◇第五話◇最善策を唱えるのは天使か悪魔か
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私が自室に戻ると、とてつもなく汚かった部屋は、見違えるほど綺麗になっていた。
部屋を片付けて掃除してくれた頼りになる自慢の補佐は、いつものようにデスクの椅子に腰かけて、私の代わりに書類チェックをしている。
ナナバの部屋を出た後、誰もいないリネン室で、思いっきり泣いてきた。
涙は拭った。瞼も冷やした。
廊下の途中ですれ違った仲間達には、今日も私は、何の悩みもない〝眠り姫〟に見えていた。
(大丈夫、バレない。)
私が部屋に入ったタイミングで、デスクにいたジャンが腰を捻って後ろを振り返った。
そして、よく見る姑みたいな怖い顔で眉を吊り上げて何か文句を言おうと口を開きかけたのに、何かに気づいたように吊り上げた眉をピクリとあげると、あっという間に、いつもの補佐の顔に変わった。
「遅ぇっすよ。書類チェックが終わった分はそのテーブルの上に置いてるんで
サインだけはお願いしますね。」
ジャンはそれだけ言うと、またデスクの方へ身体を戻した。
やっぱり、周りの状況を把握する能力に長けている彼の観察眼には、その場しのぎの誤魔化しなんか効かなかった。
それでも、彼は、目に見えるそれの奥に隠れている真意も見抜いてくれる。
私が触れて欲しくないと思えば、絶対に触れないし、反対に、気づいて欲しいと思うことには、私自身がそれを自覚する前に気づいて対処してくれる。
〝奇行種〟に振り回されつつもしっかりついていけるモブリットも凄いけど、私の補佐も負けてない。
それどころか、ジャンは、世界で一番凄い自慢の補佐だと、自信を持って言える。
「はいは~い。」
小走りしながらヘラヘラと答えて、ローテーブルのそばに座った。
全くやる気が起きなくて溜まっていくばかりだった書類の半分が、既にチェック済みの状態で綺麗に積み重ねられて、ローテーブルの上に置かれていた。
しっかりとペンも用意しておいてくれている。
さすが、よく出来た補佐だ。
涙を誤魔化した情けない上官に気づかないフリをしてくれた気の利く補佐は、早速、書類チェックを始めていた。
ペンを走らせる腕が小刻みに動いては、書類をめくるときに出る乾いた紙の音が、静かな部屋に響いた。
見慣れた背中を視界の向こうにぼんやりと映しながら、私も、書類を手に取って、チェック済みの書類に目を通す。
右上がりの癖がある見慣れたジャンの字で、所々に訂正が入っている。
丁寧で真面目な仕事ぶりには、いつも助けられているし、歳下の彼のことを心から尊敬している。
でも——。
正直、壁外調査報告書は、大嫌いだ。
見たくもない。
だって、そこには、人類の勝利は書かれていないし、有益な情報があることも少ない。
あるのは、途方もないほどに残酷な現実と、仲間が生きて、そして無念にまみれて死んだという目を反らせない事実のみ。
それでも、この大嫌いな壁外調査報告書を見られるのも、これが最後なのだ。
最後くらいは、真面目に、しっかりと——。
滲んだ視界の向こうで、書類に涙が落ちて丸い皴が出来たのが見えた。
嫌だ——、終わりになんてしたくない——。
力の加減を忘れた私の手が、仲間が血反吐を吐きながら作り上げた書類をクシャリと歪ませる。
私はまだ、何も成し遂げていない。
無念のまま散るしかなかった仲間達の想いを、私は未来に繋げなければならない。
それが生者に残された、唯一彼らにしてやれる手向けなのだから——。
「頼りになる部下が眠い目をこすりながら必死に終わらせた書類を濡らしてダメにして、
なまえさんは、俺にどうして欲しいんすか。」
呆れたというよりも、どこか冷たい声を聞いて、私は書類に落としていた視線を上げた。
さっきまで、デスクに向かって座っていたはずのジャンが、こちらを向いていた。
でも、涙で滲んで、どんな表情をしているのかは分からなかった。
「泣いてる理由を聞いてやったほうがいいんですか?
それとも、気づかねぇフリして、サボってねぇで書類のサインをしろって叱ればいいんすか?
別に、俺はどっちでもいいですけど。」
ジャンは淡々とした口調で言う。
それが、2年間の間で私が知ったジャンのままで、また涙が溢れて来た。
普段の私ならきっと、ヘラヘラと笑いながら『どっちがいいかな~。』なんてとぼけられたはずだった。
でも、ダメだった。
幼い頃から憧れ続けていた調査兵団から去らなければならないだけではなく、命を預けることが出来るほどに信頼する仲間と離れ離れにならなければならない現実に、私はもう、押し潰されてしまいそうだったのだ。
「ジャン…っ、私…っ、みんなと離れ離れになんて…っ、なりたくない…っ。
ずっと一緒にいたい…っ。一緒にいたい~…っ。一緒にいたいのにぃ~…っ。」
零れ落ち続ける涙を、両手の甲で交互にすくいながら、私は子供みたいに泣きじゃくった。
小さなため息が聞こえた後、ガタッと椅子から立ち上がるような音がした。
それから、すぐだった。
私は、広い胸板と長い腕に身体を包まれていた。
「はいはい、よしよし。どうしちまったんすか。」
よしよし——。
まるで幼い子供を相手にしているみたいに、ジャンは私の髪を撫で続けた。
私の身体をすっぽりと包む腕の中がひどく温かくて、流れる涙が止まらなかった。
だから、ジャンのシャツの胸元を握りしめて、私は泣きじゃくった。
その間も、ジャンはずっと『よしよし。』と言いながら、頭を撫で続けてくれた。
しばらくそうしていれば、私は少しずつ落ち着いてきた。
それから、私を襲うのは、あり得ないほどの羞恥心だ。
ジャンの腕の中で、私は目を伏せて、出来る限り身体を小さく丸めた。
補佐の、しかも6つも歳下の後輩の前で、情けない醜態を晒してしまっただけには飽き足らず、子供みたいに頭を撫でられて縋り泣くなんて。
〝眠り姫〟というおかしな呼び名だけに留まらず、明日からは〝泣き虫姫〟と呼ばれてしまう。
いや、姫なんて可愛いものをつけてもらえるわけがない。
きっと——。
(あぁ、そっか…。おかしな呼び名も、なくなっちゃうんだ…。)
羞恥心に襲われていた心が、すーっと冷めていった。
私はまた、ありもしない妄想をしていたらしい。
「落ち着きました?」
頭上からジャンの声が降りてきて、ハッとして身体を離した。
「う、うん…っ。ごめん…っ。もう、大丈夫っ。」
ジャンから目を反らして言って、濡れた頬を両手で隠しながら、残った涙を拭った。
「それで。こうなったら、もう聞くしかないんで、聞きますけど。
何があったんすか?」
ジャンが訊ねた。
他の調査兵に伝える前に、補佐のジャンには早めに伝えておいた方がいい——。
そして、ジャンに鼻で笑われて、調査兵団を私が去った方が良い理由を、手に入れよう。
ジャンから逃げるように反らして伏せた目のまま、私は、調査兵団を去ることが決まったことを告げた。
部屋を片付けて掃除してくれた頼りになる自慢の補佐は、いつものようにデスクの椅子に腰かけて、私の代わりに書類チェックをしている。
ナナバの部屋を出た後、誰もいないリネン室で、思いっきり泣いてきた。
涙は拭った。瞼も冷やした。
廊下の途中ですれ違った仲間達には、今日も私は、何の悩みもない〝眠り姫〟に見えていた。
(大丈夫、バレない。)
私が部屋に入ったタイミングで、デスクにいたジャンが腰を捻って後ろを振り返った。
そして、よく見る姑みたいな怖い顔で眉を吊り上げて何か文句を言おうと口を開きかけたのに、何かに気づいたように吊り上げた眉をピクリとあげると、あっという間に、いつもの補佐の顔に変わった。
「遅ぇっすよ。書類チェックが終わった分はそのテーブルの上に置いてるんで
サインだけはお願いしますね。」
ジャンはそれだけ言うと、またデスクの方へ身体を戻した。
やっぱり、周りの状況を把握する能力に長けている彼の観察眼には、その場しのぎの誤魔化しなんか効かなかった。
それでも、彼は、目に見えるそれの奥に隠れている真意も見抜いてくれる。
私が触れて欲しくないと思えば、絶対に触れないし、反対に、気づいて欲しいと思うことには、私自身がそれを自覚する前に気づいて対処してくれる。
〝奇行種〟に振り回されつつもしっかりついていけるモブリットも凄いけど、私の補佐も負けてない。
それどころか、ジャンは、世界で一番凄い自慢の補佐だと、自信を持って言える。
「はいは~い。」
小走りしながらヘラヘラと答えて、ローテーブルのそばに座った。
全くやる気が起きなくて溜まっていくばかりだった書類の半分が、既にチェック済みの状態で綺麗に積み重ねられて、ローテーブルの上に置かれていた。
しっかりとペンも用意しておいてくれている。
さすが、よく出来た補佐だ。
涙を誤魔化した情けない上官に気づかないフリをしてくれた気の利く補佐は、早速、書類チェックを始めていた。
ペンを走らせる腕が小刻みに動いては、書類をめくるときに出る乾いた紙の音が、静かな部屋に響いた。
見慣れた背中を視界の向こうにぼんやりと映しながら、私も、書類を手に取って、チェック済みの書類に目を通す。
右上がりの癖がある見慣れたジャンの字で、所々に訂正が入っている。
丁寧で真面目な仕事ぶりには、いつも助けられているし、歳下の彼のことを心から尊敬している。
でも——。
正直、壁外調査報告書は、大嫌いだ。
見たくもない。
だって、そこには、人類の勝利は書かれていないし、有益な情報があることも少ない。
あるのは、途方もないほどに残酷な現実と、仲間が生きて、そして無念にまみれて死んだという目を反らせない事実のみ。
それでも、この大嫌いな壁外調査報告書を見られるのも、これが最後なのだ。
最後くらいは、真面目に、しっかりと——。
滲んだ視界の向こうで、書類に涙が落ちて丸い皴が出来たのが見えた。
嫌だ——、終わりになんてしたくない——。
力の加減を忘れた私の手が、仲間が血反吐を吐きながら作り上げた書類をクシャリと歪ませる。
私はまだ、何も成し遂げていない。
無念のまま散るしかなかった仲間達の想いを、私は未来に繋げなければならない。
それが生者に残された、唯一彼らにしてやれる手向けなのだから——。
「頼りになる部下が眠い目をこすりながら必死に終わらせた書類を濡らしてダメにして、
なまえさんは、俺にどうして欲しいんすか。」
呆れたというよりも、どこか冷たい声を聞いて、私は書類に落としていた視線を上げた。
さっきまで、デスクに向かって座っていたはずのジャンが、こちらを向いていた。
でも、涙で滲んで、どんな表情をしているのかは分からなかった。
「泣いてる理由を聞いてやったほうがいいんですか?
それとも、気づかねぇフリして、サボってねぇで書類のサインをしろって叱ればいいんすか?
別に、俺はどっちでもいいですけど。」
ジャンは淡々とした口調で言う。
それが、2年間の間で私が知ったジャンのままで、また涙が溢れて来た。
普段の私ならきっと、ヘラヘラと笑いながら『どっちがいいかな~。』なんてとぼけられたはずだった。
でも、ダメだった。
幼い頃から憧れ続けていた調査兵団から去らなければならないだけではなく、命を預けることが出来るほどに信頼する仲間と離れ離れにならなければならない現実に、私はもう、押し潰されてしまいそうだったのだ。
「ジャン…っ、私…っ、みんなと離れ離れになんて…っ、なりたくない…っ。
ずっと一緒にいたい…っ。一緒にいたい~…っ。一緒にいたいのにぃ~…っ。」
零れ落ち続ける涙を、両手の甲で交互にすくいながら、私は子供みたいに泣きじゃくった。
小さなため息が聞こえた後、ガタッと椅子から立ち上がるような音がした。
それから、すぐだった。
私は、広い胸板と長い腕に身体を包まれていた。
「はいはい、よしよし。どうしちまったんすか。」
よしよし——。
まるで幼い子供を相手にしているみたいに、ジャンは私の髪を撫で続けた。
私の身体をすっぽりと包む腕の中がひどく温かくて、流れる涙が止まらなかった。
だから、ジャンのシャツの胸元を握りしめて、私は泣きじゃくった。
その間も、ジャンはずっと『よしよし。』と言いながら、頭を撫で続けてくれた。
しばらくそうしていれば、私は少しずつ落ち着いてきた。
それから、私を襲うのは、あり得ないほどの羞恥心だ。
ジャンの腕の中で、私は目を伏せて、出来る限り身体を小さく丸めた。
補佐の、しかも6つも歳下の後輩の前で、情けない醜態を晒してしまっただけには飽き足らず、子供みたいに頭を撫でられて縋り泣くなんて。
〝眠り姫〟というおかしな呼び名だけに留まらず、明日からは〝泣き虫姫〟と呼ばれてしまう。
いや、姫なんて可愛いものをつけてもらえるわけがない。
きっと——。
(あぁ、そっか…。おかしな呼び名も、なくなっちゃうんだ…。)
羞恥心に襲われていた心が、すーっと冷めていった。
私はまた、ありもしない妄想をしていたらしい。
「落ち着きました?」
頭上からジャンの声が降りてきて、ハッとして身体を離した。
「う、うん…っ。ごめん…っ。もう、大丈夫っ。」
ジャンから目を反らして言って、濡れた頬を両手で隠しながら、残った涙を拭った。
「それで。こうなったら、もう聞くしかないんで、聞きますけど。
何があったんすか?」
ジャンが訊ねた。
他の調査兵に伝える前に、補佐のジャンには早めに伝えておいた方がいい——。
そして、ジャンに鼻で笑われて、調査兵団を私が去った方が良い理由を、手に入れよう。
ジャンから逃げるように反らして伏せた目のまま、私は、調査兵団を去ることが決まったことを告げた。