◇第百二十五話◇彼女は傷だらけの彼を想う
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「よくやった!!根性見せるんだ!!」
ミケの右腕と呼ばれることの多いルルは、胸の前で腕を組み、朝から熱すぎる男達に呆れた視線を送っていた。
隣で、満足そうに鼻を鳴らしている大男は、一体何を考えて、大事な部下がボコボコにやられるのを見ているのか。ルルには全く分からない。
それでもあの日、ミケは『これから面白いものが見られるから一緒に行こう。』とルルを訓練場へと誘った。
(リヴァイ兵長にジャンが勝てないことくらい、ミケさんが一番分かってるはずなのに。)
チラリとミケを見上げた後、ルルはため息を吐いた。
飛び交う声援は、朝の爽やかな風を追い越してジャンの耳に届いているだろう。
無謀な若造が、あろうことか人類最強の兵士に決闘を申し込むというとんでもない事件から、1週間が経っていた。あの日から、ジャンとリヴァイの決闘を見届けてから1日を始めるのが、ほとんどの調査兵の日課になりつつある。
毎朝繰り広げられる熱戦に、声援はどんどん大きく鳴るばかりだ。
瞬殺で決闘が終了したのは、初日だけだったからだ。
『もっと面白いルール思いついちゃった。』
決闘2日目、悪い笑顔のハンジによってルールに変更が加えられたのだ。
相手を地面に落とせば勝利というルールはそのままに、10カウント以内にジャンが立ち上がればリヴァイの勝利は無効になるということになったのだ。
その為、リヴァイの蹴りも拳もさらに力を増した。ジャンを二度と立ち上がれなくするためだ。
だが、倒される度に、ジャンは何度でも立ち上がる。
時には、大怪我なんて日常茶飯事の屈強な調査兵達から悲鳴が上がることもある。ボロボロの身体で立ち上がり、虚ろな目で構えるジャンは痛々しく、散々残酷な場面を目の当たりにしてきた調査兵ですら目を逸らしたくなるほどだ。
1週間、毎朝続けられているそんな熱い決闘で、ジャンの拳がリヴァイに触れたことは一度だってない。それでも、ジャンは諦めない。
ルルの想定通り、一度も勝つことの出来ないジャンだったけれど、制限時間である3分間、何度、リヴァイに殴られようが、蹴られようが、彼は負けてくれないのだ。
文字通り〝死ぬ気〟の彼の覚悟は、呆れと好奇心を掻き立てられ野次馬根性で集まっていた調査兵達の心を動かした。
そして、からかい半分だった野次を、叱咤激励が飛び交う声援へと変えたのだ。
「はい!終了!!今日も引き分けー!!」
ハンジが右腕を上げて、2人を制止した。
その途端、なんとか立っているだけだった虫の息のジャンが、前のめりに倒れ込む。
彼の胸板の前に腕を回して、間一髪で受け止めたのは、今朝はエレンだった。昨日は、コニーだった気がする。その前はライナーで、その前はベルトルト。いや、ユミルだっただろうか。
いつも、彼らの周りには104期の調査兵達が集まり、今朝も勝たなかったけれど、初日に瞬殺で敗北したきり一度も負けてはいないジャンをからかいながら、もみくちゃにするのだ。
そこにあるのは、調査兵団に入団したばかりの頃は、自分のことにいっぱいいっぱいでバラバラに見えた彼らが、長い時間をかけて築き上げた絆だった。
毎朝、ムキになって怒るジャンと悪戯にからかうライナー達の笑顔を見る度に、ルルの胸はいつもジンと熱くなる。
もう1人の決闘の主役であるリヴァイの周りには、104期のエレンとミカサ以外のリヴァイ班の仲間が集まっている。
3分間、一方的に攻撃を仕掛けている彼もまた、疲れもなく飄々としているで、少し息が切れているようにも見える。
それでも、幼い頃から厳しい環境に身を置いていたリヴァイは流石というべきか、休憩を挟むことなく、いつの間にか班員を率いて訓練を開始している。
(さぁ、私も班員を集めて訓練を始めようか。)
ルルは、辺りを見渡して、野次馬の中から自分が任されている班の調査兵達の姿を探す。
思った通り、今朝も決闘の観客になっていた仲間達を1人ずつ見つけた。
きっとみんな、ジャンがリヴァイに勝っているところを見てみたいと思っているのだろう。
そしてそれは、ルルも同じなのかもしれない。
「ルルさん!」
全員が集まり、班員に指示を出そうとしていた時、ルルは誰かに名前を呼ばれた。
声のした方を見れば、フレイヤがこちらに駆け寄ってきていた。
少し前にミケに気にかけてやって欲しいと言われてから、時々、面倒を見ている後輩調査兵だ。
可愛らしい容姿の彼女は、男性陣には人気があるが、女友達はあまり多くはない印象だった。そして、彼女はその印象通り、女性を苛立たせる特有の話し方や態度をとるようなところがある。
けれど、根気良く付き合ってみれば、勝気で負けず嫌いな性格が調査兵に向いている努力家な女性だった。
実際、彼女の将来にミケも期待を込めているようだ。
性格に難があるせいで、男に媚を売っているだけだと誤解されがちだけれど、彼女がそれだけ努力をしてきたからだろうと、今のルルなら理解できる。
少し前までは、ジャンを追いかけるのに夢中で、雑務や訓練をサボりがちだと聞いていたが、最近は、彼女にとっては良いのか悪いのかは分からないが、真面目に仕事をこなしているようでもある。
「どうしたの?」
「あの…、ひとつお願いがあって…。」
フレイヤは、ルルの視線から逃げるように目を伏せると、躊躇いがちな小さな声で言う。
女性に対しては特に『私の方が上だわ。』と声が聞こえてきそうなくらいの自信のある態度をとることのある彼女のらしくない弱気な姿に、ルルは僅かに眉を上げる。
ミケが懸念していたフレイヤへの風当たりは、今のところ思ったほどではない。
けれど、見えていないところで何があるか分からない。きっと、〝何もない〟なんてことはないのだろう。人の良い噂が広まるのはゆっくりなのに、人の悪い噂が広まるときは一瞬だ。そしてそれにはいつしか悪意が混ざり、嘘が事実と化け、必要以上に傷を抉ってくる。
それが、人の怖さだ。
そうやって、なまえは不必要に、必要以上に、傷つけられた。
そしてそれを今、今度は、フレイヤが思い知っているところだろう。
ルルは、班員達に早朝訓練のメニューを簡単に伝えると、先に訓練を始めるように指示を出した。
班員達は、不思議そうにフレイヤに視線を送りつつも、班長であるルルの指示に従って訓練場の奥へと駆け足で向かう。
彼らが離れたのを確認してから、ルルはもう一度、フレイヤを見やる。
「何かあった?」
「ジャンさんの…、こと、なんですけど…。」
「ジャン?」
フレイヤから出て来たのは、ルルが想像していなかった名前だった。
思わず、キョトンとした顔をしてしまったルルを、フレイヤが見上げる。
「ちゃんと、医務室に行くように言ってあげてくれませんか…!」
フレイヤが、意を決したように告げる。
その顔が、昨日の夕方に見たなまえの表情と重なった。
「手当てはしてもらってるみたいだけど、医療兵に診てもらうのは嫌だって
ライナーさん達を困らせてるって噂で聞いたんです…!
あんなに傷だらけなのに、そうじゃなくても病み上がりなのに…っ。」
お願いというのを一度口に出せば、言葉が止まらなくなったようで、フレイヤが饒舌に喋り出す。
その表情は、ただただジャンの身体の心配をしている恋する少女でしかなかった。
あの夜、フレイヤは、心からジャンを陥れようと思ったわけではないのは本当なのだろう。
ただ、自分に振り向いてはくれない悔しさと、振り向いてはくれない女性を追いかけてばかりいるジャンへの苛立ちと悲しさが溢れた結果、フレイヤ自身でもコントロールできない怒りへと変換されてしまった。
だからと言って、男性に逃げ場を作らない嘘を吐くのは最低だ。褒められたものではない。
大切な誰かの人生が狂ってしまってから、『怒りでどうかして思わず吐いてしまった嘘でした』———なんて言い訳は、通用しないのだ。
自分が発言した言葉には、責任を持つべきだ。
けれど、ルルは、どうしてもフレイヤを責める気にはなれないのだ。
「どうせ、医療兵に、その傷じゃどっちにしろ壁外調査に出たらダメだとか
言われるのが嫌なんだろうけど…!本当に馬鹿ですよ、あの人!
いつだって傷だらけになってまで、あんな人のために無理してばっかり…!
ほんとっ、意味わかんない…!かなうわけないのに、馬鹿じゃん…!」
悔しそうに吐き出すように言って、フレイヤは太ももの辺りで両手の拳をグッと握りしめた。
少し伏し目がちなせいでよくは見えないけれど、大きな瞳は真っ赤で、必死に涙を流すまいと堪えていることが伺える。
振り向いてもらえない相手に恋をしているジャンと自分が重なって歯痒いのか。振り向いてくれないジャンに苛立っているのか。それともただ、ただ———ジャンが大切だから、その身体の心配をしているだけなのか。
今、もしもここにジャンがいれば、彼女の想いがどれほど純粋で優しいものなのかを知ることが出来るのに————。
ふ、とそんな風に考えたルルだったけれど、小刻みに華奢な肩を震わせるフレイヤを見下ろしながら小さく首を横に振る。
どれだけ想っているのか、その想いの深さで恋の成就が決まるというのなら、とっくになまえとジャンは結ばれていたはずだ。
でも、今、そうではないのは、想いだけではどうにもならないものがあるからだ。
現実はいつだって残酷だと、調査兵達は痛いほどに知っている。
まだ新兵と呼んだ方が早いフレイヤもこれからそれを思い知ることになるのだろう。
ルルは、彼女がひどく不憫に思えて、思わず震える小さな頭に手を乗せて優しく撫でた。
驚いたフレイヤが、肩を飛び跳ねさせて顔を上げる。
(あぁ、やっぱり。)
見開いたルルの真っ赤な瞳は、涙をいっぱいに溜めていた。
そんな彼女に、ルルは柔らかく微笑む。
「大丈夫。ジャンには、男達のくだらない決闘が始まる前に
これが終わったら医務室に行くようにキツく命令しておいたから。」
「…え?」
「医務室に行かなかったら、明日からは決闘をさせてあげないって
ミケ分隊長からの伝言も伝えれば、渋々了解してたわ。」
ルルの言葉の意味をゆっくりと咀嚼したらしいフレイヤは、もう大丈夫だと理解した途端に、ふっと緊張の糸を解いた。
その途端に、彼女の大きな瞳から大粒の涙が零れて落ちていく。
「よ、かったぁ~…。
このままじゃ、ジャンさんが死んじゃうかと…っ、
心配で…っ、私…っ。」
ホッとしたように泣きながら笑うフレイヤが、頬を流れていく涙を両手の甲で何度も何度も拭いとる。
「ミケ分隊長達も、ちゃんと医務室へ行かせなきゃ
ジャンさんが死んじゃうって思ってたんですね。」
「まさか。あの大男は、私から指摘されても
あれくらい大丈夫だろうってキョトンとしてたわ。
まぁ、私も、自業自得だと思って放っておくつもりだったし。」
「・・・え?
じゃあ、どうして・・・?」
不思議そうにフレイヤが首を傾げる。
「今、フレイヤと同じことを
昨日、なまえにお願いされたの。」
「…!?」
正直に話せば、フレイヤが大きく目を見開く。
「なんで…!だって…っ!
あの人は、ジャンさんとリヴァイ兵長の決闘を知らないんですよね!?」
「ライナー達が、なまえに事情を説明して、
ジャンに医務室へ行くように説得してほしいってお願いしたみたい。」
「でも、じゃあなんで…。それなら自分で言えばいいのに…。
どうせ、ジャンさんのことだから、
あの人が言えば、二つ返事で医務室に行ったに決まって…———。」
俯き、恨み節のようにブツブツと小さな声で続けたフレイヤは、その途中で、唐突に目を見開き言葉を切った。
どうして、なまえが自分でジャンに声をかけることをしなかったのか———同じ人を想うフレイヤには、分かってしまったのかもしれない。
大嫌いな女性は、ジャンの〝想い〟とプライドを傷つけることをせず、彼が自分の力で諦められるように見守ることを選んでいた。
それに気づいた今、フレイヤはどんな気持ちなのだろう。
どれだけ悔しくて、惨めだろう。
また、そっと優しく頭を撫でたルルに、フレイヤは今度は驚くことはせずに小さく肩を揺らしただけだった。
「調査兵団で1、2を争う美女達に想われるなんて
ジャンはきっと今、一生分の運を使い果たしてるに違いないよ。」
「…っ。
————本当ですよ!これから、どん底しか待ってないんだから!」
少し間を開けて、フレイヤが顔を上げる。
悔しさの中にどこか吹っ切れたような強さを感じる。ルルは確かに、彼女の表情にそれを見た。
ミケの右腕と呼ばれることの多いルルは、胸の前で腕を組み、朝から熱すぎる男達に呆れた視線を送っていた。
隣で、満足そうに鼻を鳴らしている大男は、一体何を考えて、大事な部下がボコボコにやられるのを見ているのか。ルルには全く分からない。
それでもあの日、ミケは『これから面白いものが見られるから一緒に行こう。』とルルを訓練場へと誘った。
(リヴァイ兵長にジャンが勝てないことくらい、ミケさんが一番分かってるはずなのに。)
チラリとミケを見上げた後、ルルはため息を吐いた。
飛び交う声援は、朝の爽やかな風を追い越してジャンの耳に届いているだろう。
無謀な若造が、あろうことか人類最強の兵士に決闘を申し込むというとんでもない事件から、1週間が経っていた。あの日から、ジャンとリヴァイの決闘を見届けてから1日を始めるのが、ほとんどの調査兵の日課になりつつある。
毎朝繰り広げられる熱戦に、声援はどんどん大きく鳴るばかりだ。
瞬殺で決闘が終了したのは、初日だけだったからだ。
『もっと面白いルール思いついちゃった。』
決闘2日目、悪い笑顔のハンジによってルールに変更が加えられたのだ。
相手を地面に落とせば勝利というルールはそのままに、10カウント以内にジャンが立ち上がればリヴァイの勝利は無効になるということになったのだ。
その為、リヴァイの蹴りも拳もさらに力を増した。ジャンを二度と立ち上がれなくするためだ。
だが、倒される度に、ジャンは何度でも立ち上がる。
時には、大怪我なんて日常茶飯事の屈強な調査兵達から悲鳴が上がることもある。ボロボロの身体で立ち上がり、虚ろな目で構えるジャンは痛々しく、散々残酷な場面を目の当たりにしてきた調査兵ですら目を逸らしたくなるほどだ。
1週間、毎朝続けられているそんな熱い決闘で、ジャンの拳がリヴァイに触れたことは一度だってない。それでも、ジャンは諦めない。
ルルの想定通り、一度も勝つことの出来ないジャンだったけれど、制限時間である3分間、何度、リヴァイに殴られようが、蹴られようが、彼は負けてくれないのだ。
文字通り〝死ぬ気〟の彼の覚悟は、呆れと好奇心を掻き立てられ野次馬根性で集まっていた調査兵達の心を動かした。
そして、からかい半分だった野次を、叱咤激励が飛び交う声援へと変えたのだ。
「はい!終了!!今日も引き分けー!!」
ハンジが右腕を上げて、2人を制止した。
その途端、なんとか立っているだけだった虫の息のジャンが、前のめりに倒れ込む。
彼の胸板の前に腕を回して、間一髪で受け止めたのは、今朝はエレンだった。昨日は、コニーだった気がする。その前はライナーで、その前はベルトルト。いや、ユミルだっただろうか。
いつも、彼らの周りには104期の調査兵達が集まり、今朝も勝たなかったけれど、初日に瞬殺で敗北したきり一度も負けてはいないジャンをからかいながら、もみくちゃにするのだ。
そこにあるのは、調査兵団に入団したばかりの頃は、自分のことにいっぱいいっぱいでバラバラに見えた彼らが、長い時間をかけて築き上げた絆だった。
毎朝、ムキになって怒るジャンと悪戯にからかうライナー達の笑顔を見る度に、ルルの胸はいつもジンと熱くなる。
もう1人の決闘の主役であるリヴァイの周りには、104期のエレンとミカサ以外のリヴァイ班の仲間が集まっている。
3分間、一方的に攻撃を仕掛けている彼もまた、疲れもなく飄々としているで、少し息が切れているようにも見える。
それでも、幼い頃から厳しい環境に身を置いていたリヴァイは流石というべきか、休憩を挟むことなく、いつの間にか班員を率いて訓練を開始している。
(さぁ、私も班員を集めて訓練を始めようか。)
ルルは、辺りを見渡して、野次馬の中から自分が任されている班の調査兵達の姿を探す。
思った通り、今朝も決闘の観客になっていた仲間達を1人ずつ見つけた。
きっとみんな、ジャンがリヴァイに勝っているところを見てみたいと思っているのだろう。
そしてそれは、ルルも同じなのかもしれない。
「ルルさん!」
全員が集まり、班員に指示を出そうとしていた時、ルルは誰かに名前を呼ばれた。
声のした方を見れば、フレイヤがこちらに駆け寄ってきていた。
少し前にミケに気にかけてやって欲しいと言われてから、時々、面倒を見ている後輩調査兵だ。
可愛らしい容姿の彼女は、男性陣には人気があるが、女友達はあまり多くはない印象だった。そして、彼女はその印象通り、女性を苛立たせる特有の話し方や態度をとるようなところがある。
けれど、根気良く付き合ってみれば、勝気で負けず嫌いな性格が調査兵に向いている努力家な女性だった。
実際、彼女の将来にミケも期待を込めているようだ。
性格に難があるせいで、男に媚を売っているだけだと誤解されがちだけれど、彼女がそれだけ努力をしてきたからだろうと、今のルルなら理解できる。
少し前までは、ジャンを追いかけるのに夢中で、雑務や訓練をサボりがちだと聞いていたが、最近は、彼女にとっては良いのか悪いのかは分からないが、真面目に仕事をこなしているようでもある。
「どうしたの?」
「あの…、ひとつお願いがあって…。」
フレイヤは、ルルの視線から逃げるように目を伏せると、躊躇いがちな小さな声で言う。
女性に対しては特に『私の方が上だわ。』と声が聞こえてきそうなくらいの自信のある態度をとることのある彼女のらしくない弱気な姿に、ルルは僅かに眉を上げる。
ミケが懸念していたフレイヤへの風当たりは、今のところ思ったほどではない。
けれど、見えていないところで何があるか分からない。きっと、〝何もない〟なんてことはないのだろう。人の良い噂が広まるのはゆっくりなのに、人の悪い噂が広まるときは一瞬だ。そしてそれにはいつしか悪意が混ざり、嘘が事実と化け、必要以上に傷を抉ってくる。
それが、人の怖さだ。
そうやって、なまえは不必要に、必要以上に、傷つけられた。
そしてそれを今、今度は、フレイヤが思い知っているところだろう。
ルルは、班員達に早朝訓練のメニューを簡単に伝えると、先に訓練を始めるように指示を出した。
班員達は、不思議そうにフレイヤに視線を送りつつも、班長であるルルの指示に従って訓練場の奥へと駆け足で向かう。
彼らが離れたのを確認してから、ルルはもう一度、フレイヤを見やる。
「何かあった?」
「ジャンさんの…、こと、なんですけど…。」
「ジャン?」
フレイヤから出て来たのは、ルルが想像していなかった名前だった。
思わず、キョトンとした顔をしてしまったルルを、フレイヤが見上げる。
「ちゃんと、医務室に行くように言ってあげてくれませんか…!」
フレイヤが、意を決したように告げる。
その顔が、昨日の夕方に見たなまえの表情と重なった。
「手当てはしてもらってるみたいだけど、医療兵に診てもらうのは嫌だって
ライナーさん達を困らせてるって噂で聞いたんです…!
あんなに傷だらけなのに、そうじゃなくても病み上がりなのに…っ。」
お願いというのを一度口に出せば、言葉が止まらなくなったようで、フレイヤが饒舌に喋り出す。
その表情は、ただただジャンの身体の心配をしている恋する少女でしかなかった。
あの夜、フレイヤは、心からジャンを陥れようと思ったわけではないのは本当なのだろう。
ただ、自分に振り向いてはくれない悔しさと、振り向いてはくれない女性を追いかけてばかりいるジャンへの苛立ちと悲しさが溢れた結果、フレイヤ自身でもコントロールできない怒りへと変換されてしまった。
だからと言って、男性に逃げ場を作らない嘘を吐くのは最低だ。褒められたものではない。
大切な誰かの人生が狂ってしまってから、『怒りでどうかして思わず吐いてしまった嘘でした』———なんて言い訳は、通用しないのだ。
自分が発言した言葉には、責任を持つべきだ。
けれど、ルルは、どうしてもフレイヤを責める気にはなれないのだ。
「どうせ、医療兵に、その傷じゃどっちにしろ壁外調査に出たらダメだとか
言われるのが嫌なんだろうけど…!本当に馬鹿ですよ、あの人!
いつだって傷だらけになってまで、あんな人のために無理してばっかり…!
ほんとっ、意味わかんない…!かなうわけないのに、馬鹿じゃん…!」
悔しそうに吐き出すように言って、フレイヤは太ももの辺りで両手の拳をグッと握りしめた。
少し伏し目がちなせいでよくは見えないけれど、大きな瞳は真っ赤で、必死に涙を流すまいと堪えていることが伺える。
振り向いてもらえない相手に恋をしているジャンと自分が重なって歯痒いのか。振り向いてくれないジャンに苛立っているのか。それともただ、ただ———ジャンが大切だから、その身体の心配をしているだけなのか。
今、もしもここにジャンがいれば、彼女の想いがどれほど純粋で優しいものなのかを知ることが出来るのに————。
ふ、とそんな風に考えたルルだったけれど、小刻みに華奢な肩を震わせるフレイヤを見下ろしながら小さく首を横に振る。
どれだけ想っているのか、その想いの深さで恋の成就が決まるというのなら、とっくになまえとジャンは結ばれていたはずだ。
でも、今、そうではないのは、想いだけではどうにもならないものがあるからだ。
現実はいつだって残酷だと、調査兵達は痛いほどに知っている。
まだ新兵と呼んだ方が早いフレイヤもこれからそれを思い知ることになるのだろう。
ルルは、彼女がひどく不憫に思えて、思わず震える小さな頭に手を乗せて優しく撫でた。
驚いたフレイヤが、肩を飛び跳ねさせて顔を上げる。
(あぁ、やっぱり。)
見開いたルルの真っ赤な瞳は、涙をいっぱいに溜めていた。
そんな彼女に、ルルは柔らかく微笑む。
「大丈夫。ジャンには、男達のくだらない決闘が始まる前に
これが終わったら医務室に行くようにキツく命令しておいたから。」
「…え?」
「医務室に行かなかったら、明日からは決闘をさせてあげないって
ミケ分隊長からの伝言も伝えれば、渋々了解してたわ。」
ルルの言葉の意味をゆっくりと咀嚼したらしいフレイヤは、もう大丈夫だと理解した途端に、ふっと緊張の糸を解いた。
その途端に、彼女の大きな瞳から大粒の涙が零れて落ちていく。
「よ、かったぁ~…。
このままじゃ、ジャンさんが死んじゃうかと…っ、
心配で…っ、私…っ。」
ホッとしたように泣きながら笑うフレイヤが、頬を流れていく涙を両手の甲で何度も何度も拭いとる。
「ミケ分隊長達も、ちゃんと医務室へ行かせなきゃ
ジャンさんが死んじゃうって思ってたんですね。」
「まさか。あの大男は、私から指摘されても
あれくらい大丈夫だろうってキョトンとしてたわ。
まぁ、私も、自業自得だと思って放っておくつもりだったし。」
「・・・え?
じゃあ、どうして・・・?」
不思議そうにフレイヤが首を傾げる。
「今、フレイヤと同じことを
昨日、なまえにお願いされたの。」
「…!?」
正直に話せば、フレイヤが大きく目を見開く。
「なんで…!だって…っ!
あの人は、ジャンさんとリヴァイ兵長の決闘を知らないんですよね!?」
「ライナー達が、なまえに事情を説明して、
ジャンに医務室へ行くように説得してほしいってお願いしたみたい。」
「でも、じゃあなんで…。それなら自分で言えばいいのに…。
どうせ、ジャンさんのことだから、
あの人が言えば、二つ返事で医務室に行ったに決まって…———。」
俯き、恨み節のようにブツブツと小さな声で続けたフレイヤは、その途中で、唐突に目を見開き言葉を切った。
どうして、なまえが自分でジャンに声をかけることをしなかったのか———同じ人を想うフレイヤには、分かってしまったのかもしれない。
大嫌いな女性は、ジャンの〝想い〟とプライドを傷つけることをせず、彼が自分の力で諦められるように見守ることを選んでいた。
それに気づいた今、フレイヤはどんな気持ちなのだろう。
どれだけ悔しくて、惨めだろう。
また、そっと優しく頭を撫でたルルに、フレイヤは今度は驚くことはせずに小さく肩を揺らしただけだった。
「調査兵団で1、2を争う美女達に想われるなんて
ジャンはきっと今、一生分の運を使い果たしてるに違いないよ。」
「…っ。
————本当ですよ!これから、どん底しか待ってないんだから!」
少し間を開けて、フレイヤが顔を上げる。
悔しさの中にどこか吹っ切れたような強さを感じる。ルルは確かに、彼女の表情にそれを見た。