◇第百話◇小さな窓の外側に、君はいた
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小さな窓の向こうに見えるのは、小さな暗い世界だけだ。
僅かに漏れる心許ない月明かりから、どうやら今夜は、満月ではないことを知る。
待合スペースには、三人掛け用のソファが2脚置いてある。ジャンが、その一つを選んで腰を降ろせば、ハンジは少し離れたもう一つのソファに座った。
「なまえは、元気だった?」
ハンジは、天井を見上げながら言う。
「…普通そこは、俺の体調を聞くんじゃないんですか?」
呆れたように答えれば、ハンジが「あぁ、そうか。」と今更気づいたような反応をする。
「なまえから、ジャンのことはよく聞いてたからさ。
分かってる気になってたよ。」
ハンジが、アハハと笑う。
「なまえから?どうして、あの人が俺のことを知ってるんですか。
一度だって、会いに来なかったくせに。」
俯いて座るジャンは、膝の上に両手首を乗せて紙袋を握りしめていた。
悔しい。悲しい。そんな気持ちを代わりに代弁するように、静かな医療棟の待合スペースに、紙袋のクシャリという音が虚しく響いた。
「会いに行ってたよ。毎晩、毎晩、なまえは、君に会いに行ってた。」
「来てませんよ。俺はずっと会ってない。」
「そうだね、君は会ってない。でも、なまえは会いに行ってた。」
「何言ってるんですか。意味が分かりません。」
「それも仕方ないよ。だって、君は、眠っていたんだから。」
ハンジはそう言うと、小さな窓の方を向いて、ゆっくりと語りだす。
それは、ジャンが刺された日から今日までのなまえのことだった。
手術を終え、一応は、命の危機を脱したジャンのそばになまえがつきっきりでいたこと、その後、フレイヤ達に追い出されてしまったこと、それから———。
夜中になると、毎晩、ジャンに会いに行っていたこと———。
「君のお母さん達の目を盗んで会いに行ってたわけじゃないんだよ。
ただ、まだ意識が戻らなかった頃、君は夜中もケアが必要だったんだ。」
「ケア?」
「君は寝たきりで動けないからね。時々、身体の向きを変えてあげなくちゃいけなかったし
ずっと動かないでいたら筋肉もかたまってしまうから、マッサージも必要だったんだ。」
「マッサージ…。」
復唱して言ってみたジャンだったけれど、あまりイメージを掴めなかった。
それが分かったのか、ハンジが身振り手振りで、寝たきりの人間の身体をどのようにマッサージをするのかを教えてくれる。
そして、本来ならば夜中のケアは、医療兵達が担当するものだが、彼らに頼み込んで、なまえが代わりに行っていたのだと続けた。
「あ、最近、リハビリを始めたんだろ?」
思い出したようにハンジが言う。
いきなり話題が変わって戸惑ったが、ジャンは、そうだと頷く。
ついでに、ジャンは顔を上げると、ハンジの方を向いて、リハビリも順調で、予定よりも早く退院できるかもしれないと言われていることも付け足した。
両親は、このまま調査兵団を辞めさせたいと考えているようだが、自分の身体はまだ鈍っていないことをハンジにアピールしたかったのだ。
ハンジが、ジャンの方を見て、満足気ににんまりと笑う。
「それさ。」
「それ?」
「昼間は、君のお母さんが、夜はなまえが、君の身体をずっとマッサージしてた。
まるで疲れを知らないみたいに、君の為に頑張ってくれた2人がいたから、
君は目覚めてすぐに身体を動かすことが出来たんだ。」
「え。」
声なのか、空気なのかも分からないような、小さな声だった。
驚いた様子のジャンを前に、ハンジは困ったように首を竦めると、また小さな窓の方を向いた。
「知らないのも当然さ。さっきも言った通り、ジャンは意識不明で眠っていたんだし
君のお母さんもなまえも、わざわざ、自分がマッサージしてあげたおかげだから感謝しろなんて
絶対に言ったりしない。だって、目覚めてくれたジャンに感謝をしてるから。」
何と答えれば良いか分からず、ジャンはまた、俯いて目を伏せた。
ただ、息子が死にかけたとは言え、目覚めてすぐから小言ばかりで、うんざりしていた母親の顔が蘇る。そして、綺麗な部屋となまえも———。
母親に対しては、感謝の気持ちを改めて感じたのだろう。
でも、なまえに対しては、どういう感情なのか分からない。
ただ、心臓を握られたみたいに苦しくなって、無性に、なまえに会いたかった。
「あ、こうも言ってたな。」
小さな窓の向こうを見ていたハンジの視線が僅かに上がり、何かを思い出したように言う。
「眠ってるジャンの手のひらをさ、こうやって揉んでやると表情が柔らかくなるって。」
ハンジは、自分の左手のひらを右手の親指で押すようにして、揉みこんで見せた。
そして、困ったように眉尻を下げて、続ける。
「きっと気持ちいいんだって、なまえはすごく嬉しそうだった。
そして、一睡もしないでジャンの手を揉んでやるんだ。」
困ったように眉尻を下げるハンジは、右手で包む自分の左手を見下ろしたまま、呟くように言う。
「あの眠り姫が、寝不足で隈を作ってるんだ。私やリヴァイ、ナナバ達、エルヴィンも
いい加減眠れって言ったって、聞きやしない。もしかしたら、
ジャンが目が覚めたときに、ひとりきりで暗い部屋にいたら可哀想だと思ってたのかもしれないな。」
まるでため息を吐くように、ハンジは困ったような笑みを浮かべて、空気を漏らした。
そして、ジャンが目を覚ましてくれてよかったと続ける。
ジャンが目を覚ましたことで、真夜中にケアの為に病室に通う必要がなくなったからだ。
でも、それでもなまえは、空いた夜中の時間を、眠るために使ってはくれなかった。
「ジャンが戻ってきたときに、無駄な仕事を増やしてしまわないようにって
部屋も片付けて、仕事もこなして、今度こそ君に傷ひとつつけないようにと
忙しい仕事の合間に訓練にも参加して、誰よりも必死に頑張ってる。」
「う、そだ…。」
ジャンは、小さく呟くように言う。
ハンジの話は、どれもこれも、信じられないものだった。
いや、なまえに対して、あまりにもひどいことをぶつけてしまった今、どうしても信じたくなかったのだ。
でも、心が否定したって、頭は分かっている。
なまえが人殺しだという話なんかよりも、今、ハンジから聞いた話の方がずっと、彼女らしい。
ジャンの知っているなまえは、誰が始めたのか分からない噂ではなくて、ハンジの言葉の中にいた。
「寝不足で倒れたってしっかり寝ようとしてくれそうにないし、
今夜も資料室にこもって仕事をしてるから、無理やり押しかけて
酒で酔い潰して寝かせようってナナバ達と強硬手段に出たんだけど、全然ダメ。」
「え。」
伏せていたジャンの視線が僅かに上がる。
資料室で見た光景を思い出す。
楽しそうに飲んでいるのだと思っていたが、アレは、そういうことだったのか。
そういえば、チラリと資料室を覗いただけだったけれど、あのとき、なまえはどんな顔をしていただろう。
ナナバやハンジが楽しそうに話していたのはなんとなく思い出せる。
でも、なまえは楽しそうだったか———思い出せない。
「結局、残した仕事があるからって、部屋に戻っちゃったんだ。
あのなまえがだよ?甘いお菓子の散らばる資料室に目もくれないでさ。」
困ったよねぇ————。
ハンジはそう続けて、小さく笑う。
そういえば、気づかなかったけれど、さっきから、ハンジの笑顔は疲れたように見える。
もしかしたら、なんとかなまえを休ませようとしたのは、今夜が初めてではないのかもしれない。
何度も、あの手この手で、彼女を寝かせようとしたけれど、きっと、うまくいかなかったのだろう。
こうだと思ったら一直線で、周りの迷惑に気づかないなまえらしいが、きちんと身体を休ませないと本当に倒れてしまう。
「そこの窓さ、もう少し大きくした方がいいと思わないか?」
不意に、ハンジが、待合スペースの窓を指さしてそんなことを言い出した。
確かに小さな窓だ。しかも、ひとつしかないから、待合スペースを必要以上に寂しい印象にしている。
(さっきからずっと窓を見てると思ったらそんなこと考えてたのか。)
考えがあちこちに旅をするハンジらしいと思いながら、ジャンも同意の返事をする。
すると、嬉しそうな反応を見せたハンジが、こう続けた。
「そうだよね。小さな窓じゃ、黒い空が少し見えるだけで寂しいよ。
見えないところには、綺麗な月と星があるのに。
知ってるかい?今夜は満月なんだよ。」
資料室から見たけど、綺麗だったな————ハンジがそう言って、柔らかい表情を浮かべる。
ずっと、ジャンは、今夜は歪に欠けた寂しそうな月が、黒い空に浮かんでいるのだろうと思っていた。
外にいるときも夜空を見上げる心の余裕もなかったし、心許ない月明かりが漏らすだけの小さな窓では、今夜の月の姿を想像するしか出来なかったからだ。
「なぁ、ジャン。」
ハンジが、ジャンの方を見る。
心臓が、ドクン、と鳴った。
真っ直ぐで、とても優しい眼差しに、ジャンは、自分が今、何を知らずにいて、何に気づいたかを理解する。
「なまえは、元気だった?」
少し前と同じ質問だ。
さっきは、そこはずっと寝たきりだった自分の体調を気遣うのが当然ではないかと答えたジャンだった。
だが、彼女の質問の意図を知った今、同じことの繰り返しには出来ない。
「…顔を、ちゃんと、見てねぇから、分からない、です…。」
正直に答えたジャンだったけれど、そんなことしか答えられない自分が情けなくて、その声は途切れがちだった。
それが余計に惨めで、どうしようもない気持ちになる。
作戦提案書を取り上げたとき、なまえはどんな顔をしていたのか。暴言を吐かれているとき、なまえはどんな顔をしていたのか。
表情ではない、なまえの顔色はどうだったか。
補佐官で、仮の婚約者である男が死にかけて入院している間、文句を言ってくる面倒な人間がいないのをいいことに、夜な夜なお酒やお菓子を楽しんでふっくらしていたか、それとも、夜も眠れずにげっそりと痩せていただろうか。
ハンジの言う通り、今にも倒れそうな、青い顔をしていたのではないだろうか。
補佐官が出張で少し会えないだけで、寂しくて寝不足になってしまう彼女は———。
「そっか。なら、私が代わりに顔を見てこようか?」
「いえ…、俺…っ、行ってきます…!」
ジャンが、勢いよく立ち上がると、三人掛けのソファが少しだけ後ろに動いて、ガタッと大きな音を立てる。
「あ!行くのはいいけど、走るな・・・・、ってもう聞いちゃいない。」
すぐに走り出したジャンに、ハンジが慌てて声をかけたけれど、彼女の言う通り、何も聞いてはいなかった。
静かな廊下に、必死に走るジャンの足音が響く。
正直、腹に残る刺された傷跡が痛くて、走る度に悲鳴を上げそうだった。
でも、今すぐに、なまえに会いたかった。
会って、謝らなければならない。
そして、感謝を伝えなければならない。
それから———。
もっと、伝えたいことがある。ずっと前から、伝えたかったことがある。
(俺は…っ。)
小さな窓と、同じだった。
そこから見える狭い世界をすべてだとは思っていない。だから、見える世界から、見えない部分を想像した。
そして、それは、想像に過ぎないと分かっているはずなのに、まるで真実であるかのように錯覚して、理解した気になっていた。
ちゃんと窓際に立って、景色を見れば事実を知ることが出来るのに、しなかった。
窓を大きくする度量もない。
ただ小さな窓を眺めながら、狭い世界に飽き飽きして、見えない部分にイライラしていた。
でも、もうそんなことは止める。
本当にしなければならなかったのは、窓際に立つことでも、窓を大きくすることでもなく、勇気を出して踏み出すことだ。
窓の外では、綺麗な月と星が輝いているのだ。
暗闇の中で、夜風に吹かれて不気味に揺れる木々に包まれながらも、満月の明かりを浴びて美しく光る、彼女と同じように———。
「なまえ!!」
愛を呼ぶかのようなその力強い声が、医療棟の前にある庭に響き渡った。
僅かに漏れる心許ない月明かりから、どうやら今夜は、満月ではないことを知る。
待合スペースには、三人掛け用のソファが2脚置いてある。ジャンが、その一つを選んで腰を降ろせば、ハンジは少し離れたもう一つのソファに座った。
「なまえは、元気だった?」
ハンジは、天井を見上げながら言う。
「…普通そこは、俺の体調を聞くんじゃないんですか?」
呆れたように答えれば、ハンジが「あぁ、そうか。」と今更気づいたような反応をする。
「なまえから、ジャンのことはよく聞いてたからさ。
分かってる気になってたよ。」
ハンジが、アハハと笑う。
「なまえから?どうして、あの人が俺のことを知ってるんですか。
一度だって、会いに来なかったくせに。」
俯いて座るジャンは、膝の上に両手首を乗せて紙袋を握りしめていた。
悔しい。悲しい。そんな気持ちを代わりに代弁するように、静かな医療棟の待合スペースに、紙袋のクシャリという音が虚しく響いた。
「会いに行ってたよ。毎晩、毎晩、なまえは、君に会いに行ってた。」
「来てませんよ。俺はずっと会ってない。」
「そうだね、君は会ってない。でも、なまえは会いに行ってた。」
「何言ってるんですか。意味が分かりません。」
「それも仕方ないよ。だって、君は、眠っていたんだから。」
ハンジはそう言うと、小さな窓の方を向いて、ゆっくりと語りだす。
それは、ジャンが刺された日から今日までのなまえのことだった。
手術を終え、一応は、命の危機を脱したジャンのそばになまえがつきっきりでいたこと、その後、フレイヤ達に追い出されてしまったこと、それから———。
夜中になると、毎晩、ジャンに会いに行っていたこと———。
「君のお母さん達の目を盗んで会いに行ってたわけじゃないんだよ。
ただ、まだ意識が戻らなかった頃、君は夜中もケアが必要だったんだ。」
「ケア?」
「君は寝たきりで動けないからね。時々、身体の向きを変えてあげなくちゃいけなかったし
ずっと動かないでいたら筋肉もかたまってしまうから、マッサージも必要だったんだ。」
「マッサージ…。」
復唱して言ってみたジャンだったけれど、あまりイメージを掴めなかった。
それが分かったのか、ハンジが身振り手振りで、寝たきりの人間の身体をどのようにマッサージをするのかを教えてくれる。
そして、本来ならば夜中のケアは、医療兵達が担当するものだが、彼らに頼み込んで、なまえが代わりに行っていたのだと続けた。
「あ、最近、リハビリを始めたんだろ?」
思い出したようにハンジが言う。
いきなり話題が変わって戸惑ったが、ジャンは、そうだと頷く。
ついでに、ジャンは顔を上げると、ハンジの方を向いて、リハビリも順調で、予定よりも早く退院できるかもしれないと言われていることも付け足した。
両親は、このまま調査兵団を辞めさせたいと考えているようだが、自分の身体はまだ鈍っていないことをハンジにアピールしたかったのだ。
ハンジが、ジャンの方を見て、満足気ににんまりと笑う。
「それさ。」
「それ?」
「昼間は、君のお母さんが、夜はなまえが、君の身体をずっとマッサージしてた。
まるで疲れを知らないみたいに、君の為に頑張ってくれた2人がいたから、
君は目覚めてすぐに身体を動かすことが出来たんだ。」
「え。」
声なのか、空気なのかも分からないような、小さな声だった。
驚いた様子のジャンを前に、ハンジは困ったように首を竦めると、また小さな窓の方を向いた。
「知らないのも当然さ。さっきも言った通り、ジャンは意識不明で眠っていたんだし
君のお母さんもなまえも、わざわざ、自分がマッサージしてあげたおかげだから感謝しろなんて
絶対に言ったりしない。だって、目覚めてくれたジャンに感謝をしてるから。」
何と答えれば良いか分からず、ジャンはまた、俯いて目を伏せた。
ただ、息子が死にかけたとは言え、目覚めてすぐから小言ばかりで、うんざりしていた母親の顔が蘇る。そして、綺麗な部屋となまえも———。
母親に対しては、感謝の気持ちを改めて感じたのだろう。
でも、なまえに対しては、どういう感情なのか分からない。
ただ、心臓を握られたみたいに苦しくなって、無性に、なまえに会いたかった。
「あ、こうも言ってたな。」
小さな窓の向こうを見ていたハンジの視線が僅かに上がり、何かを思い出したように言う。
「眠ってるジャンの手のひらをさ、こうやって揉んでやると表情が柔らかくなるって。」
ハンジは、自分の左手のひらを右手の親指で押すようにして、揉みこんで見せた。
そして、困ったように眉尻を下げて、続ける。
「きっと気持ちいいんだって、なまえはすごく嬉しそうだった。
そして、一睡もしないでジャンの手を揉んでやるんだ。」
困ったように眉尻を下げるハンジは、右手で包む自分の左手を見下ろしたまま、呟くように言う。
「あの眠り姫が、寝不足で隈を作ってるんだ。私やリヴァイ、ナナバ達、エルヴィンも
いい加減眠れって言ったって、聞きやしない。もしかしたら、
ジャンが目が覚めたときに、ひとりきりで暗い部屋にいたら可哀想だと思ってたのかもしれないな。」
まるでため息を吐くように、ハンジは困ったような笑みを浮かべて、空気を漏らした。
そして、ジャンが目を覚ましてくれてよかったと続ける。
ジャンが目を覚ましたことで、真夜中にケアの為に病室に通う必要がなくなったからだ。
でも、それでもなまえは、空いた夜中の時間を、眠るために使ってはくれなかった。
「ジャンが戻ってきたときに、無駄な仕事を増やしてしまわないようにって
部屋も片付けて、仕事もこなして、今度こそ君に傷ひとつつけないようにと
忙しい仕事の合間に訓練にも参加して、誰よりも必死に頑張ってる。」
「う、そだ…。」
ジャンは、小さく呟くように言う。
ハンジの話は、どれもこれも、信じられないものだった。
いや、なまえに対して、あまりにもひどいことをぶつけてしまった今、どうしても信じたくなかったのだ。
でも、心が否定したって、頭は分かっている。
なまえが人殺しだという話なんかよりも、今、ハンジから聞いた話の方がずっと、彼女らしい。
ジャンの知っているなまえは、誰が始めたのか分からない噂ではなくて、ハンジの言葉の中にいた。
「寝不足で倒れたってしっかり寝ようとしてくれそうにないし、
今夜も資料室にこもって仕事をしてるから、無理やり押しかけて
酒で酔い潰して寝かせようってナナバ達と強硬手段に出たんだけど、全然ダメ。」
「え。」
伏せていたジャンの視線が僅かに上がる。
資料室で見た光景を思い出す。
楽しそうに飲んでいるのだと思っていたが、アレは、そういうことだったのか。
そういえば、チラリと資料室を覗いただけだったけれど、あのとき、なまえはどんな顔をしていただろう。
ナナバやハンジが楽しそうに話していたのはなんとなく思い出せる。
でも、なまえは楽しそうだったか———思い出せない。
「結局、残した仕事があるからって、部屋に戻っちゃったんだ。
あのなまえがだよ?甘いお菓子の散らばる資料室に目もくれないでさ。」
困ったよねぇ————。
ハンジはそう続けて、小さく笑う。
そういえば、気づかなかったけれど、さっきから、ハンジの笑顔は疲れたように見える。
もしかしたら、なんとかなまえを休ませようとしたのは、今夜が初めてではないのかもしれない。
何度も、あの手この手で、彼女を寝かせようとしたけれど、きっと、うまくいかなかったのだろう。
こうだと思ったら一直線で、周りの迷惑に気づかないなまえらしいが、きちんと身体を休ませないと本当に倒れてしまう。
「そこの窓さ、もう少し大きくした方がいいと思わないか?」
不意に、ハンジが、待合スペースの窓を指さしてそんなことを言い出した。
確かに小さな窓だ。しかも、ひとつしかないから、待合スペースを必要以上に寂しい印象にしている。
(さっきからずっと窓を見てると思ったらそんなこと考えてたのか。)
考えがあちこちに旅をするハンジらしいと思いながら、ジャンも同意の返事をする。
すると、嬉しそうな反応を見せたハンジが、こう続けた。
「そうだよね。小さな窓じゃ、黒い空が少し見えるだけで寂しいよ。
見えないところには、綺麗な月と星があるのに。
知ってるかい?今夜は満月なんだよ。」
資料室から見たけど、綺麗だったな————ハンジがそう言って、柔らかい表情を浮かべる。
ずっと、ジャンは、今夜は歪に欠けた寂しそうな月が、黒い空に浮かんでいるのだろうと思っていた。
外にいるときも夜空を見上げる心の余裕もなかったし、心許ない月明かりが漏らすだけの小さな窓では、今夜の月の姿を想像するしか出来なかったからだ。
「なぁ、ジャン。」
ハンジが、ジャンの方を見る。
心臓が、ドクン、と鳴った。
真っ直ぐで、とても優しい眼差しに、ジャンは、自分が今、何を知らずにいて、何に気づいたかを理解する。
「なまえは、元気だった?」
少し前と同じ質問だ。
さっきは、そこはずっと寝たきりだった自分の体調を気遣うのが当然ではないかと答えたジャンだった。
だが、彼女の質問の意図を知った今、同じことの繰り返しには出来ない。
「…顔を、ちゃんと、見てねぇから、分からない、です…。」
正直に答えたジャンだったけれど、そんなことしか答えられない自分が情けなくて、その声は途切れがちだった。
それが余計に惨めで、どうしようもない気持ちになる。
作戦提案書を取り上げたとき、なまえはどんな顔をしていたのか。暴言を吐かれているとき、なまえはどんな顔をしていたのか。
表情ではない、なまえの顔色はどうだったか。
補佐官で、仮の婚約者である男が死にかけて入院している間、文句を言ってくる面倒な人間がいないのをいいことに、夜な夜なお酒やお菓子を楽しんでふっくらしていたか、それとも、夜も眠れずにげっそりと痩せていただろうか。
ハンジの言う通り、今にも倒れそうな、青い顔をしていたのではないだろうか。
補佐官が出張で少し会えないだけで、寂しくて寝不足になってしまう彼女は———。
「そっか。なら、私が代わりに顔を見てこようか?」
「いえ…、俺…っ、行ってきます…!」
ジャンが、勢いよく立ち上がると、三人掛けのソファが少しだけ後ろに動いて、ガタッと大きな音を立てる。
「あ!行くのはいいけど、走るな・・・・、ってもう聞いちゃいない。」
すぐに走り出したジャンに、ハンジが慌てて声をかけたけれど、彼女の言う通り、何も聞いてはいなかった。
静かな廊下に、必死に走るジャンの足音が響く。
正直、腹に残る刺された傷跡が痛くて、走る度に悲鳴を上げそうだった。
でも、今すぐに、なまえに会いたかった。
会って、謝らなければならない。
そして、感謝を伝えなければならない。
それから———。
もっと、伝えたいことがある。ずっと前から、伝えたかったことがある。
(俺は…っ。)
小さな窓と、同じだった。
そこから見える狭い世界をすべてだとは思っていない。だから、見える世界から、見えない部分を想像した。
そして、それは、想像に過ぎないと分かっているはずなのに、まるで真実であるかのように錯覚して、理解した気になっていた。
ちゃんと窓際に立って、景色を見れば事実を知ることが出来るのに、しなかった。
窓を大きくする度量もない。
ただ小さな窓を眺めながら、狭い世界に飽き飽きして、見えない部分にイライラしていた。
でも、もうそんなことは止める。
本当にしなければならなかったのは、窓際に立つことでも、窓を大きくすることでもなく、勇気を出して踏み出すことだ。
窓の外では、綺麗な月と星が輝いているのだ。
暗闇の中で、夜風に吹かれて不気味に揺れる木々に包まれながらも、満月の明かりを浴びて美しく光る、彼女と同じように———。
「なまえ!!」
愛を呼ぶかのようなその力強い声が、医療棟の前にある庭に響き渡った。