◇第十八話◇ご褒美を独り占めさせて
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2階の一番奥にあるのが私の部屋で、廊下を挟んでだ反対奥に、客室がある。
結婚を考えている恋人を実家に連れてくるということの意味を深く考えていなかった私は、ジャンは客室に泊るものだとばかり思っていたのだ。
でも、お風呂上がりのジャンが入って来たのは、客室ではなくて、私がベッドでゴロゴロしていた部屋だった。
ただ、兵舎でも私が寝るまで部屋で2人きりでいることなんて珍しいことではなかったし、特に抵抗もなかった。
お風呂上がりのジャンは、兵舎にいるときと同じように黒い長袖のシャツとグレーのスウェット姿で、いつもとは違うのは、私のお気に入りのシャンプーの香りがしていたくらいだ。
いつもみたいに私はベッドの上でゴロゴロしていて、いつもとは違って上官に押しつけられた書類仕事のないジャンは、手持ち無沙汰なのか、窓辺の椅子に座り、窓枠に肘をついて、外を眺めていた。
ふかふかで寝心地のいいダブルサイズの大きなベッドは、まだ子供の頃、初めて自分の部屋を与えられることになったとき、寝具屋で、これじゃないとイヤだと大泣きして買ってもらったものだ。
柔らかいベッドに寝転んで、のんびりと天井を眺めながら、開いた窓から流れ込んでくるひんやりとした夜風を感じていたら、気持ち良くて眠たくなってくる。
でも、ジャンは、夜風を感じる余裕はないのか、端正な横顔は、何か考え事をしているようで、少しだけ眉間に皴が寄っている。
上官の恋人役として両親に結婚の挨拶までしてしまって、とうとう後には引けなくなったと思っているのだろうか———。
「ねぇ、ジャン。」
身体を起こして、私はジャンに声をかけた。
窓の外を眺めていた横顔がこちらを向く。
「今日はありがとうね。ジャンのおかげで、調査兵団に残れる。」
礼を言うと、ジャンは一度、何かを言いかけた後に、思い直したように口を閉じた。
そして、椅子から立ち上がったジャンは、ベッドの方へとやってくると、ベッドの中央に座る私の顔が見えるように、縁に深めに腰を降ろした。
長い脚は片方折り曲げてベッドに乗せて、私の方を向いて、口を開く。
「俺も、自分でもすげぇ頑張ったと思うんですよ。
ご褒美貰ってもいいんじゃねぇかなって、考えてたところです。」
「ご褒美?可愛いね。」
思わずクスクスと笑ってしまう。
両親に堂々と結婚の挨拶をしてくれたジャンが、すごく大人に思えた1日だった。
だから、〝ご褒美〟という響きが子供っぽくて、なんだか安心した。
「呑気ななまえさんの方がよっぽど可愛いですけどね。」
ジャンが嫌味っぽく言う。
でも、普段は生意気な補佐官の可愛いところを見られた気がした私は、自分の方が大人だと感じられたことが嬉しくて、嫌味もスルーできた。
「私にあげられるものなら、なんでもあげちゃうよ。
何が欲しいの?」
私は、小さな子供を甘やかすみたいに言った。
すると、ジャンは、私の頬に手を添えてから、想像もしていなかった欲しいものを教えてくれた。
「なまえさん。」
視線がカチリと重なる。
私を見ているジャンの目は冗談を言っているようには見えなかった。
熱を孕んだ強い眼差しの中にいたのは、生意気な補佐官ではなくて、私が見たことのない男のジャンだった。
「あげられるものなら、なんでもくれるんでしょ。
くださいよ。」
唐突なそれに、どう反応したらいいか分からない私に、ジャンは、さらにそう続ける。
まるで、私から逃げ道を失くそうとしているみたいに感じた。
「え~…、だって、ほら、私は…、ものじゃないから~…。
どうやって、あげればいいか、分かんないな~。」
私の目は泳いでいたと思う。
誤魔化し方も途方もなく下手だったし、情けなかった。
だって、いい大人だし、世界中にある本をすべて読み尽くした私は、男女がひとつのベッドに入るというのが、どういうことなのかは知っている。
でもそれは、恋人同士だったり、そうではなかったとしても、好きな人同士でする行為なはずだ。
だから、同じ部屋にジャンがいても、何も考えていなかった。
それにそもそも、そういうのは、ご褒美とかで、あげるようなものじゃない。
そのはずなのに———。
「誤魔化し方が下手過ぎですよ。
ちゃんと断ることも出来ねぇなら、本気でもらうんで。」
え———。
そう思ったときには、ジャンに腰を抱き寄せられて、唇を重ねられていた。
いきなり口を塞がれるのもこれが数回目なせいで、これが私にとって人生で何度目のキスなのかすらもうわからない。
やめて———。
ジャンの胸板を必死に押し返せば、少しだけ身体が離れて、唇に押しつけられていた圧迫感から解放された。
「なんすか?」
少し不機嫌にジャンが言う。
どうして私が怒られているような雰囲気になっているのか、分からない。
「あげるって言ってないのに。」
「俺が、もらうって決めました。」
「とんでもない横暴だってよく私のこと言うけど、
ジャンも相当だよ。」
「なら、これでおあいこっすね。」
ジャンは、悪戯っ子みたいに片方の口の端を上げて言うと、また私にキスをしようとしてきた。
でも、私だって、迫り来る大きな巨人の手を避けることが出来るくらいの反射神経は磨いてきたのだ。
毎回、ジャンの好きにはさせない。
「もうあげたでしょ。」
私は、自分の唇を、手の甲で隠した。
「もらってないですけど。」
ジャンは、納得がいっていないような顔をして言う。
でもここで負けてはいけないと思った。
意地ではなくて、私はそう、ただ、この場をやり過ごすことばかり考えていたのだ。
だから、平然を装って、それが当然であるような顔をしてこう言った。
「したでしょ、キス。」
「それ、本気で言ってますか?
———もしそうだとしたら、アンタ、本当の馬鹿だな。」
ジャンは思いきり眉を顰めて言った。
誤魔化しがきかなかったどころか、ひどく不機嫌にさせてしまったことだけを理解した。
その次の瞬間にはもう、私の視界は反転していて、ジャン越しに天井を見上げていた。
顰められた眉と、睨むように鋭くなった切れ長の目が、私を見下ろす。
2人分の重たさが一箇所にかかったせいで、柔らかいベッドに私の背中が沈む。
両手首はジャンに捕まえられて、ベッドに縫い付けられていた。
でも、そうではなくても、男の人に押し倒されたのも初めてなら、この状況に頭が真っ白の私には、抵抗する心の余裕はなかった。
私にできるのはただ、目を見開いて、私を見下ろすジャンを見上げることだけだ。
「ご褒美って言った俺が間違ってました。」
「…へ?」
私が想像するようなことをいきなりされるのだとばかり思っていたから、ジャンが不意に口にしたそれに、おかしな声が漏れてしまった。
「なまえさん、俺、19っすよ。」
「…うん、知ってるよ。」
「18から大人の女と付き合ってる若い男が、
2年間も手を出さずに我慢出来てると思います?」
「それは…、出来ないの?」
本気で訊ねた私に、ジャンは、これ見よがしにため息を吐いた。
「無理っすよ。少なくとも、俺なら1週間も待てずに押し倒してます。」
ジャンに言われて、そうだろうなと思った。
だって、実際に、ジャンはこうして、恋人のフリをしているだけの上官をベッドに押し倒している。
本物の恋人だったのなら、もっと早くそういう関係になっていそうだ。
「恋人のフリを徹底するなら、そこも忠実にするべきなんじゃないんすかね。」
抵抗がないと分かったからなのか、ジャンは手首を掴んでいた右手を放すと、私のシャツの中央に並ぶボタンを上から順に指でなぞり始めた。
ボタンに指が引っかかりながら、ゆっくりと降りていく。
外されたわけではないのに、少し強めに肌を押されたせいで、思わず身体が小さく震える。
「そこまでしなくても———。」
「知らないんすか?そういう雰囲気ってのは出ちまうものなんですよ。
結婚の約束までしたのに、2年間俺達の間に何もねぇなんて思われたら、怪しまれて終わりです。
———いいんですか?調査兵団にいられなくなっても。」
私を見下ろすジャンの目は、脅そうとしているみたいだった。
実際、間違いではないと思う。
それが勘違いだとするには、ジャンの声はあまりにも低く、重たかったのだ。
無防備なシャツの中心をなぞって降りて行ったジャンの指は、来た道を戻って、一番上のボタンに触れる。
外しはしないけれど、ジャンの指は、ボタンを摘まんだり、はじいたりして、わざとらしく悪戯をし始めた。
それは、私を緊張させて、身体を強張らせていく。
そうやって、シャツが広げられる想像が広がれば広がるほど、逃げ道が閉ざされていく感覚が、私を支配していった。
「…分かった。頑張ってくれたジャンへのご褒美と、
これからの私のために、ちゃんとあげる。」
私はギュッと瞼を絞るみたいに、目を閉じた。
シャツのボタンで遊んでいたジャンの指の動きがピタリと止まったのが分かった。
ジャンの息遣いが、近づいてくる。
物語で、読んだことがある。
初めては、とても痛くて、怖くて、でも、大好きな人が相手だから、涙が出るほどにとても幸せなものなのだと書いていた。
私の初めても、きっとそうなのだと信じていた。
大好きな人に、慈しむように大切に触れられて、優しく抱きしめてもらうのだと信じて疑わなかった。
でも現実は、ただ痛いだけで、心も痛くて、それでも、抵抗も出来ないまま終わるのだ。
そう、覚悟した。
でも———。
額に、柔らかい感触が触れたと思った瞬間に、拘束されていた手首が離れて、重たくのしかかっていた圧迫感が消えた。
不思議に思って、ゆっくりと瞼を押し上げた。
短い時間だったはずなのに、キツく瞼を結んでいたせいで、部屋の灯りの眩しさに思わず目を細めてしまった。
眩しい光の景色はぼんやりとぼやけていて、滲んで見えた。
その向こうに、ベッドに手をついて、私を見下ろすジャンがいた。
「冗談ですよ。」
「じょうだん?」
私から出たのは、自分も想像していない震えた声だった。
「からかいが過ぎました。すみません。」
そう言いながら、ジャンが私の下瞼の縁を指でなぞる。
そのおかげで、私の視界が少しだけハッキリした。
私を見下ろすジャンは、神妙な顔をしていて、聞いたばかりの謝罪が心からだと知った。
泣くほど怖かったなんて、自分でも気づいていなかった。
でも、冗談だと分かった私は、急にホッとして、今度こそ意識して泣いてしまいそうだった。
だから、私はまた、お得意のヘラヘラした笑いに変えて堪えた。
「もう~、ビックリしちゃった。ジャン、演技が上手なんだよ~。
恋人のフリも完璧すぎて、妄想の中の王子様みたいでドキドキしちゃうよ~。」
ヘラヘラする私に、ジャンが少し眉を顰めた。
ジャンには、嘘っぽい笑いを見抜くことなんて容易いのだ。
それがきっと、また怒らせてしまったのだろう。
だから———。
「言っておきますけど。」
ベッドに寝ころんだままの私の身体は、またジャンに拘束されて、組み敷かれていた。
驚いて、目を見開く私に、ジャンが言う。
「今はシませんけど、必要な状況になれば、
アンタが泣こうが、喚こうが、俺はヤるんで。
覚悟しといてくださいよ。」
挑むような目で見下ろされて、私は思わず、ゴクリと生唾を飲み込んだ。
「ひつような、じょうきょう…?」
「知りたいですか?」
「・・・いい。怖い。」
「そうですか。」
「よく分からないけど、そうならないように気をつける。」
「そうっすね。あんまり俺を怒らせない方がいいですよ。
アンタなんて、男の俺なら簡単に組み敷けるし、
好きなように出来るってこと、覚えておいてください。」
「…分かった。」
ジャンに言われなくても、それを思い知った私は、大きく頷いた。
それに満足したのかは分からないけれど、ジャンは私を組み敷いていた身体を起こして、離れてくれた。
ホッとしたのと同時に、また押し倒されてしまわないようにと思って倒れたままだった身体を今度こそ起こした。
でも、そんな私を見て、ジャンが不思議そうに訊ねる。
「寝ないんですか?」
「え、寝るの?」
「さすがに、長旅で疲れてるんでもう眠いです。」
「そっか。そういえばそうだね。眠たかったの忘れてた。
ジャンに言われたら、眠たいの思い出した。すごい眠い。」
「なんすか、それ。」
ジャンが眉尻を下げて、おかしそうに苦笑する。
いつものジャンが戻って来たような気がして、私はすごくホッとした。
だって、さっきまでのジャンは、まるで、知らない男の人みたいで怖かったから———。
広いダブルベッドに私が入った後に、ジャンが部屋の灯りを消した。
「ご褒美、これにします。」
ジャンは、ベッドに入ってくると、私の腰を抱き寄せた。
私の視界は、ヘッドボードの淡い明かりに照らされる黒いシャツと、そこから覗く鎖骨だけになった。
私よりも太い鎖骨は、オレンジ色の灯りがあたることで影が出来るせいで、彼が男なのだということを必要以上に主張されているような気がした。
「これ?」
「俺専用の抱き枕。」
「…もしかしてそれ、私のこと?」
「他の奴に貸してやる気ないんで、
なまえさんも他の奴に勝手に抱きしめられて寝るの禁止。」
「私を勝手に抱きしめるのなんて、ジャンだけだよ。
そもそも私は、許可出してな——。」
「あ~、あったけぇ。やべぇ、すぐ眠れそう。」
人の話も聞かないで、呑気にそう言って、ジャンは、私を自分の元に引き寄せるように抱きしめる。
「ねぇってば。私は抱き枕じゃないよ。」
やっと言い返した私に返ってきたのは、気持ちよさそうな寝息だった。
今の今まで喋っていたのに、あっという間に眠ってしまったらしい。
人間とはこんなにも一瞬で眠れるのかと、驚いた。
でも、それと同時に、ジャンが似たようなことを言っているのを聞いたことがあることも思い出した。
喋っていた相手がいきなり眠ることがこんなに衝撃的なことだなんて、知らなかった。
(明日、ジャンが起きたらからかってやろう。)
そんなことを思いながら、私は、鎖骨しか見えていなかった視界を少し上げた。
私を抱きしめたままのジャンは、身体を丸めるようにしていて眠っていた。
俯いたように下を向いているから、気持ちよさそうな寝顔がよく見えた。
そういえば、いつも眠るのは私の方が早かったから、ジャンが寝ているのを見たのは、初めてかもしれない。
少しだけ口が開いているせいなのか、無防備な寝顔は、起きているときよりも幼く見えた。
(へぇ、意外。睫毛、長いんだな~。)
目尻の辺りに触れると、ジャンが少しだけ顔を顰めた。
顔に触れられるのが好きではないらしい。
不意に、ジャンが、抱きしめる私の身体をさらに自分に引き寄せた。
身体が密着しすぎたせいで、このままでは眠りづらそうだったから、離れようとしたのだけれど、大きな胸板にぴたりとくっついた額はそこからピクリとも動かない。
どうやら私は、今夜、この硬くて長い2本の腕に拘束された状態で眠らないといけないらしい。
でも、それも、いつもとても頑張ってくれる補佐官へのご褒美だと思えば、頑張れなくもない。
大好きな眠りを邪魔されるわけでもなく、むしろ、寝ている間にご褒美をあげられるなんて、ラッキーだ。
そう思いながら、私は目を閉じた。
ついでに、妄想をしながら眠るのもいい。
それなら、昼間の妄想の続きにしよう。
黒い馬に乗って私を攫いに来た騎士と辿り着いたのは、古い小屋。
寝具どころか毛布もない。薪もないから、暖炉の火もつけられない。
だから、騎士は、私が凍えないようにギュッと抱きしめて暖めてくれる。
そして、私の体温が、騎士の身体も暖めるのだ。
私と騎士はそうやって、凍える夜を越える。
初めての、2人きりの夜は、そうやって始まった。
私は、眠るジャンの腕に包まれて、騎士との夢を見た————。
結婚を考えている恋人を実家に連れてくるということの意味を深く考えていなかった私は、ジャンは客室に泊るものだとばかり思っていたのだ。
でも、お風呂上がりのジャンが入って来たのは、客室ではなくて、私がベッドでゴロゴロしていた部屋だった。
ただ、兵舎でも私が寝るまで部屋で2人きりでいることなんて珍しいことではなかったし、特に抵抗もなかった。
お風呂上がりのジャンは、兵舎にいるときと同じように黒い長袖のシャツとグレーのスウェット姿で、いつもとは違うのは、私のお気に入りのシャンプーの香りがしていたくらいだ。
いつもみたいに私はベッドの上でゴロゴロしていて、いつもとは違って上官に押しつけられた書類仕事のないジャンは、手持ち無沙汰なのか、窓辺の椅子に座り、窓枠に肘をついて、外を眺めていた。
ふかふかで寝心地のいいダブルサイズの大きなベッドは、まだ子供の頃、初めて自分の部屋を与えられることになったとき、寝具屋で、これじゃないとイヤだと大泣きして買ってもらったものだ。
柔らかいベッドに寝転んで、のんびりと天井を眺めながら、開いた窓から流れ込んでくるひんやりとした夜風を感じていたら、気持ち良くて眠たくなってくる。
でも、ジャンは、夜風を感じる余裕はないのか、端正な横顔は、何か考え事をしているようで、少しだけ眉間に皴が寄っている。
上官の恋人役として両親に結婚の挨拶までしてしまって、とうとう後には引けなくなったと思っているのだろうか———。
「ねぇ、ジャン。」
身体を起こして、私はジャンに声をかけた。
窓の外を眺めていた横顔がこちらを向く。
「今日はありがとうね。ジャンのおかげで、調査兵団に残れる。」
礼を言うと、ジャンは一度、何かを言いかけた後に、思い直したように口を閉じた。
そして、椅子から立ち上がったジャンは、ベッドの方へとやってくると、ベッドの中央に座る私の顔が見えるように、縁に深めに腰を降ろした。
長い脚は片方折り曲げてベッドに乗せて、私の方を向いて、口を開く。
「俺も、自分でもすげぇ頑張ったと思うんですよ。
ご褒美貰ってもいいんじゃねぇかなって、考えてたところです。」
「ご褒美?可愛いね。」
思わずクスクスと笑ってしまう。
両親に堂々と結婚の挨拶をしてくれたジャンが、すごく大人に思えた1日だった。
だから、〝ご褒美〟という響きが子供っぽくて、なんだか安心した。
「呑気ななまえさんの方がよっぽど可愛いですけどね。」
ジャンが嫌味っぽく言う。
でも、普段は生意気な補佐官の可愛いところを見られた気がした私は、自分の方が大人だと感じられたことが嬉しくて、嫌味もスルーできた。
「私にあげられるものなら、なんでもあげちゃうよ。
何が欲しいの?」
私は、小さな子供を甘やかすみたいに言った。
すると、ジャンは、私の頬に手を添えてから、想像もしていなかった欲しいものを教えてくれた。
「なまえさん。」
視線がカチリと重なる。
私を見ているジャンの目は冗談を言っているようには見えなかった。
熱を孕んだ強い眼差しの中にいたのは、生意気な補佐官ではなくて、私が見たことのない男のジャンだった。
「あげられるものなら、なんでもくれるんでしょ。
くださいよ。」
唐突なそれに、どう反応したらいいか分からない私に、ジャンは、さらにそう続ける。
まるで、私から逃げ道を失くそうとしているみたいに感じた。
「え~…、だって、ほら、私は…、ものじゃないから~…。
どうやって、あげればいいか、分かんないな~。」
私の目は泳いでいたと思う。
誤魔化し方も途方もなく下手だったし、情けなかった。
だって、いい大人だし、世界中にある本をすべて読み尽くした私は、男女がひとつのベッドに入るというのが、どういうことなのかは知っている。
でもそれは、恋人同士だったり、そうではなかったとしても、好きな人同士でする行為なはずだ。
だから、同じ部屋にジャンがいても、何も考えていなかった。
それにそもそも、そういうのは、ご褒美とかで、あげるようなものじゃない。
そのはずなのに———。
「誤魔化し方が下手過ぎですよ。
ちゃんと断ることも出来ねぇなら、本気でもらうんで。」
え———。
そう思ったときには、ジャンに腰を抱き寄せられて、唇を重ねられていた。
いきなり口を塞がれるのもこれが数回目なせいで、これが私にとって人生で何度目のキスなのかすらもうわからない。
やめて———。
ジャンの胸板を必死に押し返せば、少しだけ身体が離れて、唇に押しつけられていた圧迫感から解放された。
「なんすか?」
少し不機嫌にジャンが言う。
どうして私が怒られているような雰囲気になっているのか、分からない。
「あげるって言ってないのに。」
「俺が、もらうって決めました。」
「とんでもない横暴だってよく私のこと言うけど、
ジャンも相当だよ。」
「なら、これでおあいこっすね。」
ジャンは、悪戯っ子みたいに片方の口の端を上げて言うと、また私にキスをしようとしてきた。
でも、私だって、迫り来る大きな巨人の手を避けることが出来るくらいの反射神経は磨いてきたのだ。
毎回、ジャンの好きにはさせない。
「もうあげたでしょ。」
私は、自分の唇を、手の甲で隠した。
「もらってないですけど。」
ジャンは、納得がいっていないような顔をして言う。
でもここで負けてはいけないと思った。
意地ではなくて、私はそう、ただ、この場をやり過ごすことばかり考えていたのだ。
だから、平然を装って、それが当然であるような顔をしてこう言った。
「したでしょ、キス。」
「それ、本気で言ってますか?
———もしそうだとしたら、アンタ、本当の馬鹿だな。」
ジャンは思いきり眉を顰めて言った。
誤魔化しがきかなかったどころか、ひどく不機嫌にさせてしまったことだけを理解した。
その次の瞬間にはもう、私の視界は反転していて、ジャン越しに天井を見上げていた。
顰められた眉と、睨むように鋭くなった切れ長の目が、私を見下ろす。
2人分の重たさが一箇所にかかったせいで、柔らかいベッドに私の背中が沈む。
両手首はジャンに捕まえられて、ベッドに縫い付けられていた。
でも、そうではなくても、男の人に押し倒されたのも初めてなら、この状況に頭が真っ白の私には、抵抗する心の余裕はなかった。
私にできるのはただ、目を見開いて、私を見下ろすジャンを見上げることだけだ。
「ご褒美って言った俺が間違ってました。」
「…へ?」
私が想像するようなことをいきなりされるのだとばかり思っていたから、ジャンが不意に口にしたそれに、おかしな声が漏れてしまった。
「なまえさん、俺、19っすよ。」
「…うん、知ってるよ。」
「18から大人の女と付き合ってる若い男が、
2年間も手を出さずに我慢出来てると思います?」
「それは…、出来ないの?」
本気で訊ねた私に、ジャンは、これ見よがしにため息を吐いた。
「無理っすよ。少なくとも、俺なら1週間も待てずに押し倒してます。」
ジャンに言われて、そうだろうなと思った。
だって、実際に、ジャンはこうして、恋人のフリをしているだけの上官をベッドに押し倒している。
本物の恋人だったのなら、もっと早くそういう関係になっていそうだ。
「恋人のフリを徹底するなら、そこも忠実にするべきなんじゃないんすかね。」
抵抗がないと分かったからなのか、ジャンは手首を掴んでいた右手を放すと、私のシャツの中央に並ぶボタンを上から順に指でなぞり始めた。
ボタンに指が引っかかりながら、ゆっくりと降りていく。
外されたわけではないのに、少し強めに肌を押されたせいで、思わず身体が小さく震える。
「そこまでしなくても———。」
「知らないんすか?そういう雰囲気ってのは出ちまうものなんですよ。
結婚の約束までしたのに、2年間俺達の間に何もねぇなんて思われたら、怪しまれて終わりです。
———いいんですか?調査兵団にいられなくなっても。」
私を見下ろすジャンの目は、脅そうとしているみたいだった。
実際、間違いではないと思う。
それが勘違いだとするには、ジャンの声はあまりにも低く、重たかったのだ。
無防備なシャツの中心をなぞって降りて行ったジャンの指は、来た道を戻って、一番上のボタンに触れる。
外しはしないけれど、ジャンの指は、ボタンを摘まんだり、はじいたりして、わざとらしく悪戯をし始めた。
それは、私を緊張させて、身体を強張らせていく。
そうやって、シャツが広げられる想像が広がれば広がるほど、逃げ道が閉ざされていく感覚が、私を支配していった。
「…分かった。頑張ってくれたジャンへのご褒美と、
これからの私のために、ちゃんとあげる。」
私はギュッと瞼を絞るみたいに、目を閉じた。
シャツのボタンで遊んでいたジャンの指の動きがピタリと止まったのが分かった。
ジャンの息遣いが、近づいてくる。
物語で、読んだことがある。
初めては、とても痛くて、怖くて、でも、大好きな人が相手だから、涙が出るほどにとても幸せなものなのだと書いていた。
私の初めても、きっとそうなのだと信じていた。
大好きな人に、慈しむように大切に触れられて、優しく抱きしめてもらうのだと信じて疑わなかった。
でも現実は、ただ痛いだけで、心も痛くて、それでも、抵抗も出来ないまま終わるのだ。
そう、覚悟した。
でも———。
額に、柔らかい感触が触れたと思った瞬間に、拘束されていた手首が離れて、重たくのしかかっていた圧迫感が消えた。
不思議に思って、ゆっくりと瞼を押し上げた。
短い時間だったはずなのに、キツく瞼を結んでいたせいで、部屋の灯りの眩しさに思わず目を細めてしまった。
眩しい光の景色はぼんやりとぼやけていて、滲んで見えた。
その向こうに、ベッドに手をついて、私を見下ろすジャンがいた。
「冗談ですよ。」
「じょうだん?」
私から出たのは、自分も想像していない震えた声だった。
「からかいが過ぎました。すみません。」
そう言いながら、ジャンが私の下瞼の縁を指でなぞる。
そのおかげで、私の視界が少しだけハッキリした。
私を見下ろすジャンは、神妙な顔をしていて、聞いたばかりの謝罪が心からだと知った。
泣くほど怖かったなんて、自分でも気づいていなかった。
でも、冗談だと分かった私は、急にホッとして、今度こそ意識して泣いてしまいそうだった。
だから、私はまた、お得意のヘラヘラした笑いに変えて堪えた。
「もう~、ビックリしちゃった。ジャン、演技が上手なんだよ~。
恋人のフリも完璧すぎて、妄想の中の王子様みたいでドキドキしちゃうよ~。」
ヘラヘラする私に、ジャンが少し眉を顰めた。
ジャンには、嘘っぽい笑いを見抜くことなんて容易いのだ。
それがきっと、また怒らせてしまったのだろう。
だから———。
「言っておきますけど。」
ベッドに寝ころんだままの私の身体は、またジャンに拘束されて、組み敷かれていた。
驚いて、目を見開く私に、ジャンが言う。
「今はシませんけど、必要な状況になれば、
アンタが泣こうが、喚こうが、俺はヤるんで。
覚悟しといてくださいよ。」
挑むような目で見下ろされて、私は思わず、ゴクリと生唾を飲み込んだ。
「ひつような、じょうきょう…?」
「知りたいですか?」
「・・・いい。怖い。」
「そうですか。」
「よく分からないけど、そうならないように気をつける。」
「そうっすね。あんまり俺を怒らせない方がいいですよ。
アンタなんて、男の俺なら簡単に組み敷けるし、
好きなように出来るってこと、覚えておいてください。」
「…分かった。」
ジャンに言われなくても、それを思い知った私は、大きく頷いた。
それに満足したのかは分からないけれど、ジャンは私を組み敷いていた身体を起こして、離れてくれた。
ホッとしたのと同時に、また押し倒されてしまわないようにと思って倒れたままだった身体を今度こそ起こした。
でも、そんな私を見て、ジャンが不思議そうに訊ねる。
「寝ないんですか?」
「え、寝るの?」
「さすがに、長旅で疲れてるんでもう眠いです。」
「そっか。そういえばそうだね。眠たかったの忘れてた。
ジャンに言われたら、眠たいの思い出した。すごい眠い。」
「なんすか、それ。」
ジャンが眉尻を下げて、おかしそうに苦笑する。
いつものジャンが戻って来たような気がして、私はすごくホッとした。
だって、さっきまでのジャンは、まるで、知らない男の人みたいで怖かったから———。
広いダブルベッドに私が入った後に、ジャンが部屋の灯りを消した。
「ご褒美、これにします。」
ジャンは、ベッドに入ってくると、私の腰を抱き寄せた。
私の視界は、ヘッドボードの淡い明かりに照らされる黒いシャツと、そこから覗く鎖骨だけになった。
私よりも太い鎖骨は、オレンジ色の灯りがあたることで影が出来るせいで、彼が男なのだということを必要以上に主張されているような気がした。
「これ?」
「俺専用の抱き枕。」
「…もしかしてそれ、私のこと?」
「他の奴に貸してやる気ないんで、
なまえさんも他の奴に勝手に抱きしめられて寝るの禁止。」
「私を勝手に抱きしめるのなんて、ジャンだけだよ。
そもそも私は、許可出してな——。」
「あ~、あったけぇ。やべぇ、すぐ眠れそう。」
人の話も聞かないで、呑気にそう言って、ジャンは、私を自分の元に引き寄せるように抱きしめる。
「ねぇってば。私は抱き枕じゃないよ。」
やっと言い返した私に返ってきたのは、気持ちよさそうな寝息だった。
今の今まで喋っていたのに、あっという間に眠ってしまったらしい。
人間とはこんなにも一瞬で眠れるのかと、驚いた。
でも、それと同時に、ジャンが似たようなことを言っているのを聞いたことがあることも思い出した。
喋っていた相手がいきなり眠ることがこんなに衝撃的なことだなんて、知らなかった。
(明日、ジャンが起きたらからかってやろう。)
そんなことを思いながら、私は、鎖骨しか見えていなかった視界を少し上げた。
私を抱きしめたままのジャンは、身体を丸めるようにしていて眠っていた。
俯いたように下を向いているから、気持ちよさそうな寝顔がよく見えた。
そういえば、いつも眠るのは私の方が早かったから、ジャンが寝ているのを見たのは、初めてかもしれない。
少しだけ口が開いているせいなのか、無防備な寝顔は、起きているときよりも幼く見えた。
(へぇ、意外。睫毛、長いんだな~。)
目尻の辺りに触れると、ジャンが少しだけ顔を顰めた。
顔に触れられるのが好きではないらしい。
不意に、ジャンが、抱きしめる私の身体をさらに自分に引き寄せた。
身体が密着しすぎたせいで、このままでは眠りづらそうだったから、離れようとしたのだけれど、大きな胸板にぴたりとくっついた額はそこからピクリとも動かない。
どうやら私は、今夜、この硬くて長い2本の腕に拘束された状態で眠らないといけないらしい。
でも、それも、いつもとても頑張ってくれる補佐官へのご褒美だと思えば、頑張れなくもない。
大好きな眠りを邪魔されるわけでもなく、むしろ、寝ている間にご褒美をあげられるなんて、ラッキーだ。
そう思いながら、私は目を閉じた。
ついでに、妄想をしながら眠るのもいい。
それなら、昼間の妄想の続きにしよう。
黒い馬に乗って私を攫いに来た騎士と辿り着いたのは、古い小屋。
寝具どころか毛布もない。薪もないから、暖炉の火もつけられない。
だから、騎士は、私が凍えないようにギュッと抱きしめて暖めてくれる。
そして、私の体温が、騎士の身体も暖めるのだ。
私と騎士はそうやって、凍える夜を越える。
初めての、2人きりの夜は、そうやって始まった。
私は、眠るジャンの腕に包まれて、騎士との夢を見た————。