◇第百五話◇唇が忘れさせない想い
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「———そろそろ、部屋に戻った方がいいんじゃねぇのか。」
ジャンがそう切り出せば、兵団内の嘘か本当化も分からない噂話を嬉々として話し続けていたフレイヤの声が、漸く途切れた。
壁掛けの時計は、夜の21時を指している。
堕落した大人達が、やっと『夜が始まった。』と認め出す時間かもしれない。
ジャンよりも歳下で若いフレイヤさえも似たようなことを思ったらしく、時計を見た後に少しだけ困ったように眉尻を下げた。
でも、正直、噂話を聞かされる時間は、流れるのが遅すぎて拷問のようなのだ。
誰と誰が仲が良いだとか悪いだとか、興味がない。
それに、副兵士長の補佐官として忙しい日々からは解放されたかもしれないが、それならば———とでも思ったのか、所属分隊の分隊長であるミケから、あれこれと仕事を任されていて、それなりに忙しいのだ。
一応、忙しいアピールのために、デスクに座って書類仕事をしているのだけれど、フレイヤは、わざわざ隣に椅子を持ってきて延々と話しかけてくるから、全く仕事が進まない。
こんなことなら、自分の仕事をしない代わりに、話しかけることもせずにベッドやソファで居眠りしてくれていたなまえの方がマシだ。少なくとも、仕事の邪魔にはならない。
「今日は、ジャンさんの部屋に泊っちゃダメですか?」
上目遣いで、フレイヤが訊ねる。
見るからに滑らかそうな生地のワンピースは、いつもよりも胸元があいている。そこからは、柔らかそうな胸が零れ落ちそうになっている。
きっと、初めからそのつもりだったのだろう。
「仕事があるから、無理だ。」
「待ってますから!」
「これだけ書類が残ってるんだ。終わるのは夜中を過ぎるけど、いいのか?」
デスクに置いておいた書類を両手で持ち上げる。
その量に、フレイヤはギョッとした顔をした。
隣に座っていたくせに、デスクの上に置いていた書類の量に全く気付いていなかったらしい。
「…待ってます。」
「仕事が終わったら、疲れてすぐに寝ちまうけど、それでもいいんだな?」
念を押すように言えば、フレイヤは、大きな瞳を左右に動かして、ジャンがデスクに置いた書類とベッドを交互に見やる。
どうするのかを必死に考えているのだろう。
そうして、結局、観念したように目を伏せたのを見て、ジャンは心の中でホッと息を吐く。
「分かりました。
じゃあ、チューしてください。」
「・・・・は?」
ジャンから、自分でも呆れるくらいに間抜けな声が漏れた。
眉を顰めることすらできないくらいに、意表を突かれたのだ。
「明日はせっかくの休みだから、夜からずっとジャンさんと一緒にいたかったんです。
でも、ジャンさんのお仕事の邪魔はしたくないので、今夜は部屋に戻ります。」
夕食後からずっとジャンの部屋に入り浸って、どうでもいい話を延々と聞かせておいて、よくそんなことが言えるものだ。
思わず、腹が立ってしまったジャンのことも知らずに、フレイヤは、グロスをたっぷり塗ってテカテカしている自分の唇に指を押し当てて、甘えた顔で続ける。
「だから、お利口さんな恋人に、チューしてください。」
「・・・いつから、お前が恋人になったんだ。
お前が告白してくれたのは忘れたわけじゃねぇけど、俺は断ったはずで———。」
「でも、それは、なまえさんがいたからですよね?
今なら、自由に恋愛をしたっていいし、ジャンさんには私が相応しいと思うんです!」
何処にそんな自信があるのだろう———呆れると共に、ジャンはフレイヤのこの前向きさが羨ましくもなった。
こんな風に、自分勝手に、自分のことばかりを思えたなら、なまえを信じることが怖くなって、逃げることもなかったかもしれない。
そして結局、自分の気持ちばかりを押し付けるジャンに嫌気がさして、なまえの方から去っていくのだ。
やっぱり、ジャンは、フレイヤのようになりたいとは思えなかった。
「そりゃどうも。でも、俺は誰かと恋愛とかする気もねぇし
今は、任務と訓練を出来る限り以上こなして
休んでいた間に遅れをとっちまった分を取り返すので精一杯だ。」
傷つけないように、と出来るだけやんわりと断った。
でも、当然、そんなものがフレイヤに通じるわけがない。
自分がダメなのではなく、今というタイミングが悪いのだと都合よく解釈をしたのだ。
そして———。
「なら、恋人じゃなくてもいいので、チューしてください。」
「は?」
「じゃないと、この部屋にずっと残って、ジャンさんのお仕事の邪魔しますよ?」
「なんで———。」
「それが嫌なら、チューしてください!そしたら、ちゃんと部屋に戻りますから。」
———ね?。
フレイヤが、渾身の甘えた顔をする。
必要以上にバサバサの睫毛が、フレイヤがわざとらしく瞬きをするたびに大袈裟に揺れる。
尖った唇は、いつもよりも分厚く見えるのは、リップを塗りたくっているせいなのだろう。
きっとこれも、フレイヤなりに、ジャンのために頑張ったメイクなのだ。
男が、惚れている女の前で必要以上にカッコつけてしまうのと同じだ。
フレイヤの痛々しい努力が、遠い日の自分と重なった。
「……分かった。絶対だからな。」
ため息交じりに肯定の返事をすれば、フレイヤの顔に花が咲いたかのようにパァッと明るくなった。
わざとらしい濃いメイクなんかよりも、こんな素直な反応の方が、よっぽど可愛らしいと思うのだ。
なまえのように、自然体が一番いい。
また、考えてしまった余計なことを頭から追い払うように、ジャンはフレイヤの頬に手を添えた。
フレイヤが、そっと瞼を閉じる。
キスを待つその姿に、なまえが重なる。
これが、なまえならいいのに———フレイヤに対して、あまりにひどいことを思ってしまいながら、ジャンは目を閉じることもせずに、唇を近づける。
すぐに、フレイヤの唇と重なった。
ほんの一瞬、触れるだけだ。
なまえとのファースト・キスもそうだった。
ほんの一瞬だけだったのに、身体中が熱くなって、世界がひっくり返るくらいの衝撃があって、すごく甘い味がしたような気がした。
そしてその甘さは、永遠に自分の唇に残り続けるのだと、確信してしまう濃密さもあったのだ。
今、なまえしか知らなかったジャンの唇は、ぬめっとしたグロスの感触を早く拭いたくて仕方がなくなっている。
そうして、余計に思い出すのだ。
薬用リップすらも塗らないくらいに手入れを何もしていないくせに、柔らかくて甘いなまえの唇が、恋しくて恋しくて仕方がないのだということを———。
「ありがとうございます。じゃあ、また明日来ますね。
お仕事で寝るのが遅くなるでしょうから、お昼過ぎに来るので
明日はデートしましょうね!」
目的を達成したフレイヤが、嬉しそうに何かを言って部屋を出て行く。
扉が閉まるとすぐに、ジャンは、スウェットの袖で唇を拭った。
「俺、何やってんだ…。」
デスクに両肘をついたジャンは、頭を抱え呟く。
理不尽だらけのフレイヤのキスのおねだりなんて、なんとでも交わせたはずだ。
それでも、彼女にキスをしたのは、そうすれば、なまえのことを少しは忘れられるかもしれないと思ったからだ。
でも、結局はどうだ。
なまえの唇が恋しくなっただけだ。なまえじゃなければダメなのだと思い知っただけだ。
こんなにも———。
こんなにも、今でもなまえが愛おしいのだと、思い知らされただけじゃないか———。
ジャンがそう切り出せば、兵団内の嘘か本当化も分からない噂話を嬉々として話し続けていたフレイヤの声が、漸く途切れた。
壁掛けの時計は、夜の21時を指している。
堕落した大人達が、やっと『夜が始まった。』と認め出す時間かもしれない。
ジャンよりも歳下で若いフレイヤさえも似たようなことを思ったらしく、時計を見た後に少しだけ困ったように眉尻を下げた。
でも、正直、噂話を聞かされる時間は、流れるのが遅すぎて拷問のようなのだ。
誰と誰が仲が良いだとか悪いだとか、興味がない。
それに、副兵士長の補佐官として忙しい日々からは解放されたかもしれないが、それならば———とでも思ったのか、所属分隊の分隊長であるミケから、あれこれと仕事を任されていて、それなりに忙しいのだ。
一応、忙しいアピールのために、デスクに座って書類仕事をしているのだけれど、フレイヤは、わざわざ隣に椅子を持ってきて延々と話しかけてくるから、全く仕事が進まない。
こんなことなら、自分の仕事をしない代わりに、話しかけることもせずにベッドやソファで居眠りしてくれていたなまえの方がマシだ。少なくとも、仕事の邪魔にはならない。
「今日は、ジャンさんの部屋に泊っちゃダメですか?」
上目遣いで、フレイヤが訊ねる。
見るからに滑らかそうな生地のワンピースは、いつもよりも胸元があいている。そこからは、柔らかそうな胸が零れ落ちそうになっている。
きっと、初めからそのつもりだったのだろう。
「仕事があるから、無理だ。」
「待ってますから!」
「これだけ書類が残ってるんだ。終わるのは夜中を過ぎるけど、いいのか?」
デスクに置いておいた書類を両手で持ち上げる。
その量に、フレイヤはギョッとした顔をした。
隣に座っていたくせに、デスクの上に置いていた書類の量に全く気付いていなかったらしい。
「…待ってます。」
「仕事が終わったら、疲れてすぐに寝ちまうけど、それでもいいんだな?」
念を押すように言えば、フレイヤは、大きな瞳を左右に動かして、ジャンがデスクに置いた書類とベッドを交互に見やる。
どうするのかを必死に考えているのだろう。
そうして、結局、観念したように目を伏せたのを見て、ジャンは心の中でホッと息を吐く。
「分かりました。
じゃあ、チューしてください。」
「・・・・は?」
ジャンから、自分でも呆れるくらいに間抜けな声が漏れた。
眉を顰めることすらできないくらいに、意表を突かれたのだ。
「明日はせっかくの休みだから、夜からずっとジャンさんと一緒にいたかったんです。
でも、ジャンさんのお仕事の邪魔はしたくないので、今夜は部屋に戻ります。」
夕食後からずっとジャンの部屋に入り浸って、どうでもいい話を延々と聞かせておいて、よくそんなことが言えるものだ。
思わず、腹が立ってしまったジャンのことも知らずに、フレイヤは、グロスをたっぷり塗ってテカテカしている自分の唇に指を押し当てて、甘えた顔で続ける。
「だから、お利口さんな恋人に、チューしてください。」
「・・・いつから、お前が恋人になったんだ。
お前が告白してくれたのは忘れたわけじゃねぇけど、俺は断ったはずで———。」
「でも、それは、なまえさんがいたからですよね?
今なら、自由に恋愛をしたっていいし、ジャンさんには私が相応しいと思うんです!」
何処にそんな自信があるのだろう———呆れると共に、ジャンはフレイヤのこの前向きさが羨ましくもなった。
こんな風に、自分勝手に、自分のことばかりを思えたなら、なまえを信じることが怖くなって、逃げることもなかったかもしれない。
そして結局、自分の気持ちばかりを押し付けるジャンに嫌気がさして、なまえの方から去っていくのだ。
やっぱり、ジャンは、フレイヤのようになりたいとは思えなかった。
「そりゃどうも。でも、俺は誰かと恋愛とかする気もねぇし
今は、任務と訓練を出来る限り以上こなして
休んでいた間に遅れをとっちまった分を取り返すので精一杯だ。」
傷つけないように、と出来るだけやんわりと断った。
でも、当然、そんなものがフレイヤに通じるわけがない。
自分がダメなのではなく、今というタイミングが悪いのだと都合よく解釈をしたのだ。
そして———。
「なら、恋人じゃなくてもいいので、チューしてください。」
「は?」
「じゃないと、この部屋にずっと残って、ジャンさんのお仕事の邪魔しますよ?」
「なんで———。」
「それが嫌なら、チューしてください!そしたら、ちゃんと部屋に戻りますから。」
———ね?。
フレイヤが、渾身の甘えた顔をする。
必要以上にバサバサの睫毛が、フレイヤがわざとらしく瞬きをするたびに大袈裟に揺れる。
尖った唇は、いつもよりも分厚く見えるのは、リップを塗りたくっているせいなのだろう。
きっとこれも、フレイヤなりに、ジャンのために頑張ったメイクなのだ。
男が、惚れている女の前で必要以上にカッコつけてしまうのと同じだ。
フレイヤの痛々しい努力が、遠い日の自分と重なった。
「……分かった。絶対だからな。」
ため息交じりに肯定の返事をすれば、フレイヤの顔に花が咲いたかのようにパァッと明るくなった。
わざとらしい濃いメイクなんかよりも、こんな素直な反応の方が、よっぽど可愛らしいと思うのだ。
なまえのように、自然体が一番いい。
また、考えてしまった余計なことを頭から追い払うように、ジャンはフレイヤの頬に手を添えた。
フレイヤが、そっと瞼を閉じる。
キスを待つその姿に、なまえが重なる。
これが、なまえならいいのに———フレイヤに対して、あまりにひどいことを思ってしまいながら、ジャンは目を閉じることもせずに、唇を近づける。
すぐに、フレイヤの唇と重なった。
ほんの一瞬、触れるだけだ。
なまえとのファースト・キスもそうだった。
ほんの一瞬だけだったのに、身体中が熱くなって、世界がひっくり返るくらいの衝撃があって、すごく甘い味がしたような気がした。
そしてその甘さは、永遠に自分の唇に残り続けるのだと、確信してしまう濃密さもあったのだ。
今、なまえしか知らなかったジャンの唇は、ぬめっとしたグロスの感触を早く拭いたくて仕方がなくなっている。
そうして、余計に思い出すのだ。
薬用リップすらも塗らないくらいに手入れを何もしていないくせに、柔らかくて甘いなまえの唇が、恋しくて恋しくて仕方がないのだということを———。
「ありがとうございます。じゃあ、また明日来ますね。
お仕事で寝るのが遅くなるでしょうから、お昼過ぎに来るので
明日はデートしましょうね!」
目的を達成したフレイヤが、嬉しそうに何かを言って部屋を出て行く。
扉が閉まるとすぐに、ジャンは、スウェットの袖で唇を拭った。
「俺、何やってんだ…。」
デスクに両肘をついたジャンは、頭を抱え呟く。
理不尽だらけのフレイヤのキスのおねだりなんて、なんとでも交わせたはずだ。
それでも、彼女にキスをしたのは、そうすれば、なまえのことを少しは忘れられるかもしれないと思ったからだ。
でも、結局はどうだ。
なまえの唇が恋しくなっただけだ。なまえじゃなければダメなのだと思い知っただけだ。
こんなにも———。
こんなにも、今でもなまえが愛おしいのだと、思い知らされただけじゃないか———。