◇第百十七話◇これ以上、あなたに軽蔑されてしまう前に
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「ありがとう。」
ジャンのものだったはずのセリフを、なまえが言う。
そして、受け取ったばかりのハンカチを額に押し当てた彼女は、一瞬だけ痛みに表情を歪めた。
並ぶように2人が腰をおろしているのは、裏庭にポツンと置かれている3人掛けのベンチだ。普段から、誰も来ないようなこの場所に誰が置いたのかは、分からない。
まるで、仕事をサボるなまえのためだけに存在しているようなベンチだと、前からずっと思っていたけれど、今回は、怪我をしてパニックになった彼女を座らせて落ち着かせるのに、役に立った。
「本当に大丈夫なんすか?」
思わず訊ねたジャンに、なまえは「平気!」と白い歯を覗かせてニシシと笑う。
でも、ハンカチを赤く滲ませる額の傷は痛々しい。
一応、医務室に行くことを勧めたのだが、断られてしまっている。補佐官をしていた頃なら、彼女の手を引っ張ってでも連れて行けたのだろうが、今の自分の立ち位置が分からない状況では、どう動くべきか判断に迷う。
一体、彼女は、木の幹に何度も頭をぶち当てながら、何をしていたのだろう。
さっきからずっと考えているのだけれど、皆目見当もつかない。
でも、あのまま木の幹に頭突きをするという怪奇行動を続けていたら、額を少し切るくらいでは済まなかったはずだ。
廊下の窓からなまえを見つけて、目が合ったとき、時が止まったように感じた。
そして、気づいたら駆けだしていた。
昨日のことへの感謝を伝えたかったのか、謝罪がしたかったのか。他に何か伝えたいことがあるのか———分かっているけれど、気づかないフリをしている。
でも、ジャンが来なければ、誰も彼女の怪奇行動を止められなかったのだろう。
そう考えれば、思いのままに走って来て良かったと思う。
「・・・・・。」
「・・・・・。」
つい数分前の爆笑が嘘のように、2人して目を伏せて口を噤む。
補佐官としてなまえの隣にいた頃は、ほとんどが仕事のことだったとは言え、話題が尽きることはなかった。
偽の婚約者をし始めれば、沈黙すらも愛おしかった。
でも今は、ただただ居心地が悪い。
何かを喋らなければ———そう思うほど、喉の奥が渇いて声が出ない。
伝えるべきことなんて、考えるまでもなくあるはずだ。でも、云えない。
勇気が、出ないのだ。
「あの…さ、ジャン…。」
最初に口を開いたのは、なまえだった。
さっきの感謝の言葉といい、ジャンは、何も言えない自分が情けなくなる。
「何すか?」
それでも、平然を装って訊ねてみる。
目が合うと、なまえは、慌てた様子で目を逸らした。
視線は泳いでいて、頬が僅かに赤く染まっている。
初心な少女のようなその仕草が、まるで「私は恋をしています」と言っているようで、胸が高鳴る。
もしかして———期待をしてしまう。
頬を染めるなまえは、目を逸らしたまま、言いづらそうにしながら、ゆっくりと口を開いた。
「え…っ、と…、昨日、から…言わなくちゃって…
思ってたんだけど…。
———ココ、痕…見えてる、よ。」
顔を真っ赤にして、なまえは自分の首元を指さした。
ココとはつまり、ジャンの首元を指しているのだろう。
(ココ?)
何のことだろう———そう思いながら、自分の首元を右手で触れる。
そして、フレイヤにキスマークを付けられたことを唐突に思い出した。
バッ———音がしそうなくらいに勢いよく、自分の手で首元を隠した。
(嘘だろ…。すっかり忘れてた…。)
今日は殆ど部屋にこもって書類仕事をしていた。
部屋を出たのは、ミケの執務室に行った時くらいだ。
話をしたのもミケくらいしかいない。あの時、ミケには何も言われていない。
たぶん、誰にも見られていないはずだ。
でも———。
(なんで、よりによって…っ。)
そう思ってしまう時点で、なまえの気持ちを捨てきれていないということだと自覚している。
でも、一番見られたくなかったのが誰かだなんて、自分の心に隠すことは出来ない。
「・・・え?昨日、からって言いました?」
ふ、となまえの言葉を思い出して、ジャンは戸惑いながら訊ねる。
少しだけ肩を揺らしたなまえは、声には出さずに小さく頷いた。
「嘘だろ…。」
心の声が、漏れたような気がする。
だって、なまえは昨日、ジャンがフレイヤを襲っていないと信じてくれたのだ。
上半身裸で、首元にキスマークをつけてる男のことを、誰が信じるだろう。
「どうして…、俺を信じてくれたんですか。」
そう訊ねるので、精一杯だった。
ジャンには、なまえの思考が理解できなかったのだ。
ずっと共に命を懸けて戦ってきた仕事上のパートナーに『ヒトゴロシ』と最低な言葉を吐けるような男のことなんて、お前こそ最低だと切り捨ててしまったっておかしくはないのに———。
「どうしてって。だって、ジャンは優しいから。
仲間の人権を無視するような最低なこと、絶対にしないでしょ。」
知ってるよそれくらい———と、なまえはヘラヘラと笑う。
優しいと言っているその男が、自分の人権を無視するような最低な科白を吐き捨てたことを忘れてしまったのだろうか。
どうして、彼女が信じてくれたのか。
余計に分からなくなって、ジャンは黙り込んでしまう。
「でも、」
目を伏せた格好で、なまえは、小さく呟くようにしてさらに続けた。
「フレイヤちゃんには、悪いことしちゃった。
皆の前で、あそこまで追いつめる必要なかったのに。」
なまえがか細い声で言う。
宿舎棟の廊下から漏れる明かりだけが頼りの薄暗い裏庭で、かろうじて見えるなまえの目を伏せた横顔は、後悔と罪悪感に苛まれているようだった。
「っ。」
「でもね、」
ジャンは、何かを、言おうとした。
たぶん、なまえが気にするようなことではない———そんなことを言おうとしたのだ。
でも、なまえがそれよりも先に続けたのだ。
「嫌だったの。ジャンが、他の女の子に触れたなんて。
それが嘘でも真実でも、嫌だったの。」
「・・・え?」
「他の人にそう思われるのも、嫌だった。」
ドクン———ジャンは、心臓が鳴った音を聞いた。
期待だろうか。激しく鳴り響く心臓が、痛い。苦しい。
背中にゆっくりと流れていく汗が、気持ち悪い。
「ジャンを信じてるみたいなこと言ったけど、違うの。
あの時、胸の中にずっとあったドロドロしたものが、自分でも手に負えない怪物みたいになって
すごく怒ってた。私も、それを抑えようともしなかった。だって、ジャンのことしか考えてなかったから。」
ずっと伏せていたなまえの視線が上がる。こちらを向いたなまえと、視線が重なる。
「嫉妬したの。醜い嫉妬に囚われて、後輩を傷つけちゃった。
最低だね、私。」
なまえが、目尻を下げて困ったような笑みを浮かべる。
補佐官になるよりも前から、沢山の彼女の笑みを見て来た。どれも無邪気で、幸せそうで、愛おしかった。
でも、今、目の前にあるなまえの笑みは、今までのどれとも違う。
自分を卑下して、諦めているような笑みだ。
口元は引きつって、今にも泣き出しそうにも見える。
「最低なんかじゃ…、ない。」
必死に絞り出したのは、そんなつまらない慰めだけだった。
胸が締め付けられて、息苦しいせいで、気の利いた言葉が、ひとつも出てこないのだ。
でも、そんな言葉でも、なまえは「ありがとう。」と柔らかく微笑んでくれる。
(だからそれは俺のセリフだろ。)
心の中ではそう言えるのに、言葉には出来ない。
男らしく———思えば思うほど、分からなくなる。
なまえにとって、そばにいるべき男は誰であるべきなのか。
少なくとも、今、彼女の隣にいる男は、この世界が本物の地獄になったって、守り抜いてくれるだろう。
(俺だって…!)
命懸けで、守ることは出来る。
でも、守り抜けるのかと問われたら、自信がない。
人類最強の男と比べられたら、誰も敵わないに決まっている。
初めから、負けが決まっている勝負だったのだ。
「婚約者がいるのに、他の人に嫉妬しちゃダメだよね。」
なまえが、また自分を卑下するような笑みを見せる。
そして、ジャンを見て、さらに続けるのだ。
「ずっとね、ジャンに言わなくちゃと思っていたの。」
少し前に聞いたセリフと似ていた。
でも、俺も彼女も、さっきのそれとは全く違うことを知っていた。
ついに来たか————なぜか、そう思ったのだ。
たぶん、なまえに背を向けたあの日から、こんな時が来ることを分かっていた気がする。
「私、リヴァイさんにプロポーズされたの。」
「そう…ですか。」
途切れがちに、答える。
正直、悲鳴を上げる心臓を落ち着かせるのに精一杯で、平気なフリなんて出来なかった。
なまえはいつも、リヴァイのことを『リヴァイ兵長』と呼んでいた。
それが、最近、呼び方が変わっているなんて話は至る所から聞いていた。
噂だけなら、まだなんとか堪えられたのだ。
でも、本人の口から聞くダメージは、大きすぎる。
視線を逸らして、逃げてしまいたい。
でも、重なった視線を、互いに逸らすことは出来なかった。
今、ここで逃げたら、一生終われないこともまた、知っていたのだと思う。
「今まで、私の我儘に付き合ってくれて本当にありがとう。」
「いえ…。」
「次の壁外調査が終わったら、入籍するの。
結婚しても調査兵は続けられるように、リヴァイさんが両親を説得してくれたから大丈夫だよ。
…って、ジャンにはそんなことどうでもいいか。」
ハハハ———渇いた笑いを漏らして、なまえが頬を掻く。
どうでもいいなんて思っているわけがない。けれど、彼女がそう信じてしまうほどの言葉や態度を見せて来た自覚もまた、ジャンにはある。
どうでもよくないと言えればよかったのかもしれないけれど、黙り込むことしか出来なかった。
今後の補佐官としての役職については、ジャンの望むように出来るようエルヴィンとミケにお願いしてあることを伝えられる。
人妻になったなまえの補佐官を続けてもいいし、嫌なら辞めてもいいということらしい。
———そうですか。
そんなつまらない相槌しか思いつかないはずだった。
でも、気づいたときには、ジャンはなまえの腕を掴み、力強く抱きしめていた。
ジャンのものだったはずのセリフを、なまえが言う。
そして、受け取ったばかりのハンカチを額に押し当てた彼女は、一瞬だけ痛みに表情を歪めた。
並ぶように2人が腰をおろしているのは、裏庭にポツンと置かれている3人掛けのベンチだ。普段から、誰も来ないようなこの場所に誰が置いたのかは、分からない。
まるで、仕事をサボるなまえのためだけに存在しているようなベンチだと、前からずっと思っていたけれど、今回は、怪我をしてパニックになった彼女を座らせて落ち着かせるのに、役に立った。
「本当に大丈夫なんすか?」
思わず訊ねたジャンに、なまえは「平気!」と白い歯を覗かせてニシシと笑う。
でも、ハンカチを赤く滲ませる額の傷は痛々しい。
一応、医務室に行くことを勧めたのだが、断られてしまっている。補佐官をしていた頃なら、彼女の手を引っ張ってでも連れて行けたのだろうが、今の自分の立ち位置が分からない状況では、どう動くべきか判断に迷う。
一体、彼女は、木の幹に何度も頭をぶち当てながら、何をしていたのだろう。
さっきからずっと考えているのだけれど、皆目見当もつかない。
でも、あのまま木の幹に頭突きをするという怪奇行動を続けていたら、額を少し切るくらいでは済まなかったはずだ。
廊下の窓からなまえを見つけて、目が合ったとき、時が止まったように感じた。
そして、気づいたら駆けだしていた。
昨日のことへの感謝を伝えたかったのか、謝罪がしたかったのか。他に何か伝えたいことがあるのか———分かっているけれど、気づかないフリをしている。
でも、ジャンが来なければ、誰も彼女の怪奇行動を止められなかったのだろう。
そう考えれば、思いのままに走って来て良かったと思う。
「・・・・・。」
「・・・・・。」
つい数分前の爆笑が嘘のように、2人して目を伏せて口を噤む。
補佐官としてなまえの隣にいた頃は、ほとんどが仕事のことだったとは言え、話題が尽きることはなかった。
偽の婚約者をし始めれば、沈黙すらも愛おしかった。
でも今は、ただただ居心地が悪い。
何かを喋らなければ———そう思うほど、喉の奥が渇いて声が出ない。
伝えるべきことなんて、考えるまでもなくあるはずだ。でも、云えない。
勇気が、出ないのだ。
「あの…さ、ジャン…。」
最初に口を開いたのは、なまえだった。
さっきの感謝の言葉といい、ジャンは、何も言えない自分が情けなくなる。
「何すか?」
それでも、平然を装って訊ねてみる。
目が合うと、なまえは、慌てた様子で目を逸らした。
視線は泳いでいて、頬が僅かに赤く染まっている。
初心な少女のようなその仕草が、まるで「私は恋をしています」と言っているようで、胸が高鳴る。
もしかして———期待をしてしまう。
頬を染めるなまえは、目を逸らしたまま、言いづらそうにしながら、ゆっくりと口を開いた。
「え…っ、と…、昨日、から…言わなくちゃって…
思ってたんだけど…。
———ココ、痕…見えてる、よ。」
顔を真っ赤にして、なまえは自分の首元を指さした。
ココとはつまり、ジャンの首元を指しているのだろう。
(ココ?)
何のことだろう———そう思いながら、自分の首元を右手で触れる。
そして、フレイヤにキスマークを付けられたことを唐突に思い出した。
バッ———音がしそうなくらいに勢いよく、自分の手で首元を隠した。
(嘘だろ…。すっかり忘れてた…。)
今日は殆ど部屋にこもって書類仕事をしていた。
部屋を出たのは、ミケの執務室に行った時くらいだ。
話をしたのもミケくらいしかいない。あの時、ミケには何も言われていない。
たぶん、誰にも見られていないはずだ。
でも———。
(なんで、よりによって…っ。)
そう思ってしまう時点で、なまえの気持ちを捨てきれていないということだと自覚している。
でも、一番見られたくなかったのが誰かだなんて、自分の心に隠すことは出来ない。
「・・・え?昨日、からって言いました?」
ふ、となまえの言葉を思い出して、ジャンは戸惑いながら訊ねる。
少しだけ肩を揺らしたなまえは、声には出さずに小さく頷いた。
「嘘だろ…。」
心の声が、漏れたような気がする。
だって、なまえは昨日、ジャンがフレイヤを襲っていないと信じてくれたのだ。
上半身裸で、首元にキスマークをつけてる男のことを、誰が信じるだろう。
「どうして…、俺を信じてくれたんですか。」
そう訊ねるので、精一杯だった。
ジャンには、なまえの思考が理解できなかったのだ。
ずっと共に命を懸けて戦ってきた仕事上のパートナーに『ヒトゴロシ』と最低な言葉を吐けるような男のことなんて、お前こそ最低だと切り捨ててしまったっておかしくはないのに———。
「どうしてって。だって、ジャンは優しいから。
仲間の人権を無視するような最低なこと、絶対にしないでしょ。」
知ってるよそれくらい———と、なまえはヘラヘラと笑う。
優しいと言っているその男が、自分の人権を無視するような最低な科白を吐き捨てたことを忘れてしまったのだろうか。
どうして、彼女が信じてくれたのか。
余計に分からなくなって、ジャンは黙り込んでしまう。
「でも、」
目を伏せた格好で、なまえは、小さく呟くようにしてさらに続けた。
「フレイヤちゃんには、悪いことしちゃった。
皆の前で、あそこまで追いつめる必要なかったのに。」
なまえがか細い声で言う。
宿舎棟の廊下から漏れる明かりだけが頼りの薄暗い裏庭で、かろうじて見えるなまえの目を伏せた横顔は、後悔と罪悪感に苛まれているようだった。
「っ。」
「でもね、」
ジャンは、何かを、言おうとした。
たぶん、なまえが気にするようなことではない———そんなことを言おうとしたのだ。
でも、なまえがそれよりも先に続けたのだ。
「嫌だったの。ジャンが、他の女の子に触れたなんて。
それが嘘でも真実でも、嫌だったの。」
「・・・え?」
「他の人にそう思われるのも、嫌だった。」
ドクン———ジャンは、心臓が鳴った音を聞いた。
期待だろうか。激しく鳴り響く心臓が、痛い。苦しい。
背中にゆっくりと流れていく汗が、気持ち悪い。
「ジャンを信じてるみたいなこと言ったけど、違うの。
あの時、胸の中にずっとあったドロドロしたものが、自分でも手に負えない怪物みたいになって
すごく怒ってた。私も、それを抑えようともしなかった。だって、ジャンのことしか考えてなかったから。」
ずっと伏せていたなまえの視線が上がる。こちらを向いたなまえと、視線が重なる。
「嫉妬したの。醜い嫉妬に囚われて、後輩を傷つけちゃった。
最低だね、私。」
なまえが、目尻を下げて困ったような笑みを浮かべる。
補佐官になるよりも前から、沢山の彼女の笑みを見て来た。どれも無邪気で、幸せそうで、愛おしかった。
でも、今、目の前にあるなまえの笑みは、今までのどれとも違う。
自分を卑下して、諦めているような笑みだ。
口元は引きつって、今にも泣き出しそうにも見える。
「最低なんかじゃ…、ない。」
必死に絞り出したのは、そんなつまらない慰めだけだった。
胸が締め付けられて、息苦しいせいで、気の利いた言葉が、ひとつも出てこないのだ。
でも、そんな言葉でも、なまえは「ありがとう。」と柔らかく微笑んでくれる。
(だからそれは俺のセリフだろ。)
心の中ではそう言えるのに、言葉には出来ない。
男らしく———思えば思うほど、分からなくなる。
なまえにとって、そばにいるべき男は誰であるべきなのか。
少なくとも、今、彼女の隣にいる男は、この世界が本物の地獄になったって、守り抜いてくれるだろう。
(俺だって…!)
命懸けで、守ることは出来る。
でも、守り抜けるのかと問われたら、自信がない。
人類最強の男と比べられたら、誰も敵わないに決まっている。
初めから、負けが決まっている勝負だったのだ。
「婚約者がいるのに、他の人に嫉妬しちゃダメだよね。」
なまえが、また自分を卑下するような笑みを見せる。
そして、ジャンを見て、さらに続けるのだ。
「ずっとね、ジャンに言わなくちゃと思っていたの。」
少し前に聞いたセリフと似ていた。
でも、俺も彼女も、さっきのそれとは全く違うことを知っていた。
ついに来たか————なぜか、そう思ったのだ。
たぶん、なまえに背を向けたあの日から、こんな時が来ることを分かっていた気がする。
「私、リヴァイさんにプロポーズされたの。」
「そう…ですか。」
途切れがちに、答える。
正直、悲鳴を上げる心臓を落ち着かせるのに精一杯で、平気なフリなんて出来なかった。
なまえはいつも、リヴァイのことを『リヴァイ兵長』と呼んでいた。
それが、最近、呼び方が変わっているなんて話は至る所から聞いていた。
噂だけなら、まだなんとか堪えられたのだ。
でも、本人の口から聞くダメージは、大きすぎる。
視線を逸らして、逃げてしまいたい。
でも、重なった視線を、互いに逸らすことは出来なかった。
今、ここで逃げたら、一生終われないこともまた、知っていたのだと思う。
「今まで、私の我儘に付き合ってくれて本当にありがとう。」
「いえ…。」
「次の壁外調査が終わったら、入籍するの。
結婚しても調査兵は続けられるように、リヴァイさんが両親を説得してくれたから大丈夫だよ。
…って、ジャンにはそんなことどうでもいいか。」
ハハハ———渇いた笑いを漏らして、なまえが頬を掻く。
どうでもいいなんて思っているわけがない。けれど、彼女がそう信じてしまうほどの言葉や態度を見せて来た自覚もまた、ジャンにはある。
どうでもよくないと言えればよかったのかもしれないけれど、黙り込むことしか出来なかった。
今後の補佐官としての役職については、ジャンの望むように出来るようエルヴィンとミケにお願いしてあることを伝えられる。
人妻になったなまえの補佐官を続けてもいいし、嫌なら辞めてもいいということらしい。
———そうですか。
そんなつまらない相槌しか思いつかないはずだった。
でも、気づいたときには、ジャンはなまえの腕を掴み、力強く抱きしめていた。