◇第百四十三話◇親友たち
Name change
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
「悪い、適当に座ってくれ。」
ジャンは、脱ぎっぱなしにしていたシャツや靴下を手早く拾い上げた。
これで、ソファや床に少しはスペースが出来たはずだ。
「忙しかったんだね、急に声をかけてごめん。」
哀れそうなマルコの視線は、デスクに山積みになった書類に向いていた。
そして、ソファの中央に腰をおろそうとして、今まさに座ろうとしていた尻の辺りに脱ぎ捨てられた靴下を見つけた。
中指と親指でつまむように押さえて拾い上げて、ソファの端に投げる。
「あー……それはお前もだろ。
……捕獲作戦のこと、知ってたんだってな。」
ジャンは山積みの書類を忙しく仕分けながら、本心はマルコと目が合わないようにと必死だった。
アニ捕獲作戦について詳細を書かれた書類の中に、名だたる憲兵幹部に混じってマルコの名前を見つけたのは、帰還後すぐの会議の時だった。
正直、驚いたというよりもショックの方が大きかった。
何が1番ショックだったのだろう。多分、自分だけが何も知らなかったのだと思い知ってしまったことだと思う。
「ごめん。極秘任務で誰にも言えなくて……。」
「あぁ、わかってる。」
マルコの申し訳なさそうな声を聞いて、余計に惨めになった。
謝ってほしかったわけではないのだ。責めるつもりだってない。
なまえら調査兵団幹部や一部の憲兵達が、たくさんの想いがある中で必死に隠してきてくれたからこその今回の作戦成功があるのだ。
マルコもなまえ達も何も間違っていない。
「アルミン達も知ってたけど、俺らには教えてくれなかったしな。
俺たちも超大型巨人の味方かもしれねぇもんな。裏切り者がどこにいるかわからねぇんだ、怖ぇよな。
仕方ねぇって、お前らは何も悪くーー。」
「疑ってなんかない!」
マルコの叫ぶような声に、ジャンはハッとして言葉を切った。
責めるつもりなんてないのに、気づけばジャンの喉の奥からは嫌味ばかりが飛び出していた。
きっと、ジャンも疲れ過ぎていたのだ。それか、もしくは、闇ミンの毒がうつってしまったのかもしれない。
誰も悪くない。
「悪ぃ。」
マルコの方を向いて、ジャンは首の後ろをかいた。
責められたマルコは、少し悲しげだった。
そして、申し訳なさそうに首を横に振った。
「俺達は誰も104期の調査兵を疑ってはいなかったよ。」
「あー……それはどうかわかんねぇけど。」
「……少なくとも僕や調査兵団の幹部の人たちはみんな、最後の最後まで信じてた。」
マルコの言う『104期の調査兵』の中には、ライナーとベルトルトの2人もいるのかもしれない。
きっと、彼もまた苦しんできた。そして今もなお、苦しんでいる仲間の1人なのだ。
これ以上、マルコを責める気は無くなって、ジャンはデスクの椅子に座り直すと、今度こそまっすぐに友人と向き合った。
「いつから知ってたんだ?」
それは、ジャンがずっと気になっていたことだった。
アニ捕獲作戦を実行した憲兵のほとんどが名の知れた幹部達ばかりだった。それはつまり、憲兵師団長のナイルの側近達ばかりだったということだ。
古い友人であるエルヴィンから信じられない作戦を聞かされたナイルが、自分の信じられる選りすぐりの憲兵を集めたということだろう。
確かに、マルコは優秀だし信頼できる男だ。けれど、師団長であるナイルの側近達とは違う。そこまでの強い信頼を得られるほどの関係性ではないはずだ。
「ジャンの見舞いに来た時だよ。」
「俺の?」
意外な返答だった。
首を傾げるジャンに、マルコはわかりやすく説明をした。
あの日、トロスト区巨人襲来時になまえがその場にいたことをジャンから聞かされ、長年胸の奥にしまっていた疑惑が大きく膨れ上がり止まらなくなったこと。その疑惑を晴らしたいと願い、なまえの元へ行ったこと。そして、あまりにも残酷な事実を聞かされてしまったことーーー。
「そこで、今回の作戦を聞いたんだ。
エルヴィン団長やなまえさん達は俺の気持ちも汲んでくれて、参加するかは自由だって言われて悩んだけど
自分の目で確かめたいと思って、参加することに決めた。」
「……そうか。」
知らないところで悩み、苦しんでいたのはマルコも同じだった。
何も知らないから苦しかったのはジャンだ。でも、知ってしまったばかりに苦しんだ人間もいる。そんなことを改めて実感する。
自分だけが蚊帳の外で辛い思いばかりしているーーーと卑屈になっていた自分が恥ずかしい。
「作戦中にあったこと、ナイル師団長からも話を聞いたよ。
簡単に、大変だったねとは言えないけど……、君が無事でよかった。」
マルコの優しい声は、ジャンの胸の奥に重たく沈んでいった。
きっと彼の本心なのだろう。
でも、まだ目を覚さないなまえのことを思うと、無事で良かったとは今はまだ思えないのだ。
親友であるマルコは、そんなジャンの心情を察したのだろう。
心配そうになまえの容態を聞いてきたが、ジャンに答えられることは何一つなかった。
それがまた、ジャンを惨めにさせる。
彼女を助けたのは自分だーーーそうやって胸を張って言えたらどんなに良かっただろう。
けれど、彼女を傷つけた事実が、いつでもジャンを引き止めるのだ。
「ジャンは、たくさん頑張ったと思うよ。」
「何も頑張ってねぇよ。お前達が必死に作戦立ててる時に
俺はただボーッとベッドの上で傷が治るのを待ってただけだ。」
これは、嫌味でもなんでもなく、本心だった。
けれど、マルコはさっき嫌味を言われた時みたいに悲しそうに微笑んで、小さく首を横に振った。
「違うよ。君はいつだって、大切な人たちを守るために必死に頑張ってきた。
実は、今回の作戦に参加することになった憲兵は、調査兵の人達に訓練をしてもらっていたんだ。」
初耳だった。
でも、よく考えればそうなるのも当然のことだ。
アニの捕獲は壁内で行うとはいえ、彼女もまた巨人化できる人間の可能性もあった。
そうではなくとも彼女の対人格闘術はトップクラスだ。
甘く見ていたら容易く逃げられてしまっていただろう。
「それで思ったんだよ。俺も訓練兵団で厳しい訓練に耐えてきたんだって自負があったけど
それはただの自惚れに過ぎなかったんだなって。」
そこまで一気に言うと、マルコは一度言葉を切ってジャンの方を向いた。
その眼差しが、親友に向けるそれとは違っていて、思わずドキリとしてしまう。
彼のその瞳に、自分に対する尊敬の念のようなものを感じてしまったせいだ。
「調査兵団の人たちは、毎日あんなに苦しい訓練を繰り返して、
世界のために戦っていたんだね。壁外で戦う調査兵団はすごい人達の集まりだって
わかってたつもりだったけど、全然わかってなかったんだって思い知ったよ。」
「あぁ、そうだな。団長もなまえさんも、それに……リヴァイ兵長も、他のみんなも
ほんとすげぇよ。俺も休んでる間、訓練してるみんなを見て同じように思ってた。」
「何言ってんだよ、君もだよ。ジャン。」
マルコが自分に向かって言ってくれていることは初めからわかっていた。
でも、照れ臭かったのだ。
調査兵団を志願すると決めた時の自分の気持ちは今でも覚えているし、覚悟も変わらない。
でも、世界のためーーーと言われると、そんなに大それたことではない気もするのも事実だ。
ただ、この世界の理不尽に腹が立った。矛盾を知ってしまった。
エレンに出会い、夢を現実にするために戦っているというおかしな調査兵を知り、戦うしか道はないのだと、気付かされてしまったのだ。
それだけだ。エレンのように執念のような覚悟もないし、アルミンのように大きな夢もない。
「君がこれまで死ぬ気で生きてきたから、なまえさんを守れたんじゃないか。」
マルコの口から出てきた名前に思わず、肩が小さく跳ねる。
本当にそうだろうか。自分が守ったーーーそう思わないわけでもない。でも、守ったんだと胸も張れない。
「聞いただろ。ライナー達が戻ってきたから、助かったんだ。
助けたのは俺じゃない。」
「ううん、ジャンだよ。」
「だから、違ぇって!」
怒るつもりはなかった。
けれど、気づけば声を張り上げて怒鳴っていた。
腹も立っていた。そして、不意に気づいてしまった。
あぁ、自分はこうやって言い訳をして、なまえを諦めなければならない理由を探していたのだ。
なまえの元には仕事が忙しくて会いにいけないし、会いに行ったところできっとリヴァイがそばにいる。
どんな理由があるにしろ、彼女はリヴァイを選んだ。リヴァイは人類最強の兵士で、仲間からの信頼も厚い。彼が尊敬できる人間だということは、ジャンも知っている。
大切な人を守ることすら出来なかった自分なんかよりずっとリヴァイの方がふさわしい。これでいいーー何度も何度もそう自分に言い聞かせている。
なまえへの恋心を自覚したその時から、ずっとだ。
もう慣れ過ぎてしまって、そうしていることすら気づかないくらいに自然に、ジャンはいつでも諦めてきた。
手に入るような気がして、自惚れが大きくなるにつれ忘れてしまっていたが、それは間違いだったのだ。
「ジャンだよ。君が守った。」
「だから……!」
「ライナー達が自分の立場もかなぐり捨ててでも助けに来たのは、君が友人だからだ。」
「なんだ、そんなことかよ。そんなのはー」
「君が人の気持ちも考えない嫌な奴だったら、ライナー達は気持ちよく君を見捨てて
今頃まんまと逃げおうせてただろうね。」
「……俺が良い奴だったのが、ライナー達にとっては不運だったな。」
「そもそも君がただの自信家で怠惰なやつだったら、
壁下に落ちていくなまえさんを助けられなかった。」
「あれくらいは誰だってーー」
「出来ないよ。」
ジャンは、マルコから目を逸らし続けた。
自分の心を守ってきた言い訳を、それでも必死に守ろうとしたのだ。
でも、マルコはキッパリと否定する。
「出来るわけない。自分も死ぬかもしれないのに、巨人の大口が待ってる壁下に飛び降りて
意識を失っている人を片手で掴んで抱えるなんて。そんなの、誰にも出来ない。」
「それは、」
「補佐官になったときからずっと、なまえさんを守るために
いろんな地獄を想定して訓練をしてきたのは他の誰でもない、君だろ。
なまえさんと生きるために、巨人の中に飛び込むなんて
一体他に誰ができるんだ?」
「……。」
「実際、リヴァイ兵長には出来なかったじゃないか。」
「それは違ぇ。俺の方が少し早かっただけで、リヴァイ兵長だってーー。」
「でも君のほうが早かった。だから、なまえさんはその手を放されずに済んだ。」
「……!」
ハッとしてジャンは目を見開いた。
あの時、先になまえの手を掴んだのがリヴァイだったら、一体どうなっていたのだろう。
実際に掴んだ手を放すのと、誰かが掴んでいるその手を離せと指示を出すのでは全く違う。けれど、リヴァイはそれでも、合理的に判断したんじゃないだろうか。意識を失っている調査兵とこれからも巨人を多数駆逐できる可能性のあるリヴァイという調査兵の命を天秤にかけて、彼は婚約者を守るでもなく、もちろん自分を守るためではなく、調査兵団のために人類最強の兵士を選んだかもしれない。
そう思うと、急に恐ろしくなってきた。なまえの命が助かったのは、さまざまな偶然が重なった奇跡だったのだ。
「誰にどう言われようとジャンがなまえさんの手を離さなかった。
だからこそ、ライナー達が間に合ったのは事実だ。だからほら、やっぱり、救ったのは君だ。」
ジャンの胸の内は疑念だらけだというのに、言い切ったマルコはとても清々しそうだった。
「リヴァイ兵長は、俺から見てもなまえさんをとても大切にしてると思う。
恋人同士としての2人は俺には分からないけど
作戦会議の時もいつも彼女の隣でフォローしてたし、訓練の付き合いもすごく上手だった。」
「それくらいなら、俺だって……!」
どうしても我慢できなくなって、気づけば口を挟んでいた。
リヴァイ兵長の方がふさわしいと言い聞かせていた自分に笑ってしまう。
自分自身の矛盾に戸惑うジャンに、マルコが柔らかく微笑み返す。
「リヴァイ兵長は強いし頼り甲斐があるし、仲間思いで信頼も厚い。
顔もかっこいいしね。なまえさんと2人で並んでるのを見ると
本当に夢物語から飛び出してきたのかなと錯覚してしまうほどだよ。」
「……なんなんだお前。惚れた女に告白もできないまま捨てられた親友を
叩きのめしにきたのかよ。」
仏頂面でジャンが文句を垂れると、マルコは一瞬驚いた顔をした後に、可笑しそうに吹き出した。
「違うよ。」
「はぁ?そうとしか見えねぇ。」
「ごめんごめん、本当に違うんだ。俺はただ、
いや、俺達は、相手がどんなに理想的な男だったとしても
ジャンの味方だって言いたかったんだ。」
「俺たち?」
「コニーとか、エレンとか、クリスタ、ユミルとか、みんなだよ。」
「は?」
ポカンとするジャンを見て、今度こそ本当にマルコは楽しそうに笑った。
「俺が会議で兵舎にきたって知ったみたいで、次々に会いに来たんだ。」
「マルコにか?」
「そう。みんな忙しいはずなのにさ、ジャンのことを相談しにきたんだ。
ジャンを励まして欲しいとか、なまえさんが目を覚ましたらうまく2人きりにできる方法考えたいとか。」
まさか、驚いた。
いつも口を開けば、振られた男だとからかっていたのがコニー達だ。
そんな彼らが、友人の終わった恋をどうにか救えないかと考えてくれていたなんて、信じられない。
「あとは、リヴァイ兵長に毒を盛れないかとか……これにはびっくりしたけど、
何より驚いたのはそんな恐ろしい提案をしてきた友人が2人もいたことだよ。」
マルコが顔を青くして言う。
なんとなく、その2人が誰なのか分かってしまうのが、長年の付き合いの辛いところだ。
「リヴァイ兵長が漏らした姿をなまえさんに見せて幻滅させればいいんだって
下剤作戦を提案してきたアルミンはまだいいんだけど、」
いや、全然よくねぇだろーーーと思ったけれど、声にならなかった。
目の下に隈を刻んだ闇ミンの狂気じみた笑みを思い出して寒気がしたせいだ。
「じわじわと効いてきて、もがき苦しむ毒はないかって
本気で聞いてくるミカサの目は恐ろしかった……。」
マルコが両腕で自分の体を抱きしめてぶるぶるっと震えた。
確かに想像するだけで怖い。
「とにかく、みんな…いや、ミカサ以外はかもしれないけど
リヴァイ兵長はとても素敵な人だって、ちゃんとわかってるんだ。
もしも、本気でなまえさんがリヴァイ兵長を選んだのなら、もう敵わないかもしれない。」
「……。」
「でも、それでも俺たちはジャンの味方だ。ジャンが笑ってくれる方がいい。
恋愛なんてうまくいくか行かないかなんて誰にもわからないよ。
でも、踏み出す前に諦めないでくれ。
君だって自分の気持ちに嘘をついて蓋をしても、自分を納得はさせられないだろ?」
マルコが真っ直ぐとジャンを見つめる。
親友のアドバイスを受け止めないわけには行かない。
彼の言っていることは正しい。要するに、あとはジャンの勇気だけなのだ。
そして本当はジャンも、諦めることなんて望んではいなかった。
命を賭けて守りたいほどに、大切な人なのだ。欲しい人なのだ。
「あぁ、そうだな。やれるだけやってみる。」
ジャンの言葉を聞いて、マルコはホッととしたように息を吐くと、頬を綻ばせた。
本当に心配してくれていたのだろう。それがわかるからこそ、急に恥ずかしくなってくる。
「……毒は盛らねぇけどな!」
冗談めかして付け足すと、マルコは少し驚いた顔をしたあとに可笑しそうに笑った。
「そうだね、それがいい。
でも、毒づくくらいはやっちゃえ!」
マルコがいたずらっ子な顔をして笑う。
他人事だと思って勝手なことを言ってくれる。
相手は人類最強の兵士で、なまえの長年の片思いの相手だ。
正直、勝ち目は見えない。毒づいた途端に、猛烈な蹴りが飛んでくるかもしれない。最悪、華麗なブレードさばきでうなじを削がれるか。
それでもーーーーー。
「ジャン!」
勢いよく扉が開いた。
転がるようにして飛び込んできたのは、エレンだ。
その後ろから、雪崩れ込むようにミカサとアルミンが続く。
「ダメだってば、エレン!もう少し時間をあけてからじゃないと!」
「エレン、エルヴィン団長から今日はゆっくり休ませるように言われてる。
まだ言ってはダメ。」
「なんでだよ!1番待ってたのはコイツだろ!教えねぇ理由はねぇ!」
入ってきて早々、口喧嘩を始めた3人を前に、マルコとジャンは目を合わせて首を傾げる。
「なんだよ。」
ジャンが訊ねると、エレンの視線がすぐにこちらを向いた。
彼の口が開く。それを慌ててアルミンとミカサが両手で塞ごうとする。
けれど、エレンが喋る方が早かった。
「なまえさんが目を覚ましたらしい。
今、リヴァイ兵長が会いに行ってるから、早く邪魔しにーーー。」
途中から、エレンの声は背中の向こうに消えていた。
彼らが飛び込んできた時に開けっぱなしになっていた扉を勢いよく叩いて、ジャンは飛び出した。
「あぁ…だから言ったのに。」
あっという間に小さくなっていくジャンの背中を眺めながら、アルミンが呟く。
その隣で満足気にエレンが頷いているが、さっきまで怒っていたミカサが彼を叱る様子はない。
なぜか途端に興味をなくしたような様子で、散らかっているジャンの部屋を見渡して眉を顰めている。
マルコは、アルミンの隣に並ぶと彼の表情を盗み見た。
そして、ギョッとしたあとに吹き出しそうになった口元を右手の甲で必死に押さえる。
「エレンの口をおさえられなくて残念だったね。」
マルコにそう言われて、アルミンはチラリと彼の方を向いた。
必死に笑いを堪えてるのはバレてしまっただろう。
「……きっとこれから修羅場だ。だからやめろって言ったのに。」
あの時、本気でエレンの口元を押さえる気がなかったように見えたアルミンは、ワクワクした様子で口元を綻ばせていた。
ジャンは、脱ぎっぱなしにしていたシャツや靴下を手早く拾い上げた。
これで、ソファや床に少しはスペースが出来たはずだ。
「忙しかったんだね、急に声をかけてごめん。」
哀れそうなマルコの視線は、デスクに山積みになった書類に向いていた。
そして、ソファの中央に腰をおろそうとして、今まさに座ろうとしていた尻の辺りに脱ぎ捨てられた靴下を見つけた。
中指と親指でつまむように押さえて拾い上げて、ソファの端に投げる。
「あー……それはお前もだろ。
……捕獲作戦のこと、知ってたんだってな。」
ジャンは山積みの書類を忙しく仕分けながら、本心はマルコと目が合わないようにと必死だった。
アニ捕獲作戦について詳細を書かれた書類の中に、名だたる憲兵幹部に混じってマルコの名前を見つけたのは、帰還後すぐの会議の時だった。
正直、驚いたというよりもショックの方が大きかった。
何が1番ショックだったのだろう。多分、自分だけが何も知らなかったのだと思い知ってしまったことだと思う。
「ごめん。極秘任務で誰にも言えなくて……。」
「あぁ、わかってる。」
マルコの申し訳なさそうな声を聞いて、余計に惨めになった。
謝ってほしかったわけではないのだ。責めるつもりだってない。
なまえら調査兵団幹部や一部の憲兵達が、たくさんの想いがある中で必死に隠してきてくれたからこその今回の作戦成功があるのだ。
マルコもなまえ達も何も間違っていない。
「アルミン達も知ってたけど、俺らには教えてくれなかったしな。
俺たちも超大型巨人の味方かもしれねぇもんな。裏切り者がどこにいるかわからねぇんだ、怖ぇよな。
仕方ねぇって、お前らは何も悪くーー。」
「疑ってなんかない!」
マルコの叫ぶような声に、ジャンはハッとして言葉を切った。
責めるつもりなんてないのに、気づけばジャンの喉の奥からは嫌味ばかりが飛び出していた。
きっと、ジャンも疲れ過ぎていたのだ。それか、もしくは、闇ミンの毒がうつってしまったのかもしれない。
誰も悪くない。
「悪ぃ。」
マルコの方を向いて、ジャンは首の後ろをかいた。
責められたマルコは、少し悲しげだった。
そして、申し訳なさそうに首を横に振った。
「俺達は誰も104期の調査兵を疑ってはいなかったよ。」
「あー……それはどうかわかんねぇけど。」
「……少なくとも僕や調査兵団の幹部の人たちはみんな、最後の最後まで信じてた。」
マルコの言う『104期の調査兵』の中には、ライナーとベルトルトの2人もいるのかもしれない。
きっと、彼もまた苦しんできた。そして今もなお、苦しんでいる仲間の1人なのだ。
これ以上、マルコを責める気は無くなって、ジャンはデスクの椅子に座り直すと、今度こそまっすぐに友人と向き合った。
「いつから知ってたんだ?」
それは、ジャンがずっと気になっていたことだった。
アニ捕獲作戦を実行した憲兵のほとんどが名の知れた幹部達ばかりだった。それはつまり、憲兵師団長のナイルの側近達ばかりだったということだ。
古い友人であるエルヴィンから信じられない作戦を聞かされたナイルが、自分の信じられる選りすぐりの憲兵を集めたということだろう。
確かに、マルコは優秀だし信頼できる男だ。けれど、師団長であるナイルの側近達とは違う。そこまでの強い信頼を得られるほどの関係性ではないはずだ。
「ジャンの見舞いに来た時だよ。」
「俺の?」
意外な返答だった。
首を傾げるジャンに、マルコはわかりやすく説明をした。
あの日、トロスト区巨人襲来時になまえがその場にいたことをジャンから聞かされ、長年胸の奥にしまっていた疑惑が大きく膨れ上がり止まらなくなったこと。その疑惑を晴らしたいと願い、なまえの元へ行ったこと。そして、あまりにも残酷な事実を聞かされてしまったことーーー。
「そこで、今回の作戦を聞いたんだ。
エルヴィン団長やなまえさん達は俺の気持ちも汲んでくれて、参加するかは自由だって言われて悩んだけど
自分の目で確かめたいと思って、参加することに決めた。」
「……そうか。」
知らないところで悩み、苦しんでいたのはマルコも同じだった。
何も知らないから苦しかったのはジャンだ。でも、知ってしまったばかりに苦しんだ人間もいる。そんなことを改めて実感する。
自分だけが蚊帳の外で辛い思いばかりしているーーーと卑屈になっていた自分が恥ずかしい。
「作戦中にあったこと、ナイル師団長からも話を聞いたよ。
簡単に、大変だったねとは言えないけど……、君が無事でよかった。」
マルコの優しい声は、ジャンの胸の奥に重たく沈んでいった。
きっと彼の本心なのだろう。
でも、まだ目を覚さないなまえのことを思うと、無事で良かったとは今はまだ思えないのだ。
親友であるマルコは、そんなジャンの心情を察したのだろう。
心配そうになまえの容態を聞いてきたが、ジャンに答えられることは何一つなかった。
それがまた、ジャンを惨めにさせる。
彼女を助けたのは自分だーーーそうやって胸を張って言えたらどんなに良かっただろう。
けれど、彼女を傷つけた事実が、いつでもジャンを引き止めるのだ。
「ジャンは、たくさん頑張ったと思うよ。」
「何も頑張ってねぇよ。お前達が必死に作戦立ててる時に
俺はただボーッとベッドの上で傷が治るのを待ってただけだ。」
これは、嫌味でもなんでもなく、本心だった。
けれど、マルコはさっき嫌味を言われた時みたいに悲しそうに微笑んで、小さく首を横に振った。
「違うよ。君はいつだって、大切な人たちを守るために必死に頑張ってきた。
実は、今回の作戦に参加することになった憲兵は、調査兵の人達に訓練をしてもらっていたんだ。」
初耳だった。
でも、よく考えればそうなるのも当然のことだ。
アニの捕獲は壁内で行うとはいえ、彼女もまた巨人化できる人間の可能性もあった。
そうではなくとも彼女の対人格闘術はトップクラスだ。
甘く見ていたら容易く逃げられてしまっていただろう。
「それで思ったんだよ。俺も訓練兵団で厳しい訓練に耐えてきたんだって自負があったけど
それはただの自惚れに過ぎなかったんだなって。」
そこまで一気に言うと、マルコは一度言葉を切ってジャンの方を向いた。
その眼差しが、親友に向けるそれとは違っていて、思わずドキリとしてしまう。
彼のその瞳に、自分に対する尊敬の念のようなものを感じてしまったせいだ。
「調査兵団の人たちは、毎日あんなに苦しい訓練を繰り返して、
世界のために戦っていたんだね。壁外で戦う調査兵団はすごい人達の集まりだって
わかってたつもりだったけど、全然わかってなかったんだって思い知ったよ。」
「あぁ、そうだな。団長もなまえさんも、それに……リヴァイ兵長も、他のみんなも
ほんとすげぇよ。俺も休んでる間、訓練してるみんなを見て同じように思ってた。」
「何言ってんだよ、君もだよ。ジャン。」
マルコが自分に向かって言ってくれていることは初めからわかっていた。
でも、照れ臭かったのだ。
調査兵団を志願すると決めた時の自分の気持ちは今でも覚えているし、覚悟も変わらない。
でも、世界のためーーーと言われると、そんなに大それたことではない気もするのも事実だ。
ただ、この世界の理不尽に腹が立った。矛盾を知ってしまった。
エレンに出会い、夢を現実にするために戦っているというおかしな調査兵を知り、戦うしか道はないのだと、気付かされてしまったのだ。
それだけだ。エレンのように執念のような覚悟もないし、アルミンのように大きな夢もない。
「君がこれまで死ぬ気で生きてきたから、なまえさんを守れたんじゃないか。」
マルコの口から出てきた名前に思わず、肩が小さく跳ねる。
本当にそうだろうか。自分が守ったーーーそう思わないわけでもない。でも、守ったんだと胸も張れない。
「聞いただろ。ライナー達が戻ってきたから、助かったんだ。
助けたのは俺じゃない。」
「ううん、ジャンだよ。」
「だから、違ぇって!」
怒るつもりはなかった。
けれど、気づけば声を張り上げて怒鳴っていた。
腹も立っていた。そして、不意に気づいてしまった。
あぁ、自分はこうやって言い訳をして、なまえを諦めなければならない理由を探していたのだ。
なまえの元には仕事が忙しくて会いにいけないし、会いに行ったところできっとリヴァイがそばにいる。
どんな理由があるにしろ、彼女はリヴァイを選んだ。リヴァイは人類最強の兵士で、仲間からの信頼も厚い。彼が尊敬できる人間だということは、ジャンも知っている。
大切な人を守ることすら出来なかった自分なんかよりずっとリヴァイの方がふさわしい。これでいいーー何度も何度もそう自分に言い聞かせている。
なまえへの恋心を自覚したその時から、ずっとだ。
もう慣れ過ぎてしまって、そうしていることすら気づかないくらいに自然に、ジャンはいつでも諦めてきた。
手に入るような気がして、自惚れが大きくなるにつれ忘れてしまっていたが、それは間違いだったのだ。
「ジャンだよ。君が守った。」
「だから……!」
「ライナー達が自分の立場もかなぐり捨ててでも助けに来たのは、君が友人だからだ。」
「なんだ、そんなことかよ。そんなのはー」
「君が人の気持ちも考えない嫌な奴だったら、ライナー達は気持ちよく君を見捨てて
今頃まんまと逃げおうせてただろうね。」
「……俺が良い奴だったのが、ライナー達にとっては不運だったな。」
「そもそも君がただの自信家で怠惰なやつだったら、
壁下に落ちていくなまえさんを助けられなかった。」
「あれくらいは誰だってーー」
「出来ないよ。」
ジャンは、マルコから目を逸らし続けた。
自分の心を守ってきた言い訳を、それでも必死に守ろうとしたのだ。
でも、マルコはキッパリと否定する。
「出来るわけない。自分も死ぬかもしれないのに、巨人の大口が待ってる壁下に飛び降りて
意識を失っている人を片手で掴んで抱えるなんて。そんなの、誰にも出来ない。」
「それは、」
「補佐官になったときからずっと、なまえさんを守るために
いろんな地獄を想定して訓練をしてきたのは他の誰でもない、君だろ。
なまえさんと生きるために、巨人の中に飛び込むなんて
一体他に誰ができるんだ?」
「……。」
「実際、リヴァイ兵長には出来なかったじゃないか。」
「それは違ぇ。俺の方が少し早かっただけで、リヴァイ兵長だってーー。」
「でも君のほうが早かった。だから、なまえさんはその手を放されずに済んだ。」
「……!」
ハッとしてジャンは目を見開いた。
あの時、先になまえの手を掴んだのがリヴァイだったら、一体どうなっていたのだろう。
実際に掴んだ手を放すのと、誰かが掴んでいるその手を離せと指示を出すのでは全く違う。けれど、リヴァイはそれでも、合理的に判断したんじゃないだろうか。意識を失っている調査兵とこれからも巨人を多数駆逐できる可能性のあるリヴァイという調査兵の命を天秤にかけて、彼は婚約者を守るでもなく、もちろん自分を守るためではなく、調査兵団のために人類最強の兵士を選んだかもしれない。
そう思うと、急に恐ろしくなってきた。なまえの命が助かったのは、さまざまな偶然が重なった奇跡だったのだ。
「誰にどう言われようとジャンがなまえさんの手を離さなかった。
だからこそ、ライナー達が間に合ったのは事実だ。だからほら、やっぱり、救ったのは君だ。」
ジャンの胸の内は疑念だらけだというのに、言い切ったマルコはとても清々しそうだった。
「リヴァイ兵長は、俺から見てもなまえさんをとても大切にしてると思う。
恋人同士としての2人は俺には分からないけど
作戦会議の時もいつも彼女の隣でフォローしてたし、訓練の付き合いもすごく上手だった。」
「それくらいなら、俺だって……!」
どうしても我慢できなくなって、気づけば口を挟んでいた。
リヴァイ兵長の方がふさわしいと言い聞かせていた自分に笑ってしまう。
自分自身の矛盾に戸惑うジャンに、マルコが柔らかく微笑み返す。
「リヴァイ兵長は強いし頼り甲斐があるし、仲間思いで信頼も厚い。
顔もかっこいいしね。なまえさんと2人で並んでるのを見ると
本当に夢物語から飛び出してきたのかなと錯覚してしまうほどだよ。」
「……なんなんだお前。惚れた女に告白もできないまま捨てられた親友を
叩きのめしにきたのかよ。」
仏頂面でジャンが文句を垂れると、マルコは一瞬驚いた顔をした後に、可笑しそうに吹き出した。
「違うよ。」
「はぁ?そうとしか見えねぇ。」
「ごめんごめん、本当に違うんだ。俺はただ、
いや、俺達は、相手がどんなに理想的な男だったとしても
ジャンの味方だって言いたかったんだ。」
「俺たち?」
「コニーとか、エレンとか、クリスタ、ユミルとか、みんなだよ。」
「は?」
ポカンとするジャンを見て、今度こそ本当にマルコは楽しそうに笑った。
「俺が会議で兵舎にきたって知ったみたいで、次々に会いに来たんだ。」
「マルコにか?」
「そう。みんな忙しいはずなのにさ、ジャンのことを相談しにきたんだ。
ジャンを励まして欲しいとか、なまえさんが目を覚ましたらうまく2人きりにできる方法考えたいとか。」
まさか、驚いた。
いつも口を開けば、振られた男だとからかっていたのがコニー達だ。
そんな彼らが、友人の終わった恋をどうにか救えないかと考えてくれていたなんて、信じられない。
「あとは、リヴァイ兵長に毒を盛れないかとか……これにはびっくりしたけど、
何より驚いたのはそんな恐ろしい提案をしてきた友人が2人もいたことだよ。」
マルコが顔を青くして言う。
なんとなく、その2人が誰なのか分かってしまうのが、長年の付き合いの辛いところだ。
「リヴァイ兵長が漏らした姿をなまえさんに見せて幻滅させればいいんだって
下剤作戦を提案してきたアルミンはまだいいんだけど、」
いや、全然よくねぇだろーーーと思ったけれど、声にならなかった。
目の下に隈を刻んだ闇ミンの狂気じみた笑みを思い出して寒気がしたせいだ。
「じわじわと効いてきて、もがき苦しむ毒はないかって
本気で聞いてくるミカサの目は恐ろしかった……。」
マルコが両腕で自分の体を抱きしめてぶるぶるっと震えた。
確かに想像するだけで怖い。
「とにかく、みんな…いや、ミカサ以外はかもしれないけど
リヴァイ兵長はとても素敵な人だって、ちゃんとわかってるんだ。
もしも、本気でなまえさんがリヴァイ兵長を選んだのなら、もう敵わないかもしれない。」
「……。」
「でも、それでも俺たちはジャンの味方だ。ジャンが笑ってくれる方がいい。
恋愛なんてうまくいくか行かないかなんて誰にもわからないよ。
でも、踏み出す前に諦めないでくれ。
君だって自分の気持ちに嘘をついて蓋をしても、自分を納得はさせられないだろ?」
マルコが真っ直ぐとジャンを見つめる。
親友のアドバイスを受け止めないわけには行かない。
彼の言っていることは正しい。要するに、あとはジャンの勇気だけなのだ。
そして本当はジャンも、諦めることなんて望んではいなかった。
命を賭けて守りたいほどに、大切な人なのだ。欲しい人なのだ。
「あぁ、そうだな。やれるだけやってみる。」
ジャンの言葉を聞いて、マルコはホッととしたように息を吐くと、頬を綻ばせた。
本当に心配してくれていたのだろう。それがわかるからこそ、急に恥ずかしくなってくる。
「……毒は盛らねぇけどな!」
冗談めかして付け足すと、マルコは少し驚いた顔をしたあとに可笑しそうに笑った。
「そうだね、それがいい。
でも、毒づくくらいはやっちゃえ!」
マルコがいたずらっ子な顔をして笑う。
他人事だと思って勝手なことを言ってくれる。
相手は人類最強の兵士で、なまえの長年の片思いの相手だ。
正直、勝ち目は見えない。毒づいた途端に、猛烈な蹴りが飛んでくるかもしれない。最悪、華麗なブレードさばきでうなじを削がれるか。
それでもーーーーー。
「ジャン!」
勢いよく扉が開いた。
転がるようにして飛び込んできたのは、エレンだ。
その後ろから、雪崩れ込むようにミカサとアルミンが続く。
「ダメだってば、エレン!もう少し時間をあけてからじゃないと!」
「エレン、エルヴィン団長から今日はゆっくり休ませるように言われてる。
まだ言ってはダメ。」
「なんでだよ!1番待ってたのはコイツだろ!教えねぇ理由はねぇ!」
入ってきて早々、口喧嘩を始めた3人を前に、マルコとジャンは目を合わせて首を傾げる。
「なんだよ。」
ジャンが訊ねると、エレンの視線がすぐにこちらを向いた。
彼の口が開く。それを慌ててアルミンとミカサが両手で塞ごうとする。
けれど、エレンが喋る方が早かった。
「なまえさんが目を覚ましたらしい。
今、リヴァイ兵長が会いに行ってるから、早く邪魔しにーーー。」
途中から、エレンの声は背中の向こうに消えていた。
彼らが飛び込んできた時に開けっぱなしになっていた扉を勢いよく叩いて、ジャンは飛び出した。
「あぁ…だから言ったのに。」
あっという間に小さくなっていくジャンの背中を眺めながら、アルミンが呟く。
その隣で満足気にエレンが頷いているが、さっきまで怒っていたミカサが彼を叱る様子はない。
なぜか途端に興味をなくしたような様子で、散らかっているジャンの部屋を見渡して眉を顰めている。
マルコは、アルミンの隣に並ぶと彼の表情を盗み見た。
そして、ギョッとしたあとに吹き出しそうになった口元を右手の甲で必死に押さえる。
「エレンの口をおさえられなくて残念だったね。」
マルコにそう言われて、アルミンはチラリと彼の方を向いた。
必死に笑いを堪えてるのはバレてしまっただろう。
「……きっとこれから修羅場だ。だからやめろって言ったのに。」
あの時、本気でエレンの口元を押さえる気がなかったように見えたアルミンは、ワクワクした様子で口元を綻ばせていた。