◇第八十三話◇責任の所在を探し続ける【中編】
Name change
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
静かな夜になるはずだった。
妻は、寒がりの息子の為にマフラーを編み、夫は、読みなれない医学書のページをひたすらにめくり続ける。
居間のテーブルの上に2客並んだティーカップから広がる優しい香りには、魔法がかかっていた。
それは、テーブルを挟み向かい合って座る彼らの胸を不安と愛でいっぱいにして、締め付けようとするのだ。
きっと、調査兵になった息子から差し入れられた紅茶の葉で淹れたせいだ。
彼らの愛息子、ジャン・キルシュタインは今、生と死の狭間で眠り続けている。
事件があった日、調査兵からの驚きの報告に悲鳴を上げそうになりながらも、必死に駆け付けた病院で、彼らは医師の説明を聞いた。
だから、眠り続ける息子は、薬による昏睡状態であり、それは、彼を痛みや苦しみから守るためのものだと分かっているのだ。
それでも、自らの命よりも大切な彼の身体が今、必死に生きようと戦っているのだと思うと、代わってやりたいと思ってしまう。
それが出来ないのなら、せめて、何か自分に出来ることはないのか———そればかりをずっと考えている。
———調査兵団への入団なんて、認めるべきじゃなかった。
夫は、あの日からずっとそう思っている。
———世間に冷たい目を向けられても関係ない。そんなことの為に大切な息子に兵士なんて、目指させなきゃよかった。
妻は、あの日からずっとそう思っている。
そして彼らは、後悔をして、自分を責めるのだ。
でも、それだけではあまりにも悲しすぎるから、何度も考え直すのだ。
何度も、何度も———。
「せっかく、美人で可愛らしいお嫁さんに出逢えたのに
あの子ったら、いつまで寝てるつもりなのかしらね。」
妻は、呆れたように言って、口元で笑ってみた。
その震える声に助けを求められた気がして、夫は、必死に読み耽っていた医学書から顔を上げる。
出逢った頃よりもだいぶふくよかになったはずの妻は、この一週間で見違えるほどにやつれてしまった。
息子が生まれた頃は初々しいママだった彼女も、今ではすっかり見た目も中身も肝っ玉母ちゃんになっていたのだ。
それがもう、見る影もない。
仕事の為、身体の為、家族の為、と彼女は毎日三食作ってくれる。でも、彼女は殆どろくに口にしないのだから、当然だ。
顔色も悪く、頬もげっそりとしているから、夫としては、すぐそばに経験豊富な医療兵がついている息子よりも、妻の方が心配なほどだ。
「明日、これ以上寝てると美人の婚約者に振られちまうと、叩き起こしに行くか。
いい女ってのは待ってくれないことを、私は君のおかげでよく知ってるからね。」
夫がおどけて言うと、妻はほんの一瞬だけ目を大きく開いた後に、可笑しそうに吹き出した。
少しだけれど、明るくて無邪気な彼女が戻ってきたような気がして、夫は嬉しくなる。
そう。人生において、大切なことは、お金や地位、名誉ではない。
もちろん、長生きをすることも大切で、健康であることは誰もが望むことだ。
でも、それよりも大切なのは、愛する人に出逢うことだと思うのだ。
信頼できる友人や仲間がいて、未来の幸せも苦悩も共に歩んでいきたいと思える程に愛する人に出逢えたら、それは何よりも素晴らしい人生だと呼べるのではないだろうか。
だって、自分達がまさしくそうなのだ。
心から愛する人に出逢い、未来を誓い合ったことで、自らの命よりも大切だと思えるほどに愛おしい息子にまで恵まれた。
そうして、彼らは、かけがえのない家族になったのだ。
今度はその息子が、愛する人と家族をつくれば、それはまた彼らにとってもかけがえのない家族が増えるということだ。
あぁ、それはなんて、素敵なことだろうか。
だからきっと、あぁ、絶対に———。
「私、あの子が調査兵だってことを、
時々認めたくないことがあったの。」
静かに、妻が口を開く。
彼女の言葉を一言一句聞き逃さないと決めた夫は、手に持っていた医学書をテーブルにそっと置いた。
「あぁ、分かるよ。私もさ。」
「でも、あの子からなまえさんを紹介された時、
あの子が抱えていた苦しみがやっと報われたんだと思ったの。」
「そうだね。それも同じだ。」
「ジャンは、調査兵になってよかったのよね。仲間にも恵まれて、
愛する人にまで出逢えたんだもの。」
「あぁ、そうだよ。その通りだ。彼は幸せだった。
今だってね。愛する人がそばで守ってくれる彼は、幸せさ。」
「そうよね。あの子は、なまえさんと一緒に幸せになるのよね。」
「もちろんさ。今回の事件だって、犯人のなまえさんへの逆恨みが原因だと、エルヴィン団長からも聞いてるじゃないか。
ジャンはもちろん、なまえさんだって悪くはない。
不幸な事件だったけれど、息子も生きている。彼らはこれから、幸せになるだけだ。」
夫が力強く語れば、妻は小さく目を伏せてから頷いた。
本当は、彼らは不安なのだ。
息子の命、選択や将来が、どうか間違った方向へと進みませんように———願いながら、彼らが優しい香りを広げるティーカップに手を伸ばしたときだった。
カランカラン、と玄関の呼び鈴が鳴り出した。
もう夜も遅いこんな時間に家に訊ねに来る知人はいない。
思わず、ドキリとして、夫妻の目が合ったのは、昏睡状態の息子に関する悪い報告が頭をよぎったせいだ。
「こんな時間に誰かしらね。新聞の勧誘だったら、追い返してやるわ。」
わざと怒った風で言って、妻が立ち上がった。
「私も行くよ。残念ながら、君のパンチには負けるけどね。」
わざとおどけた風で言って、夫も立ち上がる。
夫妻は、終始引きずった笑顔で、軽いジョークを言い合うフリをして緊張を隠しながら、玄関へ向かった。
夫の手が、玄関のドアノブへ伸びる。
彼が、ついに、鍵を開けた瞬間だった。
強い突風が吹いたのだ。
それは、まるで、大きな魔物が引っ張っているかのような力で、勢いよく扉を開く。
扉の向こうにいたのは、涙を流す美しい若い女だった。
さっきまでは静かだったはずの風が、いつの間にか強く吹き荒れ、横殴りの雨が、彼女の身体に叩きつけている。
調査兵団の兵団服は、水を存分に吸い込み、黒に近い色にまで滲み、調査兵団のマークからは、まるで涙のように雨が滴っている。
びしょ濡れの姿を見て、目を丸くする夫妻と目が合うと、彼女はより一層、悲しそうに涙を流した。
ただ、その口元が一瞬だけ、ニヤリと歪んだことには気づけなかった。
夫妻は、慌てて彼女を家に招き入れる。
静かな夜になるはずだった。
でもそれは、彼女が、嵐を引き連れてこの家にやってくるまでの話————。
妻は、寒がりの息子の為にマフラーを編み、夫は、読みなれない医学書のページをひたすらにめくり続ける。
居間のテーブルの上に2客並んだティーカップから広がる優しい香りには、魔法がかかっていた。
それは、テーブルを挟み向かい合って座る彼らの胸を不安と愛でいっぱいにして、締め付けようとするのだ。
きっと、調査兵になった息子から差し入れられた紅茶の葉で淹れたせいだ。
彼らの愛息子、ジャン・キルシュタインは今、生と死の狭間で眠り続けている。
事件があった日、調査兵からの驚きの報告に悲鳴を上げそうになりながらも、必死に駆け付けた病院で、彼らは医師の説明を聞いた。
だから、眠り続ける息子は、薬による昏睡状態であり、それは、彼を痛みや苦しみから守るためのものだと分かっているのだ。
それでも、自らの命よりも大切な彼の身体が今、必死に生きようと戦っているのだと思うと、代わってやりたいと思ってしまう。
それが出来ないのなら、せめて、何か自分に出来ることはないのか———そればかりをずっと考えている。
———調査兵団への入団なんて、認めるべきじゃなかった。
夫は、あの日からずっとそう思っている。
———世間に冷たい目を向けられても関係ない。そんなことの為に大切な息子に兵士なんて、目指させなきゃよかった。
妻は、あの日からずっとそう思っている。
そして彼らは、後悔をして、自分を責めるのだ。
でも、それだけではあまりにも悲しすぎるから、何度も考え直すのだ。
何度も、何度も———。
「せっかく、美人で可愛らしいお嫁さんに出逢えたのに
あの子ったら、いつまで寝てるつもりなのかしらね。」
妻は、呆れたように言って、口元で笑ってみた。
その震える声に助けを求められた気がして、夫は、必死に読み耽っていた医学書から顔を上げる。
出逢った頃よりもだいぶふくよかになったはずの妻は、この一週間で見違えるほどにやつれてしまった。
息子が生まれた頃は初々しいママだった彼女も、今ではすっかり見た目も中身も肝っ玉母ちゃんになっていたのだ。
それがもう、見る影もない。
仕事の為、身体の為、家族の為、と彼女は毎日三食作ってくれる。でも、彼女は殆どろくに口にしないのだから、当然だ。
顔色も悪く、頬もげっそりとしているから、夫としては、すぐそばに経験豊富な医療兵がついている息子よりも、妻の方が心配なほどだ。
「明日、これ以上寝てると美人の婚約者に振られちまうと、叩き起こしに行くか。
いい女ってのは待ってくれないことを、私は君のおかげでよく知ってるからね。」
夫がおどけて言うと、妻はほんの一瞬だけ目を大きく開いた後に、可笑しそうに吹き出した。
少しだけれど、明るくて無邪気な彼女が戻ってきたような気がして、夫は嬉しくなる。
そう。人生において、大切なことは、お金や地位、名誉ではない。
もちろん、長生きをすることも大切で、健康であることは誰もが望むことだ。
でも、それよりも大切なのは、愛する人に出逢うことだと思うのだ。
信頼できる友人や仲間がいて、未来の幸せも苦悩も共に歩んでいきたいと思える程に愛する人に出逢えたら、それは何よりも素晴らしい人生だと呼べるのではないだろうか。
だって、自分達がまさしくそうなのだ。
心から愛する人に出逢い、未来を誓い合ったことで、自らの命よりも大切だと思えるほどに愛おしい息子にまで恵まれた。
そうして、彼らは、かけがえのない家族になったのだ。
今度はその息子が、愛する人と家族をつくれば、それはまた彼らにとってもかけがえのない家族が増えるということだ。
あぁ、それはなんて、素敵なことだろうか。
だからきっと、あぁ、絶対に———。
「私、あの子が調査兵だってことを、
時々認めたくないことがあったの。」
静かに、妻が口を開く。
彼女の言葉を一言一句聞き逃さないと決めた夫は、手に持っていた医学書をテーブルにそっと置いた。
「あぁ、分かるよ。私もさ。」
「でも、あの子からなまえさんを紹介された時、
あの子が抱えていた苦しみがやっと報われたんだと思ったの。」
「そうだね。それも同じだ。」
「ジャンは、調査兵になってよかったのよね。仲間にも恵まれて、
愛する人にまで出逢えたんだもの。」
「あぁ、そうだよ。その通りだ。彼は幸せだった。
今だってね。愛する人がそばで守ってくれる彼は、幸せさ。」
「そうよね。あの子は、なまえさんと一緒に幸せになるのよね。」
「もちろんさ。今回の事件だって、犯人のなまえさんへの逆恨みが原因だと、エルヴィン団長からも聞いてるじゃないか。
ジャンはもちろん、なまえさんだって悪くはない。
不幸な事件だったけれど、息子も生きている。彼らはこれから、幸せになるだけだ。」
夫が力強く語れば、妻は小さく目を伏せてから頷いた。
本当は、彼らは不安なのだ。
息子の命、選択や将来が、どうか間違った方向へと進みませんように———願いながら、彼らが優しい香りを広げるティーカップに手を伸ばしたときだった。
カランカラン、と玄関の呼び鈴が鳴り出した。
もう夜も遅いこんな時間に家に訊ねに来る知人はいない。
思わず、ドキリとして、夫妻の目が合ったのは、昏睡状態の息子に関する悪い報告が頭をよぎったせいだ。
「こんな時間に誰かしらね。新聞の勧誘だったら、追い返してやるわ。」
わざと怒った風で言って、妻が立ち上がった。
「私も行くよ。残念ながら、君のパンチには負けるけどね。」
わざとおどけた風で言って、夫も立ち上がる。
夫妻は、終始引きずった笑顔で、軽いジョークを言い合うフリをして緊張を隠しながら、玄関へ向かった。
夫の手が、玄関のドアノブへ伸びる。
彼が、ついに、鍵を開けた瞬間だった。
強い突風が吹いたのだ。
それは、まるで、大きな魔物が引っ張っているかのような力で、勢いよく扉を開く。
扉の向こうにいたのは、涙を流す美しい若い女だった。
さっきまでは静かだったはずの風が、いつの間にか強く吹き荒れ、横殴りの雨が、彼女の身体に叩きつけている。
調査兵団の兵団服は、水を存分に吸い込み、黒に近い色にまで滲み、調査兵団のマークからは、まるで涙のように雨が滴っている。
びしょ濡れの姿を見て、目を丸くする夫妻と目が合うと、彼女はより一層、悲しそうに涙を流した。
ただ、その口元が一瞬だけ、ニヤリと歪んだことには気づけなかった。
夫妻は、慌てて彼女を家に招き入れる。
静かな夜になるはずだった。
でもそれは、彼女が、嵐を引き連れてこの家にやってくるまでの話————。