◇第三十三話◇世界で一番強く優しいその手で、導いて
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長い腕を枕にして、私は芝生の上に寝転んでいた。
私の隣に横になっているジャンは、自由が利くもう片方の腕を折り曲げて枕にして、夜空を見上げている。
視界いっぱいに広がる星空の世界は、私の心と瞳を奪って放さない。
だって、いつもなら、手を伸ばそうとすら思えないほどに遥か遠い星達が、本当にすぐそばにあるのだ。
私のすぐそばで、彼らは、とても自由に、楽しそうに空を舞って、夜の闇を眩く輝かせている。
見渡す限りの幾千の星達は、やっぱりとても美しくて、彼らが精一杯に生きて、光り放つそれは、とても力強かった。
なんて、素敵な世界だろう。
すぐ目の前にある夜空の星に触れたくなって、両腕を上げて手を伸ばした。
すると、星がひとつ、まるで導かれるようにハラハラと舞いながらやってきた。
そして——。
「あ…!」
私の人差し指に、星がひとつ舞い降りた。
すると、それを合図にしていたみたいに、数匹の蛍達が、私の手の上で羽を休め出した。
「…近くで見たら虫だね。感触も虫だ。」
「でしょうね。」
まじまじと蛍を見ながら言う私に、ジャンが、可笑しそうに吹き出した。
正直、虫はあんまり得意じゃない。
さすがに、異常に大きいとか、異常に気持ち悪いとかなければ、いちいち騒ぐことはないけれど、得意か不得意かで言えば、断然後者だ。
出来れば、触りたくだってない。
でも———。
「今日は私と一緒に寝る?」
私は、手のひらの上で休む彼らに言った。
あの頃みたいに、私の妄想物語を、彼らは笑いながら聞いてくれるだろうか。
そして、いつの間にか眠気に襲われて、私を残して寝ちゃうのだ。
うるさい寝息と寝言が、どれほど私を安心させてくれていたのか、どれほど心地よかったのか、彼らに教えてあげればよかった。
「何勝手なこと言ってるんですか。
なまえさんは俺の抱き枕なんですから。
他の奴と寝るのは禁止だったでしょ。」
「あ…!もう…っ。」
ジャンが、私を乱暴に包むように抱きしめるから、驚いた蛍達が飛んで行ってしまった。
でも、彼らはすぐには離れてはいかず、ジャンに隠されてしまった私の耳元の辺りを飛び続けた。
羽根の音が、彼らの声に聞こえたのは、幻聴だろうか。
『いつもそばにいるよ。』
『私達が忘れないから、心配しないで。』
『消えたりしないよ。』
懐かしい声から聞く、この世の何よりも優しい言葉が、私の胸にじんわりと温かく広がる。
心地よくて、ひどく安心する。
それとも、残酷な世界もまだ捨てたものじゃないと私に思わせたのは、夜風に冷えた身体を暖めてくれる大きな腕だろうか。
ジャンの腕の中は、とても心地よくて、ひどく安心するのだ。
「星空の下じゃなくて、星空の中で、
ファースト・キスをするなんて、夢でも見たことないよ。」
ポツリ、と心のままにそうこぼして、私は無意識に頬を緩めた。
本当の意味では、ファースト・キスじゃないし、ジャンのトンデモ理論を受け入れるつもりはない。
でも、私にとって、初めてのキスだった。
キスをして欲しいと願って、唇に触れるのを待った、初めてのキスだった———。
あぁ、こんな風に私に思わせるのはきっと、私の口を割らせるのが得意な仲間達がすぐそばを綺麗な光になって飛んでいるせいだ。
ジャンの視線を感じたのと、自分が言ってしまった心の声のせいで、なんだか、急に恥ずかしくなって、私は顔を伏せるようにして、大きな胸板に頬を埋めた。
「何度でも、俺が連れてきますよ。
夢の中以外なら、星空の世界だって、どこにだって連れてってやりますから。」
ジャンが、私の頭を優しく撫でながら言う。
不思議だけれど、彼なら、本当に連れて行ってくれる気がした。
だって、彼は、残酷な世界を思い知らされるばかりだったこの田舎の町で、こんなに素敵な世界を見つけることが出来る人だから。
「ふふ、すごいね。頼りにしてるよ。」
「えぇ、どうぞ。」
大きな胸板から、心地の良い心臓の音が聞こえてくる。
ジャンは、生きている。
今このとき、私は、生きている。
星が幸せそうに瞬くこの美しい世界で、私とジャンは、生きているのだ。
世界で一番強い人の腕の中は、私をどの場所にいるよりも安心させて、幸せというのは自分達で見つけて、築き上げて、見失うことを恐れずに、大切に守ってさえいけば、永遠に続くのだと、希望を持たせる。
いつもなら、沢山の辛い経験で心をすり減らした弱虫の私が心の中にいて、叶いもしない希望を持つことは愚かだと言い聞かせようとする。
でも、ほんの小さなかすり傷も怖い極度の弱虫さえも、自信家な彼の前では無力だ。
そして、信じてしまいそうになる。
この世界には、夢を見なくたって、美しいもので溢れているのだと———。
そして、そこへ、ジャンなら私を連れて行ってくれるんだって————。
(でも…。)
私は、縋るように、ジャンの背中に手をまわして抱き着いた。
きっと、今夜のすべては、この星空の世界が私にかけた魔法の仕業だ。
夜が明けて、星が消えたとき、私はまた、残酷な現実に打ちのめされるのだ。
(嫌だな…。)
まるで、2人だけで出来ているみたいなこの星空の世界では、私を傷つけるものは何も存在しない。
あるのは、輝く羽根の瞬きと力強い心臓の音、それから、世界一強くて、私を守るように包む優しい腕だけだ。
このままずっと、ここにいたい。
この世界に、いたいな———。
「寝てもいい?」
「ここで?」
「今夜は、ここから離れたくないな…。」
「そうすっか。
———俺はいいですけど、明日は、ミケ分隊長に
朝から雷を落とされるでしょうね。」
「怒られる担当は、ジャンね。」
「またっすか。」
「だって、私、怒られたくないもん。」
「本当に、清々しいほどのクソ野郎だな。」
いつものセリフが頭の上から落ちてきて、私はクスクス笑った。
その夜、私は、眩しいほどに瞬く星空の中で夢を見た。
とても温かい夢だ。
優しくて、柔らかい光に包まれた、素敵な夢。
『なまえさん、朝ですよ。』
ジャンが私の手を引っ張る。
光の中をただただ真っすぐに、ジャンは私の手を引いて歩き続ける。
そして、その先には、私が失ったと思っていた仲間の笑顔や泣き顔や、生きている声があった————。
でも、残念ながら、目が覚めると、明るい青空の下で星達は姿を消していた。
そして、その代わりに、目を吊り上げて鬼みたいになったミケ分隊長が仁王立ちで私を見下ろしていた。
「踏み潰される前に、逃げるよ!!」
「は!?」
とび上がるように立ち上がった私は、先に起きていたジャンの手を握った。
そして、必死に逃げた。
逃げた先にあるのは、かつて、農作業を生業にした人達が精一杯に生きた証が、必ずどこかに残っているはずの土地だ。
だって、私達は、生きている限り、何かをどこかに刻んでいるはずだもの。
消えることなんて、絶対にない。
たとえ、住んでいた家が砂の城のように風に舞って消えても、誰かに忘れ去られても、消えない何かが、どこかに残っているはずなのだ。
私は、そうだと、信じたい。
昨日の夜、友人達が『消えないよ』と言ってくれたあの声を、私を星空の世界に連れて行ってくれたジャンを、現実の世界でカッコ悪く足掻き続ける自分を、信じたいのだ。
「うおーーーーーーー!!」
怪獣みたいな声を出して、ミケ分隊長が追いかけて来た。
後ろを向いた私は、直角に腕を曲げて、馬も驚くスピードで追いかけてくるミケ分隊長の形相を見てしまった。
「ギャーーーーー!!」
「ギャハハハハハッ。」
私は、悲鳴を上げて必死に逃げた。
手を引かれるジャンは、お腹を抱えて笑っていた。
そんな私達を、精鋭兵達が呆れたように見ている。
ほら、私達が築いたことは、良いことも悪いことも、馬鹿みたいなことだって、いつの間にか、よくあることみたいに刻まれているのだ。
それが、平和で嬉しいことなんだと、私達が気づくことも出来ないくらいに自然に、生活に馴染みながらも、確かにそこに存在している。
それをひとはきっと〝幸せ〟だと呼ぶのだろう。
「あ!コニー、これ、小麦の種ですよ!」
とうとう大男に捕まって、盛大な雷を落とされている私とジャンから少し離れた場所で、サシャが、それを見つけた。
しゃがみ込んだサシャが、小さな種子を数粒すくい上げる。
「小麦?食えんのか?」
隣にしゃがみ込んだコニーが、サシャの手のひらの中を覗き込む。
「今はまだ食べられませんけど、ちゃんと育てれば小麦になって
最終的にパァァンになります!」
「なんだそれ、すげーじゃねぇか!!」
サシャとコニーは、手当たり次第に小麦の種を拾った。
そして、壁内に持ち帰られ、調査兵団の兵舎内にある広場の一部を畑にして、大切に育てられた。
命を懸けて、丹精込めて、あの場所に生まれた小麦の種は、流通している小麦よりも品質が高く、少し先の未来で、たくさんの人達に愛される小麦になる。
そして、いつも資金繰りに苦しむ調査兵団の懐を助けてくれるのだ。
私は、もしかしたら、幸せが溢れる夢の世界に逃げている間に、たくさんの大切なことを見落としているのかもしれない。
この世界で、精一杯に生きた人たちの証や、生きていなければ見られない綺麗な景色、それから、本の中の物語よりもずっとずっと私を夢中にする恋とか————。
でも、私が数えきれないほどに見て来た悲劇が、私を臆病にする。
ジャンが見せてくれた星空の世界は、心を奪う素敵な世界は、壁内にはないのだ。
だから私はまだ、夢の世界にいたい。
現実は怖い。
痛いのは、好きじゃない。
弱虫だって、勝手だって、情けなくたって、いいでしょ。
傷つきたくないの、これ以上————。
私の隣に横になっているジャンは、自由が利くもう片方の腕を折り曲げて枕にして、夜空を見上げている。
視界いっぱいに広がる星空の世界は、私の心と瞳を奪って放さない。
だって、いつもなら、手を伸ばそうとすら思えないほどに遥か遠い星達が、本当にすぐそばにあるのだ。
私のすぐそばで、彼らは、とても自由に、楽しそうに空を舞って、夜の闇を眩く輝かせている。
見渡す限りの幾千の星達は、やっぱりとても美しくて、彼らが精一杯に生きて、光り放つそれは、とても力強かった。
なんて、素敵な世界だろう。
すぐ目の前にある夜空の星に触れたくなって、両腕を上げて手を伸ばした。
すると、星がひとつ、まるで導かれるようにハラハラと舞いながらやってきた。
そして——。
「あ…!」
私の人差し指に、星がひとつ舞い降りた。
すると、それを合図にしていたみたいに、数匹の蛍達が、私の手の上で羽を休め出した。
「…近くで見たら虫だね。感触も虫だ。」
「でしょうね。」
まじまじと蛍を見ながら言う私に、ジャンが、可笑しそうに吹き出した。
正直、虫はあんまり得意じゃない。
さすがに、異常に大きいとか、異常に気持ち悪いとかなければ、いちいち騒ぐことはないけれど、得意か不得意かで言えば、断然後者だ。
出来れば、触りたくだってない。
でも———。
「今日は私と一緒に寝る?」
私は、手のひらの上で休む彼らに言った。
あの頃みたいに、私の妄想物語を、彼らは笑いながら聞いてくれるだろうか。
そして、いつの間にか眠気に襲われて、私を残して寝ちゃうのだ。
うるさい寝息と寝言が、どれほど私を安心させてくれていたのか、どれほど心地よかったのか、彼らに教えてあげればよかった。
「何勝手なこと言ってるんですか。
なまえさんは俺の抱き枕なんですから。
他の奴と寝るのは禁止だったでしょ。」
「あ…!もう…っ。」
ジャンが、私を乱暴に包むように抱きしめるから、驚いた蛍達が飛んで行ってしまった。
でも、彼らはすぐには離れてはいかず、ジャンに隠されてしまった私の耳元の辺りを飛び続けた。
羽根の音が、彼らの声に聞こえたのは、幻聴だろうか。
『いつもそばにいるよ。』
『私達が忘れないから、心配しないで。』
『消えたりしないよ。』
懐かしい声から聞く、この世の何よりも優しい言葉が、私の胸にじんわりと温かく広がる。
心地よくて、ひどく安心する。
それとも、残酷な世界もまだ捨てたものじゃないと私に思わせたのは、夜風に冷えた身体を暖めてくれる大きな腕だろうか。
ジャンの腕の中は、とても心地よくて、ひどく安心するのだ。
「星空の下じゃなくて、星空の中で、
ファースト・キスをするなんて、夢でも見たことないよ。」
ポツリ、と心のままにそうこぼして、私は無意識に頬を緩めた。
本当の意味では、ファースト・キスじゃないし、ジャンのトンデモ理論を受け入れるつもりはない。
でも、私にとって、初めてのキスだった。
キスをして欲しいと願って、唇に触れるのを待った、初めてのキスだった———。
あぁ、こんな風に私に思わせるのはきっと、私の口を割らせるのが得意な仲間達がすぐそばを綺麗な光になって飛んでいるせいだ。
ジャンの視線を感じたのと、自分が言ってしまった心の声のせいで、なんだか、急に恥ずかしくなって、私は顔を伏せるようにして、大きな胸板に頬を埋めた。
「何度でも、俺が連れてきますよ。
夢の中以外なら、星空の世界だって、どこにだって連れてってやりますから。」
ジャンが、私の頭を優しく撫でながら言う。
不思議だけれど、彼なら、本当に連れて行ってくれる気がした。
だって、彼は、残酷な世界を思い知らされるばかりだったこの田舎の町で、こんなに素敵な世界を見つけることが出来る人だから。
「ふふ、すごいね。頼りにしてるよ。」
「えぇ、どうぞ。」
大きな胸板から、心地の良い心臓の音が聞こえてくる。
ジャンは、生きている。
今このとき、私は、生きている。
星が幸せそうに瞬くこの美しい世界で、私とジャンは、生きているのだ。
世界で一番強い人の腕の中は、私をどの場所にいるよりも安心させて、幸せというのは自分達で見つけて、築き上げて、見失うことを恐れずに、大切に守ってさえいけば、永遠に続くのだと、希望を持たせる。
いつもなら、沢山の辛い経験で心をすり減らした弱虫の私が心の中にいて、叶いもしない希望を持つことは愚かだと言い聞かせようとする。
でも、ほんの小さなかすり傷も怖い極度の弱虫さえも、自信家な彼の前では無力だ。
そして、信じてしまいそうになる。
この世界には、夢を見なくたって、美しいもので溢れているのだと———。
そして、そこへ、ジャンなら私を連れて行ってくれるんだって————。
(でも…。)
私は、縋るように、ジャンの背中に手をまわして抱き着いた。
きっと、今夜のすべては、この星空の世界が私にかけた魔法の仕業だ。
夜が明けて、星が消えたとき、私はまた、残酷な現実に打ちのめされるのだ。
(嫌だな…。)
まるで、2人だけで出来ているみたいなこの星空の世界では、私を傷つけるものは何も存在しない。
あるのは、輝く羽根の瞬きと力強い心臓の音、それから、世界一強くて、私を守るように包む優しい腕だけだ。
このままずっと、ここにいたい。
この世界に、いたいな———。
「寝てもいい?」
「ここで?」
「今夜は、ここから離れたくないな…。」
「そうすっか。
———俺はいいですけど、明日は、ミケ分隊長に
朝から雷を落とされるでしょうね。」
「怒られる担当は、ジャンね。」
「またっすか。」
「だって、私、怒られたくないもん。」
「本当に、清々しいほどのクソ野郎だな。」
いつものセリフが頭の上から落ちてきて、私はクスクス笑った。
その夜、私は、眩しいほどに瞬く星空の中で夢を見た。
とても温かい夢だ。
優しくて、柔らかい光に包まれた、素敵な夢。
『なまえさん、朝ですよ。』
ジャンが私の手を引っ張る。
光の中をただただ真っすぐに、ジャンは私の手を引いて歩き続ける。
そして、その先には、私が失ったと思っていた仲間の笑顔や泣き顔や、生きている声があった————。
でも、残念ながら、目が覚めると、明るい青空の下で星達は姿を消していた。
そして、その代わりに、目を吊り上げて鬼みたいになったミケ分隊長が仁王立ちで私を見下ろしていた。
「踏み潰される前に、逃げるよ!!」
「は!?」
とび上がるように立ち上がった私は、先に起きていたジャンの手を握った。
そして、必死に逃げた。
逃げた先にあるのは、かつて、農作業を生業にした人達が精一杯に生きた証が、必ずどこかに残っているはずの土地だ。
だって、私達は、生きている限り、何かをどこかに刻んでいるはずだもの。
消えることなんて、絶対にない。
たとえ、住んでいた家が砂の城のように風に舞って消えても、誰かに忘れ去られても、消えない何かが、どこかに残っているはずなのだ。
私は、そうだと、信じたい。
昨日の夜、友人達が『消えないよ』と言ってくれたあの声を、私を星空の世界に連れて行ってくれたジャンを、現実の世界でカッコ悪く足掻き続ける自分を、信じたいのだ。
「うおーーーーーーー!!」
怪獣みたいな声を出して、ミケ分隊長が追いかけて来た。
後ろを向いた私は、直角に腕を曲げて、馬も驚くスピードで追いかけてくるミケ分隊長の形相を見てしまった。
「ギャーーーーー!!」
「ギャハハハハハッ。」
私は、悲鳴を上げて必死に逃げた。
手を引かれるジャンは、お腹を抱えて笑っていた。
そんな私達を、精鋭兵達が呆れたように見ている。
ほら、私達が築いたことは、良いことも悪いことも、馬鹿みたいなことだって、いつの間にか、よくあることみたいに刻まれているのだ。
それが、平和で嬉しいことなんだと、私達が気づくことも出来ないくらいに自然に、生活に馴染みながらも、確かにそこに存在している。
それをひとはきっと〝幸せ〟だと呼ぶのだろう。
「あ!コニー、これ、小麦の種ですよ!」
とうとう大男に捕まって、盛大な雷を落とされている私とジャンから少し離れた場所で、サシャが、それを見つけた。
しゃがみ込んだサシャが、小さな種子を数粒すくい上げる。
「小麦?食えんのか?」
隣にしゃがみ込んだコニーが、サシャの手のひらの中を覗き込む。
「今はまだ食べられませんけど、ちゃんと育てれば小麦になって
最終的にパァァンになります!」
「なんだそれ、すげーじゃねぇか!!」
サシャとコニーは、手当たり次第に小麦の種を拾った。
そして、壁内に持ち帰られ、調査兵団の兵舎内にある広場の一部を畑にして、大切に育てられた。
命を懸けて、丹精込めて、あの場所に生まれた小麦の種は、流通している小麦よりも品質が高く、少し先の未来で、たくさんの人達に愛される小麦になる。
そして、いつも資金繰りに苦しむ調査兵団の懐を助けてくれるのだ。
私は、もしかしたら、幸せが溢れる夢の世界に逃げている間に、たくさんの大切なことを見落としているのかもしれない。
この世界で、精一杯に生きた人たちの証や、生きていなければ見られない綺麗な景色、それから、本の中の物語よりもずっとずっと私を夢中にする恋とか————。
でも、私が数えきれないほどに見て来た悲劇が、私を臆病にする。
ジャンが見せてくれた星空の世界は、心を奪う素敵な世界は、壁内にはないのだ。
だから私はまだ、夢の世界にいたい。
現実は怖い。
痛いのは、好きじゃない。
弱虫だって、勝手だって、情けなくたって、いいでしょ。
傷つきたくないの、これ以上————。