◇第八十話◇魔女の悲劇【前編】
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まずは、上官であるミケの元へ向かったジャンは、彼に事情を説明しているようだった。
きっと、なまえに、最初に声をかけるのはミケにしろと言われていたのだろう。
そして、漸く議長であるリコの元へやってきたのは、ミケの指示を受けてからだった。
「足りなかった資料はこれで問題ありませんか。」
「確認する。少し待ってくれ。」
会議室の椅子に座ったままで、リコはジャンから書類を受け取った。
右上がりの読みやすい文字で綴られている書類の所々に、虫が這ったような見覚えのある文字がある。
何と読むかよく分からない箇所もあったが、そこにはすべて、右上がりの読みやすい文字で訂正字が入っているおかげで、なんとか会議資料として使えそうだ。
「うん、大丈夫だ。助かったよ。」
顔を上げて、リコはジャンに礼を言った。
すると、ジャンはホッとしたように息を吐いた。
そして、綺麗に頭を下げた。
「ご迷惑をおかけしてすみませんでした。」
「アンタが気にすることじゃない。
どうせ、眠り姫がミケ分隊長に渡すのを忘れてたんだろ。」
「いえ…!俺の確認不足です…!
今度からは、俺も二重チェックを漏らさないように徹底します。」
「そうしてくれると助かる。」
仕事の適当な上官を持つと大変だな———。
そんなことを思いながら、リコは眉尻を下げて、ため息を飲み込む。
会議中に会議資料が足りないなんて、几帳面なリコにとっては、ありえないことだ。
壁を守るだけで楽だと思われがちな駐屯兵団だが、庶務仕事や憲兵団から押しつけられた膨大な雑務で、日々忙しくて仕方がないのだ。
そんな中で、調査兵団の為に時間を作り、命を削って援護をしようとしているのに、会議費に必要な大切な書類を忘れるなんて言語道断ではないだろうか。
だが、その資料を提出する予定だったのが〝眠り姫〟だと分かった瞬間に、怒りは一瞬で消えた。
許したわけではない。彼女はそういうだらしない人間だと諦めているわけでもない。
ただ、彼女に対しての一切合切の感情を、4年前のあの日に全て捨てたのだ。
きっとそれはリコだけではない。
この会議に参加している精鋭班以上の駐屯兵達が全員、同じだ。
その証拠に、ジャンが会議室にやって来てから、顔を上げたのは会議に参加している分隊長クラスの調査兵やその補佐達だけで、駐屯兵達は彼を見ようともしない。
あの〝眠り姫〟の補佐官で、婚約者にまでなった彼のことを魔女と同類だと思っているのかもしれない。
さすがに、リコもそこまでは思わないけれど、仕事は出来ても女を見る目がないんだなくらいには思っている。
「本来ならなまえさんも一緒に頭を下げるべきなのですが
彼女は今、別の任務があって、どうしても来れな———。」
「嘘は嫌いだからやめてくれ。
どうせ、思いついたとっても大事な妄想があるから
駐屯兵の手伝いなんか出来ないと言ったんだろ。」
わざわざ、なまえを庇うような嘘を言うジャンにイラッとしたのだ。
気づけば、リコは、言わなくてもいいことを言っていた。
その瞬間に、気にしないフリをして、ジャンとリコの会話に聞き耳を立てていた駐屯兵達からピリッとした冷たい空気が放たれた。
「あ~…、似たようなことを…。
彼女のことをよくご存じなんですね。」
「ストヘス区出身の〝眠り姫〟とは、
彼女が新人として調査兵団に入ったときから知っている。
だから、大体、どんなことを言うかは分かる。」
「あぁ、そうだったんですか。」
そういうことか———、と思ったのだろう。ジャンは、ホッとしたように胸を撫でおろしていた。
仕事に対してやる気の欠片も感じられないあの上官の世話を2年以上も勤め、婚約者にまでなったということは、本当に彼女を愛しているのだろう。
それこそ、妄想が忙しいなんてどうしようもない理由で仕事を丸投げする彼女の為に、駐屯兵に頭を下げられるくらいに。
「婚約したんだってな。」
リコがそう言うと、ジャンは少し驚いたような表情を見せた。
婚約が公になった日、調査兵団の兵舎は大騒ぎだったと聞いている。
だが、まさか、駐屯兵にまで知られているとは思っていなかったようだ。
「えぇ、おかげさまで。」
礼を言ったジャンは、いつも機嫌が悪そうな印象を与える冷たい目元を嬉しそうに細めた。
目尻を下げて綻ぶ笑みは、彼を優しい印象に変えていた。
ズキッと胸が痛くなったのは、ジャンが本当に彼女に惚れているのだと、嫌でも理解してしまったせいだ。
そしてきっと、彼女も、頼りになる彼を愛している。
そうでなければ、婚約なんてしないのだから当然だ。
彼女は今、幸せなのか———。
そう思うと、なんとも言えない気持ちが込み上げてくる。
「おめでとう。彼女はピクシス司令のお気に入りだから、
噂が本当だと知ったら、ショックを受けるかな。
…いや、指令はもう知っているかもな。」
婚約という明るい話題の為に、冗談を交えようと思ったのだ。
だが、思い直して、小さく呟いたそれは、暗い声をしていた。
〝眠り姫〟がピクシスのお気に入りであることは、駐屯兵達もよく知っている。
そして、彼は、彼女の両親とも親しくしている。
きっと、そこから、彼女の婚約のことはピクシスに届いているだろう。
それでも、駐屯兵団本部を訪れた彼がそれを口にしないのは、駐屯兵達が彼女のことを嫌っているどころか、憎んでいることを知っているからだ。
でもだからと言って、ピクシスは、駐屯兵の心をケアしようとはしない。
だから、駐屯兵はいつまでも彼女を憎み続けるしかなくて———。
「どうかしました?」
「…!あ、いや、なんでもない。
今度、駐屯兵団からも何かお祝いを贈るよ。」
「いいっすよ、そんなの。
それより、なまえさんは、友人のリコさんからの言葉が嬉しいと思いますよ。
偶には会って飲んだりするのはどうですか?」
知人だと言っただけなのに、彼は〝友人〟だと解釈したらしい。
それは、大きな勘違いであって、大きく外れているわけでもなく、リコは否定も肯定もしなかった。
そんなリコに、自分が補佐官になってから2年、友人のはずのリコとなまえが会っているのを見たことがないジャンは、お互いに忙しいとは思うが、偶には息抜きをしてみてはどうかと提案する。
そういう気がまわるところが、自分のことは何も出来ない彼女が彼に惚れた理由なのかもしれない。
でも、恐らく、今後も永遠に、彼女とリコが友人として会うことは二度とないだろう。
万が一に顔を合わせても、それは、調査兵と駐屯兵として、だ。
以前のように、だらしない彼女を叱っては、とぼけた彼女が面白くて、くだらない冗談を言って、無邪気に笑い合うこともない。
あの頃は当然のようにあったのに、そんな未来はもう二度と訪れないのだ。
「さぁ…、どうかな。
アッチも、私には会いたくないんじゃないかな。」
「どうしてですか?」
「いや、こっちの話だ。なんでもない。」
「え、でも———。」
「あの…、ジャン・キルシュタインさんですか?」
ジャンの疑問を遮ったのは、彼の背中から聞こえて来た少し高めの女性の声だった。
きっと、なまえに、最初に声をかけるのはミケにしろと言われていたのだろう。
そして、漸く議長であるリコの元へやってきたのは、ミケの指示を受けてからだった。
「足りなかった資料はこれで問題ありませんか。」
「確認する。少し待ってくれ。」
会議室の椅子に座ったままで、リコはジャンから書類を受け取った。
右上がりの読みやすい文字で綴られている書類の所々に、虫が這ったような見覚えのある文字がある。
何と読むかよく分からない箇所もあったが、そこにはすべて、右上がりの読みやすい文字で訂正字が入っているおかげで、なんとか会議資料として使えそうだ。
「うん、大丈夫だ。助かったよ。」
顔を上げて、リコはジャンに礼を言った。
すると、ジャンはホッとしたように息を吐いた。
そして、綺麗に頭を下げた。
「ご迷惑をおかけしてすみませんでした。」
「アンタが気にすることじゃない。
どうせ、眠り姫がミケ分隊長に渡すのを忘れてたんだろ。」
「いえ…!俺の確認不足です…!
今度からは、俺も二重チェックを漏らさないように徹底します。」
「そうしてくれると助かる。」
仕事の適当な上官を持つと大変だな———。
そんなことを思いながら、リコは眉尻を下げて、ため息を飲み込む。
会議中に会議資料が足りないなんて、几帳面なリコにとっては、ありえないことだ。
壁を守るだけで楽だと思われがちな駐屯兵団だが、庶務仕事や憲兵団から押しつけられた膨大な雑務で、日々忙しくて仕方がないのだ。
そんな中で、調査兵団の為に時間を作り、命を削って援護をしようとしているのに、会議費に必要な大切な書類を忘れるなんて言語道断ではないだろうか。
だが、その資料を提出する予定だったのが〝眠り姫〟だと分かった瞬間に、怒りは一瞬で消えた。
許したわけではない。彼女はそういうだらしない人間だと諦めているわけでもない。
ただ、彼女に対しての一切合切の感情を、4年前のあの日に全て捨てたのだ。
きっとそれはリコだけではない。
この会議に参加している精鋭班以上の駐屯兵達が全員、同じだ。
その証拠に、ジャンが会議室にやって来てから、顔を上げたのは会議に参加している分隊長クラスの調査兵やその補佐達だけで、駐屯兵達は彼を見ようともしない。
あの〝眠り姫〟の補佐官で、婚約者にまでなった彼のことを魔女と同類だと思っているのかもしれない。
さすがに、リコもそこまでは思わないけれど、仕事は出来ても女を見る目がないんだなくらいには思っている。
「本来ならなまえさんも一緒に頭を下げるべきなのですが
彼女は今、別の任務があって、どうしても来れな———。」
「嘘は嫌いだからやめてくれ。
どうせ、思いついたとっても大事な妄想があるから
駐屯兵の手伝いなんか出来ないと言ったんだろ。」
わざわざ、なまえを庇うような嘘を言うジャンにイラッとしたのだ。
気づけば、リコは、言わなくてもいいことを言っていた。
その瞬間に、気にしないフリをして、ジャンとリコの会話に聞き耳を立てていた駐屯兵達からピリッとした冷たい空気が放たれた。
「あ~…、似たようなことを…。
彼女のことをよくご存じなんですね。」
「ストヘス区出身の〝眠り姫〟とは、
彼女が新人として調査兵団に入ったときから知っている。
だから、大体、どんなことを言うかは分かる。」
「あぁ、そうだったんですか。」
そういうことか———、と思ったのだろう。ジャンは、ホッとしたように胸を撫でおろしていた。
仕事に対してやる気の欠片も感じられないあの上官の世話を2年以上も勤め、婚約者にまでなったということは、本当に彼女を愛しているのだろう。
それこそ、妄想が忙しいなんてどうしようもない理由で仕事を丸投げする彼女の為に、駐屯兵に頭を下げられるくらいに。
「婚約したんだってな。」
リコがそう言うと、ジャンは少し驚いたような表情を見せた。
婚約が公になった日、調査兵団の兵舎は大騒ぎだったと聞いている。
だが、まさか、駐屯兵にまで知られているとは思っていなかったようだ。
「えぇ、おかげさまで。」
礼を言ったジャンは、いつも機嫌が悪そうな印象を与える冷たい目元を嬉しそうに細めた。
目尻を下げて綻ぶ笑みは、彼を優しい印象に変えていた。
ズキッと胸が痛くなったのは、ジャンが本当に彼女に惚れているのだと、嫌でも理解してしまったせいだ。
そしてきっと、彼女も、頼りになる彼を愛している。
そうでなければ、婚約なんてしないのだから当然だ。
彼女は今、幸せなのか———。
そう思うと、なんとも言えない気持ちが込み上げてくる。
「おめでとう。彼女はピクシス司令のお気に入りだから、
噂が本当だと知ったら、ショックを受けるかな。
…いや、指令はもう知っているかもな。」
婚約という明るい話題の為に、冗談を交えようと思ったのだ。
だが、思い直して、小さく呟いたそれは、暗い声をしていた。
〝眠り姫〟がピクシスのお気に入りであることは、駐屯兵達もよく知っている。
そして、彼は、彼女の両親とも親しくしている。
きっと、そこから、彼女の婚約のことはピクシスに届いているだろう。
それでも、駐屯兵団本部を訪れた彼がそれを口にしないのは、駐屯兵達が彼女のことを嫌っているどころか、憎んでいることを知っているからだ。
でもだからと言って、ピクシスは、駐屯兵の心をケアしようとはしない。
だから、駐屯兵はいつまでも彼女を憎み続けるしかなくて———。
「どうかしました?」
「…!あ、いや、なんでもない。
今度、駐屯兵団からも何かお祝いを贈るよ。」
「いいっすよ、そんなの。
それより、なまえさんは、友人のリコさんからの言葉が嬉しいと思いますよ。
偶には会って飲んだりするのはどうですか?」
知人だと言っただけなのに、彼は〝友人〟だと解釈したらしい。
それは、大きな勘違いであって、大きく外れているわけでもなく、リコは否定も肯定もしなかった。
そんなリコに、自分が補佐官になってから2年、友人のはずのリコとなまえが会っているのを見たことがないジャンは、お互いに忙しいとは思うが、偶には息抜きをしてみてはどうかと提案する。
そういう気がまわるところが、自分のことは何も出来ない彼女が彼に惚れた理由なのかもしれない。
でも、恐らく、今後も永遠に、彼女とリコが友人として会うことは二度とないだろう。
万が一に顔を合わせても、それは、調査兵と駐屯兵として、だ。
以前のように、だらしない彼女を叱っては、とぼけた彼女が面白くて、くだらない冗談を言って、無邪気に笑い合うこともない。
あの頃は当然のようにあったのに、そんな未来はもう二度と訪れないのだ。
「さぁ…、どうかな。
アッチも、私には会いたくないんじゃないかな。」
「どうしてですか?」
「いや、こっちの話だ。なんでもない。」
「え、でも———。」
「あの…、ジャン・キルシュタインさんですか?」
ジャンの疑問を遮ったのは、彼の背中から聞こえて来た少し高めの女性の声だった。