◇第十四話◇幸せな2人に遠い日を想う
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ジャンとなまえは、予定通り、始発の駅馬車に乗っていた。
早朝だからなのか、一緒に乗っているのは、向かいの席に座っている老夫婦だけだった。
これ以上、乗り込む人がいないことを馭者が確認した後、駅馬車がゆっくりと走り出した。
すると、老夫婦の夫人の方がバッグから紙袋を取り出した。
そこから出て来たのは、パンだった。
夫人からパンを受け取ったご主人は、とても自然な動作でそれを半分にわけた。そして、当然のように大きい方を夫人に渡す。
夫人は、パンの大きさに気づいているのか、いないのか、嬉しそうに微笑んで礼を言っていた。
とても仲睦まじい老夫婦を、ジャンがなんとなく眺めていると、なまえが話しかけてきた。
「ねぇ、ジャン。ハンジさんとモブリットさんに言っちゃってよかったの?
絶対に、今日のうちに兵舎中に噂が広がるよ。」
なまえが心配そうな目で、ジャンを見上げる。
ジャンは、駅馬車に向かう途中に後ろから聞こえてきた馬鹿でかい叫び声を思い出した。
まぁ、十中八九、今頃、ハンジが、目に入った調査兵達に手当たり次第に声をかけて、ジャンから聞いた話を喋りまくっているだろう。
いつも夢ばかり見ていて、誰の告白にも頷かなかった〝眠り姫〟に現実の恋人が出来たなんて、大ニュースだ。
調査兵団の兵舎内にその話が届き終わるまでに、24時間は必要ない。
きっと昼過ぎまでには、調査兵の全員が知っているはずだ。
「どうせ、明日兵舎に帰って来たら、
恋人だって敢えて気づかせるようにするつもりだったんですから
問題ないですよ。」
「でも、もし、お父さん達の了承を貰えなかったら、私は予定通り、調査兵団を辞めちゃうんだよ?
そうなったら、ジャンは、上官と恋人になってしまった上に、
彼女の両親に結婚を許してもらえなくて捨てられたんだって言われちゃうよ。」
なまえが凄く困ったように眉尻を下げた。
彼女が心配しているのが、自分のことではなく、恋人役をやらされている補佐の今後の立場だと知って、ジャンは驚いた。
そして、それが彼女らしくて、思わず苦笑してしまう。
「心配しなくて大丈夫っすよ。絶対に許してもらうんで。
なまえさんもそのつもりでいてください。」
「その自信はどこからくるの?」
信じられない——、とばかりに訝し気に眉を顰めたなまえを見下ろして、ジャンはフッと鼻で笑う。
心配を全くしていない様子のジャンが、なまえは不思議で仕方がないようだった。
少しすると、なまえは両手で口元を覆って、欠伸をし始めた。
駅馬車の揺れは心地が良いし、昨晩は一睡もしていないなまえには、あっという間に夢の世界へ誘われてしまったのだろう。
「寝てもいいですよ。着くのは夕方ですし。
途中休憩のお昼頃に起こしますよ。」
「ん~…、ありがとう。自信満々なジャン見てたら、
大丈夫な気がしてきちゃって。眠たくなっちゃった…。」
「幸せな人っすね。」
苦笑で返したときにはもう、なまえは俯いて眠ってしまっていた。
相変わらず、一瞬で夢の世界に旅立てる彼女に、驚きと関心をしてしまう。
ジャンは、なまえの頭にそっと触れると、自分の肩に寄り掛からせた。
小さな寝息が近づいて、窓から流れ込む朝の爽やかな風と一緒になって、ジャンのまわりを柔らかく包みこむ。
暖かい陽射しを感じながら、爽やかな風が頬を撫でていくのが、とても気持ちがいい。
話し相手が眠ってしまったジャンは、窓枠に肘を置き、頬杖をつきながら、流れていく景色をなんとなく眺める。
4年前、超大型巨人によって壊された壁には、巨人化したエレンが運んだ大岩が嵌まったままになっている。
まだあのときの地獄の痕跡は、この街に、忘れたい記憶として残っている。
でも、随分と復興もした。
商店街の店主たちが、準備を始めた活気のある声が、窓の向こうに広がる景色のあちこちから聞こえてくる。
あのとき、訓練兵を卒業したばかりのジャンが、わけも分からずに地獄の中で必死に生き残ることばかりを考えていたとき、なまえは既に調査兵団の精鋭兵として、トロスト区に残った巨人掃討作戦で何体もの巨人を討伐、またはリヴァイ班について討伐補佐を確実に遂行して、人類の為に心臓を捧げて戦っていたのだ。
そう思うと、この4年でどれだけ自分が兵士として鍛錬や訓練に励んだところで、彼女を追い抜くどころか、追いつくことすら無理なんじゃないかという気がしてくる。
今ではジャンも精鋭兵と呼ばれるようになったけれど、初めて会ったときから変わらず、なまえは精鋭兵として、戦闘の最前列に凛々しく立ち続けている。
彼女は、一度だって、巨人に負けたことがないのだ。
いつも夢を見て柔らかく微笑む彼女とはまるで別人のような、凛々しい兵士の姿を、ジャンが思い返しているうちに、駅馬車は内門を抜けていた。
そして、見慣れない景色に変わった頃、老夫婦の夫人の方に声をかけられた。
「お菓子を作ってきたんだけど、おふたりもどうかしら?」
窓の外の景色に向けていたジャンの視線が、老夫婦の方へ向く。
夫人は、話しかけてから、なまえが眠っていることに気がついたようだった。
「あら、彼女さんは、眠ってるの。
もっと早く渡せばよかったわね。」
夫人が残念そうに眉尻を下げると、御主人が、それなら起きたら食べてもらえばいいから、と遠慮しようとしたジャンに、強引に小さな紙袋を渡した。
中を見てみると、なまえが好きそうなカラフルなお茶菓子が入っていた。
手作りのようなことを言っていたけれど、店で買ってきたようなクオリティだ。
それで、ご主人が強引にジャンに渡して来た理由を察した。
きっと彼は、手作りの菓子を、見ず知らずの若者に見せびらかしたいくらいに、料理上手の奥さんが自慢なのだろう。
「ありがとうございます。きっとすごく喜びます。」
「それなら嬉しいわ。受け取ってくれてありがとう。」
夫人が嬉しそうに微笑む。
皴だらけの笑顔は、とても無邪気で、まるで幼い子供のようだった。
なまえも歳をとっておばあさんになったら、彼女のように笑うのだろうかーー。
そんなことを思ってしまうような可愛らしい笑みだ。
そんな夫人を、御主人はとても愛おしそうに見つめている。
それだけで、彼らが長年心から愛し合って生きて来たのだと伝わってくる。
とても素敵な夫婦だと思った。
「こんなに朝早くから、今日はお泊りでどこかへお出かけなの?」
「はい、彼女のご両親のところへ行くところです。」
「ほら、やっぱり!あなた、きっとそうだって、私の言った通りでしょう?」
ジャンの返事を聞いた途端、夫人は目をパァッと輝かせて嬉しそうにご主人の肩を軽く叩いた。
不思議そうに首を傾げるジャンに、フフフッととても楽しそうに無邪気に笑う夫人の代わりに、ご主人が教えてくれる。
「君達が正装をしているから、とても大切な用事があるんだろうと思っていたんだよ。
それで、うちのが、きっと結婚の挨拶に違いないって勝手にはしゃいでいてね。」
困ったように鼻を掻いたご主人に言われて、ジャンは、そういうことかと納得した。
確かに、清楚なワンピースとスーツ姿の恋人風の男女が一緒にいれば、そう見えてもおかしくはない。
「結婚の挨拶をしに行くのね?」
好奇心旺盛の子供みたいに目を輝かせて、夫人がジャンに訊ねた。
それに肯定の返事をすれば、夫人は、さっきよりも大きめに嬉しそうな声を上げるから、彼女が起きてしまうとご主人に叱られていた。
眉尻を下げて謝る夫人が可愛らしくて、ジャンは、やっぱり、とても素敵な夫婦だと思う。
「結婚の挨拶の前は、緊張して眠れなかったなぁ。
君は昨日は眠れたのかい?」
「まさか。やっと眠れたと思ったら、すぐに目が覚めてしまって
結局、30分くらいしか寝てないと思います。」
「ハハ、私もそうだった。
それに比べていつの時代も女性は度胸があるものだな。
うちのも、私の横でぐっすり眠っていたよ。君の彼女のようにね。」
ご主人は、ジャンの肩で気持ちよさそうに寝息を立てているなまえに視線を向けると、優しく微笑んだ。
きっと、眠っているなまえの姿に、若い頃の夫人の姿を見ているのだろう。
だって、目尻にたくさんの皴を刻んだ目が、とても愛おしそうにしている。
「いえ、彼女も昨日は一睡も出来なかったらしいですよ。」
「お、そうなのかい?」
「はい、朝も全然眠れなかったって不機嫌になってたんですけど、
結婚を許してもらえるって自信満々な俺を見てたら
安心して眠たくなってきたらしいです。」
「あぁ~、そういうことか。」
ご主人は、何度か頷きながら、納得したように言った。
そして、悪戯っ子のようにニィッと口の端を上げて続ける。
「男は、女性の前ではカッコつけたがる生き物だってことを、
彼女はまだ知らないんだな。」
「そうっすね。」
悪戯を仕掛けているときの悪ガキのようにご主人が言えば、ジャンは、自分の肩に寄り掛かって気持ち良さそうに眠っているなまえに視線を落として、クスリと笑った。
男がカッコつけたがる生き物だということを知らないどころか、夢の世界にいる理想の男ばかりを想ってきたなまえは、現実にいる男がどんなに愚かで、情けなくて、そして、どうやって女性を愛するのかを想像したこともないのだろう。
「それなら、結婚の挨拶の前日に眠れる度胸のある女は、
君だけだってことだな。」
「あら、私だって眠れませんでしたよ。」
「眠ってたじゃないか、ぐっすり。」
「そう見えただけですよ。本当は起きてました。」
「全く、君は———。」
仲の良い老夫婦が、遠い日の記憶違いについて些細な言い争いを始める。
そんなやりとりすらも、彼らはとても楽しんでいるようだった。
結局は、ご主人が折れて苦笑しながら謝っていた。
そんな彼の幸せそうな姿は、ジャンの気持ちを穏やかにさせる。
そして、結婚の挨拶の前に出逢うのに、最も幸運な人達だった彼らに心の中で感謝をした。
夫人と御主人が、また仲睦まじく会話をしだすと、ジャンはまた、窓枠に肘を置いて、頬杖をつきながら、窓の外を眺め始める。
いつの間にか、窓の向こうの景色は、平原に変わっていた。
この平原を抜けたら、少し栄えた街に出る。
そこで、最初の休憩をして、素敵な夫婦からもらったとても甘そうなお菓子をなまえにあげよう。
紙袋を広げて中を見たときのなまえの嬉しそうな笑顔を想像したら可笑しくて、ジャンはクスリと笑ってしまった。
そんなジャンの楽しそうな横顔を見て、仲の良い老夫婦がお互いに顔を見合わせながらクスクスと笑っていたことを、彼は知らない。
早朝だからなのか、一緒に乗っているのは、向かいの席に座っている老夫婦だけだった。
これ以上、乗り込む人がいないことを馭者が確認した後、駅馬車がゆっくりと走り出した。
すると、老夫婦の夫人の方がバッグから紙袋を取り出した。
そこから出て来たのは、パンだった。
夫人からパンを受け取ったご主人は、とても自然な動作でそれを半分にわけた。そして、当然のように大きい方を夫人に渡す。
夫人は、パンの大きさに気づいているのか、いないのか、嬉しそうに微笑んで礼を言っていた。
とても仲睦まじい老夫婦を、ジャンがなんとなく眺めていると、なまえが話しかけてきた。
「ねぇ、ジャン。ハンジさんとモブリットさんに言っちゃってよかったの?
絶対に、今日のうちに兵舎中に噂が広がるよ。」
なまえが心配そうな目で、ジャンを見上げる。
ジャンは、駅馬車に向かう途中に後ろから聞こえてきた馬鹿でかい叫び声を思い出した。
まぁ、十中八九、今頃、ハンジが、目に入った調査兵達に手当たり次第に声をかけて、ジャンから聞いた話を喋りまくっているだろう。
いつも夢ばかり見ていて、誰の告白にも頷かなかった〝眠り姫〟に現実の恋人が出来たなんて、大ニュースだ。
調査兵団の兵舎内にその話が届き終わるまでに、24時間は必要ない。
きっと昼過ぎまでには、調査兵の全員が知っているはずだ。
「どうせ、明日兵舎に帰って来たら、
恋人だって敢えて気づかせるようにするつもりだったんですから
問題ないですよ。」
「でも、もし、お父さん達の了承を貰えなかったら、私は予定通り、調査兵団を辞めちゃうんだよ?
そうなったら、ジャンは、上官と恋人になってしまった上に、
彼女の両親に結婚を許してもらえなくて捨てられたんだって言われちゃうよ。」
なまえが凄く困ったように眉尻を下げた。
彼女が心配しているのが、自分のことではなく、恋人役をやらされている補佐の今後の立場だと知って、ジャンは驚いた。
そして、それが彼女らしくて、思わず苦笑してしまう。
「心配しなくて大丈夫っすよ。絶対に許してもらうんで。
なまえさんもそのつもりでいてください。」
「その自信はどこからくるの?」
信じられない——、とばかりに訝し気に眉を顰めたなまえを見下ろして、ジャンはフッと鼻で笑う。
心配を全くしていない様子のジャンが、なまえは不思議で仕方がないようだった。
少しすると、なまえは両手で口元を覆って、欠伸をし始めた。
駅馬車の揺れは心地が良いし、昨晩は一睡もしていないなまえには、あっという間に夢の世界へ誘われてしまったのだろう。
「寝てもいいですよ。着くのは夕方ですし。
途中休憩のお昼頃に起こしますよ。」
「ん~…、ありがとう。自信満々なジャン見てたら、
大丈夫な気がしてきちゃって。眠たくなっちゃった…。」
「幸せな人っすね。」
苦笑で返したときにはもう、なまえは俯いて眠ってしまっていた。
相変わらず、一瞬で夢の世界に旅立てる彼女に、驚きと関心をしてしまう。
ジャンは、なまえの頭にそっと触れると、自分の肩に寄り掛からせた。
小さな寝息が近づいて、窓から流れ込む朝の爽やかな風と一緒になって、ジャンのまわりを柔らかく包みこむ。
暖かい陽射しを感じながら、爽やかな風が頬を撫でていくのが、とても気持ちがいい。
話し相手が眠ってしまったジャンは、窓枠に肘を置き、頬杖をつきながら、流れていく景色をなんとなく眺める。
4年前、超大型巨人によって壊された壁には、巨人化したエレンが運んだ大岩が嵌まったままになっている。
まだあのときの地獄の痕跡は、この街に、忘れたい記憶として残っている。
でも、随分と復興もした。
商店街の店主たちが、準備を始めた活気のある声が、窓の向こうに広がる景色のあちこちから聞こえてくる。
あのとき、訓練兵を卒業したばかりのジャンが、わけも分からずに地獄の中で必死に生き残ることばかりを考えていたとき、なまえは既に調査兵団の精鋭兵として、トロスト区に残った巨人掃討作戦で何体もの巨人を討伐、またはリヴァイ班について討伐補佐を確実に遂行して、人類の為に心臓を捧げて戦っていたのだ。
そう思うと、この4年でどれだけ自分が兵士として鍛錬や訓練に励んだところで、彼女を追い抜くどころか、追いつくことすら無理なんじゃないかという気がしてくる。
今ではジャンも精鋭兵と呼ばれるようになったけれど、初めて会ったときから変わらず、なまえは精鋭兵として、戦闘の最前列に凛々しく立ち続けている。
彼女は、一度だって、巨人に負けたことがないのだ。
いつも夢を見て柔らかく微笑む彼女とはまるで別人のような、凛々しい兵士の姿を、ジャンが思い返しているうちに、駅馬車は内門を抜けていた。
そして、見慣れない景色に変わった頃、老夫婦の夫人の方に声をかけられた。
「お菓子を作ってきたんだけど、おふたりもどうかしら?」
窓の外の景色に向けていたジャンの視線が、老夫婦の方へ向く。
夫人は、話しかけてから、なまえが眠っていることに気がついたようだった。
「あら、彼女さんは、眠ってるの。
もっと早く渡せばよかったわね。」
夫人が残念そうに眉尻を下げると、御主人が、それなら起きたら食べてもらえばいいから、と遠慮しようとしたジャンに、強引に小さな紙袋を渡した。
中を見てみると、なまえが好きそうなカラフルなお茶菓子が入っていた。
手作りのようなことを言っていたけれど、店で買ってきたようなクオリティだ。
それで、ご主人が強引にジャンに渡して来た理由を察した。
きっと彼は、手作りの菓子を、見ず知らずの若者に見せびらかしたいくらいに、料理上手の奥さんが自慢なのだろう。
「ありがとうございます。きっとすごく喜びます。」
「それなら嬉しいわ。受け取ってくれてありがとう。」
夫人が嬉しそうに微笑む。
皴だらけの笑顔は、とても無邪気で、まるで幼い子供のようだった。
なまえも歳をとっておばあさんになったら、彼女のように笑うのだろうかーー。
そんなことを思ってしまうような可愛らしい笑みだ。
そんな夫人を、御主人はとても愛おしそうに見つめている。
それだけで、彼らが長年心から愛し合って生きて来たのだと伝わってくる。
とても素敵な夫婦だと思った。
「こんなに朝早くから、今日はお泊りでどこかへお出かけなの?」
「はい、彼女のご両親のところへ行くところです。」
「ほら、やっぱり!あなた、きっとそうだって、私の言った通りでしょう?」
ジャンの返事を聞いた途端、夫人は目をパァッと輝かせて嬉しそうにご主人の肩を軽く叩いた。
不思議そうに首を傾げるジャンに、フフフッととても楽しそうに無邪気に笑う夫人の代わりに、ご主人が教えてくれる。
「君達が正装をしているから、とても大切な用事があるんだろうと思っていたんだよ。
それで、うちのが、きっと結婚の挨拶に違いないって勝手にはしゃいでいてね。」
困ったように鼻を掻いたご主人に言われて、ジャンは、そういうことかと納得した。
確かに、清楚なワンピースとスーツ姿の恋人風の男女が一緒にいれば、そう見えてもおかしくはない。
「結婚の挨拶をしに行くのね?」
好奇心旺盛の子供みたいに目を輝かせて、夫人がジャンに訊ねた。
それに肯定の返事をすれば、夫人は、さっきよりも大きめに嬉しそうな声を上げるから、彼女が起きてしまうとご主人に叱られていた。
眉尻を下げて謝る夫人が可愛らしくて、ジャンは、やっぱり、とても素敵な夫婦だと思う。
「結婚の挨拶の前は、緊張して眠れなかったなぁ。
君は昨日は眠れたのかい?」
「まさか。やっと眠れたと思ったら、すぐに目が覚めてしまって
結局、30分くらいしか寝てないと思います。」
「ハハ、私もそうだった。
それに比べていつの時代も女性は度胸があるものだな。
うちのも、私の横でぐっすり眠っていたよ。君の彼女のようにね。」
ご主人は、ジャンの肩で気持ちよさそうに寝息を立てているなまえに視線を向けると、優しく微笑んだ。
きっと、眠っているなまえの姿に、若い頃の夫人の姿を見ているのだろう。
だって、目尻にたくさんの皴を刻んだ目が、とても愛おしそうにしている。
「いえ、彼女も昨日は一睡も出来なかったらしいですよ。」
「お、そうなのかい?」
「はい、朝も全然眠れなかったって不機嫌になってたんですけど、
結婚を許してもらえるって自信満々な俺を見てたら
安心して眠たくなってきたらしいです。」
「あぁ~、そういうことか。」
ご主人は、何度か頷きながら、納得したように言った。
そして、悪戯っ子のようにニィッと口の端を上げて続ける。
「男は、女性の前ではカッコつけたがる生き物だってことを、
彼女はまだ知らないんだな。」
「そうっすね。」
悪戯を仕掛けているときの悪ガキのようにご主人が言えば、ジャンは、自分の肩に寄り掛かって気持ち良さそうに眠っているなまえに視線を落として、クスリと笑った。
男がカッコつけたがる生き物だということを知らないどころか、夢の世界にいる理想の男ばかりを想ってきたなまえは、現実にいる男がどんなに愚かで、情けなくて、そして、どうやって女性を愛するのかを想像したこともないのだろう。
「それなら、結婚の挨拶の前日に眠れる度胸のある女は、
君だけだってことだな。」
「あら、私だって眠れませんでしたよ。」
「眠ってたじゃないか、ぐっすり。」
「そう見えただけですよ。本当は起きてました。」
「全く、君は———。」
仲の良い老夫婦が、遠い日の記憶違いについて些細な言い争いを始める。
そんなやりとりすらも、彼らはとても楽しんでいるようだった。
結局は、ご主人が折れて苦笑しながら謝っていた。
そんな彼の幸せそうな姿は、ジャンの気持ちを穏やかにさせる。
そして、結婚の挨拶の前に出逢うのに、最も幸運な人達だった彼らに心の中で感謝をした。
夫人と御主人が、また仲睦まじく会話をしだすと、ジャンはまた、窓枠に肘を置いて、頬杖をつきながら、窓の外を眺め始める。
いつの間にか、窓の向こうの景色は、平原に変わっていた。
この平原を抜けたら、少し栄えた街に出る。
そこで、最初の休憩をして、素敵な夫婦からもらったとても甘そうなお菓子をなまえにあげよう。
紙袋を広げて中を見たときのなまえの嬉しそうな笑顔を想像したら可笑しくて、ジャンはクスリと笑ってしまった。
そんなジャンの楽しそうな横顔を見て、仲の良い老夫婦がお互いに顔を見合わせながらクスクスと笑っていたことを、彼は知らない。