◇第九十八話◇理想と現実と、君を想う妄想【後編】
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カチャ———。
扉が開いたのは、ジャンがデスクの上に広げられていたやりかけの書類を手に取った時だった。
それは、作戦提案書だった。開いた扉に気をとられて、あまりじっくりは見れなかったが、なまえが提案した巨人捕獲作戦について書かれているらしく、図を用いて説明書きが付け足されていた。
デスクの上には、書類の他に便箋や判子なんかも置いてあったから、この作戦を次回の壁外調査で実行できるように、憲兵団に手紙と共に送ろうとしていたのかもしれない。
そこまで、なんとなく理解したまま、それ以上を知ることをジャンは許されなかった。
「ダメ!!」
部屋に飛び込んできたなまえが、大きな声で拒絶を叫んで、ジャンの手から作戦提案書をひったくった。
なんなんだ———。
驚きのまま、呆気なく作戦提案書を奪われたジャンは、呆けてしまう。
ハッとした顔をしたなまえは、すぐに謝罪を口にした。
「ご、ごめんっ。ジャンがいるとは思わないから、ビックリしちゃってっ。
でも、休息中に仕事の書類なんか見て、わざわざ疲れちゃダメだよっ。」
なまえは、早口で言い訳を言い終えると、デスクの上に広がっている書類を乱雑に片付けだす。
そう、ただの言い訳だ。
作戦提案書をジャンに見せたくなかった理由が本当に、ただ身体の心配をしただけだなんて信じていない。
ほんの一瞬だったけれど、ジャンの手から書類をひったくったときに見たなまえの表情は、焦りと怒り、恐怖、沢山の感情が重なっていた。それくらいのことに気づけない程、この2年間、彼女の顔色を伺って過ごした日々は浅いものではない。
「俺がいなくても、仕事出来るんですね。」
無意識のうちに口から滑り落ちたのは、嫌味でしかないそんな科白だった。
久しぶりに会えたはずなのに、不思議とあまりそんな感覚はなかった。
昨日も、その前もずっといつも通りそばにいたみたいに思えるけれど、数週間前の2人に戻ったとは決して違う。
だから、今の嫌味には、いつものように、なまえへの親しみなんて欠片もこもっていない。
ただ、彼女に対する苛立ちが、言葉になっただけだ。
「え?あ、うん。私だってやればできるんだよ~。
朝は訓練も頑張ってるしね、しっかり働いてるってエルヴィン団長にも褒められたんだ~。」
集めた書類を、わざわざデスクにある鍵付きの引き出しの中に仕舞いながら、なまえがヘラヘラと笑う。
それもまた、ジャンを苛立たせて、腹立たしくさせる。
久しぶりに会ったのだ。部屋に戻ってきたら、医療棟のベッドで寝ているはずの補佐官がいたのだ。それに、偽物だとしても、仮にもジャンは婚約者で、お互いにそれなりの態度をとってきていた。
もう少し、感傷的な再会があってもよかったはずだ。
会いたかった、と言って涙ぐみ、抱き着いてほしかったなんて我儘は言わない。期待はしていたかもしれないけれど、そうじゃなかったからといって、なまえを責める気もない。
でも、それならせめて、体調を気遣うくらいはしてもいいんじゃないだろうかと思うのだ。
もし、何かが一つでも違っていたら、今のこんな再会だってなまえらしいと受け入れられたのかもしれない。
でも、実際はそうではなかった。
なまえに落胆して、彼女に期待をした自分に失望した。
「へぇ。そりゃよかったですね。」
「えへへ。私だって、やればできるんだよ!」
嫌味に気づきもしないで、なまえが自慢げに言う。
鼻高々なその表情が、鼻につく。イラつく。
まるで、お前なんて最初から要らなかった———そう言われているみたいで、腹が立つ。
いや、違う。ショックだったのだ。
だから、まるでジャンを必要としていないかのようななまえの全てが、気に入らなかった。
「身体は大丈夫なの?リハビリが始まったばかりだって聞いたよ。
まだ病室にいた方がいいよ。せっかく良くなってきてるのに、悪くなったら大変。」
いつもならば反発したくなる、大人が子供の心配をするような口ぶりは気にならない。
ただ、とってつけたような心配だと思った。
この部屋から出て行ってほしいなまえからの拒絶に感じたのだ。
実際、なまえが本当に拒絶をしているのかどうかなんて、ジャンには分からない。なまえは、死んでいった大勢の仲間達の名前と顔が一致するどころか、彼らがどんな風に笑い、どんな風に泣いたのかまで覚えているような優しく、人としての温かさを持っている女性だ。
今だって、ジャンの身体を純粋に心配をしてくれていたのかもしれない。
でも、耳を塞ぎたい噂やそれに振り回される情けない自分の感情、その他にもありとあらゆるものが駆け巡り続けているジャンの心には、今のなまえの気持ちを察してやる余裕なんてなかったのだ。
だが、そんなこと知りもしないなまえは、久しぶりに見たその顔に心配そうな表情を浮かべながら、細く華奢な手をジャンに伸ばした。
「ほら、私が送って行ってあげるから医療棟に———。」
ほんの一瞬、忘れかけていたほどずっと触れていなかったなまえの体温を感じたような気がした。そのときにはもう、ジャンは彼女の手を乱暴に振り払っていた。
怒りで、どうにかなりそうだった。
久しぶりに会えたのに、彼女が平然としていることにも。久しぶりに会えたのに、もう医療棟へと帰そうとしていることにも。久しぶりに会えたのに———。
久しぶりに会えたのに、嬉しいのはきっと自分だけなのだろうということも、腹が立って、そして、ひどく寂しい。
会えない間に感じていた寂しさよりも、今、孤独を感じている。
そうして、気づかぬうちに、それはドロドロとした悪い何かをつくりあげ、ジャンの心を、支配し始めていた。
違う、こんな風に彼女を拒絶したいわけじゃない。
今この瞬間に彼女を突き放したこの手で、本当は彼女に触れたい。この腕で、本当は彼女を抱きしめたい。
違う————そう思っている頭とは裏腹に、怒りと悲しみで混乱する心が、ジャンの手をそれとはまったく逆に動かす。腕を逆に動かす。
口を、逆に動かしてしまう———。
「俺がここにいるのが、そんなに迷惑かよ。」
「えっ、ちが…っ、そんなんじゃ———。」
そういうわけではない———なまえはそう言おうとしたのだろう。
ジャンの態度が想定外だったらしいなまえは、驚いたような顔で言い訳を続けようとしていた。
でもそれを、ジャンの口が———、いや、心が許さない。
「違ぇって?じゃあ、なんですか。
酒飲んで遊んでんのに、怪我人の俺がいたら邪魔だから
早く医療棟に戻ってくれって?」
意表を突かれたような表情を浮かべたなまえを見て、余計なことを口走ったことに気が付く。
「酒臭いんですよ。気づいてねぇとでも思ったのかよ。」
正直、頭に血が昇っていて、酒臭いかどうかは判然としない。
でも、ジャンの適当な言い訳を、簡単に信じたなまえは、申し訳なさそうにしながらも、眉尻を下げて困ったような笑みを浮かべる。
「実はね、ナナバ達が誘ってくれて———。」
「人のせいかよ。それでよく、自分でなんでも出来るなんて自慢が出来るよな。」
「私はナナバ達のせいにしようとか思ったわけじゃ——。」
「そもそも部屋の片づけも、仕事も、自分でやるのは当然なんだよ。大人だろ。
ガキの俺に頼ってる方が頭がおかしいんだよ、気づけよ。」
違う、そんなことが言いたいんじゃない———。
頭の奥で、自分を説得しようとしている声がしていた。
でも、ジャンの心はそれに従おうとはしない。むしろ、なまえが、悲しそうに目を伏せればするほどに、加虐心が刺激されていく。
「ごめん…。そうだよね…。」
「やっと仕事をするようになったから、団長に褒められたって?
違ぇだろ。本当に嬉しいのは、リヴァイ兵長に褒められたってことだろ。」
「どうして今、リヴァイ兵長の話になるの?」
なまえが、僅かに眉を顰める。
どうしてわからないのか———腹が立つ。
また、余計なことを言いたくなってしまう。
「よかったですね。大好きなリヴァイ兵長に褒めてもらうために
頑張ってたんでしょ。」
「違うよ、私はただ——。」
「そりゃ俺がいねぇ方がいいよな。
せっかく部屋も片付けて、リヴァイ兵長を部屋に呼んで好きなこと出来んのに、
偽物でも婚約者なんて男がいたら邪魔だもんな。」
「違う!!」
なまえが、大きな声で否定をする。
まるで叫ぶようなそれに、驚いて、余計なことばかりを喋り続けていたジャンの口も、思わず止まる。
なまえは、怒っているとは、違っていた。でも、それに近いような感情を、珍しい大声に感じた。
だが、どんな時もヘラヘラと笑うなまえらしくないそれに驚いたのは、本人も同じだったらしい。
すぐにハッとしたような顔をして「大きな声を出して、ごめん。」と小さく謝る。
「俺なんかやめて、リヴァイ兵長に婚約者の役やってもらった方が良かったんじゃないですか?」
違う———また、頭の奥で声がする。
でも、ジャンの口は、すぐにまた調子を戻してしまっていた。
「…なんで、そんなこと言うの。」
なまえの声が低くなる。怒らせたらしい。
それはつまり、リヴァイ兵長が婚約者の役をするという提案は、彼女にとって良いものではなかったということだ。
正直、嬉しかった。安心もした。
すると、尚更に、彼女を傷つけたくなった。
矛盾しているのかもしれない。
でも、どうしても、止められなかったのだ。
「リヴァイ兵長なら、本物の婚約者にだってなってくれるかもしれないですよ。
なんなら、俺が頼んできてやりましょうか。」
違う、そんなこと死んでもしたくない———。
「それとも、寝てやってもいいかもしれないですね。リヴァイ兵長だって男だし、
そうすれば、婚約者になってくれってお願いも、きっと聞いてくれますよ。」
何を言ってるんだ、俺は————本当にそんなことになったら発狂するくせに、心が勝手に口を喋らせるのだ。
いや、それはもう、ジャンの心でもないのかもしれない。
ジャンの心の中で芽生え、時間をかけて肥大していった恐ろしい何かが、その心を飛び出して、身体や思考の全てを乗っ取っているのだ。
「俺になんか構ってないで、リヴァイ兵長の夜這いにでもいったらどうですか。
本当はずっと前からそうしたかったんでしょ。」
違う、そうじゃない———。
本当に言いたかった言葉はそうじゃない。
会いたかったことを伝えたかったのだ。昏睡状態の時だって、なまえのことを想っていた。
なまえの笑顔が見たい。だから、マルコからもらったお見舞いのお菓子を、馬鹿みたいに素直に持ってきている。今だって、右手に持ってる。
伝えたいのは、こんな最低なことではない。
想いを伝えて、叶うのならば、気持ちを重ね合いたい。
違うのだ。仲違いすることなんて、欠片も望んでいない。
「俺だって、部屋の片づけが出来たくらいで自慢するような
手のかかる上司なんかいらねぇし。」
違う。そんなこと思ってない———。
「同期の女と話してるくらいで嫉妬する面倒くせぇ女の為に
偽物の婚約者なんてやってられないんですよ。」
違うのだ。もうやめてくれ———。
「そもそも、自分のせいで死にかけたヤツの見舞いにも来ねぇって
人としてどうなんだよ。薄情どころじゃねぇだろ。頭おかしいんじゃねぇの。」
違う!刺されたのは、なまえのせいじゃない!
頼むから、いい加減、黙れよ———!
「本当に、ごめんなさい。」
言われ放題なのに、なまえが反論することはなかった。
ただ申し訳なさそうに、頭を下げて謝るのだ。
だから、余計に、ジャンは自分が惨めになったような気がした。
小さい人間に思えて、悔しくて、やっぱりそれはなまえのせいだと思って、腹が立った。
全てを、心の中に芽生えた悪い何かのせいにして、それを鎮めることが出来なかった自分を正当化しようとしているのだから、きっと、本当に小さな人間なのだろう。
「ジャンには、今までも沢山迷惑をかけたし、
その上、私のせいで大怪我まで負わせてしまって、本当に申し訳なく思ってる。
それは償うつもりだよ。でも、聞いて…っ、私はジャンを———。」
なまえは、何かを必死に伝えようとしていた。
だから、ジャンに手を伸ばしたのだ。
ずっと目を逸らして喋り続けていたジャンに、自分の方を見て欲しかったのだろう。
でも、腕に触れたその手は、また乱暴に振りほどかれる。
そして——。
「近寄るな、ヒトゴロシ。」
氷のように冷たい声が、ジャンの耳に届いたその瞬間に、漸く心もハッとして、動きを止めた。
驚いたのだ。
だって、なんて酷いセリフだろうか。なんて、最低な言葉だろうか。
一体誰が、なまえを傷つけるためだけに存在するような暴言を吐いたのか——。
でも、冷徹なその声は、どう考えても、子供の頃から耳に馴染んだ自分の声にどこか似ていた。
まさか、信じたくはないけれど———。
振り払われた手を強く握りしめるなまえが、大きな目を痛々しいほどに大きく見開いている。
その瞳には涙が滲み、あともう一度、瞬きをすれば零れて落ちてしまいそうだ。
(あぁ…俺が…。)
信じたくはなかった。
でも、傷つき、涙を流すなまえを前に認めるしかなくなってしまう。
言い過ぎた———ほんの一瞬、そう思ったけれど、それは大きな間違いだ。
それは、〝言い過ぎ〟とは違う。ジャンは、決して、言ってはいけない言葉を口にしてしまったのだ。
そうして、なまえを、傷つけた。しかも、予期していない形で、考えうる限りの最悪な方法で、だ。
こうなるかもしれないことは、なんとなく分かっていた気がする。それが、ジャンにとって、一番ショックなことだった。
人殺しという言葉が本心ではなかったにしろ、頭に血がのぼったその瞬間に吐き出してしまうということは、常に頭の片隅に、なまえはそうなのかもしれないという思いがあったせいだ。
結局、ジャンは、愛する人を心から信じることが出来なかった。
誰よりも、彼女を分かっているのだと信じていた頃が、滑稽に思えるほどに、今、自分が惨めで、可哀想だった。
「…っ、泣くなよ!!俺はっ、アンタのせいで死にかけたんだ!人殺しって言って何が悪ィんだよ!
俺だけが悪者みたいな顔するんじゃねぇよ…!
いつも自分だけは汚れてねぇみたいな態度のアンタが…っ、俺は…!!」
ダメだ、その先は言ってはいけないーーーー頭の奥で、焦った誰かが叫ぶ。
本心とは真逆のことを言ってしまうことは、珍しいことではない。
でも、それはいつだって、悪い方へと向かうもので、後悔することになると決まっている。
その相手が、大切であれば大切であるほど、口に出す前に深呼吸でもして、考え直すべきだ。
でも、自分の弱さから逃げるのに必死なジャンには、それが出来なかった。
「死ぬほど嫌いなんだよ!!」
あぁ、言ってしまった———不思議と、残ったのは、罪悪感ではなくて脱力感だった。
自分でも、世界一ダサイ捨て台詞だと思った。
でも、ジャンは、最後の最後まで素直にはなれないまま、なまえに背を向ける。
ひどいことを言ってしまったからこそ、素直になれなかった。
謝るべきだと分かっているのに、自分がどれほどひどいことを言ったか分かっているからこそ、簡単には謝れなかった。
扉を閉めようとしたとき、やけに片付いた部屋の真ん中で、心細そうにポツンと立っている小さな背中が見えた。
その顔を覗き込んだら、一体どんな表情をしているのだろう。
ほんの一瞬そう思った心に気づかないフリをして、少し乱暴に扉を閉める。
バタン———大きめに響いた音よりも、シュークリームの入った紙袋を握りしめた時に出たクシャリという音の方が大きく聞こえたのはなぜだったのか。
ただ、分かることはただひとつ。
ジャンは、今夜を、こんな風に終わらせたくないと思っている。
自分で閉じた扉をじっと眺めていたのは、この扉をなまえから開いてほしいからだ。
拒絶された彼女の方から、歩み寄って欲しい———そんな身勝手な願いが叶うはずもなく、しばらく待っても、冷たい空気にジャンの身体が冷えるばかりで、扉の向こうはまるで無人であるかのように、小さな物音すら聞こえなかった。
それでもまだ、これが、自分達の別れの音にならないことを、無条件に信じていた気がする。
扉が開いたのは、ジャンがデスクの上に広げられていたやりかけの書類を手に取った時だった。
それは、作戦提案書だった。開いた扉に気をとられて、あまりじっくりは見れなかったが、なまえが提案した巨人捕獲作戦について書かれているらしく、図を用いて説明書きが付け足されていた。
デスクの上には、書類の他に便箋や判子なんかも置いてあったから、この作戦を次回の壁外調査で実行できるように、憲兵団に手紙と共に送ろうとしていたのかもしれない。
そこまで、なんとなく理解したまま、それ以上を知ることをジャンは許されなかった。
「ダメ!!」
部屋に飛び込んできたなまえが、大きな声で拒絶を叫んで、ジャンの手から作戦提案書をひったくった。
なんなんだ———。
驚きのまま、呆気なく作戦提案書を奪われたジャンは、呆けてしまう。
ハッとした顔をしたなまえは、すぐに謝罪を口にした。
「ご、ごめんっ。ジャンがいるとは思わないから、ビックリしちゃってっ。
でも、休息中に仕事の書類なんか見て、わざわざ疲れちゃダメだよっ。」
なまえは、早口で言い訳を言い終えると、デスクの上に広がっている書類を乱雑に片付けだす。
そう、ただの言い訳だ。
作戦提案書をジャンに見せたくなかった理由が本当に、ただ身体の心配をしただけだなんて信じていない。
ほんの一瞬だったけれど、ジャンの手から書類をひったくったときに見たなまえの表情は、焦りと怒り、恐怖、沢山の感情が重なっていた。それくらいのことに気づけない程、この2年間、彼女の顔色を伺って過ごした日々は浅いものではない。
「俺がいなくても、仕事出来るんですね。」
無意識のうちに口から滑り落ちたのは、嫌味でしかないそんな科白だった。
久しぶりに会えたはずなのに、不思議とあまりそんな感覚はなかった。
昨日も、その前もずっといつも通りそばにいたみたいに思えるけれど、数週間前の2人に戻ったとは決して違う。
だから、今の嫌味には、いつものように、なまえへの親しみなんて欠片もこもっていない。
ただ、彼女に対する苛立ちが、言葉になっただけだ。
「え?あ、うん。私だってやればできるんだよ~。
朝は訓練も頑張ってるしね、しっかり働いてるってエルヴィン団長にも褒められたんだ~。」
集めた書類を、わざわざデスクにある鍵付きの引き出しの中に仕舞いながら、なまえがヘラヘラと笑う。
それもまた、ジャンを苛立たせて、腹立たしくさせる。
久しぶりに会ったのだ。部屋に戻ってきたら、医療棟のベッドで寝ているはずの補佐官がいたのだ。それに、偽物だとしても、仮にもジャンは婚約者で、お互いにそれなりの態度をとってきていた。
もう少し、感傷的な再会があってもよかったはずだ。
会いたかった、と言って涙ぐみ、抱き着いてほしかったなんて我儘は言わない。期待はしていたかもしれないけれど、そうじゃなかったからといって、なまえを責める気もない。
でも、それならせめて、体調を気遣うくらいはしてもいいんじゃないだろうかと思うのだ。
もし、何かが一つでも違っていたら、今のこんな再会だってなまえらしいと受け入れられたのかもしれない。
でも、実際はそうではなかった。
なまえに落胆して、彼女に期待をした自分に失望した。
「へぇ。そりゃよかったですね。」
「えへへ。私だって、やればできるんだよ!」
嫌味に気づきもしないで、なまえが自慢げに言う。
鼻高々なその表情が、鼻につく。イラつく。
まるで、お前なんて最初から要らなかった———そう言われているみたいで、腹が立つ。
いや、違う。ショックだったのだ。
だから、まるでジャンを必要としていないかのようななまえの全てが、気に入らなかった。
「身体は大丈夫なの?リハビリが始まったばかりだって聞いたよ。
まだ病室にいた方がいいよ。せっかく良くなってきてるのに、悪くなったら大変。」
いつもならば反発したくなる、大人が子供の心配をするような口ぶりは気にならない。
ただ、とってつけたような心配だと思った。
この部屋から出て行ってほしいなまえからの拒絶に感じたのだ。
実際、なまえが本当に拒絶をしているのかどうかなんて、ジャンには分からない。なまえは、死んでいった大勢の仲間達の名前と顔が一致するどころか、彼らがどんな風に笑い、どんな風に泣いたのかまで覚えているような優しく、人としての温かさを持っている女性だ。
今だって、ジャンの身体を純粋に心配をしてくれていたのかもしれない。
でも、耳を塞ぎたい噂やそれに振り回される情けない自分の感情、その他にもありとあらゆるものが駆け巡り続けているジャンの心には、今のなまえの気持ちを察してやる余裕なんてなかったのだ。
だが、そんなこと知りもしないなまえは、久しぶりに見たその顔に心配そうな表情を浮かべながら、細く華奢な手をジャンに伸ばした。
「ほら、私が送って行ってあげるから医療棟に———。」
ほんの一瞬、忘れかけていたほどずっと触れていなかったなまえの体温を感じたような気がした。そのときにはもう、ジャンは彼女の手を乱暴に振り払っていた。
怒りで、どうにかなりそうだった。
久しぶりに会えたのに、彼女が平然としていることにも。久しぶりに会えたのに、もう医療棟へと帰そうとしていることにも。久しぶりに会えたのに———。
久しぶりに会えたのに、嬉しいのはきっと自分だけなのだろうということも、腹が立って、そして、ひどく寂しい。
会えない間に感じていた寂しさよりも、今、孤独を感じている。
そうして、気づかぬうちに、それはドロドロとした悪い何かをつくりあげ、ジャンの心を、支配し始めていた。
違う、こんな風に彼女を拒絶したいわけじゃない。
今この瞬間に彼女を突き放したこの手で、本当は彼女に触れたい。この腕で、本当は彼女を抱きしめたい。
違う————そう思っている頭とは裏腹に、怒りと悲しみで混乱する心が、ジャンの手をそれとはまったく逆に動かす。腕を逆に動かす。
口を、逆に動かしてしまう———。
「俺がここにいるのが、そんなに迷惑かよ。」
「えっ、ちが…っ、そんなんじゃ———。」
そういうわけではない———なまえはそう言おうとしたのだろう。
ジャンの態度が想定外だったらしいなまえは、驚いたような顔で言い訳を続けようとしていた。
でもそれを、ジャンの口が———、いや、心が許さない。
「違ぇって?じゃあ、なんですか。
酒飲んで遊んでんのに、怪我人の俺がいたら邪魔だから
早く医療棟に戻ってくれって?」
意表を突かれたような表情を浮かべたなまえを見て、余計なことを口走ったことに気が付く。
「酒臭いんですよ。気づいてねぇとでも思ったのかよ。」
正直、頭に血が昇っていて、酒臭いかどうかは判然としない。
でも、ジャンの適当な言い訳を、簡単に信じたなまえは、申し訳なさそうにしながらも、眉尻を下げて困ったような笑みを浮かべる。
「実はね、ナナバ達が誘ってくれて———。」
「人のせいかよ。それでよく、自分でなんでも出来るなんて自慢が出来るよな。」
「私はナナバ達のせいにしようとか思ったわけじゃ——。」
「そもそも部屋の片づけも、仕事も、自分でやるのは当然なんだよ。大人だろ。
ガキの俺に頼ってる方が頭がおかしいんだよ、気づけよ。」
違う、そんなことが言いたいんじゃない———。
頭の奥で、自分を説得しようとしている声がしていた。
でも、ジャンの心はそれに従おうとはしない。むしろ、なまえが、悲しそうに目を伏せればするほどに、加虐心が刺激されていく。
「ごめん…。そうだよね…。」
「やっと仕事をするようになったから、団長に褒められたって?
違ぇだろ。本当に嬉しいのは、リヴァイ兵長に褒められたってことだろ。」
「どうして今、リヴァイ兵長の話になるの?」
なまえが、僅かに眉を顰める。
どうしてわからないのか———腹が立つ。
また、余計なことを言いたくなってしまう。
「よかったですね。大好きなリヴァイ兵長に褒めてもらうために
頑張ってたんでしょ。」
「違うよ、私はただ——。」
「そりゃ俺がいねぇ方がいいよな。
せっかく部屋も片付けて、リヴァイ兵長を部屋に呼んで好きなこと出来んのに、
偽物でも婚約者なんて男がいたら邪魔だもんな。」
「違う!!」
なまえが、大きな声で否定をする。
まるで叫ぶようなそれに、驚いて、余計なことばかりを喋り続けていたジャンの口も、思わず止まる。
なまえは、怒っているとは、違っていた。でも、それに近いような感情を、珍しい大声に感じた。
だが、どんな時もヘラヘラと笑うなまえらしくないそれに驚いたのは、本人も同じだったらしい。
すぐにハッとしたような顔をして「大きな声を出して、ごめん。」と小さく謝る。
「俺なんかやめて、リヴァイ兵長に婚約者の役やってもらった方が良かったんじゃないですか?」
違う———また、頭の奥で声がする。
でも、ジャンの口は、すぐにまた調子を戻してしまっていた。
「…なんで、そんなこと言うの。」
なまえの声が低くなる。怒らせたらしい。
それはつまり、リヴァイ兵長が婚約者の役をするという提案は、彼女にとって良いものではなかったということだ。
正直、嬉しかった。安心もした。
すると、尚更に、彼女を傷つけたくなった。
矛盾しているのかもしれない。
でも、どうしても、止められなかったのだ。
「リヴァイ兵長なら、本物の婚約者にだってなってくれるかもしれないですよ。
なんなら、俺が頼んできてやりましょうか。」
違う、そんなこと死んでもしたくない———。
「それとも、寝てやってもいいかもしれないですね。リヴァイ兵長だって男だし、
そうすれば、婚約者になってくれってお願いも、きっと聞いてくれますよ。」
何を言ってるんだ、俺は————本当にそんなことになったら発狂するくせに、心が勝手に口を喋らせるのだ。
いや、それはもう、ジャンの心でもないのかもしれない。
ジャンの心の中で芽生え、時間をかけて肥大していった恐ろしい何かが、その心を飛び出して、身体や思考の全てを乗っ取っているのだ。
「俺になんか構ってないで、リヴァイ兵長の夜這いにでもいったらどうですか。
本当はずっと前からそうしたかったんでしょ。」
違う、そうじゃない———。
本当に言いたかった言葉はそうじゃない。
会いたかったことを伝えたかったのだ。昏睡状態の時だって、なまえのことを想っていた。
なまえの笑顔が見たい。だから、マルコからもらったお見舞いのお菓子を、馬鹿みたいに素直に持ってきている。今だって、右手に持ってる。
伝えたいのは、こんな最低なことではない。
想いを伝えて、叶うのならば、気持ちを重ね合いたい。
違うのだ。仲違いすることなんて、欠片も望んでいない。
「俺だって、部屋の片づけが出来たくらいで自慢するような
手のかかる上司なんかいらねぇし。」
違う。そんなこと思ってない———。
「同期の女と話してるくらいで嫉妬する面倒くせぇ女の為に
偽物の婚約者なんてやってられないんですよ。」
違うのだ。もうやめてくれ———。
「そもそも、自分のせいで死にかけたヤツの見舞いにも来ねぇって
人としてどうなんだよ。薄情どころじゃねぇだろ。頭おかしいんじゃねぇの。」
違う!刺されたのは、なまえのせいじゃない!
頼むから、いい加減、黙れよ———!
「本当に、ごめんなさい。」
言われ放題なのに、なまえが反論することはなかった。
ただ申し訳なさそうに、頭を下げて謝るのだ。
だから、余計に、ジャンは自分が惨めになったような気がした。
小さい人間に思えて、悔しくて、やっぱりそれはなまえのせいだと思って、腹が立った。
全てを、心の中に芽生えた悪い何かのせいにして、それを鎮めることが出来なかった自分を正当化しようとしているのだから、きっと、本当に小さな人間なのだろう。
「ジャンには、今までも沢山迷惑をかけたし、
その上、私のせいで大怪我まで負わせてしまって、本当に申し訳なく思ってる。
それは償うつもりだよ。でも、聞いて…っ、私はジャンを———。」
なまえは、何かを必死に伝えようとしていた。
だから、ジャンに手を伸ばしたのだ。
ずっと目を逸らして喋り続けていたジャンに、自分の方を見て欲しかったのだろう。
でも、腕に触れたその手は、また乱暴に振りほどかれる。
そして——。
「近寄るな、ヒトゴロシ。」
氷のように冷たい声が、ジャンの耳に届いたその瞬間に、漸く心もハッとして、動きを止めた。
驚いたのだ。
だって、なんて酷いセリフだろうか。なんて、最低な言葉だろうか。
一体誰が、なまえを傷つけるためだけに存在するような暴言を吐いたのか——。
でも、冷徹なその声は、どう考えても、子供の頃から耳に馴染んだ自分の声にどこか似ていた。
まさか、信じたくはないけれど———。
振り払われた手を強く握りしめるなまえが、大きな目を痛々しいほどに大きく見開いている。
その瞳には涙が滲み、あともう一度、瞬きをすれば零れて落ちてしまいそうだ。
(あぁ…俺が…。)
信じたくはなかった。
でも、傷つき、涙を流すなまえを前に認めるしかなくなってしまう。
言い過ぎた———ほんの一瞬、そう思ったけれど、それは大きな間違いだ。
それは、〝言い過ぎ〟とは違う。ジャンは、決して、言ってはいけない言葉を口にしてしまったのだ。
そうして、なまえを、傷つけた。しかも、予期していない形で、考えうる限りの最悪な方法で、だ。
こうなるかもしれないことは、なんとなく分かっていた気がする。それが、ジャンにとって、一番ショックなことだった。
人殺しという言葉が本心ではなかったにしろ、頭に血がのぼったその瞬間に吐き出してしまうということは、常に頭の片隅に、なまえはそうなのかもしれないという思いがあったせいだ。
結局、ジャンは、愛する人を心から信じることが出来なかった。
誰よりも、彼女を分かっているのだと信じていた頃が、滑稽に思えるほどに、今、自分が惨めで、可哀想だった。
「…っ、泣くなよ!!俺はっ、アンタのせいで死にかけたんだ!人殺しって言って何が悪ィんだよ!
俺だけが悪者みたいな顔するんじゃねぇよ…!
いつも自分だけは汚れてねぇみたいな態度のアンタが…っ、俺は…!!」
ダメだ、その先は言ってはいけないーーーー頭の奥で、焦った誰かが叫ぶ。
本心とは真逆のことを言ってしまうことは、珍しいことではない。
でも、それはいつだって、悪い方へと向かうもので、後悔することになると決まっている。
その相手が、大切であれば大切であるほど、口に出す前に深呼吸でもして、考え直すべきだ。
でも、自分の弱さから逃げるのに必死なジャンには、それが出来なかった。
「死ぬほど嫌いなんだよ!!」
あぁ、言ってしまった———不思議と、残ったのは、罪悪感ではなくて脱力感だった。
自分でも、世界一ダサイ捨て台詞だと思った。
でも、ジャンは、最後の最後まで素直にはなれないまま、なまえに背を向ける。
ひどいことを言ってしまったからこそ、素直になれなかった。
謝るべきだと分かっているのに、自分がどれほどひどいことを言ったか分かっているからこそ、簡単には謝れなかった。
扉を閉めようとしたとき、やけに片付いた部屋の真ん中で、心細そうにポツンと立っている小さな背中が見えた。
その顔を覗き込んだら、一体どんな表情をしているのだろう。
ほんの一瞬そう思った心に気づかないフリをして、少し乱暴に扉を閉める。
バタン———大きめに響いた音よりも、シュークリームの入った紙袋を握りしめた時に出たクシャリという音の方が大きく聞こえたのはなぜだったのか。
ただ、分かることはただひとつ。
ジャンは、今夜を、こんな風に終わらせたくないと思っている。
自分で閉じた扉をじっと眺めていたのは、この扉をなまえから開いてほしいからだ。
拒絶された彼女の方から、歩み寄って欲しい———そんな身勝手な願いが叶うはずもなく、しばらく待っても、冷たい空気にジャンの身体が冷えるばかりで、扉の向こうはまるで無人であるかのように、小さな物音すら聞こえなかった。
それでもまだ、これが、自分達の別れの音にならないことを、無条件に信じていた気がする。