◇第六十九話◇溢れる感情をあの月のように赦して
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「どうしてよ…っ。」
感情的な泣き声は、悲しいと叫んでいるようだった。
どうして、こんなに好きにさせたのか———。
抱かれてしまったのがいけなかったのかもしれない。
心にも、身体にも、ジャンが染みついてしまった。
あぁ、マルコの言っていた通りだ。
ジャンは、蜘蛛だ。ありとあらゆる場所に蜘蛛の巣を張って、たくさんの女の子達が引っかかってる。
私は、自由でいたくて、恋という罠から逃げたかった。
でも、その為に藻掻きすぎたせいで蜘蛛の糸に雁字搦めに絡まってしまって、もう逃げられない。
ジャンなしでは、生きられないくらいに、私の生活のすべてに彼がいる。
私はジャンが嫌いだ。好きすぎて、大嫌い———。
「手ぇ離したら、涙を拭おうとするでしょ。」
「するよっ。させてよっ。」
「嫌っすよ。泣いてる顔、すげぇ可愛いんで。」
「…っ、なんでそういうこと平気で言っちゃうのっ。
私があの馬鹿の恋人になったって、何とも思わないくせに…!
厄介者みたいに、他の男に私を押しつけた癖に…!」
これ以上、心臓をおかしくさせないでほしい。
期待なんてもう、させないで欲しい。
ジャンは私のことが好きなんだって、また己惚れてしまう。それが真実だって、信じてしまう。
優しい言葉が欲しいんじゃない。でも、優しくしてほしい。
矛盾だらけの心が、痛い。
「それは謝ります。すみませんでした。
泣くほどショックを受けるとは思わなかったんです。」
「謝って欲しいなんて言ってない…っ。
言い訳なんて、聞きたくなんかないっ。」
「じゃあ、何が聞きたいんですか?」
私の両手首を掴むジャンの手に、力が入った。
「なまえさんは、俺に、何を言わせてぇの。」
急に、ジャンから真面目な声がして、すくんだ身体はかたまって、重なった視線から逃げられない。
視界は涙で滲んでいるはずなのに、私をまっすぐに見つめる切れ長の瞳が、とても真剣なのだけは分かってしまった。
いつも心なんてこもってないような瞳で、私を見下ろしているくせに、こんなときだけ。いつだって、ジャンは、ズルイのだ——。
だって、私の心なんてなんでもお見通しのジャンにはきっと、欲しい言葉が何なのか知っているのだ。
分かっていて、私に言わせようとしている。
その後、ジャンはどうするつもりなんだろう。
私がそれを言ってしまったら、ジャンはどうするのだろう。
「…何もない。」
「ほんとに?涙が止まらねぇくらい泣いてんのに?」
逃れられない視線を見上げる私の瞳は、自信なくユラユラと左右に揺れていた。
それに、ジャンが気づかないわけがないことくらい、分かっていた。
でもどうして、私は言えるのだろう。
私は上官で、彼は補佐官で、歳の差だってある。
勝手な事情に付き合わせた上に、彼の人生の一部になりたいなんて我儘は言えるわけがない。
たとえば、私の自惚れに間違いがなかったのだとしても、気づかないフリをしてあげなくちゃいけない。
あの娘達の言っていた通りだ。
ジャンには、ジャンに似合う娘がいる。
私なんかよりもずっと、お似合いな娘が———。
「…じゃあ、言うよ。」
「何ですか。」
「婚約者のフリ、もうやめるって言って。」
「それは…、どういう意味ですか。」
「もう調査兵団辞める。」
何を言ってるのか、自分でももう分からなかった。
頭に血がのぼってるのか、それとも、頭に血がまわってないのか。
とにかく、私は冷静じゃなかった。
それだけは、ぼんやりと分かってた気がする。
「ジャンに婚約者のフリまでさせて我儘に調査兵でいようとしたのが間違いだった。
私達は自由になりたいはずなのに、
お互いに雁字搦めで馬鹿みたいだし、ジャンだって本当は・・・・っ。」
言葉の途中で、ジャンに強引に口を塞がれた。
昨日の夜に、おやすみとキスをしたはずなのに、すごく久しぶりにジャンに触れた気がした。
腰を引かれて、強く抱きしめられる。
重なった唇の隙間から舌がねじ込まれて、吐息と共に、止まらない涙が、また、あとからあとから溢れて落ちていく。
「ん…っ、は、ぁ…っ。」
気づけば、縋るように、ジャンの背中に両手をまわして抱き着いていた。
気づかないうちに夜風に冷えて氷のようになっていた身体が、ジャンの体温に包まれて、溶かされていく。
優しく甘いキスが、心まで一緒に、溶かしていく。
(ジャン…っ。)
違うのだ。調査兵団を辞めたいなんて思ったことはない。
ジャンと婚約者のフリをしたいのか、したくないのかは自分でも分からない。
でも、ジャンの困った顔が見たかったのだ。
私に困らされればいいと思った。
婚約者のフリを辞めたいと言われて、ジャンが困ったら、私は嬉しいから———。
このままでいいんだって、安心できるから。
「落ち着きました?」
ゆっくりと唇を離すと、ジャンは私を見下ろしてそう訊ねる。
私は、素直に小さく頷いた。
「もう調査兵団を辞めるとかわけわかんねぇこと言い出しませんね?」
「…言わない、です。」
漸く静かになった煩い女にホッとしたのか、ジャンは私を包み込むように抱きしめた。
そして、脱力したように頭の上に顎を乗せて「はぁ~。」と大きく息を吐く。
「なまえさんでも、喚き散らすことがあるんですね。」
「…もうしない。」
「なんでですか。可愛かったですよ。」
「そういうこと言うと、また怒るよ。」
「ハハ、いいっすね。何度も言おうかな。」
「もうやだ。あんな風に怒りたくない。
みっともないし、情けないし、醜いし、大嫌い…。」
「いいじゃないですか。たまには、そういうのも。」
ジャンは、そう言って、私の後頭部に大きな手を乗せて、優しく髪を撫でる。
自分にも嫌われている醜い私もまとめて、私のすべて許してくれるようなその仕草が、心地いい。
出来の悪い娘を愛してくれる両親のように、頼りない上官で、面倒くさい婚約者役の女を、ジャンは無条件で受け入れてくれる。
だから、ジャンの腕の中にいると、どんな場所に居るときよりも安心する。
ジャンはとても素敵な人だと、皆に知ってもらいたい。
でも、他の誰にも、この腕の温もりを覚えて欲しくない。
きっと、欲しくなってしまうから。
私は、この腕を、失いたくない。
自分を見失って、ヒステリックに喚いてしまうくらいに、私はジャンを、失いたくない———。
「なまえさん、顔見せて?」
ジャンが私の顎を人差し指と親指で挟んで、軽く持ち上げる。
目が合うと、ジャンはこれでもかというくらいに優しく笑った。
「せっかくの化粧が、涙でぐしょぐしょ。」
目尻を下げてひどく優しい瞳で私を映してるのに、薄い唇はいつものように意地悪を言う。
「誰のせい。」
涙のせいで鼻声で、ムスッと頬を膨らませた。
それを、ジャンが可笑しそうにクスリと笑う。
「たぶん、俺ですね。」
「たぶんじゃない。」
「分かってますよ。
俺が忙しくて構ってやれないから拗ねたんですよね。」
「違うっ、そんな子供みたいな理由じゃないっ。」
否定しながら急に恥ずかしくなって、ふいっと横を向いて目を反らした。
勘違いをされているなんて、思ってない。
きっと、ジャンは気づいてて———。
「じゃあ、何?」
身体を少し屈めたジャンの薄い唇が耳に擦れて、妙に色っぽい低い声が、私の羞恥心と心臓を煽った。
勝ち誇った声が悔しくて、きゅっと目を閉じて瞼に力を込めた。
そのくせ、ジャンのスーツの胸元は握りしめているのだから、負けを認めたみたいだった。
だから、ほら———。
「強情な人っすね。まぁいいっすけど。」
ジャンは小さく息を吐いてから、こう続けた。
「ただ、俺は、嫌々婚約者のフリをしてるわけじゃねぇし、他の女にも興味ないですから。
それだけ、忘れないで覚えててください。」
「…うん、分かった。」
「なまえさんが望む限り、
ずっと俺はなまえさんのもんだって思ってて。」
「ありがとう…。」
私は、ジャンの胸に甘えるように頬を寄せて、意外と分厚い腰にギュッと抱きつく。
ほんのついさっきまで、心の中を支配していた嫉妬とか不安とか、真っ黒くてどろどろとした感情が、聖水にとかされたみたいに綺麗に消えていく。
そして残ったのは————。
(あぁ…、どうしよう。やっぱり…好きだ…。)
結局、この世界で唯一私が感じられる安心感と、ジャンを想う気持ちが私のすべてになってしまった。
「どうして、ジャンは怒らないの。」
そっと身体を離した私は、ジャンの腕に手を添えて、目を伏せて訊ねた。
「何がですか?」
ジャンは、本当に不思議そうに訊ねる。
そういうところが、優しいんだと思う。
冷たくて、興味ないみたいな顔をしてるくせに、そうやってさりげなく優しく出来てしまうから、女の子達はどんどん彼の魅力に気づいてしまうのだ。
「急に怒鳴られて、理不尽に怒られたのに。
嫌な顔ひとつ、しなかったから。」
「それは、なまえさんが、怒鳴られた俺より傷ついた顔してたからですかね。」
ジャンはそう言うと、腕に添えられた私の手に自分の指を絡めるようにして握りしめた。
「なまえさんが苦しそうに叫んでる間、
どうすれば笑ってくれるかなって、考えてました。」
「…なんで、そんなに優しいの?」
「そんなつもりはないんですけどね。
強いて言えば、なまえさんは怒ってる顔も可愛すぎて
迫力に欠けたからっすかね。」
「また…。いつもそうやってはぐらかす。」
「だから、いつも本気だって言ってるじゃないっすか。」
ジャンがククッと喉を鳴らした。
「それで、俺の可愛いお姫様のご機嫌は直りました?」
ジャンが、俯いた私の顔を覗き込む。
自分がすごく子供に思えて恥ずかしくなって、私は逃げるように目を反らした。
「直ってない。」
「それは困りましたね。
じゃあ、今から、俺不足過ぎて情緒不安定ななまえさんに、
たっぷり俺を注いでやりましょうか。」
ジャンはそう言うと、また私の顎を指で挟んで上を向かせた。
今度は目が合うよりも先に、唇が重なった。
噛みつくようなキスは、いきなり舌を入れられて、腰を強く引き寄せられた。
「は…っ、ふ、ん…っ、ぁ…っ。」
ジャンの唇の感触には慣れたけれど、甘くてとろけるキスには、いつまでも力を奪われる。
立っていられなくなる腰をジャンにすくい上げるように抱かれて、必死に呼吸を探して正気を保とうとする私から漏れるのは、掠れる吐息ばかりだ。
「ジャ…、ン…っ、ダ、メ…っ。」
押しつけられる唇から逃げながら、なんとかそう伝えて、ドレスの裾をたくし上げて太ももに触れるジャンの手を掴んだ。
でも、「ダメです。」と造作もなくその手を捕まえられてしまう。
太もものキワに触れる手は、下着の裾にわざとらしく指を引っかけては、焦らすように離れて行く。
ダメだと頭が言って、弱々しいながらも両手はジャンの胸板を押し返そうとしている。
でも、漏れる吐息は嫌がっていないし、自分の奥がじゅっと水音を立ててしまったことにも、気づいていた。
「ジャン…っ、ダメだよ…ッ。」
「なんで?」
「だ、って…っ。こんな、とこで…っ。」
「こんなとこじゃなかったらいいんですか?」
「そうじゃなくて…っ。」
「じゃあ、なに?」
舌を絡めるキスの合間に、私は必死に口を挟んで、理性を勝たせようとしていた。
でも、飄々と答えるジャンは、余裕な様子で、私をじわじわと、確実に落としていく。
「も…っ、なん、で…っ。」
「だって、」
ジャンはそう言うと、やっと唇を離した。
荒い息はそのままに、熱っぽ瞳で見つめ合う私達を、銀色の糸が繋ぐ。
「俺のせいで泣かせちまったままには出来ないでしょ。
鳴かせてやらねぇと。」
「うまく言ったつもりなら大間違いだから。」
「まぁ、正直に言えば、感情的に怒ってるなまえさんの顔に
すげぇそそられました。」
本当に、さらりと正直に言ってしまったジャンに、私の方が恥ずかしくなった。
「変態…っ。」
「もうそれでいいです。」
だから———。
ジャンはそう続けて、私の腰を持って抱き上げた。
向き合う格好で、子供のように抱っこされてしまった私が、長身のジャンを見下ろせば、私を見つめるジャンの切れ長の瞳に、満月が浮かんでいて、凄く綺麗で————。
「今すぐ、抱かせて。」
「ダメって言っても、聞かないんでしょう?」
「よく分かってますね。」
ジャンは嬉しそうに目を細めて、意地悪く口の端を上げる。
そして私は、ジャンの頬に手を添えて唇を重ねた。
感情的な泣き声は、悲しいと叫んでいるようだった。
どうして、こんなに好きにさせたのか———。
抱かれてしまったのがいけなかったのかもしれない。
心にも、身体にも、ジャンが染みついてしまった。
あぁ、マルコの言っていた通りだ。
ジャンは、蜘蛛だ。ありとあらゆる場所に蜘蛛の巣を張って、たくさんの女の子達が引っかかってる。
私は、自由でいたくて、恋という罠から逃げたかった。
でも、その為に藻掻きすぎたせいで蜘蛛の糸に雁字搦めに絡まってしまって、もう逃げられない。
ジャンなしでは、生きられないくらいに、私の生活のすべてに彼がいる。
私はジャンが嫌いだ。好きすぎて、大嫌い———。
「手ぇ離したら、涙を拭おうとするでしょ。」
「するよっ。させてよっ。」
「嫌っすよ。泣いてる顔、すげぇ可愛いんで。」
「…っ、なんでそういうこと平気で言っちゃうのっ。
私があの馬鹿の恋人になったって、何とも思わないくせに…!
厄介者みたいに、他の男に私を押しつけた癖に…!」
これ以上、心臓をおかしくさせないでほしい。
期待なんてもう、させないで欲しい。
ジャンは私のことが好きなんだって、また己惚れてしまう。それが真実だって、信じてしまう。
優しい言葉が欲しいんじゃない。でも、優しくしてほしい。
矛盾だらけの心が、痛い。
「それは謝ります。すみませんでした。
泣くほどショックを受けるとは思わなかったんです。」
「謝って欲しいなんて言ってない…っ。
言い訳なんて、聞きたくなんかないっ。」
「じゃあ、何が聞きたいんですか?」
私の両手首を掴むジャンの手に、力が入った。
「なまえさんは、俺に、何を言わせてぇの。」
急に、ジャンから真面目な声がして、すくんだ身体はかたまって、重なった視線から逃げられない。
視界は涙で滲んでいるはずなのに、私をまっすぐに見つめる切れ長の瞳が、とても真剣なのだけは分かってしまった。
いつも心なんてこもってないような瞳で、私を見下ろしているくせに、こんなときだけ。いつだって、ジャンは、ズルイのだ——。
だって、私の心なんてなんでもお見通しのジャンにはきっと、欲しい言葉が何なのか知っているのだ。
分かっていて、私に言わせようとしている。
その後、ジャンはどうするつもりなんだろう。
私がそれを言ってしまったら、ジャンはどうするのだろう。
「…何もない。」
「ほんとに?涙が止まらねぇくらい泣いてんのに?」
逃れられない視線を見上げる私の瞳は、自信なくユラユラと左右に揺れていた。
それに、ジャンが気づかないわけがないことくらい、分かっていた。
でもどうして、私は言えるのだろう。
私は上官で、彼は補佐官で、歳の差だってある。
勝手な事情に付き合わせた上に、彼の人生の一部になりたいなんて我儘は言えるわけがない。
たとえば、私の自惚れに間違いがなかったのだとしても、気づかないフリをしてあげなくちゃいけない。
あの娘達の言っていた通りだ。
ジャンには、ジャンに似合う娘がいる。
私なんかよりもずっと、お似合いな娘が———。
「…じゃあ、言うよ。」
「何ですか。」
「婚約者のフリ、もうやめるって言って。」
「それは…、どういう意味ですか。」
「もう調査兵団辞める。」
何を言ってるのか、自分でももう分からなかった。
頭に血がのぼってるのか、それとも、頭に血がまわってないのか。
とにかく、私は冷静じゃなかった。
それだけは、ぼんやりと分かってた気がする。
「ジャンに婚約者のフリまでさせて我儘に調査兵でいようとしたのが間違いだった。
私達は自由になりたいはずなのに、
お互いに雁字搦めで馬鹿みたいだし、ジャンだって本当は・・・・っ。」
言葉の途中で、ジャンに強引に口を塞がれた。
昨日の夜に、おやすみとキスをしたはずなのに、すごく久しぶりにジャンに触れた気がした。
腰を引かれて、強く抱きしめられる。
重なった唇の隙間から舌がねじ込まれて、吐息と共に、止まらない涙が、また、あとからあとから溢れて落ちていく。
「ん…っ、は、ぁ…っ。」
気づけば、縋るように、ジャンの背中に両手をまわして抱き着いていた。
気づかないうちに夜風に冷えて氷のようになっていた身体が、ジャンの体温に包まれて、溶かされていく。
優しく甘いキスが、心まで一緒に、溶かしていく。
(ジャン…っ。)
違うのだ。調査兵団を辞めたいなんて思ったことはない。
ジャンと婚約者のフリをしたいのか、したくないのかは自分でも分からない。
でも、ジャンの困った顔が見たかったのだ。
私に困らされればいいと思った。
婚約者のフリを辞めたいと言われて、ジャンが困ったら、私は嬉しいから———。
このままでいいんだって、安心できるから。
「落ち着きました?」
ゆっくりと唇を離すと、ジャンは私を見下ろしてそう訊ねる。
私は、素直に小さく頷いた。
「もう調査兵団を辞めるとかわけわかんねぇこと言い出しませんね?」
「…言わない、です。」
漸く静かになった煩い女にホッとしたのか、ジャンは私を包み込むように抱きしめた。
そして、脱力したように頭の上に顎を乗せて「はぁ~。」と大きく息を吐く。
「なまえさんでも、喚き散らすことがあるんですね。」
「…もうしない。」
「なんでですか。可愛かったですよ。」
「そういうこと言うと、また怒るよ。」
「ハハ、いいっすね。何度も言おうかな。」
「もうやだ。あんな風に怒りたくない。
みっともないし、情けないし、醜いし、大嫌い…。」
「いいじゃないですか。たまには、そういうのも。」
ジャンは、そう言って、私の後頭部に大きな手を乗せて、優しく髪を撫でる。
自分にも嫌われている醜い私もまとめて、私のすべて許してくれるようなその仕草が、心地いい。
出来の悪い娘を愛してくれる両親のように、頼りない上官で、面倒くさい婚約者役の女を、ジャンは無条件で受け入れてくれる。
だから、ジャンの腕の中にいると、どんな場所に居るときよりも安心する。
ジャンはとても素敵な人だと、皆に知ってもらいたい。
でも、他の誰にも、この腕の温もりを覚えて欲しくない。
きっと、欲しくなってしまうから。
私は、この腕を、失いたくない。
自分を見失って、ヒステリックに喚いてしまうくらいに、私はジャンを、失いたくない———。
「なまえさん、顔見せて?」
ジャンが私の顎を人差し指と親指で挟んで、軽く持ち上げる。
目が合うと、ジャンはこれでもかというくらいに優しく笑った。
「せっかくの化粧が、涙でぐしょぐしょ。」
目尻を下げてひどく優しい瞳で私を映してるのに、薄い唇はいつものように意地悪を言う。
「誰のせい。」
涙のせいで鼻声で、ムスッと頬を膨らませた。
それを、ジャンが可笑しそうにクスリと笑う。
「たぶん、俺ですね。」
「たぶんじゃない。」
「分かってますよ。
俺が忙しくて構ってやれないから拗ねたんですよね。」
「違うっ、そんな子供みたいな理由じゃないっ。」
否定しながら急に恥ずかしくなって、ふいっと横を向いて目を反らした。
勘違いをされているなんて、思ってない。
きっと、ジャンは気づいてて———。
「じゃあ、何?」
身体を少し屈めたジャンの薄い唇が耳に擦れて、妙に色っぽい低い声が、私の羞恥心と心臓を煽った。
勝ち誇った声が悔しくて、きゅっと目を閉じて瞼に力を込めた。
そのくせ、ジャンのスーツの胸元は握りしめているのだから、負けを認めたみたいだった。
だから、ほら———。
「強情な人っすね。まぁいいっすけど。」
ジャンは小さく息を吐いてから、こう続けた。
「ただ、俺は、嫌々婚約者のフリをしてるわけじゃねぇし、他の女にも興味ないですから。
それだけ、忘れないで覚えててください。」
「…うん、分かった。」
「なまえさんが望む限り、
ずっと俺はなまえさんのもんだって思ってて。」
「ありがとう…。」
私は、ジャンの胸に甘えるように頬を寄せて、意外と分厚い腰にギュッと抱きつく。
ほんのついさっきまで、心の中を支配していた嫉妬とか不安とか、真っ黒くてどろどろとした感情が、聖水にとかされたみたいに綺麗に消えていく。
そして残ったのは————。
(あぁ…、どうしよう。やっぱり…好きだ…。)
結局、この世界で唯一私が感じられる安心感と、ジャンを想う気持ちが私のすべてになってしまった。
「どうして、ジャンは怒らないの。」
そっと身体を離した私は、ジャンの腕に手を添えて、目を伏せて訊ねた。
「何がですか?」
ジャンは、本当に不思議そうに訊ねる。
そういうところが、優しいんだと思う。
冷たくて、興味ないみたいな顔をしてるくせに、そうやってさりげなく優しく出来てしまうから、女の子達はどんどん彼の魅力に気づいてしまうのだ。
「急に怒鳴られて、理不尽に怒られたのに。
嫌な顔ひとつ、しなかったから。」
「それは、なまえさんが、怒鳴られた俺より傷ついた顔してたからですかね。」
ジャンはそう言うと、腕に添えられた私の手に自分の指を絡めるようにして握りしめた。
「なまえさんが苦しそうに叫んでる間、
どうすれば笑ってくれるかなって、考えてました。」
「…なんで、そんなに優しいの?」
「そんなつもりはないんですけどね。
強いて言えば、なまえさんは怒ってる顔も可愛すぎて
迫力に欠けたからっすかね。」
「また…。いつもそうやってはぐらかす。」
「だから、いつも本気だって言ってるじゃないっすか。」
ジャンがククッと喉を鳴らした。
「それで、俺の可愛いお姫様のご機嫌は直りました?」
ジャンが、俯いた私の顔を覗き込む。
自分がすごく子供に思えて恥ずかしくなって、私は逃げるように目を反らした。
「直ってない。」
「それは困りましたね。
じゃあ、今から、俺不足過ぎて情緒不安定ななまえさんに、
たっぷり俺を注いでやりましょうか。」
ジャンはそう言うと、また私の顎を指で挟んで上を向かせた。
今度は目が合うよりも先に、唇が重なった。
噛みつくようなキスは、いきなり舌を入れられて、腰を強く引き寄せられた。
「は…っ、ふ、ん…っ、ぁ…っ。」
ジャンの唇の感触には慣れたけれど、甘くてとろけるキスには、いつまでも力を奪われる。
立っていられなくなる腰をジャンにすくい上げるように抱かれて、必死に呼吸を探して正気を保とうとする私から漏れるのは、掠れる吐息ばかりだ。
「ジャ…、ン…っ、ダ、メ…っ。」
押しつけられる唇から逃げながら、なんとかそう伝えて、ドレスの裾をたくし上げて太ももに触れるジャンの手を掴んだ。
でも、「ダメです。」と造作もなくその手を捕まえられてしまう。
太もものキワに触れる手は、下着の裾にわざとらしく指を引っかけては、焦らすように離れて行く。
ダメだと頭が言って、弱々しいながらも両手はジャンの胸板を押し返そうとしている。
でも、漏れる吐息は嫌がっていないし、自分の奥がじゅっと水音を立ててしまったことにも、気づいていた。
「ジャン…っ、ダメだよ…ッ。」
「なんで?」
「だ、って…っ。こんな、とこで…っ。」
「こんなとこじゃなかったらいいんですか?」
「そうじゃなくて…っ。」
「じゃあ、なに?」
舌を絡めるキスの合間に、私は必死に口を挟んで、理性を勝たせようとしていた。
でも、飄々と答えるジャンは、余裕な様子で、私をじわじわと、確実に落としていく。
「も…っ、なん、で…っ。」
「だって、」
ジャンはそう言うと、やっと唇を離した。
荒い息はそのままに、熱っぽ瞳で見つめ合う私達を、銀色の糸が繋ぐ。
「俺のせいで泣かせちまったままには出来ないでしょ。
鳴かせてやらねぇと。」
「うまく言ったつもりなら大間違いだから。」
「まぁ、正直に言えば、感情的に怒ってるなまえさんの顔に
すげぇそそられました。」
本当に、さらりと正直に言ってしまったジャンに、私の方が恥ずかしくなった。
「変態…っ。」
「もうそれでいいです。」
だから———。
ジャンはそう続けて、私の腰を持って抱き上げた。
向き合う格好で、子供のように抱っこされてしまった私が、長身のジャンを見下ろせば、私を見つめるジャンの切れ長の瞳に、満月が浮かんでいて、凄く綺麗で————。
「今すぐ、抱かせて。」
「ダメって言っても、聞かないんでしょう?」
「よく分かってますね。」
ジャンは嬉しそうに目を細めて、意地悪く口の端を上げる。
そして私は、ジャンの頬に手を添えて唇を重ねた。