなければならないことが残っていたし、なまえが今夜、一緒に花火を目上げたい人間は他にいた。
今頃、なまえは、リコや他の駐屯兵達と一緒に壁の上で、花火が打ち上がるのを今か今かとワクワクしながら待っているのだろう。
楽しそうな声や視線に逆らってしばらく歩いたジャンは、連なる民家の表札をひとつひとつ確認し、ようやく目的の家を見つけた。
玄関の扉には呼び鈴はなく、その代わりに、扉を叩くタイプのドアノッカーがついている。
ドアノッカーの取っ手を握り、玄関の扉を叩くと、すぐに向こうから女性の声が返ってきた。
ジャンが名乗った後に、玄関の扉が開く。
開いた扉の向こうにいたのは、声よりもだいぶ歳がいっているように見える年配の女性だった。
調べた書類によると、まだ50代のはずなのだが、顔中に皺が刻まれ、頭は白髪で真っ白だ。背中は丸まり、実際の身長よりもだいぶ小さくなっている。扉のとってを握る手も皺だらけだ。
そのせいで、80代だと言われても納得してしまいそうなくらいに老けて見える。
2年前、家庭の息苦しさに耐えきれなくなった夫が出ていき、そのまま離婚。今は一人で病床の娘の介護をしているということだ。
年齢よりも老けて見えるのは、そういった苦労が原因なのかもしれない。
「どうぞ。お待ちしておりました。」
彼女に促され、ジャンは家の中に足を踏み入れる。
外観通り、家の中は広くはなかった。
むしろ、息苦しい家だ、と思った。
元々、親子3人で暮らしていたと考えれば、十分な広さではあるはずだ。
玄関から入ってすぐに見えるリビングダイニングには、古い家具が丁寧に並べられ、整理整頓もできている。
けれど、家中に『不幸』の空気が充満しているせいで、ひどく居心地が悪いのだ。
疲れた表情で、母親は頭を下げた。
「本来なら私達の方から、お詫びに伺わなければならないのに
申し訳ありません。」
「いいえ、気にしないでください。
今日はただ頼まれた伝言を届けにきただけなんで。」
「そう、でしたね。
あの子の部屋は、こちらです。」
背中を丸めてのそのそと歩く母親の後について、ジャンもリビングの奥へと向かう。
階段を上がってすぐの部屋の前で、母親が足を止めた。
どうやら、ここがジャンの目的地のようだ。
母親は、ゆっくりと振り返ると、ジャンを見上げて申し訳なさそうに口を開く。
「あの…、お手紙でもお伝えしましたけれど
娘には、誰の声も届かないんです。ただじっとベッドの上で息をしているだけ。
せっかく頂いた伝言も娘の耳を通り抜けてしまいますが…。」
それでも良いのかーーーと聞きたいのだろう。
別に、ジャンにとっては、ただの仕事と何も変わらない。
頼まれた伝言を届けるだけだ。きちんと本人に届けたという事実さえあれば、それが彼女の心に届いても届かなくても、どちらでもいい。
ジャンの知ったことではない。
「問題ありません。」
「…そうですか。わかりました。
では、お話が終わったら、降りてこられてください。
私は、下で待っておりますので。」
「え?」
驚いた。
まさか、病床の娘の部屋に男を連れていき、そのまま二人きりにするとは思っていなかった。
母親が同じ部屋で見張り続けるのだろうと思っていたのだ。
「何か…?」
母親が不思議そうに首を傾げる。
なぜジャンが驚いているのか、まるでピンと来ていないようだ。
もしも、娘が今、健常で元気で明るくて、昔の友人達が知る女性のままだったのなら、この母親も、ジャンとふたりきりにはしなかったのだろうか。
(あわよくば、俺が娘を殺してしまえばいいのにとか思ってんのかもな。)
恐ろしいことを考えてしまって、ジャンは憂鬱な気分になった。
でも、そう感じても不思議ではないくらいに、母親からはもう「限界だ」という心の声が漏れ続けているのだ。
「いえ…。
伝言を伝えるだけなので、すぐに終わると思います。」
「わかりました。では、私はこれで。」
母親は、娘の部屋の扉を一瞥することすらせず、来た時と同じように折れ曲がり丸まった背中を引きずるようにして、のそのそと階段を降りていった。
振り返る様子のない母親の背中を数秒見送った後、ジャンは扉の前で大きく深呼吸をした。
この扉の向こうにいるのは、リヴ・ハーン。彼女は、トロスト区巨人襲撃事件で婚約者だったイアン・ディートリッヒを亡くした。さらに、自分もまた精鋭兵として参加したその作戦で、無惨に死んでいく仲間達を目の当たりにしてしまったショックと恐怖で精神を病み、駐屯兵団を一時休職。後に退団扱いとなっている。
そして、なまえを逆恨みした挙句に、古く錆びたブレードで刺して、ジャンを殺そうとした女だ。
会いに来るつもりは、なかった。
そもそも、会いに行くと言えば、心配性ななまえや友人だけではなく、エルヴィンやリヴァイ、ハンジも反対しただろう。
だから、今日、今ここにいることは、誰も知らない。
知っているのは、ジャンとリヴの母親、そしてジャンに伝言を頼んだ張本人だけだ。
「ジャン・キルシュタインです。
伝言があってきました。失礼します。」
どうせ返事はないのだろう、とは思っていたが、一応、女性の部屋に入る礼儀として、名を名乗り、返事を待った。
十数秒は待ったが、やはり返事はない。
「扉を開けますね。失礼します。」
ジャンは、ゆっくりと扉を開いた。
リヴは、窓際に置かれたベッドの上にいた。ヘッドボードに背中を預けて座り、ボーっと前の壁を見ている。
ベッド以外に、本棚と机もあったが、本棚の中身は空っぽで、机の上にも何も置かれていない。
まるで、もう何年も誰も使っていない部屋のように見えて、妙な感じだ。すごく居心地が悪い。
ジャンは、扉を開けてすぐの場所に立ち、ベッドには近づかなかった。
刺した女と刺された男が、一つの部屋にいるのだから、念の為の警戒だった。
けれど、母親の言うとおり、リヴには何も聞こえていないのだと思う。この部屋に入ってきたのが、自分が刺したジャン・キルシュタインだということどころか、その存在も見えていないのではないだろうか。
ただボーっと壁を見ている横顔は、眠り姫と揶揄されるなまえよりもよっぽど、現実を生きてはいなかった。
なまえとは違い、彼女は悪夢の中に囚われ続けているのかもしれない。
顔色は青白く、目も虚で表情はない。
刺される直前に見た気が狂ったように笑う彼女とは、遠くかけ離れていた。
儚げな美人、と表現するのがしっくりくる。
きっと、精神を病む前は、ただの美人だったのだろう。そう思うと、なんとも言えない気持ちになる。
刺されたのが自分ではなければ、彼女が殺人未遂事件を犯したと聞かされても、信じられなかったはずだ。
「今日は、伝言があって来ました。」
ジャンが声をかけるが、相変わらずリヴからの反応はない。
まるで、目を開けたまま死んでいるみたいだ。
「あなたの愛する人からの伝言です。
多分、アンタに伝えて欲しかったんだと思うから。」
ジャンが続ける。
けれどやっぱり、リヴは虚な目で壁をじっと見ているだけだ。
あとどれくらい、彼女は死んだように生き続けなければいけないのだろうか。
どんなに平和な世界が訪れたところで、彼女が生きたかった未来はやって来ないし、愛する人は戻ってこない。
それでも、彼女に幸せになってほしいと願っている人間を、ジャンは少なくとも2人知っている。
その想いが届くことは、もう一生ないのかも知れない。
でも、知ってしまった以上、何もしないわけにはいかないのだ。
「俺は、誰も恨んではいない。幸せになってくれ、だそうです。
ーーーー俺も少しだけ行ったけど、不安もなにもない場所で
友人や仲間と一緒に穏やかに笑ってましたよ。」
伝言を伝えると、ジャンは小さく会釈をしてから部屋を出た。
結局、リヴは、眉毛ひとつさえもぴくりとも動かさなかった。
届かなかったのかもしれないし、自分のこの行為は無駄になったのかもしれない。
そもそも、あの夢の中で見た光景が、本当に死の世界なのかどうかも分からないし、イアンの顔も声も知らない。
でも、あの時見た駐屯兵団の精鋭兵の中に、きっとイアンはいたはずだ。
そして、死んでも尚、大切な人のことを案じていたその声は、絶対にイアンだったと思うのだ。
イアンの声も、顔も知らないけれど、ジャンは、愛する人を思う時の男のだらしなく緩んで、そして力強く優しい声は、知っている。嫌というほどに、知っているからーーーーー。
思わず立ち止まったジャンは、振り返り、彼らの楽しそうな笑い声を目で追いかけた。
きっと、今夜だけは、心配性な親達も子供達が夜更かしすることを許し、遅い時間まで遊ばせているのだろう。
人類の勝利を祝う花火を打ち上げるーーーー駐屯兵団が、そんな賑やかな案を出してきたのは、リコがなまえの見舞いに来た翌日だった。きっと、リコが中心となって動いたのだろう。
そしてついに今夜、駐屯兵達が、壁の上から何千発もの花火を打ち上げる。
ちょうど、巨人化したエレンが大岩で穴を塞いだ場所の真上だ。そこで、たくさんの精鋭兵たちが無惨に死んでいった。
駐屯兵達が、花火を打ち上げるのにその場所を選んだのには、人類の初勝利に大いに貢献した彼らへの感謝と弔いの意味もあるのかもしれない。
いつもよりも賑やかな街路樹を見渡せば、浮き足立っているのは、門限を過ぎても外で遊び回れる子供達だけではないことがよく分かる。
早めに仕事を終えた大人達もまた、通りに出てきて、花火が打ち上がる方向を嬉しそうに見上げている。
憲兵団師団長のナイルがうまく立ち回ってくれたおかげで、調査兵団内部に人類の仇が紛れ込んでいたことは、民間人には伏せられている。
彼らが知っているのは、『調査兵団と憲兵団が手を組み、超大型巨人と鎧の巨人だと思われる人間を壁外に誘き出し、捕獲することに成功した』という話だけだ。
まだシガンシナ区も奪還出来ていない。人類はようやくスタート地点に立ったばかりだ。
でも、きっとこれから、たくさんのことが明らかになっていく。それは確実に、人類が目指す『自由』への第一歩になるはずだ。
この壁の中で不自由なく生きる誰もが、本当の自由を求めて、心を躍らせているのだ。
ジャンは小さく息を吐くと、また目的地に向けて歩き始める。
出来れば、こんな日くらいなまえと一緒に花火を見上げて、前回失敗した告白のやり直しをしたかったのだが、そううまくはいかないものだ。
残念ながら、ジャンにはまだやらなければならないことが残っていたし、なまえが今夜、一緒に花火を目上げたい人間は他にいた。
今頃、なまえは、リコや他の駐屯兵達と一緒に壁の上で、花火が打ち上がるのを今か今かとワクワクしながら待っているのだろう。
楽しそうな声や視線に逆らってしばらく歩いたジャンは、連なる民家の表札をひとつひとつ確認し、ようやく目的の家を見つけた。
玄関の扉には呼び鈴はなく、その代わりに、扉を叩くタイプのドアノッカーがついている。
ドアノッカーの取っ手を握り、玄関の扉を叩くと、すぐに向こうから女性の声が返ってきた。
ジャンが名乗った後に、玄関の扉が開く。
開いた扉の向こうにいたのは、声よりもだいぶ歳がいっているように見える年配の女性だった。
調べた書類によると、まだ50代のはずなのだが、顔中に皺が刻まれ、頭は白髪で真っ白だ。背中は丸まり、実際の身長よりもだいぶ小さくなっている。扉のとってを握る手も皺だらけだ。
そのせいで、80代だと言われても納得してしまいそうなくらいに老けて見える。
2年前、家庭の息苦しさに耐えきれなくなった夫が出ていき、そのまま離婚。今は一人で病床の娘の介護をしているということだ。
年齢よりも老けて見えるのは、そういった苦労が原因なのかもしれない。
「どうぞ。お待ちしておりました。」
彼女に促され、ジャンは家の中に足を踏み入れる。
外観通り、家の中は広くはなかった。
むしろ、息苦しい家だ、と思った。
元々、親子3人で暮らしていたと考えれば、十分な広さではあるはずだ。
玄関から入ってすぐに見えるリビングダイニングには、古い家具が丁寧に並べられ、整理整頓もできている。
けれど、家中に『不幸』の空気が充満しているせいで、ひどく居心地が悪いのだ。
疲れた表情で、母親は頭を下げた。
「本来なら私達の方から、お詫びに伺わなければならないのに
申し訳ありません。」
「いいえ、気にしないでください。
今日はただ頼まれた伝言を届けにきただけなんで。」
「そう、でしたね。
あの子の部屋は、こちらです。」
背中を丸めてのそのそと歩く母親の後について、ジャンもリビングの奥へと向かう。
階段を上がってすぐの部屋の前で、母親が足を止めた。
どうやら、ここがジャンの目的地のようだ。
母親は、ゆっくりと振り返ると、ジャンを見上げて申し訳なさそうに口を開く。
「あの…、お手紙でもお伝えしましたけれど
娘には、誰の声も届かないんです。ただじっとベッドの上で息をしているだけ。
せっかく頂いた伝言も娘の耳を通り抜けてしまいますが…。」
それでも良いのかーーーと聞きたいのだろう。
別に、ジャンにとっては、ただの仕事と何も変わらない。
頼まれた伝言を届けるだけだ。きちんと本人に届けたという事実さえあれば、それが彼女の心に届いても届かなくても、どちらでもいい。
ジャンの知ったことではない。
「問題ありません。」
「…そうですか。わかりました。
では、お話が終わったら、降りてこられてください。
私は、下で待っておりますので。」
「え?」
驚いた。
まさか、病床の娘の部屋に男を連れていき、そのまま二人きりにするとは思っていなかった。
母親が同じ部屋で見張り続けるのだろうと思っていたのだ。
「何か…?」
母親が不思議そうに首を傾げる。
なぜジャンが驚いているのか、まるでピンと来ていないようだ。
もしも、娘が今、健常で元気で明るくて、昔の友人達が知る女性のままだったのなら、この母親も、ジャンとふたりきりにはしなかったのだろうか。
(あわよくば、俺が娘を殺してしまえばいいのにとか思ってんのかもな。)
恐ろしいことを考えてしまって、ジャンは憂鬱な気分になった。
でも、そう感じても不思議ではないくらいに、母親からはもう「限界だ」という心の声が漏れ続けているのだ。
「いえ…。
伝言を伝えるだけなので、すぐに終わると思います。」
「わかりました。では、私はこれで。」
母親は、娘の部屋の扉を一瞥することすらせず、来た時と同じように折れ曲がり丸まった背中を引きずるようにして、のそのそと階段を降りていった。
振り返る様子のない母親の背中を数秒見送った後、ジャンは扉の前で大きく深呼吸をした。
この扉の向こうにいるのは、リヴ・ハーン。彼女は、トロスト区巨人襲撃事件で婚約者だったイアン・ディートリッヒを亡くした。さらに、自分もまた精鋭兵として参加したその作戦で、無惨に死んでいく仲間達を目の当たりにしてしまったショックと恐怖で精神を病み、駐屯兵団を一時休職。後に退団扱いとなっている。
そして、なまえを逆恨みした挙句に、古く錆びたブレードで刺して、ジャンを殺そうとした女だ。
会いに来るつもりは、なかった。
そもそも、会いに行くと言えば、心配性ななまえや友人だけではなく、エルヴィンやリヴァイ、ハンジも反対しただろう。
だから、今日、今ここにいることは、誰も知らない。
知っているのは、ジャンとリヴの母親、そしてジャンに伝言を頼んだ張本人だけだ。
「ジャン・キルシュタインです。
伝言があってきました。失礼します。」
どうせ返事はないのだろう、とは思っていたが、一応、女性の部屋に入る礼儀として、名を名乗り、返事を待った。
十数秒は待ったが、やはり返事はない。
「扉を開けますね。失礼します。」
ジャンは、ゆっくりと扉を開いた。
リヴは、窓際に置かれたベッドの上にいた。ヘッドボードに背中を預けて座り、ボーっと前の壁を見ている。
ベッド以外に、本棚と机もあったが、本棚の中身は空っぽで、机の上にも何も置かれていない。
まるで、もう何年も誰も使っていない部屋のように見えて、妙な感じだ。すごく居心地が悪い。
ジャンは、扉を開けてすぐの場所に立ち、ベッドには近づかなかった。
刺した女と刺された男が、一つの部屋にいるのだから、念の為の警戒だった。
けれど、母親の言うとおり、リヴには何も聞こえていないのだと思う。この部屋に入ってきたのが、自分が刺したジャン・キルシュタインだということどころか、その存在も見えていないのではないだろうか。
ただボーっと壁を見ている横顔は、眠り姫と揶揄されるなまえよりもよっぽど、現実を生きてはいなかった。
なまえとは違い、彼女は悪夢の中に囚われ続けているのかもしれない。
顔色は青白く、目も虚で表情はない。
刺される直前に見た気が狂ったように笑う彼女とは、遠くかけ離れていた。
儚げな美人、と表現するのがしっくりくる。
きっと、精神を病む前は、ただの美人だったのだろう。そう思うと、なんとも言えない気持ちになる。
刺されたのが自分ではなければ、彼女が殺人未遂事件を犯したと聞かされても、信じられなかったはずだ。
「今日は、伝言があって来ました。」
ジャンが声をかけるが、相変わらずリヴからの反応はない。
まるで、目を開けたまま死んでいるみたいだ。
「あなたの愛する人からの伝言です。
多分、アンタに伝えて欲しかったんだと思うから。」
ジャンが続ける。
けれどやっぱり、リヴは虚な目で壁をじっと見ているだけだ。
あとどれくらい、彼女は死んだように生き続けなければいけないのだろうか。
どんなに平和な世界が訪れたところで、彼女が生きたかった未来はやって来ないし、愛する人は戻ってこない。
それでも、彼女に幸せになってほしいと願っている人間を、ジャンは少なくとも2人知っている。
その想いが届くことは、もう一生ないのかも知れない。
でも、知ってしまった以上、何もしないわけにはいかないのだ。
「俺は、誰も恨んではいない。幸せになってくれ、だそうです。
ーーーー俺も少しだけ行ったけど、不安もなにもない場所で
友人や仲間と一緒に穏やかに笑ってましたよ。」
伝言を伝えると、ジャンは小さく会釈をしてから部屋を出た。
結局、リヴは、眉毛ひとつさえもぴくりとも動かさなかった。
届かなかったのかもしれないし、自分のこの行為は無駄になったのかもしれない。
そもそも、あの夢の中で見た光景が、本当に死の世界なのかどうかも分からないし、イアンの顔も声も知らない。
でも、あの時見た駐屯兵団の精鋭兵の中に、きっとイアンはいたはずだ。
そして、死んでも尚、大切な人のことを案じていたその声は、絶対にイアンだったと思うのだ。
イアンの声も、顔も知らないけれど、ジャンは、愛する人を思う時の男のだらしなく緩んで、そして力強く優しい声は、知っている。嫌というほどに、知っているからーーーーー。