◇第百四十九話◇正直者は「愛」を見る
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「いやぁ、やっと他人のフリを終わらせられる。嘘はもう勘弁だ。」
乾杯の後、なまえの父親は、お酒の入ったグラスをぐいっと傾けた。
満足気な彼の笑みは、娘が好きな男と恋人に戻れたことを心から喜んでいることを語っていた。
その日の夜、仕事を終えて、病室に見舞いに行っていたたジャンをなまえの父親が飲みに誘ったのだ。
なまえの両親は、明日の昼にはトロスト区を発ち、ストヘス区へ戻ると決めたらしい。
その前に、無事になまえと彼女の名誉を守り切り、婚約者として堂々と隣にいられるようになった新しい息子と酒が飲みたい。
それが、なまえの父親がジャンを誘った理由だった。
やってきたのは、調査兵団兵舎に程近いバーだった。メイン通りから入り、さらにその奥の細い路地に曲がり、裏通りを抜けた先にある。
落ち着いた雰囲気のバーだ。
狭い店内に客はそれなりにいたが、白髪初老の穏やかなマスターが、お酒を作る音が聞こえてくるくらい静かだった。
静かに飲みたい人がやってくる店なのだろう。
日々のストレスを発散するためだけに酒を煽り、最後には大騒ぎをする調査兵達とは違う。
それなりに長く調査兵としてトロスト区で任務についているが、こんなバーがあるなんて知らなかったのは、きっとそのせいだ。
「そうですね。」
なまえの父親に続いて、ジャンも酒を口に運ぶ。
テーブルには、父親のおすすめだという酒のつまみがひとつ、ふたつ、と並んだ。
腹の足しになるようなものではないけれど、見かけに寄らず濃い味つけが酒に合う。
これはなんという料理なのだろうーーーーーそのひとつを指で摘みながら、ジャンは今朝のことを思い出していた。
『あの人には正直に言わない方がいいわ。
あなたがなまえを守るために、敢えて離れたんだって信じてるから。
酷い言葉で突き放したなんて知ったら、すぐに別れさせられるわよ。』
なまえの母親の忠告が、脳裏に蘇る。
まるで脅しのようなあのセリフは、一見、ジャンのためのもののようだった。
でも、ジャンには、彼女が自分を試しているように聞こえたのだ。
それは、どんな脅しを受けようが、真実を伝えて、謝って、蟠りをなくしてしまいたいという自分のエゴが、優しい彼女の真意を都合よく湾曲しているだけなのかもしれない。
「君のような正直で真っ直ぐな男が、娘の婚約者になってくれて
本当に嬉しいよ。」
だいぶ酒も進んで来た頃、なまえの父親が至極幸せそうな笑みを浮かべて、しみじみとそう口にする。
顔も赤くはなっていないし、口調もしっかりしているように聞こえる。
でも、さっきから同じことばかりを言っている様子から、彼は多分酔っ払い始めているのだろう。
どうやら、なまえの父親は、酔っても顔に出ないタイプらしい。
「いえ、そんなことないっすよ。
俺にこそなまえさんは勿体無いくらいです。」
もう何度目かのセリフをジャンも口にする。
そのたびになまえの父親は、嬉しそうに娘自慢を始めるのだ。
きっと彼は、幼い頃の娘を思い浮かべるのが楽しいのだと思う。いや、もしかしたら、お酒の力を借りてでも、幼い頃の娘に会いたいのかもしれない。
「いやぁ〜、本当に。君みたいに正直で真っ直ぐで嘘のない男、なかなかいない!
命懸けで娘を守ってくれて、いつでも、なまえと生きる未来を信じてくれる!
最高だ!君になら、安心して娘を預けられる!」
少しずつなまえの父親の声が大きくなり始めた。
狭い店内では、隣のテーブルが割と近い。もうそろそろ、周囲のテーブルにいる落ち着いた雰囲気の客達も、ジャンとなまえの父親の関係がどういうものか理解してきた頃だろう。
時々、生温かい目で見守られている視線を感じる。
きっと、彼らはなまえの父親のセリフだけを聞いて、そこに座る青年はとても真っ直ぐで誠実な男だと信じているに違いない。
実際は、そうではないのにーーーーーーー。
「そんなことないっすよ。」
「謙遜はいらないさ!君は絶対に娘を傷つけない!
そうだろう?」
なまえの父親が嬉しそうに言う。
そうだ。傷つけない。でも、そうじゃない。
なぜならもう、すでに傷つけたからだ。
「…そう、じゃないです。」
頷こうとしたのに、口は正反対の言葉を押し出していた。
なまえの父親が訝しげに眉を顰める。
ーー言いたくない。知られたくない。出来るのならば、このまま、『娘に相応しい正直で真っ直ぐで嘘のない男』だと思っていて欲しい。
テーブルの上に並べられた美味しそうな酒の肴をじっと見据える目に、あの日、大きな瞳を見開いてショックを受けていたなまえの表情が浮かぶ。
拳に力が入り、少しだけ震えた。
どんなに繕ったって、目を逸らしたって、たとえなまえが許したって、消えない事実がある。
「おれは、みょうじさんが思ってるような
そんな理想的な男じゃないです。」
「…なまえと何かあったのかい?」
テーブル越しになまえの父親の優しく気遣う声が柔らかく届く。
こういう人だから、なまえも朗らかに優しく育ったのだろう。
そんななまえと共に生きていきたい。出来るのならば、家族になって、いつか子宝に恵まれて、なまえのような子に育てたい。
淡い期待が、漸く、現実的になってきたところだ。
そのスタートを嘘で始めるわけには、いかないのだ。
「目が覚めた時、なまえさんはそばにいなくて、
それでも、明日は会える。明日はきっとって、
毎日毎日、会いにきてくれるのを待つばかりでした。」
「…会いに行けなかったんだよ。
なまえはいつも君のことを想っていた。」
「意味のわからない噂は聞かされるし、
なまえさんに確かめようにも全然会えないし
不安で、どうにかなりそうで…。」
「それでも君はなまえを信じてくれた。
だから、今、娘の隣には君がいるんだろう。
私は、そんな君だからこそ、任せられると思っているんだよ。」
優しく慰める声が、まるで、鋭利なナイフのようにジャンの胸の奥深くに突き刺さった。
ジャンは、一度、唇を噛むと、覚悟を決めて顔を上げた。
心配そうにジャンを見つめるなまえの父親と目が合う。
今までずっと、なまえは母親に似ていると思っていた。けれど、瞳の形は父親に似ている。
だからやっぱり、彼には嘘はつけないのだ。
そして、今からまた、あの日、ショックを受けて傷ついて歪んだ瞳を見なければいけなくなるーーーー。最悪な気分だ。
「近寄るな、ヒトゴロシって言いました。」
「…何だって?」
「もういっそ、なまえさんもおれと同じくらい傷付けばいいと思って
傷つかせてやりたくて、不安で苦しくて頭がどうにかなりそうで
謝ろうとしてたなまえさんを突き放して、ヒトゴロシってーーーーーー。」
どこまで言えただろうかーーーー。
気づいたら、左頬に猛烈な痛みを感じていた。
ジャンの屈強な身体が、吹っ飛んでいく。
誰かの悲鳴が上がる。
歪んでいく視界の向こうで、なまえの父親との距離が一瞬で離れていくのが見えた気がした。
ガシャーーン、ガラガラーーー。
長い手脚が、周囲のテーブルや椅子にあたって倒していく。そしてとうとう、カウンターの壁に背中をぶつけて止まった。
「…っ、け、ほっ…。」
息が出来ない。
背中への強打の影響で、肺が苦しい。
でも、あの時、愛してる男から一番聞きたくなかったはずの言葉を投げつけられたなまえはもっと苦しかっただろう。
(おれなら、息できねぇな…。)
改めて、なまえをどれほど傷つけたのか。どれほど残酷なことをしたのか、思い知る。
ふ、と目の前に影が出来る。なんとか痛む首で無理して顔を上げれば、なまえの父親に見下ろされていた。
バーの灯りを背中に浴びるなまえの父親は、逆光になっていて表情は見えない。
でも、表情は見えずとも、ただならぬオーラは怒りに満ちていて、バーの空気すらも張り詰めさせていた。
店内中の視線が、ジャンとなまえの父親に注がれている。
「残念だ。」
なまえの父親が一言こぼす。
本心だろう。
さっきまで、正直で真っ直ぐで、決して娘を傷つけることはしない。そう信じていた男が、最も娘を傷つける言葉を吐いていたと知ってしまったのだ。
最低な気分のはずだ。
「…っ、すみません。でも、おれーーーー。」
「悪いが、婚約の話はなかったことにしてくれ。」
「もう二度となまえさんを傷つけないと誓います。
いつか絶対にみょうじさんが認めてくれるように、」
「それはない。娘がお前を許そうが、おれが許さん。
二度となまえに近づくな。」
なまえの父親は、ピシャリと言い切ると、ジャンに弁明の隙すら与えず背を向けた。
注がれていた視線が、彼の動きに合わせて追いかけていく。
「騒がしてしまってすまない。これはお詫びだ。受け取ってくれ。
今夜の客の分の代金と壊れた備品の買い替えくらいにはなるはずだ。」
「…!いえ、そんな…!こんなに頂けませんっ。
いつもみょうじさんにはご贔屓にしていただいているのに…っ。」
「足りなければ、憲兵団のみょうじに連絡をくれれば、追加で支払おう。
今日も美味しかった。ありがとう。」
店主が引き止めるのも待たずに、なまえの父親がバーから出て行こうとする。
ジャンは、急いで立ち上がった。
「世界中がなまえさんの敵になっても!!おれが、彼女を愛する最後の1人になる!!」
大きく叫んだ声に、いや、その宣言に、なまえの父親は漸く足を止めた。
でも、彼が振り返ることはない。
「一度、私の娘を裏切ったのにか。」
「一度、間違えたからです。おれにはもう二度目はない。
だから、これから何があったって、おれはなまえさんを信じます。
もし、なまえさんがおれに嘘をついたとしても、それはおれにとって真実で、
それでいいと思ってます。」
「くだらないな。」
なまえの父親は、ジャンの想いを切り捨てる。
もう本当に、彼の心は離れてしまったのかもしれない。それでも、諦めるわけにはいかないのだ。
「彼女のためなら世界中に嫌われてもいいくらいの覚悟はあるけど、
なまえさんの大切な人には認めてもらいたいんです。
だって、そうじゃなきゃ、なまえさんが悲しむでしょう。」
「お前が娘を諦めてくれればいいんじゃないのか。」
「それは無理です。だからおれ、今度こそみょうじさんに心から認めてもらえるようになります!
調査兵としても、男としても、彼女の隣にいるべきは、人類最強の兵士よりも、ただの補佐官だったなって
思われるように、努力をします!!」
「勝手にしろ。せいぜい足掻けばいい。」
突き放すように言って、なまえの父親は今度こそバーの扉を開けて出て行ってしまった。
扉に取り付けられていた鈴が、カラン、と立てた音が、シンと静まり返っていたバーにやけに大きく響く。
すると、まるでそれが合図だったかのように、痛いほどの緊張感の中、ただ静かに成り行きを見守っていた紳士淑女がワッと声を上げた。
「兄ちゃん、なかなかカッコ良かったじゃないか!!」
「父親に認めてもらうのは、多かれ少なかれ皆難しいものなのよ。
きっと大丈夫。応援しているわ。」
賞賛や優しさを含んだ慰めの声が、ジャンの耳に届く。
数名は、わざわざ駆け寄ってくれた。
居た堪れなさと恥ずかしさで、ジャンは首の後ろを掻きながら謝罪する。
「あ…、いえ…、あの…
お騒がせしてすみませんでした。」
耳の先から足の先まで、身体が熱い。
ジャンは、身体中が真っ赤だった。
乾杯の後、なまえの父親は、お酒の入ったグラスをぐいっと傾けた。
満足気な彼の笑みは、娘が好きな男と恋人に戻れたことを心から喜んでいることを語っていた。
その日の夜、仕事を終えて、病室に見舞いに行っていたたジャンをなまえの父親が飲みに誘ったのだ。
なまえの両親は、明日の昼にはトロスト区を発ち、ストヘス区へ戻ると決めたらしい。
その前に、無事になまえと彼女の名誉を守り切り、婚約者として堂々と隣にいられるようになった新しい息子と酒が飲みたい。
それが、なまえの父親がジャンを誘った理由だった。
やってきたのは、調査兵団兵舎に程近いバーだった。メイン通りから入り、さらにその奥の細い路地に曲がり、裏通りを抜けた先にある。
落ち着いた雰囲気のバーだ。
狭い店内に客はそれなりにいたが、白髪初老の穏やかなマスターが、お酒を作る音が聞こえてくるくらい静かだった。
静かに飲みたい人がやってくる店なのだろう。
日々のストレスを発散するためだけに酒を煽り、最後には大騒ぎをする調査兵達とは違う。
それなりに長く調査兵としてトロスト区で任務についているが、こんなバーがあるなんて知らなかったのは、きっとそのせいだ。
「そうですね。」
なまえの父親に続いて、ジャンも酒を口に運ぶ。
テーブルには、父親のおすすめだという酒のつまみがひとつ、ふたつ、と並んだ。
腹の足しになるようなものではないけれど、見かけに寄らず濃い味つけが酒に合う。
これはなんという料理なのだろうーーーーーそのひとつを指で摘みながら、ジャンは今朝のことを思い出していた。
『あの人には正直に言わない方がいいわ。
あなたがなまえを守るために、敢えて離れたんだって信じてるから。
酷い言葉で突き放したなんて知ったら、すぐに別れさせられるわよ。』
なまえの母親の忠告が、脳裏に蘇る。
まるで脅しのようなあのセリフは、一見、ジャンのためのもののようだった。
でも、ジャンには、彼女が自分を試しているように聞こえたのだ。
それは、どんな脅しを受けようが、真実を伝えて、謝って、蟠りをなくしてしまいたいという自分のエゴが、優しい彼女の真意を都合よく湾曲しているだけなのかもしれない。
「君のような正直で真っ直ぐな男が、娘の婚約者になってくれて
本当に嬉しいよ。」
だいぶ酒も進んで来た頃、なまえの父親が至極幸せそうな笑みを浮かべて、しみじみとそう口にする。
顔も赤くはなっていないし、口調もしっかりしているように聞こえる。
でも、さっきから同じことばかりを言っている様子から、彼は多分酔っ払い始めているのだろう。
どうやら、なまえの父親は、酔っても顔に出ないタイプらしい。
「いえ、そんなことないっすよ。
俺にこそなまえさんは勿体無いくらいです。」
もう何度目かのセリフをジャンも口にする。
そのたびになまえの父親は、嬉しそうに娘自慢を始めるのだ。
きっと彼は、幼い頃の娘を思い浮かべるのが楽しいのだと思う。いや、もしかしたら、お酒の力を借りてでも、幼い頃の娘に会いたいのかもしれない。
「いやぁ〜、本当に。君みたいに正直で真っ直ぐで嘘のない男、なかなかいない!
命懸けで娘を守ってくれて、いつでも、なまえと生きる未来を信じてくれる!
最高だ!君になら、安心して娘を預けられる!」
少しずつなまえの父親の声が大きくなり始めた。
狭い店内では、隣のテーブルが割と近い。もうそろそろ、周囲のテーブルにいる落ち着いた雰囲気の客達も、ジャンとなまえの父親の関係がどういうものか理解してきた頃だろう。
時々、生温かい目で見守られている視線を感じる。
きっと、彼らはなまえの父親のセリフだけを聞いて、そこに座る青年はとても真っ直ぐで誠実な男だと信じているに違いない。
実際は、そうではないのにーーーーーーー。
「そんなことないっすよ。」
「謙遜はいらないさ!君は絶対に娘を傷つけない!
そうだろう?」
なまえの父親が嬉しそうに言う。
そうだ。傷つけない。でも、そうじゃない。
なぜならもう、すでに傷つけたからだ。
「…そう、じゃないです。」
頷こうとしたのに、口は正反対の言葉を押し出していた。
なまえの父親が訝しげに眉を顰める。
ーー言いたくない。知られたくない。出来るのならば、このまま、『娘に相応しい正直で真っ直ぐで嘘のない男』だと思っていて欲しい。
テーブルの上に並べられた美味しそうな酒の肴をじっと見据える目に、あの日、大きな瞳を見開いてショックを受けていたなまえの表情が浮かぶ。
拳に力が入り、少しだけ震えた。
どんなに繕ったって、目を逸らしたって、たとえなまえが許したって、消えない事実がある。
「おれは、みょうじさんが思ってるような
そんな理想的な男じゃないです。」
「…なまえと何かあったのかい?」
テーブル越しになまえの父親の優しく気遣う声が柔らかく届く。
こういう人だから、なまえも朗らかに優しく育ったのだろう。
そんななまえと共に生きていきたい。出来るのならば、家族になって、いつか子宝に恵まれて、なまえのような子に育てたい。
淡い期待が、漸く、現実的になってきたところだ。
そのスタートを嘘で始めるわけには、いかないのだ。
「目が覚めた時、なまえさんはそばにいなくて、
それでも、明日は会える。明日はきっとって、
毎日毎日、会いにきてくれるのを待つばかりでした。」
「…会いに行けなかったんだよ。
なまえはいつも君のことを想っていた。」
「意味のわからない噂は聞かされるし、
なまえさんに確かめようにも全然会えないし
不安で、どうにかなりそうで…。」
「それでも君はなまえを信じてくれた。
だから、今、娘の隣には君がいるんだろう。
私は、そんな君だからこそ、任せられると思っているんだよ。」
優しく慰める声が、まるで、鋭利なナイフのようにジャンの胸の奥深くに突き刺さった。
ジャンは、一度、唇を噛むと、覚悟を決めて顔を上げた。
心配そうにジャンを見つめるなまえの父親と目が合う。
今までずっと、なまえは母親に似ていると思っていた。けれど、瞳の形は父親に似ている。
だからやっぱり、彼には嘘はつけないのだ。
そして、今からまた、あの日、ショックを受けて傷ついて歪んだ瞳を見なければいけなくなるーーーー。最悪な気分だ。
「近寄るな、ヒトゴロシって言いました。」
「…何だって?」
「もういっそ、なまえさんもおれと同じくらい傷付けばいいと思って
傷つかせてやりたくて、不安で苦しくて頭がどうにかなりそうで
謝ろうとしてたなまえさんを突き放して、ヒトゴロシってーーーーーー。」
どこまで言えただろうかーーーー。
気づいたら、左頬に猛烈な痛みを感じていた。
ジャンの屈強な身体が、吹っ飛んでいく。
誰かの悲鳴が上がる。
歪んでいく視界の向こうで、なまえの父親との距離が一瞬で離れていくのが見えた気がした。
ガシャーーン、ガラガラーーー。
長い手脚が、周囲のテーブルや椅子にあたって倒していく。そしてとうとう、カウンターの壁に背中をぶつけて止まった。
「…っ、け、ほっ…。」
息が出来ない。
背中への強打の影響で、肺が苦しい。
でも、あの時、愛してる男から一番聞きたくなかったはずの言葉を投げつけられたなまえはもっと苦しかっただろう。
(おれなら、息できねぇな…。)
改めて、なまえをどれほど傷つけたのか。どれほど残酷なことをしたのか、思い知る。
ふ、と目の前に影が出来る。なんとか痛む首で無理して顔を上げれば、なまえの父親に見下ろされていた。
バーの灯りを背中に浴びるなまえの父親は、逆光になっていて表情は見えない。
でも、表情は見えずとも、ただならぬオーラは怒りに満ちていて、バーの空気すらも張り詰めさせていた。
店内中の視線が、ジャンとなまえの父親に注がれている。
「残念だ。」
なまえの父親が一言こぼす。
本心だろう。
さっきまで、正直で真っ直ぐで、決して娘を傷つけることはしない。そう信じていた男が、最も娘を傷つける言葉を吐いていたと知ってしまったのだ。
最低な気分のはずだ。
「…っ、すみません。でも、おれーーーー。」
「悪いが、婚約の話はなかったことにしてくれ。」
「もう二度となまえさんを傷つけないと誓います。
いつか絶対にみょうじさんが認めてくれるように、」
「それはない。娘がお前を許そうが、おれが許さん。
二度となまえに近づくな。」
なまえの父親は、ピシャリと言い切ると、ジャンに弁明の隙すら与えず背を向けた。
注がれていた視線が、彼の動きに合わせて追いかけていく。
「騒がしてしまってすまない。これはお詫びだ。受け取ってくれ。
今夜の客の分の代金と壊れた備品の買い替えくらいにはなるはずだ。」
「…!いえ、そんな…!こんなに頂けませんっ。
いつもみょうじさんにはご贔屓にしていただいているのに…っ。」
「足りなければ、憲兵団のみょうじに連絡をくれれば、追加で支払おう。
今日も美味しかった。ありがとう。」
店主が引き止めるのも待たずに、なまえの父親がバーから出て行こうとする。
ジャンは、急いで立ち上がった。
「世界中がなまえさんの敵になっても!!おれが、彼女を愛する最後の1人になる!!」
大きく叫んだ声に、いや、その宣言に、なまえの父親は漸く足を止めた。
でも、彼が振り返ることはない。
「一度、私の娘を裏切ったのにか。」
「一度、間違えたからです。おれにはもう二度目はない。
だから、これから何があったって、おれはなまえさんを信じます。
もし、なまえさんがおれに嘘をついたとしても、それはおれにとって真実で、
それでいいと思ってます。」
「くだらないな。」
なまえの父親は、ジャンの想いを切り捨てる。
もう本当に、彼の心は離れてしまったのかもしれない。それでも、諦めるわけにはいかないのだ。
「彼女のためなら世界中に嫌われてもいいくらいの覚悟はあるけど、
なまえさんの大切な人には認めてもらいたいんです。
だって、そうじゃなきゃ、なまえさんが悲しむでしょう。」
「お前が娘を諦めてくれればいいんじゃないのか。」
「それは無理です。だからおれ、今度こそみょうじさんに心から認めてもらえるようになります!
調査兵としても、男としても、彼女の隣にいるべきは、人類最強の兵士よりも、ただの補佐官だったなって
思われるように、努力をします!!」
「勝手にしろ。せいぜい足掻けばいい。」
突き放すように言って、なまえの父親は今度こそバーの扉を開けて出て行ってしまった。
扉に取り付けられていた鈴が、カラン、と立てた音が、シンと静まり返っていたバーにやけに大きく響く。
すると、まるでそれが合図だったかのように、痛いほどの緊張感の中、ただ静かに成り行きを見守っていた紳士淑女がワッと声を上げた。
「兄ちゃん、なかなかカッコ良かったじゃないか!!」
「父親に認めてもらうのは、多かれ少なかれ皆難しいものなのよ。
きっと大丈夫。応援しているわ。」
賞賛や優しさを含んだ慰めの声が、ジャンの耳に届く。
数名は、わざわざ駆け寄ってくれた。
居た堪れなさと恥ずかしさで、ジャンは首の後ろを掻きながら謝罪する。
「あ…、いえ…、あの…
お騒がせしてすみませんでした。」
耳の先から足の先まで、身体が熱い。
ジャンは、身体中が真っ赤だった。